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■松平氏八代の発祥の地『松平郷』の『松平東照宮』へ(愛知県豊田市)
目次 1 徳川家康のご先祖様発祥の地『松平郷』 2 松平家発祥のきっかけとなった『見初めの井戸』 3 鯉が泳ぐ松平東照宮の歴史ある水濠と石垣 4 初詣の人出で賑わう東照宮境内 5 コンパクトな中に歴史を感じさせる本堂 1 徳川家康のご先祖様発祥の地『松
松平東照宮前の歩道脇に、一本の「笠掛けかえで」の木があります。このかえでは、その昔、やがてこの地の当主となる「徳阿弥(とくあみ)」が高月院を訪ねてこの地を訪れ、このかえでの木に笠を掛けてひと休みしていました。そこへ当時の当主在原家の次女「水姫(すいひめ)」が、井戸の水を汲み、アヤメの花を一輪添えて徳阿弥に差し出したのが二人の出会いでした。やがて二人は結ばれ、徳阿弥陀はこの地の初代松平家当主「松平親...
今年の4月、松平郷を訪ねました。愛知県豊田市松平町の松平郷は、松平氏・徳川氏の発祥地で、一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されています。松平発祥の地松平東照宮に現存する水濠や石垣は、松平太郎左衛門家九代尚栄によって関ケ原の合戦のあと築かれました。はじめは、八幡宮と称して松平家の屋敷神でしたが、元和5年(1619)家康を合祀し、昭和40年(1965)親氏公を合祀しました。 松平太郎左衛門家は、...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 13.徳川家康・弐
竹千代は、父の松平広忠の死の際、駿府にいたと思われる。 本来、竹千代の継承すべき、岡崎城は、今川義元の派遣した、城代によって、支配された。 竹千代が、父の松…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 13.徳川家康・壱
徳川家康は、1542年(天文十一年)、松平広忠の嫡男として、岡崎城において、生まれた。 母は、水野忠政の娘、於大の方、家康の幼名は、竹千代である。 無論、家…
徳川家康の父である、松平広忠は、1526年(大永六年)、三河国の岡崎城主、松平清康の息子に生まれた。 当時、松平清康は、十六歳であった。 松平清康には、庶子…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 09.松平清康・参
松平清康は、宇利城攻め以降、桜井松平家の当主で、叔父の松平信定と不仲になったと言われている。 その理由は、宇利城攻略戦において、大手門を攻める、福釜松平家の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 09.松平清康・弐
松平清康は、十四歳~十六歳の間に、足助城の鈴木重政及び、岡崎松平家の西郷信貞に勝利した、軍事的天才であった。 その年齢での軍事的才能の発揮ぶりは、類例を見な…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 08.松平清康・壱
前述の通り、松平長親は、1508年(永正五年)に隠居し、長男の信忠に家督を譲った。 信忠は、永正三河の乱に参戦しているが、確実な戦功及び、軍事的采配の記録は…
松平信光の死後、1508年(永正五年)、今川氏親の名代、伊勢宗瑞の率いる、今川軍が、大樹寺を本陣とし、岩津城を攻めた。 永正三河の乱である。 伊勢宗瑞は、今…
松平信光の死後、家督を継いだのは、三男の親忠であった。 松平親忠は、松平氏の宗家を継いだとされるが、実際には、信光の嫡子は、長男の守家と考えられる。 松平親…
徳川家康の先祖、松平氏の当主として、実在が、確認できるのは、三代目当主とされる、松平信光の代からである。 前述の通り、信光は、親氏の息子、または、泰親の息子…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 04.松平郷松平氏
後世の徳川氏の主張では、松平郷の領主となった、松平親氏は、郷敷城を築き、嫡子の泰親と協力して、「中山七名」と呼ばれる、近隣の領主たちを滅ぼすと、勢力を拡大し…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
評価:60点/作者:平野明夫/ジャンル:歴史/出版:2010年 『三河 松平一族~徳川将軍家のルーツ』は、江戸幕府を開き、二百落十年の太平の世を日本にもた…
今回は大給松平の地 大給城【三河国】を紹介します。 場所は現在の豊田市大内町にあって、現在においてもかなり山間に入った場所であります。 大給松平家の初代となった乗元から5代に渡りここに居城した