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以下の一節をご覧いただきたい。二月十五日第一人事行礼(解制人事)暁天坐禅、祝祷諷経、朝課諷経、鎮守諷経、課罷小参終わって、人事行礼を行う。『昭和修訂曹洞宗行持軌範』113頁一般的に、2月15日は釈尊涅槃会のイメージが強いが、同日、冬安居の解制でもある。いわば「解冬」である。これについて、例えば、以下の一節はどうか。今、叢林の結夏、四月望を以てし、解夏、七月望を以てす。此の三月を安居と為す。又た結冬、十月望を以てし、解冬、正月望を以てす。此の三月を以て専ら禅那を務む。『百丈清規証義記』巻8「節臘章第八」これは、『勅修百丈清規』に対して、中国清代に成立した註釈書だが、以上の通り、「結冬・解冬」について論じている。なお、良く見てみると、冬安居については、「専ら禅那を務む」とあって、坐禅を専一に修行する様子である...そういえば「解冬」でもあった
冬安居結制に伴う面山瑞方禅師「冬安居辯」を参究する不定期短期連載記事である。梵網青丘疏に云く、昔来の経論、或いは坐夏と名づけ、或いは坐臘と名づけ、或いは夏臘と名づく。皆、不善方言なり。今、大唐三蔵訳に依りて云く、雨安居。今謂へらく、是れ青丘、未だ冬安居を知らざるが故に、唯だ雨安居を取るのみ。而も混妄して、不善方言と謂へり。案ずるに、竺土時を立するに、其の説同じからず。或いは、熱際・雨際・寒際の三時を説く。其れ三際なりと雖も、亦、日月の前却有りて、時候斉しからず。或いは四時を説くも、支那の四時と異有り。或いは最勝王経・日蔵経等、六時を説く。漸熱・盛熱・雨時・茂時・漸寒・盛寒なり。唯だ寒熱の二時、出家菩薩、頭陀すべからざるを以ての故に、之を避けて安居を制し、而も保護せしむのみ。『面山広録』巻24「冬安居辯」、...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究⑥
冬安居結制に伴う面山瑞方禅師「冬安居辯」を参究する不定期短期連載記事である。栄西興禅護国論に云く、「夏冬安居を謂うに、四月十五日結夏、七月十五日解夏。十月十五日受歳、正月十五日解歳。二時の安居並んで是れ聖制なり。信行せずんばあるべからず。我が国、此の儀絶えて久しきなり。大宋国の比丘、二時の安居闕怠すること無し。安居せざれば、夏臘の二名を称すること、仏法中に笑うべきなり」。南海寄帰伝に云く、「凡そ夏罷歳終の時、応に随意と名づくべし。旧に自恣と云うは、是れ義翻なり」。即ち是の伝の夏罷は、論の解夏なり。夏罷歳終同じく自恣と称するは、則ち冬と夏と同じく安居を講ずること也た愈いよ明らかなるや。『面山広録』巻24「冬安居辯」一応、引用文は「」を付けて分かるようにした。それ以外は面山禅師の文章だと思われる。見れば分かる...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究④
冬安居結制に伴う面山瑞方禅師「冬安居辯」を参究する不定期短期連載記事である。肇法師云く、梵網経一百二十巻六十一品、其の中菩薩心地品第十、専ら菩薩行地を明かす。余憶うに、此れ一百二十巻中、定めて冬夏安居の法式有りて、而も審らかなるべし。伝に謂う、真諦三蔵、菩薩律蔵を将ちて此に来せんと擬する時、南海に於いて船に上るも、船即ち没せんと欲す。余の物を省去すれども、仍りて猶お起たず。唯だ律本を去れば、船方に進むことを得るのみ。真諦、歎じて曰く、菩薩戒律、漢地に縁無きことを悲しむ。但し、是の如くの因縁有るも、梵網大本、未だ渡らざるを以ての故に冬安居の説、広伝せざるのみ。『面山広録』巻24「冬安居辯」この一節を紹介していきたいと思うのだが、これは『梵網経』の伝来と、同経が来る前(というか、現代的な研究では、『梵網経』は...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究③
冬安居結制に伴う面山瑞方禅師「冬安居辯」を参究する不定期短期連載記事である。夫れ冬夏安居の並行は、是れ初め大乗律の制する所なり。夏安居に限るは、後の小乗律の制する所なり。初め大乗律の制する所とは如何、梵網戒経に云く、釈迦牟尼仏、初め無上正覚を成し竟りて、初め菩薩波羅提木叉を結びて云云して曰く、「若し仏子、常に応に一切衆生を教化して、僧坊を建立し山林園田に仏塔を立作し、冬夏安居の坐禅処所、一切行道の処、皆な応に之を立さしむべし」。天台疏に曰く、文中略、七事を序す、一に僧坊、二に山林、三に園、四に田、五に塔、六に冬夏坐禅安居処、七に一切行道処なり。是の経に、冬夏安居坐禅安居処と曰うは、則ち冬安居、豈に分明ならざるや。『面山広録』巻24「冬安居辯」ということで、面山禅師は冬安居と夏安居とを並行するのは、大乗律か...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究②
拙僧つらつら鑑みるに、「冬安居」について特に、『正法眼蔵』「安居」巻を学んでみると、色々と悩むように思う。そこで、江戸時代に「安居」巻を確実に学んでいた祖師の中での見解を見てみたい。江戸時代を代表する洞門学僧・面山瑞方禅師には、「冬安居辯」という論説文があるので、それを数回に分けて学んでみたい。冬安居辯或いは問う、結冬安居法、本より小乗律の明かす所に非ず。且つ、禅林諸清規の載せる所に非ず。而今、扶桑洞下の叢林、専ら之を講行するは、拠有りや。答えて云く、豈に拠無からんや。吾が祖、昔入宋帰朝し、初めて洛南興聖寺を開き、嘉禎二年丙申に至り、始めて冬安居を行ず。十月十五日開堂祝聖し、乃ち孤雲奘公を請して、首座と為して、除夜に秉払せしむ。是れ、吾が門五百年来、冬安居を行ずるの由来なる所以なり。『面山広録』巻24まず...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究①
以前から、【冬安居に関する諸問題】のような記事を度々書いている通り、本来の曹洞宗には、というか、両祖の時代には「冬安居」は無かったと思われる。しかし、実際には以下のような記録がある。同冬安居、簡都寺、可首座、覚日浄頭、夢に曰く……『洞谷記』瑩山禅師に係る文章に「冬安居」とあって、何らかの行持が認識されていたことが分かる(ただし、『瑩山清規』には、「冬安居」という字句は見えない)。そして、以下の一節も見ることが出来る。元和尚に従い、越州に下る。しばらく、吉峰古精舎に止宿す。冬安居、師、典座となって、歓喜奉仕す。寛元元年(1243)癸卯冬、殊に雪深し。八町の曲坂、料桶を担って、二時の粥飯に供す。『永平寺三祖行業記』「三祖介禅師」章こちらは、瑩山禅師も編集に関わっていたと考えられる『三祖行業記』の記述であるが、...「冬安居」に関する雑感
11月も半ばだが、各地から晋山結制の慶祝法要の修行が報じられるようになった。この時期は、いわゆる冬安居(11月15日~2月15日、或いはこれが1ヶ月ずつ前後にずれる場合もある)となる。現在の曹洞宗では、いわゆる夏冬二安居が標準化されているが、これがそんなに単純な問題ではないことは、両祖の時代の文献をよく読まれる方であれば、御存知であると思う。例えば、道元禅師は明確に冬安居を否定されている。梵網経中に、冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正伝、まのあたり五十一世なり。『正法眼蔵』「安居」巻以上のように、道元禅師は『梵網経』に「冬安居」の指摘があるが、その方法が伝来しておらず、夏安居のみだとされるのである。この『梵網経』の元の文章だが、以下のようになっている。なんじ仏子、常に二時に頭...冬安居に関する諸問題
『梵網経』は中国で成立したとされる文献なので、仏教では、等と軽々に言うわけにはいかないが、少なくとも中国以東では大きな影響を与えている。そこで、『梵網経』には「十月十五日」という日付が見える。なんじ仏子、常に二時に頭陀し、冬夏に坐禅し、結夏安居して、常に楊枝・澡豆・三衣・瓶・鉢・坐具・錫杖・香炉・漉水嚢・手巾・刀子・火燧・鑷子・縄床・経・律・仏像・菩薩形像を用うべし。而も菩薩、頭陀を行ずる時、及び遊方の時に、百里・千里を行来するには、此の十八種物、常に其の身に随えよ。頭陀は、正月十五日より三月十五日に至り、八月十五日より十月十五日に至る。是の二時中、此の十八種物、常に其の身に随うは、鳥の二翼の如し。『梵網経』「第三十七故入難処戒」それで、上記の通り、「十月十五日」までは頭陀・遊行の期間なのである。そうなる...十月十五日まで頭陀・遊行の期間