メインカテゴリーを選択しなおす
この辺は、先行研究も多いので、あくまでも諸資料を読み直す、備忘録的な記事である。大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)には、古い伝記資料として、『伝光録』『三祖行業記(三大尊行状記)』や『洞谷記』「洞谷山伝燈院五老悟則並行業略記」などがあり、それよりも後の時代に作られたものとして、『建撕記』の一部に伝記が見える。そこで、懐奘禅師の伝戒・伝法などについては、次のような記述がある。師、元公の伝法し、帰朝して建仁寺に寓止するを聞きて、往きて論談・法戦す。長処有ると知りて、心を帰して信伏す。遂に、元公の住庵するを聞きて、文暦元年甲午冬、深草に参じて衣を改む。次年八月十五日、仏祖正伝の戒法を伝授さる、達磨の二祖に授くる儀なり。有る時、元公、「一毫衆穴を穿つ」の因縁を挙似す。師、言下に於いて大悟し、礼拝す。...懐奘禅師の伝戒・伝法と大悟
臨済宗黄竜派の明庵栄西禅師(1141~1215)について色々と見ていくと、鎌倉時代初期の僧侶としては、おそらく当代きっての有名人であったことは疑い無い。栄西禅師は、専修思想に不当に毒された「鎌倉新仏教」というカテゴリーで、仏教思想・行法の改革が不十分であったような印象を持たれたこともあるが、昨今では当代の改革者として燦然たる地位にあったという評価を得つつあるように思う。ところで、曹洞宗と栄西禅師については、高祖道元禅師(1200~1253)との関わりもあり、また、道元禅師は栄西禅師の弟子である仏樹房明全和尚(1184~1225)から菩薩戒を受けていたこともあってか、曹洞宗では洞済両聯の『血脈』を用いる場合もある。そして、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が行われた、建仁寺での「伝戒会啓...江戸時代の洞門学僧による栄西禅師への評価について