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江戸川柳でたどる偉人伝(鎌倉・室町時代①)源頼朝・北条政子・梶原景時・吉田兼好・藤原定家・北条時頼・佐野源左衛門常世
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
#3722 和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に
令和4年12月15日(木) 【旧 一一月二二日 友引】・大雪・熊蟄穴(くまあなにこもる)和射見《わざみ》の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に ~作者未詳 『万葉集』 巻10-2348 相聞歌和射見の嶺を通り過ぎる時に降る雪のように厭うことはないのだとその子に告げ
二尊院は、平安時代初期の承和年間(834年 - 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したとされています。総門慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものと伝わっています。総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦などが施されており、室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅...
常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創。本堂は慶長年間に小早川秀秋公の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営されました。 山門江戸後期に改築されたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。仁王門仁王門は、もとは本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものが元和二年(1616)に移築されました。 当寺の建築物の中...
大河ドラマでは、源実朝の和歌の師匠が藤原定家になりましたね。これから益々和歌に傾倒していくようです。京都の嵯峨野は、平安遷都後には、風光明媚なため、天皇や大宮人たちの遊猟、行楽地でした。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住し、以後貴族・文人などにより、山荘や寺院が次々と建てられました。藤原定家がこの地に小倉百人一首を編纂したとされる小倉山の山荘「時雨亭跡」とされる遺跡が、厭離庵、二尊院、常寂光寺に残...
鎌倉市坂ノ下の海浜公園に、源実朝の歌碑があります。長谷寺から成就院に行く途中で立ち寄りました。実朝は、後鳥羽上皇が熱中していた蹴鞠と和歌にも「当代は歌鞠をもって業となす,武芸廃れるに似たり」と批判されるほどに執心したといいます。承元3年7月には、和歌30首を藤原定家に送って指導を求めており、和歌は死後に『金槐和歌集』としてまとめられました。金槐和歌集(きんかいわかしゅう)鎌倉前期,源実朝の歌集『鎌倉右大...
以下、目次 第 一章 佐渡の暮らし 第 二章 隠岐からの便り 第 三章 京都の法要 第 四章 隠岐と佐渡 第 五章 鎌倉の変事 第 六章 父宮の思い出 第 七章 少女との出会い 第
令和4年4月10日(日) 【旧 三月一〇日 赤口】・清明・鴻雁北(こうがんかえる)春草を馬咋山《うまくひやま》ゆ越え来なる雁の使は宿り過ぐなり ~柿本人麻呂歌集 『万葉集』 巻9-1708 雑歌春草を馬が食うという馬咋山を越えてやって来た雁の使いは、故郷から何の便りも持た
※2019年の旅行でござる では、境内を歩いてみまひょう~、の続きでござる。 本堂のお隣に、位牌堂「御霊屋」。 その隣に、弁財天堂「九頭龍弁財天」。 階段を挟んで、右にある鐘楼