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「武者の世の始まり」とされる、保元の乱は、日本の権力闘争の構造を根本的に変えた。 藤原忠実、頼長と藤原忠通の政治的暗闘は、27年間続いたが、保元の乱の武力衝…
藤原師通の長男、藤原忠実は、1078年(承暦二年)に生まれ、母は、藤原全子である。 前述の通り、藤原師通は、全子と離縁し、藤原信子と再婚したため、忠実は、母…
藤原師実の長男、藤原師通は、1062年(康平六年)に産まれ、1076年(承保三年)に、権大納言、藤原俊家の娘、全子を正室に迎える。 藤原俊家は、藤原道長の次…
花冷え 出来ればご声援お願いいたします m(__ __)m 桜はどこで??桜咲く夜中にご訪問をして 明け方シャワーを浴びて牡丹餅を作り 桜を見に行こうといたら、また冬に逆戻り午後になっても5度とかで、、氷雨の様な雨が降りました。お花見は中止になりました。 お茶は甘い牡丹餅 あんこを替えてみました。 後はもっと成形を上手に...
藤原頼通には、六人の息子、通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、師実がいたが、頼通は、正室の隆姫女王を憚り、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱を養子に出した。 長男の藤原通…
後朱雀天皇の即位後、1039年(長暦三年)8月に、藤原頼通の養女、後朱雀天皇の中宮の藤原嫄子が死去し、後宮は、皇后の禎子内親王(三条天皇皇女)、唯一の状況と…
1061年(康平四年)、70歳の藤原頼通は、太政大臣に任ぜられ、位人臣を極めた。 翌年の1062年(康平五年)、頼通は、父の道長の例に倣い、太政大臣をわずか…
しかし、藤原頼通は、「一家三后」を実現した、父の藤原道長と異なり、子女は、長女の藤原實子のみであった。 なお、頼通には、六人の息子がおり、娘が、一人のみは、…
前述の通り、1016年(長和五年)、藤原道長の外孫、後一条天皇が、即位すると、道長は、摂政に就任した。 翌年の1017年(長和五年)藤原道長の長男、頼通は、…
藤原道長は、三条天皇の治世に入ると、兄の藤原道隆と同じことを始めた。 藤原道長は、自身の息子達を強引に引き立てるようになったのである。 長男の頼通は、20歳…
藤原道長は、996年(長徳二年)、31歳の年に、当時の一上であった、左大臣に任官し、以降、1017年(長和六年)、51歳の年に、摂政を辞任するまでの20年間、…
1020年(寛仁四年)3月、御堂の落慶法要が行われ、藤原道長の娘達の三后、太皇太后の彰子、皇太后の妍子、皇后の威子の行啓を伴う、盛大な儀式であった。 2年後…
しかし、996年(長徳二年)正月、藤原隆家は、従者の武士を連れて、花山法皇の一行に矢を射かけて、法皇の衣の袖を弓で射抜く、事件を起こす。 その事件を藤原道長…
実は、藤原氏の歴史において、天皇の外祖父が、摂関になったのは、藤原良房、藤原兼家、そして、藤原道長が、三人目である。 歴代の藤原氏の摂関は、基本的に天皇の外…
その頃、藤原道長との関係改善を図るため、三条天皇は、第二皇女の禔子内親王の頼通への降嫁の打診がある。 道長は、一旦同意するが、道長の長男の藤原頼通は、妻の隆…
しかし、藤原娍子の立后の日及び、藤原妍子の参内の日が、同じ、4月27日に重なった。 当日は、藤原妍子の参内の儀を終えた後に、娍子の立后、即ち、本宮の儀が、開…
1011年(寛弘八年)5月下旬、一条天皇は、急病に倒れ、5月27日には、道長に対して、譲位の準備を指示する。 譲位に先立って、一条天皇は、厚く信頼する、権中…
藤原隆家は、996年(長徳二年)2月7日、従者の武士を連れて、花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で、射抜いた。 花山法皇は、出家の身で、女通いが露見する…
藤原道長は、991年(正暦二年)、権大納言、992年(正暦三年)、従二位に叙任される。 しかし、兄の藤原道隆は、嫡男の藤原伊周を後継者に擬して、強引に昇進さ…
藤原道長が、源倫子と結婚した、理由は、諸説あって、定かではない。 藤原兼家の次男、庶子の藤原道綱は、源雅信の娘と結婚していたため、藤原兼家と源雅信の関係は、…
藤原道長は、980年(天元三年)、従五位下に初叙して、983年(天元六年)に侍従に、984年(永観二年)2月、右兵衛権佐に任ぜられる。 同年6月には、円融天…
藤原兼家は、寛和の変によって、外孫の東宮・懐仁親王が、践祚し、一条天皇となった。 兼家は、一条天皇の外戚となり、摂政及び、藤原氏長者となった。 天皇の外祖…
藤原師輔の三男、藤原兼家は、929年(延長七年)、兄の藤原兼通、弟の藤原忠君、妹の藤原安子、藤原登子、藤原怤子の同母兄弟、姉妹の息子に生まれた。 藤原安子は…
そのため、藤原頼忠こそが、藤原北家の嫡流であり、一時は、藤原氏長者となっていた。 しかし、藤原頼忠は、冷泉天皇及び、円融天皇の外戚になることができず、北家の…
藤原兼通は、関白就任後、不仲の同母弟、兼家の昇進を完全に止めると、異母弟の為光を筆頭大納言として、兼家の上位に就けている。 更に、藤原兼家が、冷泉上皇の女御…
同年、藤原兼通は、7年ぶりに昇叙されて、従四位上に叙せられるが、弟の兼家は、一年の間に三度の昇叙を受けて、一挙に従三位に昇っており、位階面で、先を越されてし…
藤原師尹は、950年(天暦四年)、兄の右大臣、藤原師輔の外孫である、憲平親王、即ち、後の冷泉天皇が、生後間もなく、立太子すると、その春宮大夫を兼ねた。 また…
藤原基経の次男、藤原仲平は、875年(貞観十七年)、兄の時平と同じく、人康親王女を母に生まれた。 時平と同様に殿上童を勤め、正五位下に叙された後、890年(…
大阪府茨木市と高槻市の境の #阿武山。1930年代、京都大学地震観測所近くの小山で古墳石室が発見されました。約50年後、事態が進展。被葬者が #藤原鎌足 公であると強く推定される物証が集まりました。この時の経緯を含め過去記事を一本の動画にまとめました 目次 youtube動画 動画の説明 参考資料(過去記事) 本文 youtube動画 https://youtu.be/7pT6YXHY_xo youtu.be 動画の説明 大阪府高槻市と茨木市の市境の阿武山(あぶやま) 茨木市を流れる安威川(あいかわ)は阿武山から流れてきます。 1930年代、京都大学・阿武山地震観測所の初代所長、志田博士が地震…
飛鳥奈良・平安が舞台の時代小説を紹介 日本史の復習にもおすすめ
戦国武将や江戸の将軍などは、よくメディアやビジネス書にも登場しますが、日常生活で飛鳥や奈良、平安時代の人物やできごとに触れる機会は、ほとんどないでしょう。 確かに学校で習ったはずだけど、すっかり忘れてしまった人も多いかもしれません。この時代
【奈良・興福寺】宝物に 往時をしのぶ 南都の雄|60歳からの御朱印めぐり〔091/541〕
興福寺は藤原氏の氏寺として発展し、強大な勢力を誇った寺院。国宝指定の建造物・寺宝を数多く有します。「中金堂」の御朱印をいただきました。
光孝天皇から、宇多天皇への代替わりの時期に問題となったのは、光孝天皇と宇多天皇を擁立し、長く、執政の任にあった、太政大臣の藤原基経の権限の確認である。 宇多…
藤原基経は、836年(承和三年)、藤原良房の兄、長良の三男に産まれる。 正確な時期は、不明であるが、息子がいなかった、叔父の良房に見込まれると、その養嗣子と…
承和の変により、太政官の上席は、老齢の左大臣・藤原緒嗣と大納言・橘氏公、そして、嵯峨天皇の皇子の若い、右大臣の源常のみになり、良房は、朝廷での影響力を一挙に…
嵯峨天皇の以降の天皇は、度々、皇族を源氏として、臣籍に下したため、各々の祖とする、天皇毎に集団を形成し、氏爵を受けるようになった。 その集団は、年号により、…
嵯峨天皇の以降の天皇は、度々、皇族を源氏として、臣籍に下したため、各々の祖とする、天皇毎に集団を形成し、氏爵を受けるようになった。 その集団は、年号により、…
同年、応天門の変が、発生し、伴善男は、流罪に処され、藤原良相及び、伴善男の太政官領導体制は、完全に崩壊した。 応天門の変後、藤原良相は、失脚しなかったが、政…
藤原冬嗣の長男、長良は、淳和天皇の治世の824年(天長元年)、従五位下に叙爵した。 当時、長良は、春宮の正良親王の信頼が、篤く、常に近侍していた。 833年…
藤原葛野麻呂は、藤原冬嗣と同様に、藤原北家の出身で、藤原小黒麻呂の長男であった。 藤原小黒麻呂は、北家の祖、藤原房前の長男、藤原鳥養の次男で、鳥養が、早世し…
藤原冬嗣は、春宮時代からの側近として、嵯峨天皇の信頼が厚く、810年(大同五年)、平城宮に移った、平城上皇と尚侍・藤原薬子に対抗して、嵯峨天皇が、秘書機関の…
藤原内麻呂の長男、真夏は、803年(延暦二十二年)、従五位下・中衛権少将に叙任され、同年7月に春宮権亮、翌年、春宮亮を兼ねて、桓武天皇の治世末に同い年である…
506年(延暦弐五年)に、平城天皇が即位すると、藤原内麻呂は、同年4月に藤原雄友と同時に大納言に昇進する。 更に右大臣、神王の薨御を受けて、同年5月に、正三…
その後、藤原緒嗣は、失意と病気のために、度々、引退を申し出たが、許されなかった。 藤原緒嗣は、昇進において、冬嗣の後塵を拝し続けるが、817年(弘仁八年)、…
784年(延暦三年)、桓武天皇は、政務を委ねていた、藤原種継を中心として、山背国の乙訓郡長岡の地への遷都を建議した。 桓武天皇の命によって、藤原種継は、藤原…
大化改新の方程式(257) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その6
いよいよこのテーマの最終回。前回、「藤原」は天武13年の八色の姓直後の改姓で初めて登場した姓と考えるのが妥当とした。では、それが事実として、「藤原」が鎌足の死に際して賜姓されたというでっち上げは、なぜ必要だったのであろうか。前回の議論からまず思い浮かぶ理由が、「葛原」から「藤原」に戻すために必要な“前史”だった、ということだ。もし「藤原」が鎌足にまで遡る姓であったなら、「葛原」への再改姓を強要されるよ...
藤原宇合の九男、藤原蔵下麻呂は、藤原仲麻呂の乱が、勃発すると、孝謙上皇に味方し、前述の通り、近江国へ逃走した、仲麻呂軍を孝謙上皇軍が、追討した際に、藤原蔵下…
大化改新の方程式(256) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その5
引き続き、「藤原の姓はいつ誕生したか」の話。前回、藤原姓の起源については以下の2つの説がありうるとした。A: 『日本書紀』が描くとおり、中臣鎌足が死に際して賜姓され、それを中臣大嶋らが拝借した。B: 鎌足は中臣姓のままで死去し、藤原姓は八色の姓直後の改姓にて初めて創出された。そして、『日本書紀』の記事をもとに、この謎を解くヒントとして以下の2つをあげた。1.意美麻呂(臣麻呂)が改姓したのは、大嶋や不...
大化改新の方程式(255) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その4
前回に続き、「藤原の姓はいつ誕生したか」について語りたい。前回確認したことは・・・・天武13年(684年)の八色の姓では「中臣」として朝臣を賜姓されていることから、当時、藤原氏を称する者はひとりもいなかった・天武13年から14年にかけて、中臣から藤原への改姓を願い出て勅許を得たであろう・この改姓は中臣氏の氏上と思われる大嶋の主導のもとで行われたはず以上を踏まえれば、「藤原」誕生の謎解きは、2つの説に分かれ...
大化改新の方程式(254) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その3
前回、中臣鎌足がその死に際して「大織冠」を授与されたのは、長く「内臣」という枢要な地位にありながら、その出自ゆえに大臣職にあがれなかった鎌足に破格の冠位を与えることで、「内臣としての大臣」=「内大臣」に任じることが目的であったことを示した。それでは、「藤原」の賜姓は、同じタイミングでなされたのであろうか。『日本書紀』によれば、鎌足の死後、「藤原」姓が登場するのは、天武紀〔下〕冒頭で「藤原大臣」の娘...
藤原宇合は、式部卿を務めると共に、726年(神亀三年)、知造難波宮事に任ぜられると、後期難波宮造営の責任者を兼ねる。 729年(神亀六年)長屋王の変に際して…