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いつもの通り、お話は古今東西いろいろに飛び散ることになりますが、 さてこんな説明にぶつかりました。 ~(革命とは、)被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、 政治・経済・社会体制を根本的に変革すること。 また漢語の「革命」の語源は「天命が改まる」の意味で、王朝交...
大化改新の方程式(261) “蘇我氏政権下”で帰朝者が重用されなかった真の理由
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾として、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。【ここでの課題】第一の争点である「“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝...
大化改新の方程式(260) 乙巳の変を解くカギは“女帝不可”の思想
テンプレートを変更してみました・・・仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』(以下、本書)において、自説と照らし合わせていきたい論点は以下の3つだ。・女帝不可の思想の影響・「韓政に因りて」の解釈・孝徳朝における鎌足のスタンスまず、最初の「女帝不可の思想の影響」についてみていこう。繰り返しになるが、「乙巳の変を解くカギは“女帝不可”の思想」というのが自説の根幹の1つだ。仁藤氏も「乙巳の変を解くカギ...
大化改新の方程式(259) 『東アジアからみた「大化改新」』を読む
仁藤敦史氏の主張に賛同するかどうかは別として、『東アジアからみた「大化改新」』は、厩戸皇子(聖徳太子)没後から孝徳期までの対外関係を唐および朝鮮3国の動向をからめて理解するには、一般書としては最適な本であると私は評価したい。amazonへのリンクそこで今回は、その概要を解説しておこう。仁藤氏が本書で提起した課題は、なぜ7世紀中葉になって、〔大化改新という〕政治改革が必要となったのかについては、「蘇我氏の専...
12/15(日)全国で唯一、蘇我入鹿をお祀りする神社へ行ってきた場所は、奈良県橿原市小綱町蘇我入鹿と言えば誰もが知ってる西暦645年 乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足に首をはねられた事は誰もが知ってる歴史上あまりにも有名なクーデター談山神社の多武峰縁起絵巻には入鹿の首が切断され、宙を舞っているのが描かれているなんともショッキング このおどろおどろしい出来事にそりゃいろんな話の尾ひれがついて、この地方にも数々...
【橿原市小綱町】蘇我入鹿がご祭神の『入鹿神社』境内には大日如来坐像も
今回からしばらく奈良県橿原市を散策した日の話になります。今回の一番の目的は大和三山でまだ登ったことのない耳成山に登ることだったんですが、その前に大和八木駅周辺の入鹿神社と人麿神社を訪れました。どちらも名前を聞いただけで誰がご祭神か分かると思います。まずは
中大兄皇子が、即座に「入鹿は、皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は、無言のまま、殿中へ退いた。 佐伯子麻呂と犬養網田は、蘇我入鹿を…
中臣鎌足は、更に蘇我一族の長老、蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れると、その娘を中大兄皇子の妃とした。 蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の息子、蘇我倉麻呂の息…
中臣鎌足は、若い頃から、中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記していた。 『六韜』は、中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つ。 『三略』と併称、太公望の著書…
日本書紀の蘇我氏悪役歴史観により悪様に描かれる蘇我入鹿。実際の蘇我入鹿は何を考えて行動していたのか? 極めて有能であった入鹿 日本書紀は蘇我氏を悪役に仕立てているため、入鹿に対しては悪意をもった解釈でしか描かれていない。 本当の入鹿はどんな人物だったのか。 奈良時代の藤原仲麻呂が書いた藤氏家伝では、入鹿は極めて有能であったと描かれている。藤氏家伝は藤原仲麻呂による脚色の多い小説みたいな記録との分析があるが、奈良時代において蘇我入鹿を有能と描いても不自然ではなかったとは解釈できる。 実際、有能でなければ日本書紀も悪様には描けなかったであろう。 入鹿が生きた時代の背景 蘇我氏はもともと朝鮮半島情勢…
643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家滅亡事件。系図を見ると用明天皇後裔一族のほぼ全員が殺されているのがわかる。凄まじい皆殺し事件である。 皇極天皇の関与 皇極天皇は事件に関与していたのであろうか。 皇極天皇の前夫の高向王が泊瀬王の義兄弟との解釈が正しいとすると、628年の政変時に、皇極天皇は舒明天皇+山背大兄王+蘇我蝦夷陣営に対し、相当な恨みを持っていた可能性がある。 593年に聖徳太子は崇峻天皇=泊瀬部天皇の後継の地位を継承したが、この崇峻天皇の資産を継承したのが名前からすると聖徳太子第二皇子の泊瀬王である。 628年推古天皇崩御時、聖徳太子の最有力後継者はおそらく泊瀬王であっ…
643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件。641年舒明天皇崩御を契機とした政変である。 事件の経緯 日本書紀による経緯は以下の通り。641年10月 舒明天皇崩御642年1月 皇極天皇即位642年12月 舒明天皇の喪葬の儀643年9月6日 舒明天皇を押坂陵に葬る643年9月11日 吉備嶋皇祖母命薨去643年9月17日 皇祖母命喪葬の儀643年9月19日 皇祖母命を葬る643年10月6日 蘇我蝦夷病気で出仕せず、紫冠を入鹿に授ける。643年10月12日 蘇我入鹿、上宮王家諸王を排し、古人大兄王擁立を謀る643年11月斑鳩宮襲撃。山背大兄王一族集団自決。入鹿の行動に蝦夷が怒り罵る。(なお、上宮…
大化改新の方程式(249) 自説のまとめ:鎌足失脚説 その7
【前回までのおさらい】自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、最後の「斉明朝では鎌足は失脚していた」の話。・それを語るうえで避けては通れない、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説を検証した結果、この説には、『日本書紀』や中国史書の記述を覆すだけの根拠が足りないことを示した。・鎌足がずっと中大兄とコンビでやってきたという先入観を排除すれば、乙巳の変から孝徳崩御まで、鎌足が軽皇子(孝徳天皇)の忠実なる僕(...
原典ではメッチャ難しい言葉が並んでいるようですが、それを口語に直すと、 ~豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。 わが孫よ、行って治めなさい。 さあ、出発しなさい。 皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません~ これくらいの...
【酒船石(さかふないし)】古代日本のミステリー なんなんでしょ 2カ所で発見されているらしいです
< 7世紀の人工物ってことですから1400年ぐらい前ですけど その役割は解ってないんですねえ > 奈良県明日香村の岡っていう地域にある酒船石が「岡の酒船石」「岡の酒船石」は江戸時代にはすでに見つかっていたらしいですね。 で、もう1つは「出水(でみず)の酒船石」大正時代に発見。 飛鳥川の畔、「岡の酒船石」の北西3キロメートルほどの出水っていう場所で、農家の人が2つ石造物を同時に掘り出したんだそうです。 今は「岡の酒船石」からほぼ真北に1キロメートルほどの、奈良文化財研究所飛鳥資料館、前庭に常設展示されているみたいです。でもコレ、レプリカだそうですね。 ホンモノの出水の酒船石は、京都市左京区南禅寺…
【高市郡明日香村上】中臣鎌足が蘇我入鹿の首に追われ逃げ込んだ森の中に鎮座する『気都和既(けつわき)神社』
今年の春、自転車で明日香村をあちこち巡りました。以前から気になっていた『気都和既神社』に初めて参拝したので今回紹介したいと思います。気都和既神社は明日香村の石舞台古墳から桜井市方面へと続く道路の脇に鎮座しています。桜井市駅からも飛鳥駅からも5キロの距離にあ
【橿原市菖蒲町】玄室内部の見学可能 蘇我入鹿・蝦夷親子のお墓説のある『菖蒲池古墳』
今回は近鉄線岡寺駅付近にある『菖蒲池古墳』を紹介します。菖蒲池古墳は橿原市菖蒲町、明日香村と橿原市の境目に位置しています。小高い丘の上にあるので見晴らしが良いです。1月下旬に訪れましたが向かいの山が冠雪しているのが見えました。菖蒲池古墳は7世紀中頃に築造さ
大化改新の方程式(238) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その2
【前回のおさらい】大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化を企てた。それが、皇極・斉明の両期における彼女の“興事”だった。【ここでの課題】彼女の“興事好き”が、大化改新前後の出来事にどう関わったのか。宝皇女が最初に行った“興事”に、板蓋宮建造と八角墳造営がある。前者は彼女の“新し物好き”として片付けることができるかもしれないが、後者はそれだけ...
はじめに 明日香村上(かむら)の #氣都倭既神社(けつわきじんじゃ)境内は #茂古の森(もうこのもり)といわれる緑豊かな杜。#藤原鎌足 が #蘇我入鹿 の首に追われ逃げた森で「ここまではもう来ぬだろう」という呟いたのがその名の由来と伝わる 目次 気都和既神社(けつわきじんじゃ)※2022年11月上旬参拝 気都和既神社 境内 これぞパワースポット? 本文 気都和既神社(けつわきじんじゃ)※2022年11月上旬参拝 (34.463746162714806, 135.8475082955656)/奈良県高市郡明日香村上(かむら)172/石舞台古墳から2.5キロ(県道155号・多武峰見瀬線を東に車で5…
今回訪れたのはこちら飛鳥寺です。【所在】奈良県高市郡明日香村飛鳥682【山号】鳥形山【宗派】真言宗豊山派【開基】蘇我馬子【本尊】釈迦如来【飛鳥寺】「日本書紀」によれば、崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子は法興寺を建立することを計画、同5年には仏堂(金堂)・歩廊(回廊)が完成、推古天皇元年(593)には塔を起工し、同4年には一応の建物が完成した。同13年には丈六仏像を造り、翌14年に安置したとある。日本最古の本格的...
みなさん、こんにちは。 今日は「秋田県ネタ」です。 私は全国方々「行ったり住んだり」しましたが「秋田県」には、まだ行ったことがありません。 いつか是非も、訪れたいなと願っています。 でも「きりたんぽ鍋
飛鳥寺の山門を出て西200M程の所にある蘇我入鹿の首塚へ。乙巳の変の際、600m離れた飛鳥宮で中大兄皇子と藤原鎌足に討たれた時に首が、ここまで飛んだとの説も有…
■日本初の本格的仏教寺院と言われる『飛鳥寺』へ(奈良県奈良市)
目次 1 開基を蘇我馬子とする『飛鳥寺』 2 日本初の本格的仏教寺院『飛鳥寺』 3 『止利仏師』作の『飛鳥大仏』 4 元は現在よりもさらに巨大な仏教寺院でした 5 寺の西側には蘇我入鹿の首塚も 1 開基を蘇我馬子とする『飛鳥寺』 (写真:ご本尊は『飛鳥大