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用明天皇と聖徳太子の違いは何か?聖徳太子はなぜ『用明天皇のような天皇』の扱いをされなかったのか? 用明天皇第一皇子田目皇子 聖徳太子=厩戸皇子は用明天皇の第一皇子ではない。第一皇子は蘇我石寸名の子で田目皇子である。 この田目皇子は、父の皇后である穴穂部間人皇后を娶った。これは政治的には田目皇子が用明天皇の後継を狙ったものと解釈できる。 父の正妻を娶って後継となるのは珍しいことではなく、「鎌倉殿の13人」でも奥州藤原氏で秀衡の長男国衡が秀衡の正妻を娶って、秀衡後継体制の安泰を図ろうとしていた。 田目皇子は父の皇后との結婚に成功し、権威を得たものの、崇峻天皇との後継争いには敗れたようだ。 なお田目…
新しい仏教王朝を開いた用明天皇は天然痘に斃れ短命で終わる。激動の東アジア情勢に対応するため崇峻天皇が用明天皇を嗣ぐ。何故、後継が崇峻天皇なのか。不満を持つ人々がいた。 587年丁未の乱 仏教導入は天然痘パンデミック対策でもあったが、肝心の仏教王朝の開祖である用明天皇が587年に天然痘に斃れる。 これに守旧派が勢いづく。敏達皇后のちの推古天皇から天皇位を奪い新しい天皇を立てるために動き出した。 用明天皇崩御直前に中臣勝海は太子彦人皇子を擁立するため太子のもとに駆けつけるが、推古天皇と通じていた太子彦人皇子は中臣勝海を殺してしまう。 おそらく当初は守旧派が大勢を占めていたであろうが、これで形勢が逆…
継体天皇の即位の条件として、前政権への一族全体での婿入りがあった。継体天皇は手白香皇女へ婿入りし、後継は手白香皇女の子、欽明天皇と確定していたというのは定説となっている。 一方で、継体天皇崩御時の政治情勢は、強力な指導者を必要としていた。任那については百済に割譲され、北九州では磐井の反乱も起きた。 安閑天皇・宣化天皇は即位したのか? 安閑天皇・宣化天皇は、継体朝内で発言力もあり、政権幹部として活躍していた。軍事・外交上の決済権は安閑天皇・宣化天皇が継体天皇崩御後も握っていたとみて間違いないだろう。 一方で、天皇としての祭祀はどうなのか。安閑天皇・宣化天皇期の記録の混乱を見ると、「天皇」は欽明天…
シナリオ:6世紀『磐井の乱が引き起こした二朝並立と蘇我氏の勃興』
系図(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)から見えてくる世界。 今回は継体天皇から始まった6世紀の様子について。 502年(紀は506年)に豪族たちの総意で武烈天皇が排除され、503年(紀は507年)に継体天皇が擁立された。継体天皇と二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)が和珥系皇女に入婿する形で前世紀の血統の統一が目指された。結果はすぐに現れて継体3年(505年:紀は509年)に後の欽明天皇が生まれて、欽明天皇への皇統の継承が確定するかに見えた。 一方、国際情勢は苛烈化。任那の4県(512年)2郡(513年)を百済に割譲するなど、ジリ貧状態であった。北九州勢としては、せっかく仲哀…
日本書紀に記された史上唯一の家臣に殺された天皇・崇峻天皇をまつる大阪堀越神社
日本史上唯一、家臣に殺されたと記録されている天皇がいます。第32代の崇峻天皇です。この崇峻天皇を祀る神社が大阪市天王寺区にありました。 大阪市天王寺区の茶臼山に鎮座する堀越神社。この神社は、飛鳥時代の593年、聖徳太子が四天王寺建立するときに周囲に配置した四天王寺七宮の一つです。四天王寺の裏鬼門(南西の方角)にあたり、聖徳太子の叔父にあたる崇峻天皇(すしゅんてんのう)が祀られています。 (日本書紀に記された家臣に殺害された唯一の天皇) 堀越神社に祀られている崇峻天皇は第32代の天皇で、日本史上唯一、臣下に暗殺されたと正史に明記されている天皇です。血筋としては聖徳太子の父・用明天皇とその妹で日本…