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大化改新の方程式(257) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その6
いよいよこのテーマの最終回。前回、「藤原」は天武13年の八色の姓直後の改姓で初めて登場した姓と考えるのが妥当とした。では、それが事実として、「藤原」が鎌足の死に際して賜姓されたというでっち上げは、なぜ必要だったのであろうか。前回の議論からまず思い浮かぶ理由が、「葛原」から「藤原」に戻すために必要な“前史”だった、ということだ。もし「藤原」が鎌足にまで遡る姓であったなら、「葛原」への再改姓を強要されるよ...
大化改新の方程式(256) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その5
引き続き、「藤原の姓はいつ誕生したか」の話。前回、藤原姓の起源については以下の2つの説がありうるとした。A: 『日本書紀』が描くとおり、中臣鎌足が死に際して賜姓され、それを中臣大嶋らが拝借した。B: 鎌足は中臣姓のままで死去し、藤原姓は八色の姓直後の改姓にて初めて創出された。そして、『日本書紀』の記事をもとに、この謎を解くヒントとして以下の2つをあげた。1.意美麻呂(臣麻呂)が改姓したのは、大嶋や不...
大化改新の方程式(255) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その4
前回に続き、「藤原の姓はいつ誕生したか」について語りたい。前回確認したことは・・・・天武13年(684年)の八色の姓では「中臣」として朝臣を賜姓されていることから、当時、藤原氏を称する者はひとりもいなかった・天武13年から14年にかけて、中臣から藤原への改姓を願い出て勅許を得たであろう・この改姓は中臣氏の氏上と思われる大嶋の主導のもとで行われたはず以上を踏まえれば、「藤原」誕生の謎解きは、2つの説に分かれ...
大化改新の方程式(254) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その3
前回、中臣鎌足がその死に際して「大織冠」を授与されたのは、長く「内臣」という枢要な地位にありながら、その出自ゆえに大臣職にあがれなかった鎌足に破格の冠位を与えることで、「内臣としての大臣」=「内大臣」に任じることが目的であったことを示した。それでは、「藤原」の賜姓は、同じタイミングでなされたのであろうか。『日本書紀』によれば、鎌足の死後、「藤原」姓が登場するのは、天武紀〔下〕冒頭で「藤原大臣」の娘...