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我々は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)について、道元禅師の僧団の中で、どのような位置付けにあったのかを正しく理解出来ているのだろうか。無論、後継者としての立場であったりとか、『正法眼蔵随聞記』の記録や、『正法眼蔵』の書写・編集等はよく知られたことであると思う。その上で、拙僧は敢えて以下の記述に注目しておきたいと思う。僧海・詮慧等深草諸衆、尽く師を以て教授闍梨となす。一会の上足なり。『三大尊行状記』「懐奘禅師章」このように、懐奘禅師に関する最古の記録の1つである『三大尊行状記』では、僧海首座や詮慧禅師などの、深草・興聖寺時代から道元禅師僧団に入った者にとって、懐奘禅師を「教授闍梨」として仰いでいたことを意味している。「教授闍梨」については、詳しくは「教授阿闍梨」と表現されるべきものであり、...教授阿闍梨としての懐奘禅師
ここでいう「孤雲」というのは、曹洞宗大本山永平寺二世・懐奘禅師(1198~1280)の道号とされている。ただ、以前から、懐奘禅師を受業師とされた瑩山紹瑾禅師に係る文献には、懐奘禅師の道号が載っていないということにが気になっていた。一例を示そう。・第五十二祖、永平弉和尚、元和尚に参ず。一日請益の次で、一毫衆穴を穿つの因縁を聞き、即ち省悟す。晩間に礼拝し、問ふて曰く、一毫は問はず、如何なるか是れ衆穴と。元微笑して曰く、穿了也と。師礼拝す。師、諱は懐弉。俗姓は藤氏。謂ゆる九條大相国四代の孫秀通の孫なり。『伝光録』第五十二祖章・祖翁、永平二世和尚、諱は懐弉、洛陽の人。姓は藤氏、九條大相国の曽孫なり。『洞谷記』「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」……号について何も書いていない。そこで、懐弉禅師の伝記は、大体道元禅師の伝...「孤雲」について
今日8月24日は、永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)の忌日である。現代は、明治期の改暦の関係で、9月の高祖忌の前段階で行われるものであるが、旧暦では8月24日であった。・永平弉和尚、弘安三年〈庚辰〉八月廿四日に逝く、今、元亨三年に至りて、四十四年なり。古写本『洞谷記』・八月廿四日永平二代忌なり。塔頭にて諷経し、茶湯・小供物を供す。『瑩山清規』「年中行事」以上の通り、懐奘禅師は弘安3年(1280)の8月24日に御遷化された。そこで、今日の記事に因み、拙僧が学んでみたいのは、次の一節である。時に師聞て承諾し、忽に衣を更て再び山に登らず。浄土の教門を学し、小坂の奥義を聞き、後に多武の峰の仏地上人、遠く仏照禅師の祖風を受て見性の義を談ず。師、往て訪らふ。精窮群に超ゆ。有時、首楞厳経の談あり。頻伽瓶喩の処に...今日は永平寺二祖・懐奘禅師忌(令和6年度)
今日、6月1日は半夏節である。半夏節とは、夏安居の半分という意味で、旧暦の時代は4月15日結夏、7月15日解夏であったため、6月1日が半夏であった。六月一日、半夏節と称す。若しくは上堂の次で、坐禅を放下する由を報ず。即ち随意坐禅なり、打鈑せざるのみ。『瑩山清規』「年中行事」以上の通りである。そこで、「半夏」で調べてみると、以下の事績が確認されたので、学んでおきたい。・師、又、末世の規矩を遺す為に、越前中浜に在りて、半夏頭院(陀?)行化す。『三祖行業記』「懐奘禅師章」・師、又、末世の規矩の為に、越前中浜に在りて、半夏頭陀化を行ず。『三大尊行状記』「懐奘禅師章」上記は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)の最古の伝記に位置付けられる『三祖行業記』『三大尊行状記』を引用したものだが、それらの伝記の末...6月1日旧暦なら半夏節
この辺は、先行研究も多いので、あくまでも諸資料を読み直す、備忘録的な記事である。大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)には、古い伝記資料として、『伝光録』『三祖行業記(三大尊行状記)』や『洞谷記』「洞谷山伝燈院五老悟則並行業略記」などがあり、それよりも後の時代に作られたものとして、『建撕記』の一部に伝記が見える。そこで、懐奘禅師の伝戒・伝法などについては、次のような記述がある。師、元公の伝法し、帰朝して建仁寺に寓止するを聞きて、往きて論談・法戦す。長処有ると知りて、心を帰して信伏す。遂に、元公の住庵するを聞きて、文暦元年甲午冬、深草に参じて衣を改む。次年八月十五日、仏祖正伝の戒法を伝授さる、達磨の二祖に授くる儀なり。有る時、元公、「一毫衆穴を穿つ」の因縁を挙似す。師、言下に於いて大悟し、礼拝す。...懐奘禅師の伝戒・伝法と大悟
備忘録的に記事にしておきたい。現在、道元禅師の『正法眼蔵』「嗣書」巻には「草案本」「修訂本」の2系統があると知られている。ほとんどの内容は一緒だが、例えば個人的にその違いに注目している一節がある。・いまわが洞山門下に嗣書をかけるは、臨済等にかけるにはことなり。「修訂本」・いまわが洞山宗門にかける、臨済等にかけるにことなり。「草案本」前者であれば、法系としての洞山門下を強調しているように見えるが、後者は「洞山宗門」とあって、どこか「洞山宗」というべき宗派意識の表出のように感じてしまうのである。もちろん、「仏道」巻などで、曹洞宗を含めた全ての宗派名の名のりを批判することはよく知られているから、違うという意見もあると思うが、道元禅師は『正法眼蔵』各巻で第一とする発想が異なるので、宗門と名乗っても問題無いように思...懐奘禅師による『正法眼蔵』「嗣書」巻の書写について
旧暦の日付であれば、という話ではあるのだが、7月14日というと、永平寺の二祖・懐奘禅師(1198~1280)が住持職に就位した日付となっている。今日はその経緯などを学んでみたい。まず、懐奘禅師の永平寺住持職就位について伝えるのは、最古の伝記の一である『三祖行業記』『三大尊行状記』ともに共通している。建長五年癸丑七月十四日、即ち住持位に著く。夜間に小参し、早朝に上堂す。元和尚、病床たりと雖も、輿に乗りて来たりて、聴聞し証明す。然りと雖も、師に事ふて礼を捨てず。『三大尊行状記』「永平二代懐奘和尚行状記」、訓読は拙僧で以下同じ以上の通りなのだが、建長五年とは1253年である。道元禅師最晩年であり、この日から約1ヶ月半後の8月28日に、御遷化された。永平寺住持職承継に関連して、以下の記述もある。△建長五年七月十四...7月14日懐奘禅師永平寺住持職に就位