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さて「旗本八万騎」という言葉は、一般的にはこのように説明されている。~徳川将軍家の旗本の数を称したもの。 旗本は、実際には五千を少し 上回る程度でであったが、御家人と陪臣を含めれば、約八万騎であった~ (三省堂・大辞林)この程度の説明なら、まあ大概の人に
【熊本】倒幕に向けて動く!宮部鼎蔵&春蔵先生を称える「鼎春園」で心を動かされる in 御船
”「江戸幕府を倒し、新しい日本を作ろう!」そう意気込んで、熊本から立ち上がった宮部鼎蔵&春蔵兄弟。彼らのふるさとで、クールで熱いものを感じた。” おごめ~ん、…
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう) 其の壱 〜福岡県太宰府市〜
福岡県で有名な神社といえばやはりここ、学業の神様・菅原道真公を祀る太宰府天満宮!境内の規模もそうですが、参道の賑わいも大したもの。それだけ、多くの方に篤く信仰されてきた神社であることが伺えます。また明治維新の策源地もあり、見どころ盛りだくさん!
幕末を動かした長州藩と藩士たち 楽しい日本史 -近代国家への道-
幕末の歴史は長州藩抜きには語ることができない。長州藩士の吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎といった幕末の志士が歴史を
公武合体 開国派と攘夷派で揺れる日本 楽しい日本史 -近代国家への道-
桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕府は復権のために朝廷との絆をふかめようと「公武合体」政策を行う。
ペリー来航と幕府の対応 日本への影響とは 楽しい日本史 -近代国家への道-
4艘の蒸気船を率いて日本に開国を迫ってきたアメリカ東インド艦隊の司令官・ペリーそのペリーについて「そもそも何を
さて、お話は幕末だ。その頃、現在の岐阜県海津市に当たる地域に「美濃国・高須藩」という3万石ほどの小さな藩があった。その藩主・松平義建(よしたつ/1800-1862年)が儲けた男子はなんと10人(つまり長男から十男まで)。ひょっとしたら、ヒメ隊員もその名を耳にしたこと
尊王攘夷の志士たちも集った「山田家本屋」 今回は、山口県周南市湯野にある「山田家本屋」をお届けします。 ここは温泉も湧く地域であり、山田家本屋の入り口には「足湯」もあります。 地元の方達が、足湯につ
津田左右吉「明治維新の研究」、討幕の密勅は”真偽是非を転倒したもの”
津田左右吉は、「明治維新の研究」において、1861年(文久元年)頃からの、薩長の策謀と討幕に至る経過をいろいろな角度から明らかにしていますが、それによると、薩長のかかげた「尊王」も、「攘夷」も、幕府を倒すための手段であり、口実であったことがよくわかります。またそれは、”彼らの幕府に対する憎悪の念から生れ出た”ものだとも指摘していますが、薩長が関が原の怨念を引きずっていたという話もあり、頷けます。だから、彼らが”幕府及びケイキ(徳川慶喜)を烈(ハゲ)しく非難し”、”そのいうところは甚だしく事実に背いたものであり、空漠たる方言に過ぎないものであったが、語調は極めて矯激であった。”ということなのだと思います。また、1862年(文久2年)の7月頃から、京都を中心に、尊王攘夷急進派による「テロの嵐」が吹き荒れたというこ...津田左右吉「明治維新の研究」、討幕の密勅は”真偽是非を転倒したもの”
【木戸孝允】 みなさんおはようございます。今日は維新三傑最後の一人、長州の木戸孝允について書いてみようと思います。 <木戸孝允> 幕末時代までは、桂小五郎と名乗っており、あだ名は逃げの小五郎。藩医の家に生まれるも7歳で桂家へ養子に入る。吉田松陰の弟子で、松下村塾に学び、高杉...