10年ほど前のことになるが、“スコットランド”がイギリスからの「分離独立」の是非を問う「住民投票」を行った。富の配分などに対して“スコットランド”側がそれなりの“不満”を抱いていたという背景があったようだ。要するに現在の状況で“中央政府”に縛られているより
日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員
10年ほど前のことになるが、“スコットランド”がイギリスからの「分離独立」の是非を問う「住民投票」を行った。富の配分などに対して“スコットランド”側がそれなりの“不満”を抱いていたという背景があったようだ。要するに現在の状況で“中央政府”に縛られているより
「額田部姫」と「額田王」・・・この両者の区別がつくかな?ただ、全ての記録がこの表記で統一されているわけでもないようで、前者の「額田部姫」は「額田部皇女」が一応は正式扱いとされているようだし、また後者「額田王」については「額田女王/額田姫王/額田部姫王」な
念願の「天下布武」完成を目前にした織田信長(1534-1582年)の居城「安土城」の“築城から焼失”までの経緯は以下のようだった。〇1576年→築城を開始〇1579年→信長が引っ越す(この頃、落雷で本丸焼失?)〇1582年→6月「本能寺の変」(信長暗殺事件)〇1582年→6月「山崎
親が偉大、言葉を変えればあまりにスーパースター的な存在である場合、その子供は結構難儀な立場に置かれるものだ。なぜなら、周囲の者が常に親と子を「見比べる」視線を送り、またそうした雰囲気はなんとなく本人(子)にも伝わるものだからだ。たとえ本人に「オレとオヤジ
天皇位を一旦退位された後に、再び即位される「重祚(ちょうそ)」は実は非常に稀なことで、これを経験された天皇は長い歴史の中でもお二方しかおられない。奇しくも、お二方とも女性天皇で、名を挙げれば、※(最初)35代・皇極天皇/(二度目)37代・斉明天皇(594-661年)
言葉の頭に「御(お/ご)」をくっつけて丁寧な表現にするのは、いわゆる「女房言葉」の特徴の一つだったようだ。「女房言葉」とは、こんな説明だ。~室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房(女官)たちが使い始めた 上品で優美な婉曲表現・隠語的な言葉遣い~だから食べ
廃藩置県が行われた1871年(明治4年)を基準にすると、本年(2026年)は「廃藩置県155年」ということになるが。現在は身の廻りに当たり前にあるが、155年前には存在していなかったというモノも少なくない。たとえば、電車・自動車・ラジオ・テレビ・パソコン・インターネット
~小説とは根も葉もある嘘八百~これは昭和の文豪・佐藤春夫の言葉だそうだ。なるほど、さすがにうまいこと言うものだが、「小説」ですらその線上にあるとするなら、「神話」なぞはもうヒト桁上を行く~根も葉もある嘘八千?~くらいの世界なのかもしれんぞ。そうした日本の
もちろん宗派によって違いもあるのだろうが、仏式の葬式・法事などの場では「お経」が上げられることが少なくない。しかし、この「お経」、多くは漢字で書かれてあるものの、大方の人はまず読めない上に、唱えている言葉も普段使っている日本語とはまったく異質なものだから
「身分意識」が希薄になった現代では、俄然分かりにくくなってしまったことと、さらには元々その名称自体が堅苦しいことも重なって、江戸時代後期の事件?いわゆる「尊号一件(そんごういっけん)」が注目されることはあまりないようだ。そこで少し補足すると、そもそもこの
平清盛(1118-1181年)とは、「平治の乱」(1159年)で長年ライバル関係にあった源義朝(1123-1160年)に勝ち、武士の第一人者としての地位を固めた人物だ。その源義朝(1123-1160年)が倒れると、その遺児である頼朝・義経も清盛の手中に収めたわけだ。しかし今は若く幼いと
「戦国時代」はいつ始まったのか?いろいろな意見が出るところだろうが、ひとつにはこんな見方もある。~そりゃあ、なんといっても恐怖政治の主導者、独裁者であった 室町六代将軍・足利義教(1394-1441年)の首が落ちた瞬間からだ~この見解に沿うなら、この義教将軍暗殺事
さて、次の言葉の“皇“の部分をなんと読む?天皇/皇后/皇太子/上皇/法皇/新皇/皇帝現代仮名遣いをするなら、順にこうなるところだ。てんのう/こうごう/こうたいし/じょうこう/ほうおう/しんのう/こうてい/同じ“皇”の字なのだが、なぜか、それぞれに違った“
~こんな良いところもあったが、この点は短所だった~その人物の評価は、このように長所短所あるいは功罪を併せて語られることが普通だ。ところがダ~こんな悪いところもあったが、この点も短所だった~こんな風に語られる人物も歴史の中にはごく少数ながらいることもまた事
「名古屋」が「日本の真ん中」と紹介されることもままある。さらには、1999年からはその名古屋を舞台にした踊りの一大イベント「にっぽんど真ん中祭り」が解されるようにもなって、それは現在も続いている。それは社会に元気を鼓舞する意味でも、大変に素晴らしいイベントで
日本列島をいくつかの地方に分ける基準は、あれこれあるようだが、その代表的なひとつとして以下の「八つ」に分類する方法が挙げられる。北から順に北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」だ。大体においてはその名称も妥当思われるが、しかしつら
どんな時代にも「流行り廃り(はやりすたり)」はあるもので、戦国時代にも武将たちの間で殊のほか多少のブーム?になったものがある。それは、自身が神である、または神になる、という一種の「神仏変身願望」?であり、つまりは「人間を超えることに対する憧れ」ともいうべ
「関が原の戦い」(1600年)の勝者・徳川家康よる「江戸幕府」(1603年)は、その後十年を経ずして、つまり家康(1543-1616年)自身も、またその最大の敵?豊臣家(1615年滅亡)も健在の時点で、すでに「キリスト教・禁教令」(1612年・1613年)に踏み切っている。この時期の
名前はよく知っているものの、その事績についてあまりよく知られていない人物の一人に「二宮尊徳」を挙げてもいいだろう。たとえばダ、通称を「金次郎」と書くことが多いが、「金治郎」が正しいなんてことは、ほとんど知られていない。一定以上の年配者なら、薪を背負って読
詳しいことは忘れてしまったが、~自分は歴史にはとんと疎くて、実は室町時代と鎌倉時代のどちらが 先なのかも、よく分かっていない~昔の小説にこんな歴史オンチの人物が登場していたような記憶がある。決してあり得ない、ということでもなく、これをもう少し発展させれば
徳川家康(1543-1616年)の祖父・清康、次いでその子・広忠、さらには家康と三代に仕えた譜代の臣・本多作左衛門重次(1529-1596年)は、特に武勇に秀でたものがあった.ことから、「鬼作左」と綽名されたそうだ。そしてその豪胆さは、戦時ばかりか平時においても遺憾なく発揮
「堀部武庸」(ほりべたけつね/1670-1703年)の名で、すぐさまピンと来る人は少ないかもしれんが、別の名乗りならかなりの有名人と言えそうだ。チョンガー時代は「高田馬場の決闘」(1694年)の「中山安兵衛」として、また所帯を持った後の「堀部安兵衛」の名は、元禄赤穂事
「熱い人」という存在はいつの世にもいるようで、例えば昭和時代の「モーレツ社員」なんぞも、「働き方改革」が声高に叫ばれている令和時代からすれば、間違いなく「熱い人」ということになるのだろう。で、「いつの世にも」といったからには「寛政の時代」にもいたというこ
明治になって廃藩置県(1871年/明治4年)が実施されるまで、たとえばワシ様の生息地である愛知県で言うなら、西半分は「尾張国」、東半分は「三河国」というようにいわゆる旧国名で呼ばれていた。そしてこの旧国名に「州」を付けて漢字二文字で表す略称もどきの表現もあった
~日本人ほど「キレイ好き」な国民は世界にいない~昔々、幕末維新頃に来日した外国人は多かれ少なかれこんな感想を漏らしていた。また現代日本人も、そうした過去の印象に見合った行動を見せている。近年なら「コロナ」での大騒ぎがその通りで、なにしろ、これ以降はいたる
織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」には、太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、これとは別に小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものがあって、その両書を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信長記」または「
日本とアメリカとの間のいわゆる「太平洋戦争」(1941-1945年)において、ハナから勝利を確信していたアメリカ側はかなり早い段階から「日本占領統治」の準備も進めていた。「近い将来の敗戦国」?の実態を把握しておくことは、スムーズな「占領」を実行するために欠かせない
現代の「お仕事ぶり」はといえば、完璧に遵守されているとは言い切れないにしても、「週休2日・40時間労働」が一つの目安になっていて、さらに最近では最近「週休3日制」を実践する企業も登場している。 しかし、こうした状況を「時代の進化」と捉え、ワッと驚くようでは実
江戸時代の享和・文政・文化の時期に老中を務めた土井利厚(1759-1822年)は、その知名度はともかくとして、「老中生活20年」(1802-1822)というなんとも立派な経歴の持ち主だ。では、本当に「能力ある老中」だったと見ていいのか?そこはそれ、多少皮肉っぽい見方をするな
昔の場合、仮に有名人の妻の立場にあったとした女性でも、その生涯についてはよく伝わっていないケースが決して珍しくない。早い話が、戦国のスーパースター織田信長の正室「濃姫」もそのひとりといってよさそうだ。なにしろ、美濃の戦国大名・斎藤道三の娘であること以外は
昨今の「米騒動」もどきの環境にあって、ひょいと思い出したことがある。~「稲作」という最新技術が朝鮮半島から北九州に伝わったのは、 紀元前二世紀頃のことで、これが「瞬く間に」尾張地方にまで 広がりをみせた~そういうことなら、三河へもそれこそ「瞬く間に」伝わ
室町八代将軍・足利義政のとき、三魔(さんま)という言葉が見られたそうだ。 文字通り「三人の悪魔」ほどの意味合いだ。その三人とは「おいま・ありま・からすま」のこととされ、「ありま・からすま」は省略するが、そのうちの「おいま」とは将軍・義政の乳母であり側室で
「勅(ちょく)」とは、日本の場合なら天皇の命令またはそれが書いてある文書(勅書とも)を指す言葉だ。念のためだが、天皇が思いついたことをそのまま気まぐれに「チョクチョク」発することから「勅」と呼ばれるようになったというのは悪意あるトンデモ説にすぎない。とこ
前々回の「探検637 七福神って?パート1」では、それに関する「様々な背景」について整理をしてみた。そこで今回は、いよいよ本題の「七福神」だ。こちらも補足説明を加えながらのスタイルで進んでみよう。少しでもややこしさを避けるために、その順序はその会の例に従うとす
~沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船~舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を修理して、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した、とされる紀伊国屋文左衛門の様子はこう唄われた。なんでまたそんな「命懸けの
~一人の人間の生命は全地球よりも重い~現代日本人はこの理念を常識として刷り込まれている。しかし、昔の日本にはそうでもなかったと感じさせる言葉もあった。~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~がそれだ。佐賀藩士・山本常朝(1659-1719年)の口述を同藩士が筆録した『
Wikipediaにはこんな説明がある。~七福神(しちふくじん)とは、インド伝来の仁王経の中にある 「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来する、福徳の神として日本で 信仰される七柱の神である~ということは、「ナントカ ノ ミコト」と名乗るような純粋系の「日本の神様
昨今の風潮には「美人」という言葉が出ただけで、「そんなのセクハラだ!」と指弾されそうな雰囲気もある。が、ここで言う「美人」とは、いわゆる「平安美人」を指しているのだが、さて、こうした「美人」の方々が、果たして現代の感覚でも「美人」の範疇に入るものなのかど
徳川家康は晩年に誕生した三人の男子に将軍家に次ぐ地位を与えた。それが、九男・義直(尾張藩)、十男・頼宣(紀州藩)、十一男・頼房(水戸藩)で、いわゆる「御三家」だ。万が一、将軍家に後継となるべき人材がないという事態に陥った場合の備えとして、その際には、この
たまたま「能楽」の話に接する機会があって、その謎めいた雰囲気がなんとも面白く感じたので、ヒメ隊員への迷惑は度外視することにして、さっそく「受け売り」してみよう。「能楽」には、下記のようないくつかの特徴がある。1・基本的に「怨霊劇」である2・能面は怨霊憑依
「戦乱の世」から「太平の世」へと大きくカジを切り始めた江戸幕府に不満を持つ旗本は少なくなかったようだ。旗本には、神君・家康とともに戦ってこの天下を作った、という自負心があったからだろう。太平を良しとする世の中は、この武勇を遠ざけることにもつながり、そうし
天下を取った秀吉に一番欠けていたもの、それは「資格」平たく言えば「箔」だった。 つい最近まで下層出身者の「出世物語」を売りにしてきたのだから、それが無いのも無理はない。この時代、強いというだけではダメで、やはりそれにふさわしい「資格」を備えていなければ、
平泉・中尊寺に遺された奥州藤原氏三代、清衡・基衡・秀衡のミイラ(他に四代目にあたる泰衡の首級も)については、あまり詳しいことは分かっていないようだ。その中でも三代・秀衡のケースを見てみると、実は大変に忙しい最中だったにも関わらず、彼もきちんとミイラになっ
こんな謎がある。~江戸幕府第三代将軍・徳川家光(1604-1651年)が身に着けて いたのお守りには、なぜ「二世将軍」と書かれていたのか~三代将軍・家光がなぜ「二世将軍」との思いを持っているかについては色々な見解もあるようだが、その中には家光は二代・秀忠の子ではな
「天孫降臨」の神話は、持統女帝(祖母)から文武天皇(孫)への皇位継承の経緯をモデルにしているという指摘もある。史実にヒントを得てお話(フィクション)を創作している、と言っているわけだ。もしこれが本当だとしたなら、この他にも同様のスタイルで「お話」を作った
七つの海を跨く大帝国を構想し、世界に植民地を拡大し続けていたのが19世紀のイギリスだ。アジアにおいても、清国(中国)に「アヘン戦争」(1840-1842年)を仕掛けたことも、まさにその行動の一つだった。そもそもこの戦争は、清国に対するイギリス側の「輸入超過」の分を自
あまり有名な出来事ではないかもしれないが、つまりヒメ隊員は御存知ないと思うのだが、1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる「遣欧使節団」が、幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した
同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っているものも少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す語であるが、 中世と近世では意味合いが異なる~とされている。ちょっとば
屈強な「三河武士団」を率いた徳川家康(1543-1616年)とその同盟者である尾張・織田信長(1534-1582年)との「連合軍」。そこへ真正面の戦いを挑んだのが甲斐・武田信玄(1521-1573年)であり、その両軍の激突を「三方ヶ原の戦い」(1573年/現:静岡県浜松市)と呼んでいる
たとえば、病死・自然死・事故死・戦死・その他諸々あるが、その死因が何であったにせよ、主君が亡くなった場合に家臣・従者や近親者などがその死を悼んで「追い腹を切る」、いわゆる「殉死」なんてことは「戦国時代」にはなかったようだ。この時代に戦さ以外の理由で死んで
歴代の天皇は各天皇がそれぞれ別の「陵」に葬られた。こうだとばかり思い込んでいる人も少なくないようだが、実は複数の天皇が一つの陵に「合葬」された例もある。と言えば、まあかなりの確率でヒメ隊員からこんな質問が出そうだ。 「では、どなたが?」で、先回りしてそこ
江戸後期のこと、不老不死の神人・仙人が住む海上の異界や山中の異境の実在を信じる、いわゆる「神仙思想」に大きな関心を向けた人物がいた。とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めると、すかさずその人物はすかさず行動を起こした。その人物とは、当時45
現在では、工場作業や現場作業はたまたバイクに乗るときなどは、多くの場合、頭を守るヘルメットの着用が義務付けられている。「頭部」は人体で最も大切で、しかも脆弱な部分でもあるからだ。しかし、丈夫さを優先させるあまりそれがデカすぎたり重すぎたりしたのでは動作な
それなりの歴史知識を持った人でないと解けそうもない少しマニアックなクイズになるが、ヒメ隊長は以下の有名人?四人の共通点を述べることができるかな? 〇第84代・順徳天皇(1197-1242年) 〇日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年)〇後醍醐天皇側近・日野資朝(
「年寄りの冷や水」・・・無分別に若者のマネをする高齢者を冷やかしたり警告したりする時に使われる言葉だ。 ところが、歴史にはそれとは逆に「年寄りの熱血」と呼びたくなるような人物も登場している。 例を挙げるならダ、たとえばイマイチさえない状況にあった源氏が、
~宇宙の中心である中国王朝の文化・思想のみが最高のものであり、 それを持たない周辺(辺境)の異民族は単なる野蛮人に過ぎない~こうした受け止め方を「中華思想」と呼ぶ。そして、この「中華思想」がハンパな物でないことは、その東西南北四周の異民族に対する呼び方に
現代社会で暮らすほとんどの人間には、社会通念として「公と私」という観念上の境界線が存在している。 大雑把になら、~「公」とは社会生活における自分(公人として)の立場であり、 「私」とは、自分(私人として)のプライベートな生活~こう捉えてもいいのだろう。こ
御三家・尾張家との後継争いに勝利し、八代将軍に就任した紀州家出身の徳川吉宗(1684-1751年)は、後に「享保の改革」(1716-1745年)と呼ばれた政治改革に取り組んでいる。この意気込みは、ひょっとしたら七代将軍・徳川家継(1709-1716年)の後継者を巡る自派の運動経緯に
「小人閑居して不善をなす」・・・小人物(つまらぬ人間)がヒマを持て余すと、とかく悪事に走りやすいという意味だが、ワシ様などは「不善をなす」どころか、その時間を利用して人口の変遷、少し堅苦しい言葉なら「人口動態」、これに目を配ってみたのだ。その「人口動態予
~「来世」を(素晴らしいものと)信じる者は(現世での)死を恐れない~こうした傾向は、たとえば自爆テロに挑むイスラム教過激派(原理主義者)兵士の行動にも感じられるところだ。なぜなら、「来世」とは「現世」の苦労や悩みから解放された文句のつけようもなく素晴らし
現在の行政単位こそ、その東西十数Kmに渡るエリアは「岐阜県不破郡関ケ原町」、その東隣が「同県不破郡垂井町」、そして、そのまた東隣が「同県大垣市」というように厳密な区分けがなされているが、おそらく昔はこのあたり一帯は丸ごと「広い広い一面の原っぱ」ほどの印象だ
ペリー代将率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的に「幕末」(江戸幕府の末期)と呼んでいる。一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り、政治的にも社会的にも大きな混乱を生じた時期
それまで縁のなかったキリスト教を日本に最初に紹介した人物は、御存知のように、宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)とされている。これ以後、日本には多くの宣教師が訪れるようになり、熱心な布教活動を展開するようになった。ただし現代日本人の感覚からし
「黒船来航」(1853年)より45年も前のこと、オランダ国旗を掲げたイギリス軍艦「フェートン号」が長崎港へ侵入し、オランダ商館員を人質にとった上に、薪・水・食料を要求し、それを手に入れるや、まんまとトンズラを決め込むという、日本国の面目丸つぶれの事件が起こって
豊臣秀吉(1537-1598年)なる人物の名乗りにおける変遷は、一般的にはこのように理解されてる。① 木下藤吉郎秀吉/(1561年) おねとの結婚を機に② 羽柴藤吉郎秀吉/(1573年頃)「羽柴」の名字を名乗る③ 羽柴筑前守秀吉/(1574年) 「官職名」を名乗るまた、これとは
現代日本では、とんと見られなくなった伝染病「天然痘」(痘そう)は、実は明治時代に入るまではかなりの猛威をふるっており、その凄まじい病床自体もまた恐怖の対象になっていた。運よく一命をとりとめたとしても、天然痘の痕がはっきり残ってしまうことも少なくなかったか
戦国時代(室町時代末期)は、文字通り全国各地で活発に“戦さ”が展開された時代だ。しかし“戦さ”である限りは、少なからずそこで命を落とす者が出ることは避けられない。時代劇などでは、華々しい合戦場面やその直後の戦死した兵士・馬の姿を映すことはあっても、そのさ
「橘氏」出身で唯一皇后に立てられ女性。それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(かちこ/786-850年/享年65)だ。仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から、「檀林皇后」と諡号された。世に類なき美貌を備えた女性だったとされているが、千年
~とんでもないことを思いつき、また、後先を考えないでそれを実行する~ 時としてそんなこともしてしまうのが人間というものかもしれん。これはなにも庶民に限らず、殿上人とか天下人とか呼ばれる身分の高い人物でも同様に言える気がする。そう思ったのは、実は第96代・後
日本列島をいくつかの地方に分ける基準は、古来あれこれあるようだが、その代表的なひとつとして以下の「八つ」に分類する方法が挙げられる。北から順に並べると、北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」の地方ということだ。その名称も大体におい
1890年(明治23年)に浅草公園に建築された、当時日本一の高さ(高さ52M/12階建て/10階まで煉瓦造、それ以上は木造)を誇る八角形の建物は、「雲を凌ぐほど高い」という形容から、「凌雲閣」(りょううんかく)と命名された。 中ほどの各階には物品販売店が並び、上階は展
古事記では木花之佐久夜毘売、日本書紀では木花開耶姫、一般的には「木花咲耶姫」と表記する「コノハナノサクヤヒメ(ビメ)」という名が神話に登場している。咲く花をイメージさせるまことに美しい名だが、この女性は、いわゆる天孫降臨を果たしたニニギノミコト(天照大神
織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」の主だったものは二つある。〇太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、もうひとつ、〇小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものだ。両者を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信
~嵐で江戸への航路が閉ざされていた年、紀州のミカンを家に残った ボロい大船にドッチャリ積み込んで、猛烈な嵐の中を江戸へ運んだ~この命懸けの行動が史実か伝説なのかについては、幾分あいまいなところがあるが、ともかくこれが紀伊國屋文左衛門(1669?-1734年)にまつ
江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849年)には、ユニークな逸話が数多く残されている。 たとえばだが、〇改号すること30回?(異見もあり/「北斎」はその内の一つ)。〇生涯に93回?の「引っ越し」を繰り返した。〇どの住まいも掃除をすることなく「ゴミ屋敷」化が
さて「旗本八万騎」という言葉は、一般的にはこのように説明されている。~徳川将軍家の旗本の数を称したもの。 旗本は、実際には五千を少し 上回る程度でであったが、御家人と陪臣を含めれば、約八万騎であった~ (三省堂・大辞林)この程度の説明なら、まあ大概の人に
その藩の籍から離れ主従関係を解消する「脱藩」・・・こうした経験を持つ人物は、幕末に限っただけでもすぐさま何人かの名を挙げることができそうだ。たとえばダ、長州藩士・吉田松陰(1830-1859年)は我が目で東北の状況を確かめるべく旅行を計画したものの、藩の許可発行が
現在の地理では、「東西南北」でその位置を示すことが一般的だ。例えば、本州の「北」端部には青森県があり、山口県なら同じく「西」端部に位置するといった具合だ。これが昔の場合には、「遠・近/上・下/前・中・後」などの表現を用いた。遠い湖(浜名湖)がある国を「遠
それなりの歴史知識を持った人でないと解けそうもない少し意地悪なクイズになるが、姫隊員は答えられるかな?~以下の四人の有名人?の共通点はなに?~ 〇第84代・順徳天皇(1197-1242年) 〇日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年) 〇後醍醐天皇側近・日野資
東洲斎写楽(生没年不詳)と名乗る謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が初めて蝦夷地の測量(1800年)をしたのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、つまり、西暦でいえば1789年から1801年にまたがる期間の出来事だ。そして、実はその
随昔々の映画の中にこんなセリフがあったことを思い出した。 正義の人VS悪漢の対決が見せ場という、お約束通りに展開する西部劇の中で、正義の人が悪漢に向かってこんな言葉を吐いた。~世の中には二種類の人間がいる。 (建物に)ドアから入るヤツと(お前のように)窓
~勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ~こうした助言・忠告うぃ意味した格言が~長い物には巻かれよ~なかなかに説得力のある言葉で、長い歴史の中には、この言葉を彷彿させる恰好の出来事を見つけることもできる。戦国乱世でその例を取り上げるなら、
幕末に活躍した人物については、その評価が分かれることも珍しくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」の評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動もある場合などがそうだ。たとえば、幕末尊王攘夷の志士として一般
平安京を開いたことでも有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟に、一回りほど齢の違う早良親王(さわら/750-785年)という方がいた。共に父は、第49代・光仁天皇(709-782年)だ。天皇家は特別の存在だと思っている人でも、長幼の順の扱いは庶民階級とそんなに違わな
現在では「日本」と言っているこの国を、アマテラスの代々子孫が治めることの正当性は、神話の「天壌無窮の神勅」にあるとされている。その「天壌無窮」とは、日常生活ではあまり使わない言葉だが、平たく言えば「天地を永遠に」ほどの意味になり、これに続く「神勅」は「神
ペリー代将率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的には「幕末」(江戸幕府の末期)と呼ぶ。一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り政治的にも社会的にも大きな混乱を生じた時期だ。~
~「来世」を(素晴らしいものと)信じる者は(現世での)死を恐れない~なぜなら、「来世」とは「現世」の苦労や悩みから解放された、文句のつけようもなく素晴らしい場所である、とされているからだ。実は同様な概念を指す別の言葉もある。「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえ
それまで縁のなかった日本にキリスト教を最初に紹介した人物は宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)だが、ただし、その「布教活動」の中身が、現代日本人の感覚からしたら、ちょっとばかり曲者で、むしろ「布教後」の展望に重きを置いたものになっていたともい
室町八代将軍・足利義政(1436-1490年)の時代には、「さんま」という感覚を抱いていた人もあった。とは言っても、今姫隊員が頭に浮かべたであろう「秋の味覚のサンマ」や「TV司会者のさんま」ではない。文字通り「三人の悪魔」の意味であり、「三魔(さんま)」と書く。簡単
仲間内の雑談の折、話の流れからひょっこり話題が「お茶」に飛んで、一人がこんな発言を。~日本に「お茶」を伝えたのは、確か僧・栄西サンのはずだッ~見るからに自信満々の発言だ。突拍子もないタイミングだったこともあって一同の反応は芳しくない。そこで、発言者は子細
武家統制を目的とした「武家諸法度」(元和令/1615年)は、徳川幕府初代将軍・徳川家康の命により二代将軍・秀忠がまとめ上げ、それ以降以下のように数度の改訂?が加えられている。〇寛永令(1635年) 三代・家光 →参勤交代/大船の建造禁止〇寛文令(1663年) 四代・家
歴史に派手なデビューを見せたものの、その後については案外よく知られていない人物もいる。たとえば、「本能寺の変」(1582年)の後、織田家後継者を巡る関係者協議の折に登場した「三法師」もその一人だ。当初は、本能寺に倒れた織田信長(1534-1582年)の息子たちである次
「9,876,543,210」・・・例えばこれを漢数字で表記するなら、「九十八億七千六百五十四万三千二百十」となる。常日頃から見慣れ使い慣れているせいもあるのか、両方を書き並べ見ると、現代日本人にとっては「断然」とまでは言えないにしても、前者の方が分かりやすい。 そし
多数の人物やあるいは出来事の中から、傑出した三人(三つ)を選んで、「三〇〇」とか「三大✕✕」との名称で呼ぶことは珍しくない。たとえば人物なら、「三英傑」※1や「維新の三傑」※2がそうだし、出来事なら「江戸幕府の三大改革」※3もその法則?にバッチリ当てはまって
たとえば、日本文字で表記するなら「歩く/あるく/アルク」の音韻をアルファベットを使って「aruku」と記す方法を「ローマ字」と呼んでいる。こうしたいわゆる「ローマ字」表記は、古くは戦国時代にも存在したことが確認されているようだから、おそらくは日本語習得に懸命だ
江戸幕府第10代将軍・徳川家治(1737-1786年)の長男・家基(1762-1779年)には、徳川宗家の通字である「家」の字を賜りながら、将軍職には就けなかったために「幻の第11代将軍」とのニックネーム?もあるようだ。幼年の頃から聡明で文武両道に秀でた優秀な人物だったとされ
「藤原」姓は、中大兄皇子(後の第38第・天智天皇/626-672年)に協力し、後の国家改造を導くことになった中臣鎌足(614-669年)に下賜された。 通説ではこのように鎌足が「藤原氏」の始祖と説明されることが多いのだが、しかし、実際にはその鎌足の子である「藤原不比等」
~一隻のポルトガル船が種子島に漂着して、日本に鉄砲を伝えた~また、あるいは、~種子島に流れ着いた一隻の中国船に乗っていたポルトガル人が、 2丁の鉄砲を携えていた~いずれもいわゆる「鉄砲伝来」(1543年)についての説明文だが、漂着とされる船舶がポルトガル船だ
道端で見つけた千円札一枚を律義に交番へ届けたものの、折悪しく交番巡査が不在だったために、後日の出直し手続きが必要になって一層面倒なことになった。なんとなく不運が感じられるこんな出来事を、仲間の一人がひどく得意気に話してくれたことがあったのだが、その折に飛
公家であり政治家であった岩倉具視(1825-1883年)の名は、明治維新に大きな貢献を果たした人物、いわゆる「維新十傑」にも加えられている。いかにのんびり屋のヒメ隊員であっても、このことはさすがにご存知だろう。これは、幕末期において公家・政治家の立場を最大限に利用
10年ほど前のことになるが、“スコットランド”がイギリスからの「分離独立」の是非を問う「住民投票」を行った。富の配分などに対して“スコットランド”側がそれなりの“不満”を抱いていたという背景があったようだ。要するに現在の状況で“中央政府”に縛られているより
「額田部姫」と「額田王」・・・この両者の区別がつくかな?ただ、全ての記録がこの表記で統一されているわけでもないようで、前者の「額田部姫」は「額田部皇女」が一応は正式扱いとされているようだし、また後者「額田王」については「額田女王/額田姫王/額田部姫王」な
念願の「天下布武」完成を目前にした織田信長(1534-1582年)の居城「安土城」の“築城から焼失”までの経緯は以下のようだった。〇1576年→築城を開始〇1579年→信長が引っ越す(この頃、落雷で本丸焼失?)〇1582年→6月「本能寺の変」(信長暗殺事件)〇1582年→6月「山崎
親が偉大、言葉を変えればあまりにスーパースター的な存在である場合、その子供は結構難儀な立場に置かれるものだ。なぜなら、周囲の者が常に親と子を「見比べる」視線を送り、またそうした雰囲気はなんとなく本人(子)にも伝わるものだからだ。たとえ本人に「オレとオヤジ
天皇位を一旦退位された後に、再び即位される「重祚(ちょうそ)」は実は非常に稀なことで、これを経験された天皇は長い歴史の中でもお二方しかおられない。奇しくも、お二方とも女性天皇で、名を挙げれば、※(最初)35代・皇極天皇/(二度目)37代・斉明天皇(594-661年)
言葉の頭に「御(お/ご)」をくっつけて丁寧な表現にするのは、いわゆる「女房言葉」の特徴の一つだったようだ。「女房言葉」とは、こんな説明だ。~室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房(女官)たちが使い始めた 上品で優美な婉曲表現・隠語的な言葉遣い~だから食べ
廃藩置県が行われた1871年(明治4年)を基準にすると、本年(2026年)は「廃藩置県155年」ということになるが。現在は身の廻りに当たり前にあるが、155年前には存在していなかったというモノも少なくない。たとえば、電車・自動車・ラジオ・テレビ・パソコン・インターネット
~小説とは根も葉もある嘘八百~これは昭和の文豪・佐藤春夫の言葉だそうだ。なるほど、さすがにうまいこと言うものだが、「小説」ですらその線上にあるとするなら、「神話」なぞはもうヒト桁上を行く~根も葉もある嘘八千?~くらいの世界なのかもしれんぞ。そうした日本の
もちろん宗派によって違いもあるのだろうが、仏式の葬式・法事などの場では「お経」が上げられることが少なくない。しかし、この「お経」、多くは漢字で書かれてあるものの、大方の人はまず読めない上に、唱えている言葉も普段使っている日本語とはまったく異質なものだから
「身分意識」が希薄になった現代では、俄然分かりにくくなってしまったことと、さらには元々その名称自体が堅苦しいことも重なって、江戸時代後期の事件?いわゆる「尊号一件(そんごういっけん)」が注目されることはあまりないようだ。そこで少し補足すると、そもそもこの
平清盛(1118-1181年)とは、「平治の乱」(1159年)で長年ライバル関係にあった源義朝(1123-1160年)に勝ち、武士の第一人者としての地位を固めた人物だ。その源義朝(1123-1160年)が倒れると、その遺児である頼朝・義経も清盛の手中に収めたわけだ。しかし今は若く幼いと
「戦国時代」はいつ始まったのか?いろいろな意見が出るところだろうが、ひとつにはこんな見方もある。~そりゃあ、なんといっても恐怖政治の主導者、独裁者であった 室町六代将軍・足利義教(1394-1441年)の首が落ちた瞬間からだ~この見解に沿うなら、この義教将軍暗殺事
さて、次の言葉の“皇“の部分をなんと読む?天皇/皇后/皇太子/上皇/法皇/新皇/皇帝現代仮名遣いをするなら、順にこうなるところだ。てんのう/こうごう/こうたいし/じょうこう/ほうおう/しんのう/こうてい/同じ“皇”の字なのだが、なぜか、それぞれに違った“
~こんな良いところもあったが、この点は短所だった~その人物の評価は、このように長所短所あるいは功罪を併せて語られることが普通だ。ところがダ~こんな悪いところもあったが、この点も短所だった~こんな風に語られる人物も歴史の中にはごく少数ながらいることもまた事
「名古屋」が「日本の真ん中」と紹介されることもままある。さらには、1999年からはその名古屋を舞台にした踊りの一大イベント「にっぽんど真ん中祭り」が解されるようにもなって、それは現在も続いている。それは社会に元気を鼓舞する意味でも、大変に素晴らしいイベントで
日本列島をいくつかの地方に分ける基準は、あれこれあるようだが、その代表的なひとつとして以下の「八つ」に分類する方法が挙げられる。北から順に北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」だ。大体においてはその名称も妥当思われるが、しかしつら
どんな時代にも「流行り廃り(はやりすたり)」はあるもので、戦国時代にも武将たちの間で殊のほか多少のブーム?になったものがある。それは、自身が神である、または神になる、という一種の「神仏変身願望」?であり、つまりは「人間を超えることに対する憧れ」ともいうべ
「関が原の戦い」(1600年)の勝者・徳川家康よる「江戸幕府」(1603年)は、その後十年を経ずして、つまり家康(1543-1616年)自身も、またその最大の敵?豊臣家(1615年滅亡)も健在の時点で、すでに「キリスト教・禁教令」(1612年・1613年)に踏み切っている。この時期の
名前はよく知っているものの、その事績についてあまりよく知られていない人物の一人に「二宮尊徳」を挙げてもいいだろう。たとえばダ、通称を「金次郎」と書くことが多いが、「金治郎」が正しいなんてことは、ほとんど知られていない。一定以上の年配者なら、薪を背負って読
詳しいことは忘れてしまったが、~自分は歴史にはとんと疎くて、実は室町時代と鎌倉時代のどちらが 先なのかも、よく分かっていない~昔の小説にこんな歴史オンチの人物が登場していたような記憶がある。決してあり得ない、ということでもなく、これをもう少し発展させれば
江戸時代の享和・文政・文化の時期に老中を務めた土井利厚(1759-1822年)は、その知名度はともかくとして、「老中生活20年」(1802-1822)というなんとも立派な経歴の持ち主だ。では、本当に「能力ある老中」だったと見ていいのか?そこはそれ、多少皮肉っぽい見方をするな
昔の場合、仮に有名人の妻の立場にあったとした女性でも、その生涯についてはよく伝わっていないケースが決して珍しくない。早い話が、戦国のスーパースター織田信長の正室「濃姫」もそのひとりといってよさそうだ。なにしろ、美濃の戦国大名・斎藤道三の娘であること以外は
昨今の「米騒動」もどきの環境にあって、ひょいと思い出したことがある。~「稲作」という最新技術が朝鮮半島から北九州に伝わったのは、 紀元前二世紀頃のことで、これが「瞬く間に」尾張地方にまで 広がりをみせた~そういうことなら、三河へもそれこそ「瞬く間に」伝わ
室町八代将軍・足利義政のとき、三魔(さんま)という言葉が見られたそうだ。 文字通り「三人の悪魔」ほどの意味合いだ。その三人とは「おいま・ありま・からすま」のこととされ、「ありま・からすま」は省略するが、そのうちの「おいま」とは将軍・義政の乳母であり側室で
「勅(ちょく)」とは、日本の場合なら天皇の命令またはそれが書いてある文書(勅書とも)を指す言葉だ。念のためだが、天皇が思いついたことをそのまま気まぐれに「チョクチョク」発することから「勅」と呼ばれるようになったというのは悪意あるトンデモ説にすぎない。とこ
前々回の「探検637 七福神って?パート1」では、それに関する「様々な背景」について整理をしてみた。そこで今回は、いよいよ本題の「七福神」だ。こちらも補足説明を加えながらのスタイルで進んでみよう。少しでもややこしさを避けるために、その順序はその会の例に従うとす
~沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船~舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を修理して、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した、とされる紀伊国屋文左衛門の様子はこう唄われた。なんでまたそんな「命懸けの
~一人の人間の生命は全地球よりも重い~現代日本人はこの理念を常識として刷り込まれている。しかし、昔の日本にはそうでもなかったと感じさせる言葉もあった。~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~がそれだ。佐賀藩士・山本常朝(1659-1719年)の口述を同藩士が筆録した『
Wikipediaにはこんな説明がある。~七福神(しちふくじん)とは、インド伝来の仁王経の中にある 「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来する、福徳の神として日本で 信仰される七柱の神である~ということは、「ナントカ ノ ミコト」と名乗るような純粋系の「日本の神様
昨今の風潮には「美人」という言葉が出ただけで、「そんなのセクハラだ!」と指弾されそうな雰囲気もある。が、ここで言う「美人」とは、いわゆる「平安美人」を指しているのだが、さて、こうした「美人」の方々が、果たして現代の感覚でも「美人」の範疇に入るものなのかど
徳川家康は晩年に誕生した三人の男子に将軍家に次ぐ地位を与えた。それが、九男・義直(尾張藩)、十男・頼宣(紀州藩)、十一男・頼房(水戸藩)で、いわゆる「御三家」だ。万が一、将軍家に後継となるべき人材がないという事態に陥った場合の備えとして、その際には、この