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日本史探検隊 http://blog.livedoor.jp/nihonshi758/

日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三

探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員

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2012/06/01

  • 探検555 平伏し号泣する尊王の人

    「寛政の三奇人」という言葉がある。ちなみに「寛政」とは元号で、たとえば東洲斎写楽(生没年不詳)なる謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が蝦夷地を初めて測量(1800年)したのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、に当たり、西暦

  • 探検554 日本国旗の複雑な生い立ち

    白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、誰がいつ日本国の国旗と決めたのか? 突然にこんな素朴な疑問をぶつけられたとしたら、自信を持って答えられる人はたぶん少数派だと思う。「日の丸弁当」のことならともかくも、本家?の国旗「日の丸」なの

  • 探検553 世の中にいる二種類の人間

    随分と昔の映画の中にこんなセリフがあったことをヒョッコリ思い出した。正義漢VS悪漢の対決という、お約束通りの「西部劇」の中で、正義漢が悪漢に向かってこんな言葉を吐いていたのだ。~世の中には二種類の人間がいる。 (建物に)ドアから入るヤツと(お前のように)窓

  • 探検552 長い物には巻かれよの歴史結果

    勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ。こうした意味の助言・忠告の格言が、~長い物には巻かれよ~なかなかに説得力のある言葉であり、また長い歴史の流れの中には、この言葉に恰好の出来事を見つけることもできる。戦国乱世での一例を取り上げてみれば

  • 探検551 幕末長州の価値ある衝動買い

    幕末に活躍した人物の一部については、その評価が分かれることも少なくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」という評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動も併せて取っているということだ。たとえば、幕末尊王攘

  • 探検550 アレンジとリサイクルのSDGs征夷大将軍

    日本史の中の幕府政治における「将軍大将軍」についてのイメージを問えば、現代でいう「総理大臣」もどきに地位というくらいの答えが返ってくるのが、まあ一般的だろう。要するに、国家の政権の最高の地位にあり、また最大の権力を握った者、というイメージだ。たとえば、江

  • 探検549 朝廷幕府それぞれの国難対策

    世界征服を目指すがごときに領土拡張を続けた超大国・元が大海に浮かぶ孤島・日本に目をつけ、その征服を目指したのが、いわゆる「元寇」(蒙古襲来)だった。その実行は前後二度に渡り、一度目を「文永の役」(1274年)二度目を「弘安の役」(1281年)と呼んでいるが、ちっ

  • 探検548 なんとアメリカの西隣が極東

    当初大陸の大西洋側(東海岸)のみを有するにとどまっていたアメリカ合衆国の国土は、イギリスの支配から独立を成し遂げた(1776年)後には、西へ西へと拡張する努力を続け、そして1848年にはカリフォルニアなどを獲得し、遂に太平洋側(西海岸)に達するまでになった。この

  • 探検547 戦国茶人はメチャ胡散臭い

    同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っている場合も決して少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、こんな説明になっている。~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す 語であるが、中世と近世では意味合いが異

  • 探検546 戦国加賀の百年宗教共和国

    「応仁の乱」(1467-1477年)の大混乱もあって、室町幕府はほぼほぼ機能不全に陥ってしまったのだが、そうしたことに伴って、民衆による政治的要求活動、いわゆる「土一揆」が盛んになった。中でも本願寺(一向宗)の門徒・信徒たちが中心となった「加賀一向一揆」(1488頃-1

  • 探検545 失敗した秀吉の一石二鳥プラン

    それまで縁のなかった日本にキリスト教を最初に紹介した人物は宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)とされているが、これ以後も多くの宣教師が訪れ熱心な布教活動を展開した。ただしダ、その「布教活動」の中身が、現代日本人の感覚からしたら、ちょっとばかり

  • 探検544 オジン族の小寒い歴史ギャグ

    ~自分は歴史にはとんと疎くて、実は室町時代と鎌倉時代のどちらが 先なのかも、よく分かっていない~詳しいことは忘れてしまったが、昔の小説に、こう語る自称・歴史オンチが登場していたような記憶がある。ままあり得ないことでもないのだろうが、この手に倣った「分から

  • 探検543 この言葉使いの微妙な差別感

    天皇の諡号を表すのに、例えば「朱雀帝」とか「持統帝」とか、「○○帝(てい)」という呼び方をすることも少なくない。それに、「持統帝」のような女性天皇については「女帝(じょてい)」という言葉も併せて使われている。ところがダ、いったんは天皇に即位しながら諸事情

  • 探検542 佐渡島の島流しと島送り

    日本海の新潟県西部に位置する佐渡島。その昔は日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年)や能楽の祖・世阿弥(1363?-1443年)などが配流を被った島であることで知られているが、別には「佐渡金山」があることでも有名な島だ。そこで、そこらあたりをちょっと探っていたら、こんな説

  • 探検541 鎌倉殿三代の暗殺事情メモ

    今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、いよいよ大詰めを迎えることになった。ただ、こうしたドラマは視聴者に魅力・面白さを提供しないことには見てもらえないわけだから、その作り方もその方向に沿わざるを得ない宿命を背負っている。ということは、大河のような歴史ドラマ

  • 探検540 朱子学は嫌銭金症候群?

    戦国の世を勝ち抜き、最終的な覇者となった徳川家康(1543-1616年)は、自らが創立者として開いたのが江戸幕府ということになる。そして、その幕府の公式学問として「朱子学」を採用した。理由は明快で、第二第三の「本能寺の変」(1582年)を、つまり、明智光秀(1528-1582

  • 探検539 崇道天皇って第何代なの?

    平安京を開いたことでも有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟に、一回りほど齢の違う早良親王(さわら/750-785年)という同母弟がいた。 共に第49代・光仁天皇(709-782年)の息子なのだが、弟・早良は今なら小学生ほどの年齢で出家した。グ~ンと年上の兄ちゃん(

  • 探検538 最後の将軍は多重国籍だった?

    水戸藩主・徳川斉昭を父、またその正室である(有栖川)宮家出身の吉子女王を母として、江戸・小石川の水戸藩邸で生まれたのが、後に江戸幕府最後の将軍となった第15代・徳川慶喜(1837-1913年)だ。ということは、慶喜の体には生まれながらにして「水戸藩」と「皇室(天皇家

  • 探検537 奮起溌剌の後期高齢源氏

    「年寄りの冷や水」・・・無分別に若者のマネをする高齢者を冷やかしたり警告したりする時に使われる言葉ですが、実は 歴史にはそれとは逆に「年寄りの熱血」と呼びたくなるような人物も登場している。 たとえばダ、イマイチさえない状況にあった源氏が、栄華を極める平氏

  • 探検536 合戦後は改易そして流罪

    苦労の末に奪取した自らの権力を子・秀頼に継承させるべく心を砕いた晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)が、政権運営の安定のために配下の有力武将五人にサポートさせる形を取った。それが、いわゆる「五大老」で、その中には、徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、秀吉に

  • 探検535 幻の日本アヘン戦争

    19世紀のイギリスは、世界に「植民地」を拡大し、「七つの海を跨ぐイギリス世界帝国」を構想していていた。アジアにおいて、清国(中国)に対して起こした「アヘン戦争」(1840-1842年)も、まさにその行動の一つだったとみていい。そもそもこの戦争の原因自体が、清国に対す

  • 探検534 四兄弟の激動の幕末史

    さて、お話は幕末だ。その頃、現在の岐阜県海津市に当たる地域に「美濃国・高須藩」という3万石ほどの小さな藩があった。その藩主・松平義建(よしたつ/1800-1862年)が儲けた男子はなんと10人(つまり長男から十男まで)。ひょっとしたら、ヒメ隊員もその名を耳にしたこと

  • 探検533 元禄赤穂事件の秘かな心情

    「吉良邸討ち入り」(1703年)浪士の一人に「堀部武庸」(ほりべたけつね/1670-1703年)の名がある。剣がメッチャ強いだけでなく、かなりの文才も備えていたようで、「堀部武庸筆記」という記録も残していて、これは後世の赤穂浪士研究の貴重な資料になっているとのことだ。

  • 探検532 酒と兎と御床と女

    仏教の世界では、在家信徒に対して、以下の「五戒」が示されている。1・不殺生戒→生き物を殺してはいけませんよ2・不偸盗戒→他人のもの盗んではいけませんよ3・不邪淫戒→不道徳なセックスはいけませんよ4・不妄語戒→ウソをこいてはいけませんよ5・不飲酒戒→酒を飲

  • 探検531 徳川歴代将軍の健康診断

    徳川幕府(1603-1867年)の歴代将軍の中には精神面や身体面でそれなりの「健康問題」?を抱えていた方もあったようだ。まあ、「国のトップ」という地位にはシモジモには分からぬご苦労があったということかもしれん。そこでダ、今回はその歴代15人の徳川将軍の健康状態を、姫

  • 探検530 幕末天皇の謎めいた死因

    現代日本ではとんと見られることがなくなった「天然痘」も、実は明治時代に入るまではかなり猛威をふるっており、その凄まじい病状自体がまた「恐怖の対象」になっていた。仮に運よくこの「病状」を乗り越えられたとしても、はっきり天然痘跡が残る人も少なくなく、実際、幕

  • 探検529 幕府の十万犠牲者弔い法

    人為的災害として、犠牲者の多さでは日本史上でも指折り数えられるであろう一つが「明暦の大火」(別名・振袖火事/1657年)だ。その数は10万人以上にもなったようだから、彼らを葬ってやろうにも人数が多すぎて、とてもじゃないが民間だけでは対応し切れない。そこで幕府が

  • 探検528 文明開化ですっぱり断捨離

    少々乱暴に言い切ってしまうなら、明治に入った頃のいわゆる「文明開化」とは、日本が従来使用していた「モノサシ」を西欧製のそれに切り替えることだったのかもしれん。いい例が、伝統ある?「チョンマゲ頭」から割合素気ない「ザンギリ頭」への転換だが、ひょっとしたら女

  • 探検527 諸行無常をその目で

    橘氏の出身で唯一皇后に立てられた女性、それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(786-850年/享年65)であり、仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から死後「檀林皇后」と諡号された。千年以上経った今もなお、世に類なき美貌の持ち主だった、

  • 探検526 中国地方っていったい何者ですか?

    日本列島をいくつかに分ける場合、代表的なひとつが北から順に、北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」の地方に分割する方法だ。まあ、これには異議もないと思うがダ、ひょっとして、ヒメ隊員はこんな疑問を抱いたことはないか?~「中国地方」の

  • 探検525 国定教科書の渡辺登って誰?

    ヒメ隊員はおそらく、「国定教科書」ってものを御存知ではなかろうから、始めに少し簡単な説明をしておこう。~日本では1903年(明治36)から小学校の教科書が国定と され、忠孝の教育が強調されたが、1948年(昭和23)以降は 教科書検定制度に移行した~つまり戦前は忠孝

  • 探検524 幕末鬼っ子新選組

    「京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/  新選(撰)組」(前身は壬生浪士組).これが「新選(撰)組」の正式な名称ということになる。ただ、「新選組」と「新撰組」の表記については、さして拘りがなかったのか、局長の立場にあった近藤勇(1834-1868年)自

  • 探検523 面食いの大いなる代償

    日本神話にはこんなエピソードが語られている。~天照大神の孫・ニニギノミコト(瓊瓊杵命)は「天孫降臨」 を果たした後に、 木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)に 出合い求婚したところ、姫神の父親はこの縁談を大いに喜び、 姉の石長姫 (イワナガヒメ)まで差し出

  • 探検522 本能寺の変まで信長の15年

    織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」には、太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、これとは別に小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものがあって、両者を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信長記」または「甫庵

  • 探検521 マッドサイエンティスト?のウナギ販促

    さて、時代は江戸開発が盛んになった頃、そのことによって必然的に干拓地が増えた。また、それに伴ないそこには鰻も棲みつくようになったそうだ。そして、そうした鰻(江戸前)を労働者たちが食べるようになり、さらにはそれがキッカケとなって今日の「鰻食」が普及したとさ

  • 探検520 始まりは与力の不動姿勢

    後に日本最初期の職業写真師のひとりに数えられることになる上野彦馬が生まれたのは1838年。 奇しくもその翌年(1939年)、写真(銀板写真/ダゲレオタイプ)技術が発明され、その影響もあって、早くも1840年代には欧米で一種の「肖像写真」ブームが見られたそうだ。とはい

  • 探検519 人質作戦には手抜かりがあった

    「関ケ原の戦い」(1600年)の直前の話だが、当時豊臣方(西軍)を切り盛りしていた故・豊臣秀吉の腹心・石田三成(1560-1600年)は、有力武将を味方につけるべく、その妻子を人質に取る作戦をとった。人質を大坂城に留め置くことで、彼らが徳川方(東軍)につくこと、それと

  • 探検518 五畳住まい就職浪人の多感

    ~ボクも大人になったら、父ちゃんがみたいに「賀茂御祖神社」 (下鴨神社/京都)の禰宜様になるのだッ~こう心に誓っていた幼い頃の鴨長明(1155-1216年)は、恵まれた、いわゆる「お坊っちゃま」の日々を送っていたのですが、ハイティーンの頃には、その父ちゃんが亡くな

  • 探検517 僧兵の姿が消えた

    若武者・牛若丸(後の源義経/1159-1189年)と、後にその郎党となった僧兵・武蔵坊弁慶(生年不詳-1189年)との出会いは、童謡「牛若丸」にも歌われるほど有名で、こんな内容になっています。~京で千本の太刀を奪う悲願を立て、通りがかった武者に 決闘を挑んでは、それに

  • 探検516 風船を背負った戦場エリート

    ~織田信長(1534-1582年)は、大将の馬の廻りに付き添って護衛・ 伝令・決戦兵力として働く親衛隊的な存在である「馬廻」などの 精鋭を赤・黒二色の「母衣衆(ほろしゅう)」として抜擢した~さらに、~その中でもとりわけ優秀な者については、部隊の指揮官にまで 昇進さ

  • 探検515 人斬り半次郎の最期

    「逆説の日本史 20幕末年代史編Ⅲ」の中で、著者・井沢元彦氏は佐久間象山(1811-1864年)の暗殺に触れ、こう書いています。 ~日本史上もっともテロが横行した幕末の文久から元治にかけても、 「人斬り」とまで呼ばれた人間は四人しかいない。 この「人斬り彦斎」こと熊

  • 探検514 ニセ物で時代を動かした

    天皇の命令、さらにはそれを記した文書を意味する詔と勅には区別があって、厳密にはこうなるそうです。○詔 → 臨時の大事に用いる。○勅 → 尋常の小事に用いる。両方を合わせて「詔勅」という表現も用いられます。ところが、日本の歴史の中には「偽勅」「密勅」という

  • 探検513 大坂江戸間の情報新幹線

    ~殿中(江戸城内)において浅野長矩が吉良義央に刃傷に及ぶ~いわゆる「元禄赤穂事件」(1701年)の発端となった出来事ですが、この第一報は、当時の常識を打ち破る“驚異的なスピード”をもって、国許・赤穂まで届けられました。普通の旅行者なら概ね17日、飛脚なら8日をか

  • 探検512 幽界熱血探究の神道家

    とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めていた。~オイラは、神仙界に自由に行き来できる不思議な老人(仙人?) と出会い、その老人に連れられてあっちこっちと飛行し、やがて 常陸の岩間山へ飛ぶや、その山中で四年間にわたって諸武術・ 書道・祈祷術

  • 探検520 義理と人情って公と私のこと

    日本人が大好きなお芝居ということなら、元禄赤穂事件をモデルにした「忠臣蔵」は必ずその上位にランクインすることだろうが、お芝居の方が有名になりすぎてしまい、史実の方はいささか影が薄い。それは、一般的には「殿中刃傷事件」(1701年)とその後に発生した「吉良邸討

  • 探検519 違うの?満年齢と数え年

    人間の年齢って、いつ加算されるのか?現代人と昔の人ではこの問題に対する回答はおそらく異なるであろうことを、若いヒメ隊員は理解できるかな。そう、言葉にすれば、「満年齢」を採用している現代に対し、明治以前は「数え年」を使っていたからだ。では、昔の人はなぜ「数

  • 探検518 先送り?忘却?日本国旗の制定

    ~白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、 いつ誰が日本の国旗と決めたのかしらん?~突然にこんな質問をぶつけられたとしたら、「日の丸弁当」の方ならともかくも、まあ大抵の方は即答できるものではありません。そこで頭の中を少々クールにした

  • 探検517 敗軍薩摩はなぜ安堵されたのか

    「関ヶ原の戦い」(1600年)の折の出来事です。いささかの手違いがあって、心ならずも 西軍にその身を置くことにしたのが薩摩国・島津義弘(1535-1619年)でした。戦闘についての作戦もそれなりに具申しましたが、ただ西軍指揮官である石田三成(1560-1600年)はそれに賛意を

  • 探検516 受刑者たちの佐渡島風景

    佐渡島への配流(遠島)について、こんな記事がありました。~722年の古くから始まり、1700年に廃止されるまで、実に 979年間の長きに渡って続いた~さらには、~奈良時代から室町時代にかけて76人、江戸時代に139人の 合計215人だった~そして、~1601年のこと、この「遠

  • 探検515 八丈島配流が心境に影響を

    苦労の末に奪取した自らの権力を、わが子・秀頼に継承させるべく心を砕いた晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)は、政権運営の一端を配下の有力武将、いわゆる「五大老」に輔弼させる形を取りました。徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、五大老には、秀吉に可愛がられてそ

  • 探検514 百姓ってドナタのこと?

    「士農工商」とは、元々は中国・儒教が生んだ身分概念ですが、日本の学校教育などでは、これを江戸時代における身分序列であり、「四民」を偉い順に並べたものだと教える向きもありました。しかし、実際には儒教の概念を超えるものではなく、身分序列というほどに厳密で窮屈

  • 探検513 冤罪疑惑?家康側の証人

    織田信長(1534-1582年)から偏諱の「信」の字を、また下の字「康」を父・徳川家康(1543-1616年)から与えられたのが、後に「切腹」に追い込まれることになる家康嫡男・松平信康(1559-1579年/生前は徳川姓)でした。通説によれば、その「切腹」の発端は信康正室・徳姫が父

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