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内助の功 出来ればご声援お願いいたします m(__ __)m 今年の一般参賀 すこし前に着物の着方について やんやと中傷記事があった。内助の功で 尊い処へ伺候した 身分のある人の奥様に対して着方がとか、髪のセットがとか 批判があった。訪問着(5つ紋) 色留袖が決まりのようです・帯も 帯揚 帯締めもきちんとあってる。それで、裾が広い着方だとか おはしょおいがグズグズだ...
7 山県有朋 (1838 ~ 1922)3uwl1b~権力にこだわって国民と皇室を敵に回した日本軍閥の祖~ 「人間は権力から離れてはならない。 それ故、自分も権力の維持に力を尽くしている」明治・大正を代表する政治家の一人、山県有朋(やまがたありとも) の言葉です。2度にわたって総理大臣を経験し、その後も元老として、大きな政治的権力をもち続けた人物です。しかし、彼の葬式は「国葬」 であったにもかかわらず、...
~なぜ学級委員バッジがあったのか~ 直径2センチくらいの桜の形をした金属製のバッジでした。僕が在学していた名古屋市立高山小学校(仮名)では、各学級の学級委員男女に、日ごろから常にバッジをつけさせていました。学級委員とは、各クラスの選挙で選ばれた代表です。学校によっては級長、代議員など、さまざまな呼び方がありました。僕は小学校6年間の在学のうち、5回もこの学級委員バッジをつけていたのです。 これって...
5 伊藤博文 (1841 ~ 1909)3uwl1b~行政の頂点で国政を動かし海外で暗殺された長州の貧農~ 日本初の内閣総理大臣です。過去の千円札の肖像にもなった人物で、明治を代表する日本を動かした大物政治家としてあまりにも有名です。陽気で開放的な性格で人気が高く、明治天皇からも信頼されていました。お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことがその理由でした。アジア最初の立憲議会政治家として、現在...
津田左右吉「明治維新の研究」、討幕の密勅は”真偽是非を転倒したもの”
津田左右吉は、「明治維新の研究」において、1861年(文久元年)頃からの、薩長の策謀と討幕に至る経過をいろいろな角度から明らかにしていますが、それによると、薩長のかかげた「尊王」も、「攘夷」も、幕府を倒すための手段であり、口実であったことがよくわかります。またそれは、”彼らの幕府に対する憎悪の念から生れ出た”ものだとも指摘していますが、薩長が関が原の怨念を引きずっていたという話もあり、頷けます。だから、彼らが”幕府及びケイキ(徳川慶喜)を烈(ハゲ)しく非難し”、”そのいうところは甚だしく事実に背いたものであり、空漠たる方言に過ぎないものであったが、語調は極めて矯激であった。”ということなのだと思います。また、1862年(文久2年)の7月頃から、京都を中心に、尊王攘夷急進派による「テロの嵐」が吹き荒れたというこ...津田左右吉「明治維新の研究」、討幕の密勅は”真偽是非を転倒したもの”