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2013年現在放送中のNHKの大河ドラマ、「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。 本書は、「血脈」、特に、「自称」を重視しているため、本来、本項の題名…
新田氏の項で、述べた様に、新田義兼は、新田本宗家の家督を継承したが、嫡子の義房に先立たれて、嫡孫の政義に家督を譲った。 新田義兼の娘、即ち、新田政義の叔母で…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
「鑁阿寺」800年前の寺院建築が武家屋敷跡に残る!【栃木・足利市】
利氏発祥の地、栃木県足利市。鎌倉時代、この地の足利氏宅に創設された寺院が鑁阿寺。武家屋敷の名残が残る敷地内には国宝指定された本堂が残ります。歴史を感じられ、見どころも多い古刹を紹介。
一色義定は、弓木城にて、織田軍に抗戦し、細川藤孝は、苦戦を強いられた。 そのため、織田信長の意向もあり、細川藤孝は、明智光秀の助言を受け、政略結婚により、和…
1487年(長享元年)、一色義尚の次男、義秀は、丹後国守護となる。 1493年(明応二年)、丹後において、伊賀次郎左衛門が叛乱を起こし、上洛中の父の義尚も、…
一色義直は、丹後国守護及び、伊勢半国守護となり、更に、三河国渥美郡・若狭国小浜を所領に得たが、若狭国、三河国の守護に任じられず、一色氏は、以降、両国の守護職…
1408年(応永十五年)、三河国守護の一色満範に対し、三河国守護代の小笠原明鎮の弟、小笠原長正が、三河国幡豆郡にて、一色軍と交戦し、12月26日、一族郎党と…
九州探題府の侍所、小俣氏義は、観応の擾乱では、足利尊氏に背き、直義に就くため、探題内部で、工作を行った。 尊氏の実子で、直義の養子の足利直冬は、直義の味方を…
足利氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 義国の次男、源義康は、上野国の足利荘を相伝すると、足利義康を称した。 源姓足利氏の誕生である。 義…
板倉宗家は、板倉勝重を初代とし、重宗、重郷、重常と嫡子相続が、継承されていたが、重常には、息子がいなかったため、初代の板倉勝重の三男、重大の息子、重冬を養子…
1609年(慶長十四年)の猪熊事件では、板倉勝重は、京都所司代として、後陽成天皇と徳川家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。 大坂の陣の発端…
前項までに述べた様に、足利一族の名門、渋川氏は、室町幕府の草創期、肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津等の守護職に任ぜられ、九州探題職を世襲した。 渋川氏の一…
渋川義鏡の失脚後、息子、または、養子と言われる、義尭が、関東の渋川氏を継承した。 渋川義尭は、武蔵国蕨郷の蕨城を拠点とする、関東の一勢力に転落した。 義尭は…
渋川義季は、1423年(応永三十年)、少弐満貞に博多を攻められ、敗北し、肥前国山浦城に逃れた。 その敗北を契機に九州探題の勢力は、衰退を始めた。 1425年…
足利氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 義国の次男、源義康は、上野国の足利荘を相伝すると、足利義康を称した。 源姓足利氏の誕生である。 義…
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡ 栃木県足利市にある「吉祥寺」のご朱印です。住職のお嬢様?奥様?若奥様?に書いていただきました。ご住職もいらっしゃったのですが、袈…
浄光明寺(じょうこうみょうじ)冷泉為相(れいぜいためすけ)鎌倉時代の歌人の墓があります
北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝えられています。 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があり、さらに裏手の狭い階段を上った先の山上には、歌人藤原定家(ふじわらていか)の孫、冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓があります。 不動堂は正面上に懸かる額の裏に延享二年 (1745年) とあるそうで、この頃の建立と推定されます。 冷泉為相(れいぜいためすけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人で、藤原為家の晩年の子、母は「十六夜日記」作者として知られる阿仏尼だそうです。 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 神奈川県鎌倉市扇ガ谷JR横須賀線、鎌倉駅西口 2022鎌倉散歩 Youtubeライブラリ https://www.yo..
〈武家の王〉足利氏同じ人間だというのに、なぜか上下関係が発生している。それは役職が上だからか、お金をもらう相手だからなのか、年が上なのか、いろいろ理由はある。しかし、私達が常日頃行っているマナーもまた上下関係を形成する一助となっているのでは