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数年前のことですが、生前に譲位された天皇が「上皇」となられた際にメディアは こんな案内をしました。 ~天皇が生前退位するのは約200年ぶりのこと~ そうかもしれんなぁ。 現上皇の先代である第124代・昭和天皇(1901-1989年)も、またその先代の 第123代・大正天皇...
#424 TVアニメ『まんが日本史「源氏の滅亡-北条政子と承久の乱』の感想
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の頼朝死後の鎌倉幕府の権力確立の承久の乱についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た…
【武都】章「参考文献」弐十弐・承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱
22.【承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱】 評価:75点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2018年 『承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱…
京都東山区の六波羅蜜寺には、承久の乱後に、鎌倉幕府が設けた「六波羅探題府跡」の碑があります。それまでの京都守護を改組し、京都六波羅の北と南に設置した出先機関で、初代探題は、北条時房と北条泰時。承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配されましたが、それまで幕府の支配下になかった荘園であったため、これらの荘園にも地頭が置かれることになりま...
唐突な運びですが、ここで二人の天皇に並んでいただきました。 ○第81代・ 安徳天皇(1178-1185年)/在位:1180年~1185年 ○第82代・後鳥羽天皇(1180-1239年)/在位:1183年~1198年 先代天皇と、その後継天皇ということになりますが、よく見ると...
治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡です。
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最終回見ましたかぁ〜義時さんの最後、凄かったね〜こちらが最初の感想だね⬇️『『鎌倉殿の13人』悲しい最後』大河ドラマ…
JR横須賀線「逗子駅東口」から徒歩3分、京急「逗子・葉山駅北口」から徒歩2分のところにある亀岡八幡宮古くは単に「八幡宮」と称せられましたが、昭和28年10月、宗教法人亀岡八幡神社として登録され神社本庁に所属しましたが、古くからの慣習で「亀岡八幡宮」と呼称されています。 亀岡の名称については、当社の境内は、公の地籍上「高畠」という小字になっており、なだらかな岡で、亀の背中のようであったというところから、鎌...
東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ…です。
いよいよ今夜、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が最終回です。あ〜まだまだ見たい気もするなぁ〜主人公、北条義時はどんな最後になるのか?『吾妻鏡』による義時の最後は元…
城南宮から徒歩数分のところに鳥羽離宮跡公園があります。伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯は、平安時代後期に白河・鳥羽上皇が造営の離宮があり院政を行ったところです。院政のシンボルである鳥羽離宮は、白河天皇の御所として建てられましたが、すべてが完成したのは、鳥羽上皇の時代になってからのことで、鳥羽殿とも呼ばれました。平清盛による後白河法皇の幽閉場所や、後鳥羽上皇の拠点の一つとしても用いられました。後鳥羽上皇...
「即刻京に出撃すべきである」"鎌倉殿の13人"大江広元・三善康信ゆかりの鎌倉史跡へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、「即刻京に出撃すべきである」"鎌倉殿の13人"大江広元・三善康信ゆかりの鎌倉史跡へ…です。
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜第47話の感想ぉ〜2弾目だね、1弾目はこちら⬇️『感動した!尼将軍の大演説!』昨日の大河ドラマ「鎌倉殿の…
『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦を挑もうと院御所に駆けつけましたが、後鳥羽上皇は、彼らを見捨てて、門前払いにしました。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨。後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じました。上皇に見捨てられ、失望した三人は洛南の東寺に立て籠もり...
承久3年(1221年)6月9日、後鳥羽上皇は、坂本から京に戻り、西園寺公経を斬るのを止めて、翌10日、高陽院に戻り、西園寺父子を赦免しました。丸太町の高陽院邸跡京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣、宇治川で幕府軍を防ぐことに決めました。藤原秀康、三浦胤義らの武将や源有雅、一条信能らの公家も出陣しました。6月13日、京方と北条泰時率いる幕府軍は宇治川で衝突。この時期は、梅雨時だったため、水かさが増しており、...
【鎌倉殿の13人】迫力と愛のある小池栄子版の政子、記憶に長く残るだろう
待ってた政子の大演説、痺れました NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のラスト前47回「ある朝敵、ある演説」が12/11に放送された。ようやく用事を終えての帰りのバス移動中、NHK+をスマホで立ち上げたらちょうど政子の演説が始まる場面に間に合い、「おおお」と思わず声が出た。イヤホンを頼りに終わりまでを車中で揺られながら見て、帰宅してシャワー直行、そして録画を頭から見直した。 この大河ドラマを1年かけてここまで見てきて、最後に何が楽しみだったかと言えば、私の中では間違いなくこの北条政子の承久の変での演説だ。「草燃える」の岩下志麻版の政子のイメージも記憶に残っているが、小池栄子の政子の演説も肝の据わ…
承久3年5月22日、北条泰時がわずか18騎で先発すると、諸国の武士達が集まり、東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時(ともとき)・結城朝広(ゆうきともひろ)らを大将軍として、三道から攻め上りました。27日、北条義時は、義時討伐の院宣を持った院の使者・推松丸に宣旨の返書を持たせました。28日、泰時一行は遠江国に入りました。連日の雨により、洪水が発生しているということで、船で渡ること...
岐阜県美濃加茂市のJR美濃太田で下車し、大井戸の戦いの史跡巡りをして来ました。駅から徒歩で、中山道を目指します。中山道太田宿は、中山道51番目の宿場で、中山道の三大難所の一つに数えられた「太田の渡し」があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあったところから、大いに栄えました。皇女和宮下向のおりに新築された「旧太田本陣門」、国の重要文化財に指定されている「旧太田脇本陣林家住宅」、明治26年創業の蔵元「御代櫻...
昨日の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見ましたかぁ?おっ!もう感想かい?いつもより早いなぁ感想というか、政子の演説があまりにも見事で…政子さん、カッコよかったぁ〜…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜ラストが近いねーってことで第46話の感想ぉ〜!実朝も公暁もいなくなり、源氏の血筋が途絶えた…と思ったら、…
承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は城南宮で催す「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集めました。北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まり、その中には有力御家人の尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・の三浦胤義(三浦義村の弟)も含まれていました。幕府を支持した西園寺公経を捕らえて幽閉、翌15日、京都守護・伊賀光季(いがみつすえ)を討ち、後鳥羽上皇は三浦氏、小山氏、武田...
"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」です。
承久の乱後、北条義時を筆頭とする、鎌倉の武家政権は、後鳥羽上皇の挙兵に参加した、畿内・西国の御家人達の守護職を次々と解任すると、新たに東国の有力御家人を任命…
北条義時、大江広元等の鎌倉の首脳陣は、承久の乱の勝利の直後、既に、三上皇の配流を決定していた。 後高倉法皇及び、後堀河天皇が、最初に行ったのは、後鳥羽上皇及…
1221年(承久三年)6月16日、北条義時が、京から鎌倉に派遣した、戦勝報告の飛脚は、6月23日の午前2時頃、鎌倉に到着した。 北条義時は、「今は、義時、何…
1221年(承久三年)6月15日、後鳥羽上皇に門前払いされた、京方の勇猛な武士達は、最後の戦いに挑んだ。 既に、承久の乱は、決着しており、武士としての最後の…
1221年(承久三年)6月14日、北条泰時は、宇治川の渡河の苦戦状況を見ると、長男の北条時氏を招き寄せ、速やかに川を渡って、敵の陣中に入れと命じた。 時氏は…
白熱!後鳥羽vs義時、熾烈!その後の北条氏…歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。今日の夢中は、白熱!後鳥羽vs義時、熾烈!その後の北条氏…歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか?
1221年(承久三年)6月13日、北条時房は、宇治川に攻め寄せていた。 京方に橋の板を引き落とされ、徒立ちの達者の悪僧達が、橋桁の上で、大太刀、長刀を自在に…
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑨後鳥羽上皇の御幸と還御
山田重忠は、摩免戸を退却後、三百余騎を率いて、東海道・東山道の合流地点である、杭瀬河に向かった。 それに対し、武蔵七党の児玉党、三千騎が、攻め寄せた。 山田…
山田重忠は、清和源氏の祖、源経基の次男、源満政の後裔である。 重忠の父の重満は、墨俣川の戦いで、源行家の軍勢に参加して、戦死した。 山田重忠は、その後、源義…
1221年(承久三年)5月22日、北条泰時の決死の出撃の同日中に、北条時房、足利義氏、三浦義村、義村の息子の泰村が、出撃した。 また、「北陸道の大将軍」とし…
1221年(承久三年)5月21日、源義朝の娘の坊門姫、即ち、頼朝の姉妹を祖母とする、一条頼氏が、鎌倉に下向し、緊迫する、京の情勢を伝えた。 武家政権の首脳陣…
1221年(承久三年)5月19日、北条政子の演説により、東国の御家人達は、結束した。そ の後、北条義時の邸宅に、北条泰時、北条時房、大江広元、安達景盛等が、…
こんにちは、lemonです昨日、一宮で開催された鎌倉殿のスペシャルトークショーの会場へ行ってきましたゲストはあの!義時と泰時ちなみに、落選したので参加はしてま…
歴史探偵:「後鳥羽上皇と承久の乱」 弓術、蹴鞠でも頂点 “最強の上皇”の秘密を徹底調査 MA
新年一般参賀、事前申込制で3年ぶり実施へ 参賀者枠は計約9千人 - 朝日新聞デジタル 朝日新聞デジタル 民謡踊る上皇ご夫妻、盛り上げた天皇…
1221年(承久三年)5月19日、東国の御家人達が、北条政子の邸宅に参集した。 押松を捕らえたのは、午後六時過ぎのため、夜半であったと考えられる。 北条義時…
1221年(承久三年)5月16日、後鳥羽上皇は、院の下部、押松に院宣を託し、鎌倉へと向かわせた。 しかし、その前日の5月15日、京都守護の伊賀光季が、討伐前…
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」①日本史上における承久の乱
承久の乱は、源平合戦、南北朝の動乱、戦国時代の合戦に比べれば、有名とは言い難い。 しかし、承久の乱こそは、日本史上、唯一無二の「革命」であった。 日本史上の…
前述の通り、1221年(承久三年)5月15日、後鳥羽上皇は、京都守護の伊賀光季の宿所を襲撃した。 同時に、後鳥羽上皇は、北条義時追討の官宣旨を発した。 官宣…
丸太町通堀川東入ルにあるマンションの一角に「高陽院邸跡」があります。高陽院(かやのいん)は、平安京にあった里内裏のひとつで、西洞院大路の西・大炊御門大路の北に位置する、南北4町の大規模な邸宅でした。鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が譲位した後の院御所となり、承久の乱につながる謀議を行ったところでした。承久の乱後の貞応2年(1223年)放火により焼亡、以後再建されませんでした。当初は桓武天皇の第七皇子・賀陽親王の...
令和4年10月7日(金) 【旧 九月一二日 友引】・秋分・水始涸(みずはじめてかるる)ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり ~順徳院 『続後撰和歌集』 巻18-1205 雑歌下大宮の古びて荒れ果てた軒端の忍ぶ草ではないが、いくら偲んでもなお私の思いは尽くせ
■観光ボランティアさんの案内で『承久の乱と北条義時の足跡』を辿る(神奈川県鎌倉市)
目次 1 ボランティアさんの引率で鎌倉探訪 2 承久の乱と北条義時の足跡を辿る 3 まずは鶴岡八幡宮へ 4 周辺には鎌倉幕府に関わる遺構や地名が残る 5 北条義時ゆかりの『覚苑寺』 1 ボランティアさんの引率で鎌倉探訪 (写真:鶴岡八幡宮)せっかく鎌倉へ
↑鶴岡八幡宮訪問記の最後は「今宮(新宮)」を紹介します。今宮に関して鶴岡八幡宮公式サイトには、以下の記載がありました。境内の最奥に鎮座する今宮は、後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇をお祀りしています。現在の御社殿は令和3年に竣工した、当宮で最も新しい御社殿になります。鶴岡八幡宮に、承久の乱で幕府に敗れて隠岐に配流となった後鳥羽上皇と、その第一、第三皇子が祀られたお宮があるとは、全く知りませんでした(...
久しぶりに保木薬師堂(→神奈川県横浜市青葉区美しが丘西2丁目)を訪問しました。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』石川村の条には「薬師堂 除地、四畝六歩、村の西にあり、東向にて四間四方の堂なり、薬師仏は坐像にて長二尺ばかり、萬蔵院持。」「萬蔵院 年貢地、村の西にあり、本山派の修験職なり。」と記されています。境内の案内板によりますと、江戸時代中期の1783(天明3)年に清沢村(→神奈川県...