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記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、九州に上陸。最後に残された北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐。日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのか? 経緯①敦賀進出 『仲哀天皇は即位元年閏11月に越からの献上品の邪魔をした異母弟の蒲見別王を滅ぼし、即位2年2月に敦賀の気比宮に入った』 息長宿禰王に庇護された仲哀天皇は、即位直前に琵琶湖決戦で近江の成務天皇に勝利したと考えられる(仲哀天皇勝利への道 - 上古への情熱)。 古事記の崩年干支から成務天皇崩御の年は西暦355年。仲哀天皇の勝利の…
記紀によると仲哀天皇は神の怒りにふれて崩御されたとされている。 実際には何があったのか? 暗殺説 現代人の感覚からすると暗殺されたように見えるが、暗殺とすると、誰が暗殺したのか。 首謀者は敵か身内か。敵としては北九州勢や熊襲が考えられるが、敵による暗殺の場合は、その後の影響としては、後で論じる戦死説と同じである。 身内の場合、崩御後に利益を得た者が怪しい。多大な利益を得たのは、神功皇后、武内宿禰、このほか、和珥氏の建振熊、吉備氏となるが、暗殺の首謀者となると、①神功皇后か②武内宿禰になる。 ①神功皇后による暗殺説 仲哀天皇崩御後、神功皇后は忍熊王を滅ぼし自分の子の応神天皇の即位への道を開いた。…
記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐して、日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのであろうか? 「仲哀天皇の事績① - 上古への情熱」からの続き。 経緯③長門国へ出兵 『熊襲反乱の報に接し、仲哀天皇は紀伊国から長門国に船で出兵、敦賀気比宮の神功皇后にも船で長門国へ出兵させた。出兵後、即位2年6月には長門国の豊浦津に入り、7月には神功皇后が合流した。』 熊襲は景行天皇九州巡幸によって征服されたとされていることから、このタイミングでの熊襲反乱は、景行…
聖母宮(しょうもぐう)神功皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)にちなむ神社 壱岐
モカジャバカフェ大久保本店 勝本浦は港に沿って家々がひしめくように建っていて、迷路のような路地に入り込むと、懐かしい暮らしぶりがあふれていました。 聖母宮 拝殿 神功皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)にちなむ神社で、征伐に勝利したことから勝負の神として知られ、また、皇后は三韓征伐の際に応神天皇を身籠り、凱旋の後に無事に出産したとの伝えから安産の神としても知られています。 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には加藤清正から正門は奉納されたもで、神社周囲の石垣も当時風待ち時に配下に積ませたもので、朝鮮半島と風に縁のある神社です。 対馬暖流に乗り様々な漁種が回遊する豊かな海で、勝本港は漁火を煌々焚いて漁をするイカ釣り漁の船がひしめくそうです。 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 撮影:2013.05.25 長崎県壱岐市勝本町勝本浦 200..
【堺市北区】神功皇后・三韓征伐 素戔嗚尊と神頗梨采女ゆかりの地『宝蔵(寳藏)神社』
今回は堺市北区船頭町に鎮座する小さな神社の紹介です。『寳藏神社』という社標が出ていますが、最初何と読むのか分かりませんでした。ほうぞう神社と読むようです。社標には漢文で由緒が書かれているんですが、分かる部分だけをつなげてみると…神功皇后が三韓征伐を終えて
財土を求む 皇后と宿禰の真意 渡韓を決めたのは誰か 財土を求む 続いて神功紀本文では、皇后が海を渡って新羅を征伐したという話を伝えます。山門から松浦に移った皇后は、自ら男装して群臣に語って言うには、「師を興し衆を動かすのは国の大事である。国の安危と成敗は必ずここにある。今征伐する所があり、事を群臣に委ねる。若し事が成らなければ、罪は群臣にあろう。これは甚だ傷ましいことである。吾は婦女にして未熟ながら、暫く男の姿に仮装して、強いて雄々しい戦略を立てよう。上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを借り、兵を興して嶮浪を渡り、船を整えて財土を求める。若し事が成れば、群臣は共に功があり、事が就らなければ、吾…
記紀に見る新羅征伐 新羅征伐を考察する 記紀に見る新羅征伐 神功紀本文に描かれた皇后の新羅出兵は次のようなものです。秋九月に諸国に令して船舶を集め兵士を練りましたが、時に軍卒が集まりませんでした。皇后が「これは神の御心だろう」と言って、大三輪社を立てて刀矛を奉ると、軍衆が自ずと集まりました。出発に臨んで皇后が吉日を卜ったところ、まだ日がありました。皇后は親ら斧鉞*1を執り、三軍に令して言うには「鐘鼓が節無く乱れ、帥旗が混じり乱れる時は、士卒は整わないものである。財を貪り物を欲し、私を懐いて妻妾を顧みれば、必ず敵の捕虜となる。敵が少なくとも軽んじ侮ってはならぬ。敵が強くとも怖じて屈してはならぬ。…
その後の神功皇后 新羅再征 その後の神功皇后 『日本書紀』の年号によると、仲哀帝が崩じたのは在位九年の二月のことで、気長足姫は同年十月に新羅へ出兵し、十二月に筑紫で男子を出産すると、翌年二月に先帝の遺骸と共に豊浦を発ち、翌三月には忍熊王を討って王都に入りました。従ってこの年を以て神功皇后の摂政元年とします。尤もこれが西暦で何年に当たるかについては未だに解答はありません。そして翌二年の十一月に先帝を河内国の長野陵に葬ると、翌三年には誉田別皇子を太子に立て、大和の磐余に新都を造営したといいます。 摂政五年、新羅王が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣わして朝貢しました。これには先に人質となっていた…
以上が好太王碑に刻まれた四世紀後半から五世紀初頭の倭と朝鮮の風景です。そして我々の知る日本史の中には、これ等の出来事に呼応するだけの明確な痕跡がない訳ですが、確かに碑文自体は高句麗側の視点で語られているにせよ、その内容が全くの創作であろう筈もありません。もし十九世紀に入って偶然この石碑が発見されなければ、我々はかつて日本と高句麗が戦ったという事実さえ永久に知らなかったことを考えると、まさにこれは天恵と呼べるほどの大発見だったと言えます。従ってこの発見を我々自身の歴史とするためには、国内に伝わる日本史と好太王碑の記述を一体化させる作業が必要になります。そこでまず碑文の方を簡単な年表にしてみると次…