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  • 継体持統①:推古天皇にみる皇后の地位

    天皇が亡くなると次の天皇が立つというのが自明のようだが、皇后はどうなのか? 皇后の地位は天皇が亡くなると消えるのか? 皇后の地位は消えず終身制ではないのか? 推古天皇の権威の源泉 推古天皇の権威の源泉は、敏達天皇の皇后であったからというのは、異論は無いだろう。ということは、推古天皇は敏達天皇の継承者として権力を振るったことになる。 皇后の任務として、一般に言われているのが、天皇不在時の天皇の代わりである。では天皇の権威を皇后はどのように継承するのか? 推古天皇は敏達天皇の殯を行っている。敏達天皇の権威を継承する儀式と解釈できる。 用明天皇即位後も殯は続いていて、穴穂部皇子が敏達天皇の殯に乱入し…

  • 系図:倭根子王家・吉備氏③

    系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱からの続き。 倭根子王家・吉備氏系図※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 吉備氏と葛城氏の誕生 神武天皇にはじまる耳王家と、耳王家に妃を出した弟磯城にはじまる磯城県主家の血は、孝霊天皇にはじまる倭根子王家に引き継がれた。(系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱) 景行天皇は倭根子王家の血を継ぐ播磨イナビ大郎女・若郎女姉妹を娶り、倭根子王家の後継の地位を手に入れて、倭根子王家は断絶する。(解説:景行・成務天皇の不可思議 - 上古への情熱) 播磨イ…

  • 仲哀天皇崩御の謎

    記紀によると仲哀天皇は神の怒りにふれて崩御されたとされている。 実際には何があったのか? 暗殺説 現代人の感覚からすると暗殺されたように見えるが、暗殺とすると、誰が暗殺したのか。 首謀者は敵か身内か。敵としては北九州勢や熊襲が考えられるが、敵による暗殺の場合は、その後の影響としては、後で論じる戦死説と同じである。 身内の場合、崩御後に利益を得た者が怪しい。多大な利益を得たのは、神功皇后、武内宿禰、このほか、和珥氏の建振熊、吉備氏となるが、暗殺の首謀者となると、①神功皇后か②武内宿禰になる。 ①神功皇后による暗殺説 仲哀天皇崩御後、神功皇后は忍熊王を滅ぼし自分の子の応神天皇の即位への道を開いた。…

  • 仲哀天皇の事績②

    記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐して、日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのであろうか? 「仲哀天皇の事績① - 上古への情熱」からの続き。 経緯③長門国へ出兵 『熊襲反乱の報に接し、仲哀天皇は紀伊国から長門国に船で出兵、敦賀気比宮の神功皇后にも船で長門国へ出兵させた。出兵後、即位2年6月には長門国の豊浦津に入り、7月には神功皇后が合流した。』 熊襲は景行天皇九州巡幸によって征服されたとされていることから、このタイミングでの熊襲反乱は、景行…

  • 仲哀天皇の事績①

    記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、九州に上陸。最後に残された北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐。日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのか? 経緯①敦賀進出 『仲哀天皇は即位元年閏11月に越からの献上品の邪魔をした異母弟の蒲見別王を滅ぼし、即位2年2月に敦賀の気比宮に入った』 息長宿禰王に庇護された仲哀天皇は、即位直前に琵琶湖決戦で近江の成務天皇に勝利したと考えられる(仲哀天皇勝利への道 - 上古への情熱)。 古事記の崩年干支から成務天皇崩御の年は西暦355年。仲哀天皇の勝利の…

  • 仲哀天皇勝利への道

    関門海峡を制圧する前の大和盆地の政権は、朝鮮半島との交易を日本海経由の丹波―琵琶湖―山代―大和の経路に頼っていた。関門海峡制圧に失敗した景行天皇は、晩年に琵琶湖経営に乗り出す。琵琶湖を支配する息長王家との摩擦が表面化する。 景行朝は関門海峡制圧できず 景行天皇による九州巡幸の経路を見ると、中部から南部の九州を巡っているものの、関門海峡と九州北岸には近づいていない。 関門海峡は言うまでもなく大陸交易の要所であり、景行天皇の九州巡幸伝承は、朝鮮半島への交易路確保のため関門海峡から北九州の制圧を企図したが失敗したと解釈できる。 景行天皇近江遷都の意味 晩年には方針転換し、大和盆地から琵琶湖西岸の大津…

  • ヤマトタケルは伊吹山で何をしていたのか

    景行天皇には皇后として、即位前にワケられて赴任した先の播磨の実力者で耳王家系の後裔である播磨イナビ大娘皇后と、即位後に制圧した美濃の八坂入姫皇后がいる。景行朝から応神朝への推移はこの播磨対美濃の構図と捉えると理解しやすい。 景行天皇即位の経緯 景行天皇が即位した経緯については「シナリオ:3世紀後半から4世紀前半『垂仁天皇、景行天皇、ヤマトタケル』 - 上古への情熱」の通りであるが、景行天皇は本来の後継者である五十瓊敷入彦を大和盆地から追い出して即位した。 五十瓊敷入彦は美濃で滅ぼされており、景行天皇は五十瓊敷入彦の資産を継承し、八坂入姫を皇后としたと解釈できる。 播磨勢力と美濃勢力の対立 播磨…

  • 解説:景行・成務天皇の不可思議

    前回「系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱」は倭根子王家について説明したが、倭根子王家は系図上は景行天皇の代で途絶える。 倭根子王家・吉備氏系図※作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 景行・成務による倭根子王家簒奪 倭根子王家は系図上は景行天皇の世代で終わる。 景行天皇は、ハエイロドの子、四道将軍派遣時に吉備を征服した若彦建吉備津彦の子の、播磨のイナビ大娘(景行皇后)・イナビ若娘の姉妹を娶り、耳王家・磯城県主家の子孫の立場となっている。 皇后イナビ大娘の子に若倭根子皇子がいて、倭根子王家最後…

  • 系図:倭根子王家・吉備氏②

    崇神天皇は、祭祀を早々にあきらめて、耳王家・磯城県主家を受け継ぐ大倭根子彦フトニ孝霊天皇を祭祀王として即位させた。この倭根子王家により前方後円墳文化が完成する。 倭根子王家・吉備氏系図※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 倭根子王家の誕生 大倭根子彦フトニ孝霊天皇から三代は倭根子が続くことからここでは倭根子王家と呼んでいる。 耳王家・磯城県主家を受け継ぎ、祭祀王として即位した大倭根子彦フトニ孝霊天皇であるが、名前のフトニからすると、出自は、懿徳天皇妃のフト真若姫の子で、大倭根子彦スキツミ懿徳天…

  • 系図:倭根子王家・吉備氏①

    概要 耳王家と磯城県主家によりはじまった初期天皇家は祭祀性の高い王家で四代懿徳天皇の代で一旦途絶える。崇神天皇が祭祀世俗統一王となるが、祭祀は手に負えず早々に手放して、耳王家と磯城県主家を受け継ぐ倭根子王家が祭祀を継承し、この血筋は吉備と深い関係を持ちつつ、ヤマトタケル、仲哀天皇、忍熊王を産み、傍系は吉備氏として大発展するも、息長系王家の雄略天皇により息の根を止められた。なお、前方後円墳文化はハエイロネ(倭国香姫)・モモソ姫の母子により完成されたと見られる。 倭根子王家・吉備氏系図※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる -…

  • 系図:初期天皇家系図④:崇神天皇に至る系譜

    初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 崇神天皇に至る基本的な経緯は以下の通り(参照「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」)。①弥生時代後期、事代主一族が那賀川上流の水銀朱鉱山を開発。②その後、大物主一族が、日向出身の饒速日と、那賀川の事代主一族のトミ彦とともに、大和の宇陀の水銀朱鉱山を開発。③噂を聞きつけた日向のホホデミ(初代神武天皇)が三輪山麓に乗り込んできて、大物主一族と手を結び、饒速日とトミ彦の一族を追い出した。④しかし物流は…

  • 系図:初期天皇家系図③:磯城県主の系譜

    神武東征に際し活躍した弟磯城は初代磯城県主となり、磯城県主家は代々妃を出し繁栄するが、七代孝霊天皇に妃を出して以降、歴史から消えてしまう。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 弟磯城は神武東征の立役者として初代磯城県主黒速となる。神武天皇は大物主の子のイスケ依姫を妃とした。このイスケ依姫と弟磯城は関係者で兄弟と考えられるが、関係についてはっきりとは書かれていない。 綏靖天皇世代の磯城県主ハエは、子や姪が3代から6代の天皇妃となり、強大な権勢を保持していたと考えられる。この磯城…

  • 系図:初期天皇家系図②:記紀で異なる妃の系図

    初期天皇家の妃は古事記と日本書紀で記載が大きく異なる。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 耳王家の妃に関する系譜は、記紀で大きく異なる。古事記では妃を大物主及び磯城県主からとしているのに対し、日本書紀は事代主の子孫の出身としている。 大物主は三輪山の神であり、磯城県主一族は大和盆地南東部の実力者で間違いない。 一方で、「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」でも解説した通り、事代主一族は那賀川の水銀朱鉱山開発を行うなど鉱山権益の実…

  • 系図:初期天皇家系図①:耳王家

    初代神武天皇から四代懿徳天皇までは名の最後がミミ、ミとなっている。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 名のさいごがミ、ミミとなっている耳王家は彦ホホデミ神武天皇から始まり最後が磯城津彦の子のワチツミとなる。四代スキツミ懿徳天皇の世代までは、すべて男で姫がいない特徴がある。(正確には男女不明であるが、明確な姫がいない。) ワチツミの父は、三代磯城津彦タマテミ安寧天皇の子で、安寧天皇と同じ磯城津彦であるが名前が伝わらない。また「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」…

  • 系図:迦具漏比売に関する不思議な系図の解釈について

    古事記には景行天皇の6世孫である迦具漏比売(カグロ姫)が景行天皇の妃となり忍熊王の祖父を産む、さらには応神天皇の妃となり允恭天皇皇后の忍坂大中姫を産むという極めて不可解な系図がある。 筆者もどう解釈したらいいか長年悩んでいたが、ある程度説明可能な解を見つけたので、紹介する。 景行天皇6世孫カグロ姫に至る人物は以下の通り ⓪景行天皇 ①ヤマトタケル ②息長田別王 ③河派仲彦王(杙俣長彦王) ④飯野真黒姫(若建王妃) (若建王は走水海で入水して果てた弟橘姫の子) ⑤スメイロ大中彦王 (天皇の弟という意味でここでは「皇大中彦王」と漢字を当てた) ⑥カグロ姫 となる。 ここで⑤皇大中彦王であるが、天皇…

  • 系図:和珥氏 息長氏 彦坐王家

    崇神天皇の時代の『彦坐王』以来、代々「王」を称する家系について。 概要 ミマツ彦カエシネ(第五代孝昭天皇)の子で倭足彦(第六代孝安天皇)の兄である天足彦から派生する和珥氏から出た皇族は、彦坐王以来、代々「王」を称する家系となっている 最終的には、継体天皇を出し、敏達天皇を経由して、舒明皇極、天智天武に繋がり、現代へ続く天皇家として勝ち残る。 以下に天足彦、彦坐王から皇極天皇に至る系図を示す。(なお黒帯の数字は「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」の系図と同じく誕生年を示す。) 神功皇后までの経緯 彦坐王は大和盆地北部を拠点としていたが、子の佐保彦王は垂仁天皇に滅ぼされる。 ただ佐…

  • 解説:邪馬台国論争に終止符を

    邪馬台国論争のキーポイントは、 240年代の伊都国が属していた女王国は畿内の政権と言えるのか? 「解説:記紀が語る領土拡大の歴史 - 上古への情熱」を見てみると、邪馬台国論争にも明確な結論が出るように思う。 魏志倭人伝に見る伊都国 魏志倭人伝では240年代に魏側の使者が倭国に訪れていることから、240年代の倭国の様子を記載している。 伊都国は「代々王がいて、みな女王国に属する。帯方郡の使者が往来し足を止めるところ」とされている。 240年代に伊都国は女王国すなわち邪馬台国に属していたことになる。 日本書紀に見る伊都国 日本書紀では仲哀天皇が崩御する前年に伊覩県主の五十迹手が降伏している。それ以…

  • 解説:記紀が語る領土拡大の歴史

    畿内政権の制圧圏、日本の範囲はどのように拡大していったのだろうか。 記紀が語る領土拡大の歴史についてまとめてみた。 ハニヤス王鎮圧時の制圧圏 畿内はハニヤス王の反乱鎮圧時点で制圧は完了したとの歴史認識のようで、日本書紀には「畿内無事」との記載がある。 このほかに、崇神天皇即位後、制圧伝承のない地域として、紀伊半島と四国がある。ミマツ彦カエシネ(孝昭天皇)が、宇陀の水銀朱などの鉱物資源の権益を求めて、出身母体の事代主一族が支配する四国那賀川流域から紀ノ川を遡って奈良盆地南西の玉手の地に進出したと『解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱』や『シナリオ:2世…

  • シナリオ:7世紀『日本誕生』

    7世紀の東アジアは、統一中国の隋・唐に飲み込まれるか生き残るかのサバイバルレースが展開された。驚愕のペースで変化する国際情勢に翻弄され、極東地域では、百済・高句麗が滅び、新羅・日本が生き残った。 系図は『世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱』を参照。 六世紀末の589年には隋が中国を統一。598年には30万もの軍を高句麗に派遣してきた。辺境諸国に一気に緊張が走る。 高句麗・百済・新羅は、隋唐の冊封体制に入るという、常識的外交を行った。一方、「倭の五王」の後、対等の関係を目指していた倭国は強大な隋唐に対してもメゲずに自らを貫き通す。600年に隋に対して様子見の遣使をし、607年に小野…

  • シナリオ:6世紀『磐井の乱が引き起こした二朝並立と蘇我氏の勃興』

    系図(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)から見えてくる世界。 今回は継体天皇から始まった6世紀の様子について。 502年(紀は506年)に豪族たちの総意で武烈天皇が排除され、503年(紀は507年)に継体天皇が擁立された。継体天皇と二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)が和珥系皇女に入婿する形で前世紀の血統の統一が目指された。結果はすぐに現れて継体3年(505年:紀は509年)に後の欽明天皇が生まれて、欽明天皇への皇統の継承が確定するかに見えた。 一方、国際情勢は苛烈化。任那の4県(512年)2郡(513年)を百済に割譲するなど、ジリ貧状態であった。北九州勢としては、せっかく仲哀…

  • シナリオ:5世紀『倭の五王と二朝並立』

    関門海峡制圧(仲哀天皇崩年の前年:記崩年干支によると361年)以降、莫大な富と文化が瀬戸内海・難波に流入。巨大な前方後円墳の造築が可能になり、記録も詳細に残せるような文明開化が起こった。 このため五世紀の歴史は詳細な様子がわかる。以下は、各天皇の元年崩年をまとめたもの。 ※記紀記事の西暦(絶対年代)への比定については、不確定性が多い。日本書紀はストーリー上の都合に応じて改竄している可能性が高いほか、暦について春秋二倍暦などを考え始めると、あらゆる解釈が可能になる。上記表では、古事記記載の崩年干支が、一年暦に換算された正確なものとして、各天皇の元年崩年を整理した。 以下、5世紀の様子を紹介する。…

  • シナリオ:4世紀後半『神功皇后から仁徳天皇まで』

    系図から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は、西暦300年代後半から400年まで。 足仲彦即位(仲哀天皇350年頃)時点で、関門海峡・北九州以外は勢力下に置いていた。また朝鮮半島では新羅や百済が国として形成されはじめて、皇后の息長足姫(神功皇后)は新羅の権益(母方が新羅王子天日槍の子孫)を有していたことから、関門海峡、北九州、新羅の制圧を企図した。 そこで若狭水軍を息長足姫に束ねさせ、紀伊水軍を武内宿禰に束ねさせて、瀬戸内海と日本海から関門海峡を挟み討ちにし念願の関門海峡制圧に成功した。 ここで不測の事態が起こる。足仲彦(仲哀天皇)が急死してしまっ…

  • シナリオ:3世紀後半から4世紀前半『垂仁天皇、景行天皇、ヤマトタケル』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年代後半から300年代前半の様子を紹介する。 彦坐王は初代世俗王ミマツ彦(孝昭天皇)の子の天足彦の子孫で、和珥氏一族。子の丹波道主王とともに四道将軍の派遣で丹波方面で活躍して、奈良盆地北部から淀川・琵琶湖・丹波を支配していた。 第十代崇神天皇ミマキ入彦五十瓊殖(イニエ)の代替わりとして、第十一代垂仁天皇イクメ入彦五十狭茅(イサチ)が200年代後半に即位。 垂仁天皇は彦坐王家に介入。彦坐王の子の佐保彦を滅ぼ…

  • シナリオ:3世紀中頃『統一王崇神天皇の登場』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年代の様子を紹介する。 第四代スキツミ(懿徳天皇)でホホデミ(神武天皇)から続く祭祀王家は途絶える。スキツミの親族、ワチツミは淡路に拠点を置き、吉備勢力と関係を深める。 世俗王第二代の倭足彦(記紀では第六代孝安天皇)の代替わりとして、ミマキ入彦が纏向を制圧し、世俗祭祀の統一王(記紀では第十代崇神天皇)となる。250年ごろのことである。※ミマキ入彦の出自であるが、皇后のミマキ入姫が、又の名をミマツ姫とも言わ…

  • シナリオ:2世紀末から3世紀初頭『綏靖天皇のクーデターと世俗王孝昭天皇の登場』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年前後の様子を紹介する。 ホホデミは即位後、程なくして亡くなる。ここで、皇后イスケ依姫はホホデミの長男タギシミミを男王に選ぼうとする。一方、川派(カワマタ)姫がイスケ依姫を追放するクーデターを起こし、川派姫の夫である渟名川ミミが男王として第二代綏靖天皇となる。2世紀末のことである。※男王がメインか、女王がメインかで、話は変わる。神武天皇は明らかに三輪祭祀の巫女を出す磯城県主家に婿入りしていて、発言力があっ…

  • シナリオ:2世紀『神武東征と纏向の誕生』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は、2世紀の様子について紹介する。 弥生時代後期、阿波の那賀川上流で水銀朱鉱山(現在の若杉山遺跡など)が開発される。事代主一族がこの水銀朱利権を掌握していた。※事代主については出雲の国譲りに関する物語などで大活躍する神であるが、式内神社の分布を見ると、徳島の那賀川周辺にのみあるなど、事代主は本来は那賀川の開拓に関する神であったとみられる。 100年代後半、大物主一族が、奈良盆地南東の泊瀬川上流域、宇陀の水銀朱鉱山を開…

  • 解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について

    前回(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)紹介した世代修正系図では、第四代と第五代の間、第六代と第七代、第九代と第十代の間を分割した。 第七代倭根子(大倭根子・彦フトニ:孝霊天皇)については大直根子(オオタタネコ)と同一人物ではないかとしたが、今回は、第五代ミマツ彦(孝昭天皇)と第十代ミマキ入彦・イニエ(崇神天皇)の出自について。 第五代ミマツ彦(孝昭天皇)に関して、「ミマツ彦の同母弟」という意味の名を持つミマツ彦イロドが、徳島の那賀川に拠点を持つ長国造の祖先とされていて、事代主の孫との伝承があり、ミマツ彦イロドを祀る『御間都比古神社』が徳島の山中に現存する。 事代主については出…

  • 世代を修正した系図を作ってみる

    前回(上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱)自作の『記紀等準拠系図』を紹介したが、この系図を眺めると、親子継承の間隔や婚姻関係など、いろいろ無理があることに気づく。 〇親子継承が大きく伸びている部分として、①ワチツミ、②物部十市根、③武内宿禰が挙げられる。②③は伊香色女、伊香色男の世代が3世代ずれている。①については、ハエイロネ姉妹の世代が3世代、ワチツミが1〜2世代ずれている。 〇3代から6代までの天皇は、磯城県主ハエの子の世代の娘を妃としており、この間の天皇を直系で繋ぐのは無理がある。 〇同世代で活躍したとされる四道将軍の四人の世代がバラついていて、同時期に活躍していたとするのは無理が…

  • 上古の時代の系図の作成

    神武天皇から持統天皇までの記紀が扱う時代について系図を作成してみた。 この時代の神武天皇からはじまる系図では、通常は男系の単調な系図となっていて、神武天皇から成務天皇までは父子継承であることから、系図は一直線になっている。 ところが、本来の記紀には多彩な母系も記述されており、決して一直線の単調な系図で表されるようなものではなく、また、"神武"のような漢風諡号も使われていない。 漢風諡号を用いた単調な系図は、そもそもの記紀の世界観からは大きく異なったイメージを与えて、あまり適切ではないのではないか? 漢風諡号を用いず、母系も意識した系図を作成すると、どのようになるのか? そのような観点から、記紀…

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