メインカテゴリーを選択しなおす
↑東京都北区に所在する、近藤勇ほか新選組隊士達の菩提寺で真言宗豊山派の寺院、南照山観音院壽徳寺(なんしょうざん・かんのんいん・じゅとくじ)を探訪しました。※以下「寿徳寺」と省略させて頂きました。↑寿徳寺の所在地は「東京都北区滝野川4丁目22−2」です。最寄駅は、JR埼京線「板橋駅」東口から徒歩約10分、または都営三田線「新板橋駅」または「西巣鴨駅」より徒歩約8分とのことです。↑寿徳寺の由緒は、東京都北区観光...
羽黒城は、愛知県犬山市羽黒字城屋敷にあった平城で、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫・梶原景親によって築かれました。梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していましたが、織田信長に仕えた梶原景久(景義)が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となりました。本能寺の変の後、城跡は廃れていましたが、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの前哨戦である「羽黒合戦」で森長可・池...
白旗神社(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、相模国一宮の寒川神社(→神奈川県高座郡寒川町宮山)を勧請して平安時代中期までに創建されており、鎌倉時代の1198(建久9)年に白玉山 般若院 荘厳寺(→神奈川県藤沢市本町4丁目)の住職覚憲が別当となり、以後1868(明治元)年の神仏分離令まで同寺が別当寺として祭祀を司りました。鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』には、源頼朝(→頼経の異母兄)の追及を受けた藤...
伝義経首洗井戸(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、源頼朝の追及を受けた藤原泰衡(ふじわらのやすひら→奥州藤原氏4代目)に攻められ、1189(文治5)年閏4月30日、衣川館(→岩手県西磐井郡平泉町高館)で自害した源義経(→頼朝の異母弟)の首級を多と洗ったと伝わる井戸及び供養塔です。義経主従の首級は6月13日に鎌倉腰越で和田義盛・(→侍所別当)・梶原景時(→侍所所司)らによって首実検(→本人確認)が行われています。民間伝承では首実検ののち...
令和5年2月6日(月) 【旧 一月十六日 仏滅】・立春・東風解凍(はるかぜこおりをとく)もののふの覚悟もかかる時にこそ心の知らぬ名のみ惜しけれ ~梶原景時(1140?-1200)辞世武士の覚悟はこのような時にこそ表れるものだ。その心も知られず汚名を残すのは口惜しいことだ
24.歴史小説【炎環】 評価:75点/作者:永井路子/ジャンル:歴史小説/出版:1964年 『炎環』は、女流作家、永井路子の小説、第一作である。 本作は、…
江戸川柳でたどる偉人伝(鎌倉・室町時代①)源頼朝・北条政子・梶原景時・吉田兼好・藤原定家・北条時頼・佐野源左衛門常世
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
畠山重忠の衣装武士の鑑と言われたほどの畠山殿武士らしく潔く美しく散っていきました。演じた中川大志さんがブレイクしたドラマでもありましたね!源実朝の衣装白地に鶴の柄は、亡く頼朝を思わせますね~北条義時の甲冑今となっては懐かしい梶原殿絵までお上手な後鳥羽上皇全成殿もお気の毒でした(; ;)上総介も存在感のある方でした。みんな大好き和田殿😄北条家の皆さんが、唱える度に間違えていた呪文(^0^;)承久の乱では、幕府方...
【鎌倉殿の13人】7話 ”敵か、あるいは” 感想 上総広常、梶原景時、全成登場と義盛の眉毛が…
【鎌倉殿の13人】7話 ”敵か、あるいは” 感想をお届けします。上総広常、梶原景時、全成登場と義盛の眉毛が。オマージュいっぱいの6話。景時の「刀は斬る人によって、名刀にも鈍(なまくら)にもなる」や義盛はなぜ眉毛を剃ったのか。を考察していきます。
屋島の戦いは、1185年(文治1)2月、讃岐(さぬき)国屋島(高松市)で行われた源平合戦の一つです。平家一門は、1年前に一ノ谷の戦いで敗れはしたものの、屋島に拠点をおき、瀬戸内一帯の制海権を握っていたため、源頼朝は再度源義経を登用、敵の本営屋島を衝かせることとしました。大阪の福島駅から南へ10分ほど歩いたところに、「逆櫓の松跡」という石碑があり、ここで源義経と梶原景時との対立があったという伝承があります。梶...
【復習26】鎌倉に賭けた男(鎌倉殿の13人、7/3~x/xx放送)
【復習】(7/3)悲しむ前に 相模川の橋供養の帰路、落馬した頼朝(大泉洋)は意識を失ったまま年を越しても、一向に回復の兆しは見られなかった。 ポスト頼朝を巡っ…
東京都大田区の六郷神社は、京浜急行六郷土手駅の北東、徒歩約10分のところにあります。社伝によれば、天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられています。 文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉...
品川区東大井にある梶原稲荷神社は、源頼朝の命により梶原景時が建久3年(1192)萬福寺を創建した際、寺の守護神として勧請したのが起源と伝わっています。元応元年(1319)萬福寺は兵火に見舞われ、馬込村(大田区)に移されました。その際、焼け跡に残された稲荷社は景時の屋敷に奉遷され、のちに来福寺に奉納されたと伝えられています。背後のブロック塀に囲まれた一画が梶原塚といい、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原...
梶原稲荷神社から南に下ったところに来福寺があります。梶原稲荷神社からこの辺りが梶原氏館跡といわれています。990年(正暦元年)、智弁阿闍梨によって開山されました。本尊は、地蔵菩薩で「経読地蔵」と呼ばれています。1501年(文亀元年)に梅巌という僧が、源頼朝が戦没者供養のために造営したという経塚の前を通りかかった際に、読経の声を聞き土を掘ってみたところ、地蔵が出土したことからきているそう。鎌倉時代には梶原...
相模線の寒川駅で下車し、北口にある寒川町観光協会を訪ねました。梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂のキャラクター中にはグッズやお土産物がいっぱい!こちらで、梶原景時に関する資料やマップを収集。スタッフの方に回りやすいルートを教えていただき、レンタサイクルをお借りして、寒川町をまわってきました。「鎌倉殿の13人」ポストカードまでいただきましたよ!ますは、一之宮地区にある梶原景時館跡へ。正治元年(1199...
「中村獅童さん」NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見たら、最初、1つ見るのを忘れた?と錯覚した。前にも義経の死の場面を敢えて描かない手法を三谷幸喜氏は採用し…
寒川町に鎮座する寒川神社は、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れるという関東地方における著名な神社の一つであり、初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多いそうです。鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされ、源頼家が誕生した際には、源頼朝より神馬の奉納等がありました。以後も北条氏から崇敬され、 戦国時代以降、相模国を支配した後北条氏や徳川家康...
正治2年(1200年)正月20日、梶原景時は、一族とともに京都へ上る道中、東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士たち、相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、狐崎において合戦となります。寺伝によると、約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇朝の頃、東北の蝦夷に備えてこの地に関所が設けられ、清見関と呼ばれていました。その傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されたのが、清見...
かなり前のことですが、静岡の梶原山へ出かけました。梶原山とは、静岡市葵区と清水区の境界の標高279mの山で、頂上からは静岡や清水の街、南に日本平、東に富士山、西に谷津山・愛宕山・八幡山が見えます。目的は頂上にある梶原景時父子ゆかりの史跡です。私はタクシーで公園の駐車場まで行きましたが、途中で徒歩で上がる人たちにも出会いました。駐車場からは徒歩5分で梶原山公園に到着。この日は快晴で、素晴らしい景色を見る...
梶原山公園の駐車場近くにも、「鬢水」という梶原景時ゆかりの史跡があります。 この岩の間からは、清冽な水が滾々と湧き出し、厳冬でも涸れることがなかったといわれている。すでに覚悟を決めていた梶原景時たちは、岩間の水を両の掌に受けて、顔を洗い、喉をうるおした。そして、水鏡に映して、鬢のほつれを直して、身を整え、自刃の地である山上を目指したので、この岩間の水を「鬢水」または「鬢洗いの水」と呼ぶようになった...
鬢水のすぐ近くには「駒喰い笹」という史跡も残っています。人も馬も、疲れ果てて、山中をさまよったので、梶原景時の乗馬「磨墨」(するすみ)は、空腹のあまり笹の葉を喰いちぎった。すると、笹の葉に「矢筈」(やはず)のような磨墨の歯形がつき、以来この地の笹は、刃先が葉型のように枯れたので、人々はこれを「駒喰い笹」と呼ぶようになった。ちなみに梶原氏の家紋には、「矢筈」が使われている。(案内板より)※矢筈(やは...
静岡の梶原景時の史跡(4)高源寺 梶原一族の供養碑とのレリーフ~うなり地蔵
静岡市清水区高橋にある高源寺。こちらには、梶原一族の供養碑があります。供養碑の表面には、「不尽乾坤燈外燈龍没」と、横側には、「三拾三人是也」と書かれています。この碑は当初、一族郎党の首が晒されたところに建てられ、その後高源寺に移されたのではないかということです。「不尽乾坤燈外燈龍没」は、唐の杜牧の作で、無辺の風月眼中の眼 尽きず乾坤燈外の燈柳暗花明十万戸 門を敲く処々人の應うる有りの七言絶句から...
静岡の梶原堂は、元々は、梶原山龍泉院という梶原景時を本尊とした梶原一族をまつるためのお寺でした。梶原一族が滅亡してから160年経った1360年12月28日のこと、景時の8代の孫である梶原景慶が駿河に赴任して来ました。景慶は、足利尊氏の弟である直義の援助を得、矢崎山の山腹に龍泉院を建て、景時をまつりました。1822年、龍泉院は火災により全焼しますが、景時、長男・景季、次男・景高、源頼朝、頼家の位牌と如意輪観音像、...
鎌倉の建長寺では、梶原景時の亡霊が施餓鬼供養に遅れてやってきたという伝説が残されています。毎年、景時のために7月15日、山門にて午前8時に国宝の梵鐘が撞かれ、「三門施餓鬼」と「梶原施餓鬼」が続けて行われています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
鎌倉坂下の御霊神社は、平安時代後期に建立されたと推定されています。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。その後、後三年の役で活躍した梶原景時の先祖・鎌倉権五郎景政が祭られ、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なっ...
湘南モノレールの湘南深沢駅から徒歩約10分、梶原の御霊神社が見えてきます。建久元年(1190)梶原景時により創建されたとされています。坂ノ下の御霊神社は「ごりょうじんじゃ」と読みますが、梶原の御霊神社は「ごれいじんじゃ」と読むようです。ご祭神は、鎌倉権五郎景正で、本殿には、梶原景正夫妻像、梶原景時の像、三猿像が安置されているといいます。元々は葛原ヶ岡に創建されたもので、また坂ノ下の御霊神社は、元はこの御霊...
愛知県犬山市の興禅寺は、頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時が、1174年に菩提寺として建てた寺で、興禅寺の東側には羽黒城跡が残されています。羽黒城は、建仁2年(1201)梶原景親(景時の孫)によって築城された。景時は、頼朝に信望のあった御家人で侍所の別当として権勢を誇っていたが、頼朝が死ぬと、しばらくして滅ぼされた。 一部の遺族たちは、景時の孫・豊丸(のちの景親)をかこんで豊丸の乳母...
忠義と狂気の狭間…梶原景時を描く「黒雪賦」!永井路子「炎環」より
今日の夢中は、忠義と狂気の狭間…梶原景時を描く「黒雪賦」!永井路子「炎環」より…です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたもお気に入りの一冊を見つけてみませんか?
鎌倉殿の13人 第27話「鎌倉殿と十三人」 ~13人の合議制~
父・源頼朝の急死により、嫡男の源頼家が継承の準備も不十分なまま、突然、鎌倉殿に就任することになりました。このとき頼家18歳。御家人たちのいざこざを調停す...
二代目鎌倉殿となった源頼家を補佐するべく発足した13人の合議制でしたが、スタートから約半年後、早くもその1人が脱落します。死んだ源頼朝が側近中の側近とし...
能員サン,いきなり名言(笑) ってか,皆さん補佐になってないし。そりゃ,あの二人もイライラするわ(笑)。まあ,実際,13人が雁首を揃えて評議したことはないよーですが。 で,全成サン,お気の毒・・・ 頼家タンが暗君路線突っ走りなのは,ちょっとな〜。りくさん,義村クンの上を行くとは,ながれいし〜♪ と思ったら,ラスボスの片鱗見せてるし;;; 彼,前半の佐殿を継ぐ,後半の隠れ主役になりそーでつね。 景時サンの涙,ぐっと来...
建久10年(1199年)1月13日、源頼朝がこの世を去りました。享年53。それは突然の死だったようで、報せを受けた京都の公家たちの日記には、驚きの様子が...
鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~平家滅亡~
「その1」のつづきです。 屋島の戦いに敗走した平家軍は、安徳天皇とともに最後の拠点である長門彦島に逃れました。一方、屋島の戦いに勝利した源義経軍は、熊野...
石橋山以来の景時サンの神頼み,デターーーーーーーーーッ(笑) でも,いかにも中世に生きた人らしいと納得しますなぁ。「讒言」に対する義時タンの異議への理由説明として,うまく繋げてるし。 九郎最大の失策〜。言葉なしで,今までとは違ういい描き方ですな・・・神器に関しては,後白河院があそこまで淡白だったとは思えませんけどね(苦笑) そしてそこはかとなく漂う狂気とバランスの悪い人間味。うん,義経像をちょっと書き換えましたな...
鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~屋島の戦い~
今回は屋島の戦いから壇ノ浦の戦い、そして腰越状による源頼朝、義経兄弟の決裂まで、一気に話が進みましたね。これが頼朝もしくは義経が主人公の物語であれば、数...