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7世紀の東アジアは、統一中国の隋・唐に飲み込まれるか生き残るかのサバイバルレースが展開された。驚愕のペースで変化する国際情勢に翻弄され、極東地域では、百済・高句麗が滅び、新羅・日本が生き残った。 系図は『世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱』を参照。 六世紀末の589年には隋が中国を統一。598年には30万もの軍を高句麗に派遣してきた。辺境諸国に一気に緊張が走る。 高句麗・百済・新羅は、隋唐の冊封体制に入るという、常識的外交を行った。一方、「倭の五王」の後、対等の関係を目指していた倭国は強大な隋唐に対してもメゲずに自らを貫き通す。600年に隋に対して様子見の遣使をし、607年に小野…
古代中国王朝と大和朝廷の関係 (当エッセイを読むだけで、だいたいイメージ出来る)
「倭」という言葉は、漢民族が、非漢民族の全てを一緒くたに指す蔑称。しかし日本では、自分達のみが「倭人」と勘違いしている。 正しくは、中国が「倭人」「倭国」と言う場合、日本人や日本国とは限らないが、日本人や日本国を意味する場合もある。という事。
現在の日本民族は海に囲まれた「島国」に住んでいます。 日本という名称がまだなかった頃のご先祖様たち(大和民族)も、その点は同じで 長らく列島(島国)住まいを続けてきました。 さて、そうした列島民族のライフスタイルを、陸続きの大地に住む他民族と比較して みると、こういうことが...
大化改新の方程式(244) 自説のまとめ:鎌足失脚説 その2(補足)
【前回までのおさらい】自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、最後の「斉明朝では鎌足は失脚していた」の話。それを語るうえで避けては通れない、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説を検証する。<検証A>『日本書紀』や中国史書の記述に反して、豊璋が白村江敗戦後、高句麗に逃れず倭国に戻ったとする関氏の主張は、つまるところ、豊璋という人物の狡猾な行動原理を根拠にしたものにすぎないことを指摘した。<検証B>「鎌足=...
大化改新の方程式(241) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その5
かなりインターバルがあいてしまいました。申し訳ございません。4月以降、ビジネス環境がコロナ前に回帰したとたん、多忙を極め土日もない状態が続いています(現在進行形)。とはいえ、閉鎖してしまったと思われるのは哀しいので、暇をみつけてやっとかたちにできた記事を1本あげておきます。【前回までのおさらい】・大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化...
朝鮮の歴史 新羅の朝鮮半島統一と白村江の戦い 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
朝鮮にはさまざまな建国神話があるが、燕の将軍・衛満(えいまん)が半島へ逃れて建国した衛氏朝鮮が最初の国家と言わ
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第2段662年12月、新生百済の王・扶余豊璋と百済復興軍の実質上の司令官・鬼室福信は、倭国の豊璋護衛部隊を率いる秦田来津の反対を押し切り、山城として防御に適した州柔城から農産物が豊富な避城に遷都を敢行した。はたして、田来津が危惧したとおり、新羅軍はここぞとばかり大攻勢をしかけ、...
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第3段(前回からの続き)『三国史記』新羅本紀によると、新羅軍が唐領(旧百済領)内で独自に軍事行動を展開したとみられるのは、これが初めてではない。唐将・劉仁軌が新羅兵を率いて熊津東部の城塞(真峴城)を攻めた662年7月の翌月、新羅の文武王は19人の将軍を派遣し、その北方の百済ゲリ...
前回から1か月以上が経ってしまいました。コロナ禍の収まりに合わせて、仕事が忙しくなってきました。仕事があることは喜ぶべきだが、まとまった時間がとれるのがこんな夜中になるのは、やはり辛い…。【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第4段(前回からの続き)前回「新羅の唐領化こそ、倭国の白村江敗戦への最初のトリガーだっ...
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第5段(前回からの続き)前回「2万7千人の第2次派遣軍は、どこで何をしていたのだろうか」と結んだが、その答えはちゃんと『日本書紀』に記されている、と言われるだろう。たしかに、天智称制2年(663年)6月条に、第2次派遣軍の前将軍に任じられた上毛野稚子らが新羅の沙鼻・岐奴江の2城を奪...
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第6段(前回からの続き)実は、上毛野稚子らに率いられた前軍がどこにいたかを示唆する情報が、『日本書紀』の白村江敗戦後の記述のなかに残されている。『日本書紀』によれば、663年9月7日の州柔城陥落後、亡命を余儀なくされた百済遺臣たちは倭国の将軍たちと合流するため弖礼城(テレサシ)...
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第7段(前回からの続き)第2次派遣軍の前将軍・上毛野稚子らが新羅南部沿岸・牟弖から北上しなかった理由は何か。それは、私がこれまで論じてきたことから明らかだろう──倭国にとって百済復興運動に介入する
大化改新の方程式(227) 白村江に現れた倭国軍はどこから来たのか
『日本書紀』によれば、百済駐留の唐軍と合流した新羅の本国軍が州柔城攻略に動き始めたことを知った豊璋は、廬原君臣率いる万余の倭国の救援軍を白村江にて饗応すると言いおいて、州柔城を出てしまう。この豊璋の不可解な行動についてはいずれ触れるとして、ここでは、白村江に現れた万余の倭国軍はどこから来たのか考察してみよう。それについて『日本書紀』が触れている箇所がある。白村江の戦いの2日目(663年8月28日)での、...
大化改新の方程式(228) 廬原君が率いた「万余」の兵の正体
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第9段(前回からの続き)前回見たように、州柔城救援に現れた倭国軍は、“旧”新羅南岸の牟弖から航進してきた第2次派遣軍の中軍であった。ただ、州柔城の豊璋のもとには、この部隊を率いているのが、中将軍として任命された巨勢神前訳語や三輪根麻呂ではなく、兵員や物資の搬送をメインとする廬...
大化改新の方程式(229) 局地戦にすぎなかった白村江の戦い
かなりインターバルがあいてしまいました。6月後半から7月にかけ仕事で多忙を極め、まったくブログに手をつけられない状態でした。やっと余裕ができたので、次の繁忙期が来る前に、白村江の話には決着をつけておこう…。【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第10段(前回からの続き)663年8月、白村江に現れた廬原君率いる「万余」...
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第11段前回みたように、州柔城を出た豊璋と合流した倭軍が、急ぎ上陸を果たすべく岸辺を目指すも、潮位足らず浅瀬に乗り上げ、唐軍の火攻めであえなく全滅したのが白村江敗戦の全貌だった。どれほど急いでいたかは、2日間すべての満潮時に上陸作戦を敢行したことや、『日本書紀』が描くように...
大化改新の方程式(231) 豊璋が最後に描いた新生百済存続のための活路
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第12段(前回からの続き)豊璋とって、倭軍を従え州柔城に再入城することにどんな狙いがあったのだろうか。それを知るには、もし彼がそのまま州柔城に留まり、百済復興軍と若干の倭兵(私は以前の記事(廬原君が率いた「万余」の兵の正体 大化改新の方程式(228))で述べたように駐留倭軍はピ...
大化改新の方程式(232) 「白村江」は圧倒的な軍事力差が敗因だったのか
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第13段(前回からの続き)過去十数回にわたって論じてきた「ボタンの掛け違い」を探るトピックもそろそろラップアップの頃合いだろう。ただその前に、以前、白村江の戦いが唐・倭両国の水軍が満を持して対峙した海戦だったというイメージはミスリーディングだと断じたが、もう1つのミスリーデ...
大化改新の方程式(233) 「白村江」でIFを語るとしたら…
【ここでの課題メモ】百済の役の戦況を追いながら、避けたかった唐との戦闘に至る「ボタンの掛け違え」がどのように起きたのかを考察する第14段(最終回)倭国が百済復興運動に介入するシナリオにおいて、いったいどこから歯車が狂い、避けたかった唐との戦闘にいたったのだろうか──。これまで長きにわたり展開してきた自説を振り返って、私は以下の2つの理由から、662年12月の避城への遷都が、倭国のシナリオを狂わせた発端だっ...
大化改新の方程式(234) 「白村江」もう1つのIF(人物編)
【ここでの課題メモ】前回のおまけとして、もう1つのIFについて話しておきたいつくづく思うのだが、もし劉仁軌がいなかったら、「白村江」はどうなっていただろうか──。劉仁軌は、着任早々死去した王文度に代わり熊津都督となった劉仁願を援助するため661年に派遣された。660年水軍の運用に失敗し、59歳にして一兵卒に落とされた身からの志願だった。ここで返り咲かなければ後がないという彼の執念が、以下にみるように、結果とし...
飛鳥時代に、唐新羅連合軍の日本侵攻を防ぐために九州に長い土塁が築かれました。日本最古の城・水城(みずき)です。 (水城とは)水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市に築かれた、日本の古代の城で、国の特別史跡に指定されています。 水城は記録に残る日本最古の城で、「日本書紀」には、「筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へ、名づけて水城(みずき)と曰う」と、記載されています。水城には「城」の字がつていますが天守閣のあるお城ではありません。昔の城です。 (敵の侵入を防ぐため) 663年10月、白村江の戦いがあり日本は唐・新羅軍に敗れます。そして日本は彼らが日本に侵攻してくるのではと警戒し…
令和4年10月4日(火) 【旧 九月九日 大安】・秋分・水始涸(みずはじめてかるる)朝倉や木の丸殿《まろどの》に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ ~中大兄皇子(天智天皇)『新古今和歌集』 巻17-1689 雑歌中朝倉の丸木造りの御殿に私がいると、名を告げては通り過ぎ
『日本書紀』の記事や『万葉集』の和歌をモチーフに、私なりに紡ぎ出した歴史小説です。執筆に当たっては明日香、藤原京、生駒など、奈良各地をはじめ、滋賀、三重、和歌山や大阪などの史跡や博物館、資料館を幾度も訪れて取材を行っています。一昨年秋に、Amazon Kindle版