同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っているものも少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す語であるが、 中世と近世では意味合いが異なる~とされている。ちょっとば
日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員
幕末に活躍した人物については、その評価が分かれることも珍しくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」の評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動もある場合などがそうだ。たとえば、幕末尊王攘夷の志士として一般
平安京を開いたことでも有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟に、一回りほど齢の違う早良親王(さわら/750-785年)という方がいた。共に父は、第49代・光仁天皇(709-782年)だ。天皇家は特別の存在だと思っている人でも、長幼の順の扱いは庶民階級とそんなに違わな
現在では「日本」と言っているこの国を、アマテラスの代々子孫が治めることの正当性は、神話の「天壌無窮の神勅」にあるとされている。その「天壌無窮」とは、日常生活ではあまり使わない言葉だが、平たく言えば「天地を永遠に」ほどの意味になり、これに続く「神勅」は「神
ペリー代将率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的には「幕末」(江戸幕府の末期)と呼ぶ。一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り政治的にも社会的にも大きな混乱を生じた時期だ。~
~「来世」を(素晴らしいものと)信じる者は(現世での)死を恐れない~なぜなら、「来世」とは「現世」の苦労や悩みから解放された、文句のつけようもなく素晴らしい場所である、とされているからだ。実は同様な概念を指す別の言葉もある。「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえ
それまで縁のなかった日本にキリスト教を最初に紹介した人物は宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)だが、ただし、その「布教活動」の中身が、現代日本人の感覚からしたら、ちょっとばかり曲者で、むしろ「布教後」の展望に重きを置いたものになっていたともい
室町八代将軍・足利義政(1436-1490年)の時代には、「さんま」という感覚を抱いていた人もあった。とは言っても、今姫隊員が頭に浮かべたであろう「秋の味覚のサンマ」や「TV司会者のさんま」ではない。文字通り「三人の悪魔」の意味であり、「三魔(さんま)」と書く。簡単
仲間内の雑談の折、話の流れからひょっこり話題が「お茶」に飛んで、一人がこんな発言を。~日本に「お茶」を伝えたのは、確か僧・栄西サンのはずだッ~見るからに自信満々の発言だ。突拍子もないタイミングだったこともあって一同の反応は芳しくない。そこで、発言者は子細
武家統制を目的とした「武家諸法度」(元和令/1615年)は、徳川幕府初代将軍・徳川家康の命により二代将軍・秀忠がまとめ上げ、それ以降以下のように数度の改訂?が加えられている。〇寛永令(1635年) 三代・家光 →参勤交代/大船の建造禁止〇寛文令(1663年) 四代・家
歴史に派手なデビューを見せたものの、その後については案外よく知られていない人物もいる。たとえば、「本能寺の変」(1582年)の後、織田家後継者を巡る関係者協議の折に登場した「三法師」もその一人だ。当初は、本能寺に倒れた織田信長(1534-1582年)の息子たちである次
「9,876,543,210」・・・例えばこれを漢数字で表記するなら、「九十八億七千六百五十四万三千二百十」となる。常日頃から見慣れ使い慣れているせいもあるのか、両方を書き並べ見ると、現代日本人にとっては「断然」とまでは言えないにしても、前者の方が分かりやすい。 そし
多数の人物やあるいは出来事の中から、傑出した三人(三つ)を選んで、「三〇〇」とか「三大✕✕」との名称で呼ぶことは珍しくない。たとえば人物なら、「三英傑」※1や「維新の三傑」※2がそうだし、出来事なら「江戸幕府の三大改革」※3もその法則?にバッチリ当てはまって
たとえば、日本文字で表記するなら「歩く/あるく/アルク」の音韻をアルファベットを使って「aruku」と記す方法を「ローマ字」と呼んでいる。こうしたいわゆる「ローマ字」表記は、古くは戦国時代にも存在したことが確認されているようだから、おそらくは日本語習得に懸命だ
江戸幕府第10代将軍・徳川家治(1737-1786年)の長男・家基(1762-1779年)には、徳川宗家の通字である「家」の字を賜りながら、将軍職には就けなかったために「幻の第11代将軍」とのニックネーム?もあるようだ。幼年の頃から聡明で文武両道に秀でた優秀な人物だったとされ
「藤原」姓は、中大兄皇子(後の第38第・天智天皇/626-672年)に協力し、後の国家改造を導くことになった中臣鎌足(614-669年)に下賜された。 通説ではこのように鎌足が「藤原氏」の始祖と説明されることが多いのだが、しかし、実際にはその鎌足の子である「藤原不比等」
~一隻のポルトガル船が種子島に漂着して、日本に鉄砲を伝えた~また、あるいは、~種子島に流れ着いた一隻の中国船に乗っていたポルトガル人が、 2丁の鉄砲を携えていた~いずれもいわゆる「鉄砲伝来」(1543年)についての説明文だが、漂着とされる船舶がポルトガル船だ
道端で見つけた千円札一枚を律義に交番へ届けたものの、折悪しく交番巡査が不在だったために、後日の出直し手続きが必要になって一層面倒なことになった。なんとなく不運が感じられるこんな出来事を、仲間の一人がひどく得意気に話してくれたことがあったのだが、その折に飛
公家であり政治家であった岩倉具視(1825-1883年)の名は、明治維新に大きな貢献を果たした人物、いわゆる「維新十傑」にも加えられている。いかにのんびり屋のヒメ隊員であっても、このことはさすがにご存知だろう。これは、幕末期において公家・政治家の立場を最大限に利用
何かとあれこれがあった秋篠宮の長女・眞子様のご結婚から数年が経ったが、現在のところなんとか収まっているように見受けられるところだ。この眞子様は、先代天皇の孫娘に当たる方だが、ところが、つい160年ほど以前の1862年には、孫娘どころか現役天皇の妹姫の「皇室婚約す
歴史の中には、まさに時代を切り取ったかのような言葉・セリフが登場することがあるものだ。例を挙げるなら、たとえば、この言葉などもそうだろう。~平家にあらずんば人にあらず~武士階級がようやく頭角を現し始めた平安時代に登場した言葉だ。ただ、このセリフを吐いた人
「万世一系」などと仰々しい表現をされると、“天皇”という地位?には、いつの瞬間にも常に誰かが座っていたものと思ってしまうものだ。 ところが実際の歴史にには「空位」、つまり“天皇不在”の期間もあったとされてる。たとえば、第37代・斉明天皇(594-661年/第35代・
回顧趣味というわけではないが、ちょっと気を引く台詞があったので、今回はこんな古い映画から話を始めることにした。人類史上初の有人宇宙飛行計画において、ライバル・ソ連の先手を取るべくアメリカが情熱を傾注した「マーキュリー計画」(1958~1963年)、要するにNAS
棚の隅っこからひょっこり古い日付の地元紙を見つけた。そして、これまたひょっこりのことだったが、その記事に目をやるとこうあった。/さらば グラバー号/ 名古屋-長崎 夜行バス 今月終了~片道904キロ・11時間40分 平成走り抜けた~(中日新聞 朝刊/2018年11月09日/
江戸幕府創立者・徳川家康(1543-1616年)は幕府の公式学問として朱子学を採用した。最高の徳目を「孝(親孝行)」とする朱子学は、家臣や諸藩に忠誠を求める幕府にとっても、非常に都合がよかったからだ。実際、幼くして父・家光(第三代将軍/1604-1651年)を失くしていた
戦国乱世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、何度か信仰がらみの事件に遭遇している。たとえば、領国・三河国で起きた「三河一向一揆」(1563-1564年)もその一つで、一揆衆側に味方する家臣も少なくなかったことで、この時は、当の家康自身が「命の危機」に晒さ
遥かヨーロッパからこの日本に「鉄砲」が伝わった、いわゆる「鉄砲伝来」は、戦国の世真っ最中の1542年か1543年のことだとされている。そのハイテク武器「鉄砲」が最初に上陸したのは大隅国の種子島。今なら中学生ほどの年齢だった若き領主・種子島時堯(1528-1579年)はこれ
~「幕末維新」を起点にして眺めると、これより以後現在に至るまでが 百五十年・・・つまり、明治元年から数えると平成30年がちょうど 「明治150年」に当たる~なるほどそうだった。確かにその年は全国各地で「明治150年」と銘打ったイベントが数多く開催されたし、大河
昭和20(1945)年以降、つまり「戦後」と呼ばれる時代には、その知名度がイマイチに陥っているものの、それ以前には超有名だった人物も少なからずいる。たとえば、神話がらみの人物なら、「三韓征伐」で有名な神功皇后とか、あるいは、その側近の武内宿禰がそうだろうし、確
平清盛(1118-1181年)を頂点として朝廷を凌ぐほどの栄華を誇った平家一門の隆盛ぶりを、同門にあった平時忠はこう評したそうだ。~一門にあらざらん者はみな人非人なるべし~(現代言葉に直した~平氏にあらずんば人にあらず~が有名)確かに一時期はこの言葉の通りに「飛ぶ
二度にわたる「大坂の陣」(冬1614年/夏1615年)を制したことによって、かつての主家・豊臣家を滅亡にまで追い込んだ徳川家康(1543-1616年)は、その後も諸大名をコントロールすべく対策を怠ることはなかった。目につく大名に対してはしっかりイチャモンをつけ、次にはその
~古池や 蛙飛び込む 水の音~~一戸建て まわりを見ると 一戸だけ~上の二つの詩は両方とも五・七・五の十七音から成っているが、ジャンルで分ければ別物の扱いになる。文芸オンチの定評がある姫隊員でもさすがに判断がつくと思うが、前の「古池や・・・」は「俳句」であり
武士政権が滅び、明治という新しい時代を迎えた日本には、西洋の文明が怒涛の如く押し寄せてきた。そうした事物を初めて見聞き体験する日本人の側にも、当初は戸惑いだけでなく、相当な抵抗感・違和感を覚えた様子も窺える。ただ、接触する機会が増えるに伴い、次第に慣れ親
~泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず~いわゆる「黒船来航」(1853年)で吃驚仰天した様を揶揄した狂歌だ。蛇足ながら、この「上喜撰」とは茶の銘柄であり、「蒸気船」(黒船のこと)にかけた言葉になっている。それはともかく、それこそ「見たこともない」ハ
戦国の時代に、遥かヨーロッパから九州の南に位置する種子島に初めて鉄砲という道具が伝わったのが、いわゆる「鉄砲伝来」(1542?1543年?)だ。ときの若き領主・種子島時堯(1528-1579年)は、その鉄砲が備えた威力を間近に見て、さっそく実物二丁を買い求め、そして、すぐ
これも「日本の常識は世界の非常識」のひとつに当てはまるのかもしれんが、日本の歴史にはなんとも不思議な現象がある。 それは、~どんなに大きな権力を獲得した実力者でも、天皇家以外に生まれた 者は決して「天皇」にはなれない~ ということだ。他の国なら、その実力
「寛政の三奇人」という言葉がある。ちなみに「寛政」とは元号で、たとえば東洲斎写楽(生没年不詳)なる謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が蝦夷地を初めて測量(1800年)したのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、に当たり、西暦
白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、誰がいつ日本国の国旗と決めたのか? 突然にこんな素朴な疑問をぶつけられたとしたら、自信を持って答えられる人はたぶん少数派だと思う。「日の丸弁当」のことならともかくも、本家?の国旗「日の丸」なの
随分と昔の映画の中にこんなセリフがあったことをヒョッコリ思い出した。正義漢VS悪漢の対決という、お約束通りの「西部劇」の中で、正義漢が悪漢に向かってこんな言葉を吐いていたのだ。~世の中には二種類の人間がいる。 (建物に)ドアから入るヤツと(お前のように)窓
勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ。こうした意味の助言・忠告の格言が、~長い物には巻かれよ~なかなかに説得力のある言葉であり、また長い歴史の流れの中には、この言葉に恰好の出来事を見つけることもできる。戦国乱世での一例を取り上げてみれば
幕末に活躍した人物の一部については、その評価が分かれることも少なくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」という評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動も併せて取っているということだ。たとえば、幕末尊王攘
日本史の中の幕府政治における「将軍大将軍」についてのイメージを問えば、現代でいう「総理大臣」もどきに地位というくらいの答えが返ってくるのが、まあ一般的だろう。要するに、国家の政権の最高の地位にあり、また最大の権力を握った者、というイメージだ。たとえば、江
世界征服を目指すがごときに領土拡張を続けた超大国・元が大海に浮かぶ孤島・日本に目をつけ、その征服を目指したのが、いわゆる「元寇」(蒙古襲来)だった。その実行は前後二度に渡り、一度目を「文永の役」(1274年)二度目を「弘安の役」(1281年)と呼んでいるが、ちっ
当初大陸の大西洋側(東海岸)のみを有するにとどまっていたアメリカ合衆国の国土は、イギリスの支配から独立を成し遂げた(1776年)後には、西へ西へと拡張する努力を続け、そして1848年にはカリフォルニアなどを獲得し、遂に太平洋側(西海岸)に達するまでになった。この
同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っている場合も決して少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、こんな説明になっている。~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す 語であるが、中世と近世では意味合いが異
「応仁の乱」(1467-1477年)の大混乱もあって、室町幕府はほぼほぼ機能不全に陥ってしまったのだが、そうしたことに伴って、民衆による政治的要求活動、いわゆる「土一揆」が盛んになった。中でも本願寺(一向宗)の門徒・信徒たちが中心となった「加賀一向一揆」(1488頃-1
それまで縁のなかった日本にキリスト教を最初に紹介した人物は宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)とされているが、これ以後も多くの宣教師が訪れ熱心な布教活動を展開した。ただしダ、その「布教活動」の中身が、現代日本人の感覚からしたら、ちょっとばかり
~自分は歴史にはとんと疎くて、実は室町時代と鎌倉時代のどちらが 先なのかも、よく分かっていない~詳しいことは忘れてしまったが、昔の小説に、こう語る自称・歴史オンチが登場していたような記憶がある。ままあり得ないことでもないのだろうが、この手に倣った「分から
天皇の諡号を表すのに、例えば「朱雀帝」とか「持統帝」とか、「○○帝(てい)」という呼び方をすることも少なくない。それに、「持統帝」のような女性天皇については「女帝(じょてい)」という言葉も併せて使われている。ところがダ、いったんは天皇に即位しながら諸事情
「ブログリーダー」を活用して、研修隊員さんをフォローしませんか?
同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っているものも少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す語であるが、 中世と近世では意味合いが異なる~とされている。ちょっとば
屈強な「三河武士団」を率いた徳川家康(1543-1616年)とその同盟者である尾張・織田信長(1534-1582年)との「連合軍」。そこへ真正面の戦いを挑んだのが甲斐・武田信玄(1521-1573年)であり、その両軍の激突を「三方ヶ原の戦い」(1573年/現:静岡県浜松市)と呼んでいる
たとえば、病死・自然死・事故死・戦死・その他諸々あるが、その死因が何であったにせよ、主君が亡くなった場合に家臣・従者や近親者などがその死を悼んで「追い腹を切る」、いわゆる「殉死」なんてことは「戦国時代」にはなかったようだ。この時代に戦さ以外の理由で死んで
歴代の天皇は各天皇がそれぞれ別の「陵」に葬られた。こうだとばかり思い込んでいる人も少なくないようだが、実は複数の天皇が一つの陵に「合葬」された例もある。と言えば、まあかなりの確率でヒメ隊員からこんな質問が出そうだ。 「では、どなたが?」で、先回りしてそこ
江戸後期のこと、不老不死の神人・仙人が住む海上の異界や山中の異境の実在を信じる、いわゆる「神仙思想」に大きな関心を向けた人物がいた。とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めると、すかさずその人物はすかさず行動を起こした。その人物とは、当時45
現在では、工場作業や現場作業はたまたバイクに乗るときなどは、多くの場合、頭を守るヘルメットの着用が義務付けられている。「頭部」は人体で最も大切で、しかも脆弱な部分でもあるからだ。しかし、丈夫さを優先させるあまりそれがデカすぎたり重すぎたりしたのでは動作な
それなりの歴史知識を持った人でないと解けそうもない少しマニアックなクイズになるが、ヒメ隊長は以下の有名人?四人の共通点を述べることができるかな? 〇第84代・順徳天皇(1197-1242年) 〇日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年)〇後醍醐天皇側近・日野資朝(
「年寄りの冷や水」・・・無分別に若者のマネをする高齢者を冷やかしたり警告したりする時に使われる言葉だ。 ところが、歴史にはそれとは逆に「年寄りの熱血」と呼びたくなるような人物も登場している。 例を挙げるならダ、たとえばイマイチさえない状況にあった源氏が、
~宇宙の中心である中国王朝の文化・思想のみが最高のものであり、 それを持たない周辺(辺境)の異民族は単なる野蛮人に過ぎない~こうした受け止め方を「中華思想」と呼ぶ。そして、この「中華思想」がハンパな物でないことは、その東西南北四周の異民族に対する呼び方に
現代社会で暮らすほとんどの人間には、社会通念として「公と私」という観念上の境界線が存在している。 大雑把になら、~「公」とは社会生活における自分(公人として)の立場であり、 「私」とは、自分(私人として)のプライベートな生活~こう捉えてもいいのだろう。こ
御三家・尾張家との後継争いに勝利し、八代将軍に就任した紀州家出身の徳川吉宗(1684-1751年)は、後に「享保の改革」(1716-1745年)と呼ばれた政治改革に取り組んでいる。この意気込みは、ひょっとしたら七代将軍・徳川家継(1709-1716年)の後継者を巡る自派の運動経緯に
「小人閑居して不善をなす」・・・小人物(つまらぬ人間)がヒマを持て余すと、とかく悪事に走りやすいという意味だが、ワシ様などは「不善をなす」どころか、その時間を利用して人口の変遷、少し堅苦しい言葉なら「人口動態」、これに目を配ってみたのだ。その「人口動態予
~「来世」を(素晴らしいものと)信じる者は(現世での)死を恐れない~こうした傾向は、たとえば自爆テロに挑むイスラム教過激派(原理主義者)兵士の行動にも感じられるところだ。なぜなら、「来世」とは「現世」の苦労や悩みから解放された文句のつけようもなく素晴らし
現在の行政単位こそ、その東西十数Kmに渡るエリアは「岐阜県不破郡関ケ原町」、その東隣が「同県不破郡垂井町」、そして、そのまた東隣が「同県大垣市」というように厳密な区分けがなされているが、おそらく昔はこのあたり一帯は丸ごと「広い広い一面の原っぱ」ほどの印象だ
ペリー代将率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的に「幕末」(江戸幕府の末期)と呼んでいる。一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り、政治的にも社会的にも大きな混乱を生じた時期
それまで縁のなかったキリスト教を日本に最初に紹介した人物は、御存知のように、宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)とされている。これ以後、日本には多くの宣教師が訪れるようになり、熱心な布教活動を展開するようになった。ただし現代日本人の感覚からし
「黒船来航」(1853年)より45年も前のこと、オランダ国旗を掲げたイギリス軍艦「フェートン号」が長崎港へ侵入し、オランダ商館員を人質にとった上に、薪・水・食料を要求し、それを手に入れるや、まんまとトンズラを決め込むという、日本国の面目丸つぶれの事件が起こって
豊臣秀吉(1537-1598年)なる人物の名乗りにおける変遷は、一般的にはこのように理解されてる。① 木下藤吉郎秀吉/(1561年) おねとの結婚を機に② 羽柴藤吉郎秀吉/(1573年頃)「羽柴」の名字を名乗る③ 羽柴筑前守秀吉/(1574年) 「官職名」を名乗るまた、これとは
現代日本では、とんと見られなくなった伝染病「天然痘」(痘そう)は、実は明治時代に入るまではかなりの猛威をふるっており、その凄まじい病床自体もまた恐怖の対象になっていた。運よく一命をとりとめたとしても、天然痘の痕がはっきり残ってしまうことも少なくなかったか
戦国時代(室町時代末期)は、文字通り全国各地で活発に“戦さ”が展開された時代だ。しかし“戦さ”である限りは、少なからずそこで命を落とす者が出ることは避けられない。時代劇などでは、華々しい合戦場面やその直後の戦死した兵士・馬の姿を映すことはあっても、そのさ
幕末に活躍した人物については、その評価が分かれることも珍しくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」の評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動もある場合などがそうだ。たとえば、幕末尊王攘夷の志士として一般
平安京を開いたことでも有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟に、一回りほど齢の違う早良親王(さわら/750-785年)という方がいた。共に父は、第49代・光仁天皇(709-782年)だ。天皇家は特別の存在だと思っている人でも、長幼の順の扱いは庶民階級とそんなに違わな
現在では「日本」と言っているこの国を、アマテラスの代々子孫が治めることの正当性は、神話の「天壌無窮の神勅」にあるとされている。その「天壌無窮」とは、日常生活ではあまり使わない言葉だが、平たく言えば「天地を永遠に」ほどの意味になり、これに続く「神勅」は「神
ペリー代将率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的には「幕末」(江戸幕府の末期)と呼ぶ。一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り政治的にも社会的にも大きな混乱を生じた時期だ。~
~「来世」を(素晴らしいものと)信じる者は(現世での)死を恐れない~なぜなら、「来世」とは「現世」の苦労や悩みから解放された、文句のつけようもなく素晴らしい場所である、とされているからだ。実は同様な概念を指す別の言葉もある。「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえ
それまで縁のなかった日本にキリスト教を最初に紹介した人物は宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)だが、ただし、その「布教活動」の中身が、現代日本人の感覚からしたら、ちょっとばかり曲者で、むしろ「布教後」の展望に重きを置いたものになっていたともい
室町八代将軍・足利義政(1436-1490年)の時代には、「さんま」という感覚を抱いていた人もあった。とは言っても、今姫隊員が頭に浮かべたであろう「秋の味覚のサンマ」や「TV司会者のさんま」ではない。文字通り「三人の悪魔」の意味であり、「三魔(さんま)」と書く。簡単
仲間内の雑談の折、話の流れからひょっこり話題が「お茶」に飛んで、一人がこんな発言を。~日本に「お茶」を伝えたのは、確か僧・栄西サンのはずだッ~見るからに自信満々の発言だ。突拍子もないタイミングだったこともあって一同の反応は芳しくない。そこで、発言者は子細
武家統制を目的とした「武家諸法度」(元和令/1615年)は、徳川幕府初代将軍・徳川家康の命により二代将軍・秀忠がまとめ上げ、それ以降以下のように数度の改訂?が加えられている。〇寛永令(1635年) 三代・家光 →参勤交代/大船の建造禁止〇寛文令(1663年) 四代・家
歴史に派手なデビューを見せたものの、その後については案外よく知られていない人物もいる。たとえば、「本能寺の変」(1582年)の後、織田家後継者を巡る関係者協議の折に登場した「三法師」もその一人だ。当初は、本能寺に倒れた織田信長(1534-1582年)の息子たちである次
「9,876,543,210」・・・例えばこれを漢数字で表記するなら、「九十八億七千六百五十四万三千二百十」となる。常日頃から見慣れ使い慣れているせいもあるのか、両方を書き並べ見ると、現代日本人にとっては「断然」とまでは言えないにしても、前者の方が分かりやすい。 そし
多数の人物やあるいは出来事の中から、傑出した三人(三つ)を選んで、「三〇〇」とか「三大✕✕」との名称で呼ぶことは珍しくない。たとえば人物なら、「三英傑」※1や「維新の三傑」※2がそうだし、出来事なら「江戸幕府の三大改革」※3もその法則?にバッチリ当てはまって
たとえば、日本文字で表記するなら「歩く/あるく/アルク」の音韻をアルファベットを使って「aruku」と記す方法を「ローマ字」と呼んでいる。こうしたいわゆる「ローマ字」表記は、古くは戦国時代にも存在したことが確認されているようだから、おそらくは日本語習得に懸命だ
江戸幕府第10代将軍・徳川家治(1737-1786年)の長男・家基(1762-1779年)には、徳川宗家の通字である「家」の字を賜りながら、将軍職には就けなかったために「幻の第11代将軍」とのニックネーム?もあるようだ。幼年の頃から聡明で文武両道に秀でた優秀な人物だったとされ
「藤原」姓は、中大兄皇子(後の第38第・天智天皇/626-672年)に協力し、後の国家改造を導くことになった中臣鎌足(614-669年)に下賜された。 通説ではこのように鎌足が「藤原氏」の始祖と説明されることが多いのだが、しかし、実際にはその鎌足の子である「藤原不比等」
~一隻のポルトガル船が種子島に漂着して、日本に鉄砲を伝えた~また、あるいは、~種子島に流れ着いた一隻の中国船に乗っていたポルトガル人が、 2丁の鉄砲を携えていた~いずれもいわゆる「鉄砲伝来」(1543年)についての説明文だが、漂着とされる船舶がポルトガル船だ
道端で見つけた千円札一枚を律義に交番へ届けたものの、折悪しく交番巡査が不在だったために、後日の出直し手続きが必要になって一層面倒なことになった。なんとなく不運が感じられるこんな出来事を、仲間の一人がひどく得意気に話してくれたことがあったのだが、その折に飛
公家であり政治家であった岩倉具視(1825-1883年)の名は、明治維新に大きな貢献を果たした人物、いわゆる「維新十傑」にも加えられている。いかにのんびり屋のヒメ隊員であっても、このことはさすがにご存知だろう。これは、幕末期において公家・政治家の立場を最大限に利用
何かとあれこれがあった秋篠宮の長女・眞子様のご結婚から数年が経ったが、現在のところなんとか収まっているように見受けられるところだ。この眞子様は、先代天皇の孫娘に当たる方だが、ところが、つい160年ほど以前の1862年には、孫娘どころか現役天皇の妹姫の「皇室婚約す
歴史の中には、まさに時代を切り取ったかのような言葉・セリフが登場することがあるものだ。例を挙げるなら、たとえば、この言葉などもそうだろう。~平家にあらずんば人にあらず~武士階級がようやく頭角を現し始めた平安時代に登場した言葉だ。ただ、このセリフを吐いた人