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花鳥和歌「卯の花に郭公(ホトトギス)」の季節は卯の花が咲きホトトギスの到来を待ちわびている陰暦四月の初夏で西暦では5月の晩春を詠んでいました。
花鳥和歌「卯の花に郭公(ホトトギス)」 2025年5月の暦 西暦4月(仲春)・陰暦三月(晩春) yaseta.hateblo.jp 奈良時代の万葉集にある「霍公鳥」も平安・鎌倉時代の「郭公」も音読みではカッコウだが、訓読みでホトトギスと読ませており、当時はカッコウもホトトギスも同じ鳥と思われていたようです。 【2025年5月(陰暦 卯月(うづき)四月)】 【立夏】 立夏(第七節気) : (西暦)5月5日~5月20日 立夏(第七節気) : (陰暦)四月八日~四月二十三日 (四月節) 新緑の風薫る、爽やかな初夏の季節。 陽気が増して、うっすらと汗ばむような薄着が続く。 人の装い、水の光、すべてが眩…
#4562 ぬぎかへて形見とまらぬ夏衣さてしも花の面影ぞたつ
令和7年4月1日(火) 【旧 3月4日 赤口】 春分・「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」ぬぎかへて形見とまらぬ夏衣さてしも花の面影ぞたつ ~藤原定家(1162-1241)『正治初度百首』 1324夏の衣に脱ぎ変えて、花の季節も肩身を滑り落ちるように過ぎ去り、春の面影だけ
藤原定家の花鳥和歌「藤に雲雀」の季節は現代も陰暦も清明・穀雨ですが、季節感は現代は仲春、陰暦は晩春です。
藤に雲雀 令和7年(2025年)4月の暦 【2025年4月(陰暦 弥生三月)】【清明】清明(第五節気):(西暦)4月4日~4月19日 清明(第五節気):(陰暦)三月七日~三月二十二日(三月節) 春うららかに山河草木が光輝く、万物清明の季節。蝶が舞う花の盛りを迎え、雁は北へ帰るころ。寒暖の差から水蒸気が発生し、昼は霞み、夜は朧月になる。。 【穀雨】穀雨(第六節気): (西暦)4月20日~5月4日穀雨(第六節気): (陰暦)三月二十三日~四月七日(三月中) 春の最後の節気。百穀を潤すといわれる慈雨の季節。雨が大地を十分に潤し、苗の成長を促すことから種まきの好機とされる。長雨は菜種梅雨といわれる。 …
藤原定家の十二カ月花鳥和歌「桜に雉」の季節は仲春で、旧暦の暦では如月(二月)です。
花鳥和歌 「桜に雉」 2025年3月の暦 表1 季節の区分 2月10日過ぎから例年にない大雪を北陸・東北・北海道に降らせた寒波は昨日でようやく収まり、今日、2025年2月25日は打って変わり、暖かく晴れた日になりました。これからは晴れの日が続き、気温も上がり、もうすぐ、春を迎える3月に入ろうとしています。 表1に示すように西暦の現代では春は西暦の暦でおおよそ3月~5月の約3カ月としていますが旧暦の春はそれより1カ月早く、立春で始まる2月(旧暦正月節)から立夏の直前の穀雨の4月(旧暦三月中)の約3カ月としています。 天文気象台によると、気象学的な春は太陽黄経345度に達した点(啓蟄)から75度直…
歌は魂なり ~藤原定家と平家物語との意外な関係。そして彼を巡る怪奇伝説について
“さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな” By 平忠度(1144-1184)from 千載和歌集 前回の投稿で藤原定家(1162-1241)の名前をチラリと出しましたが、今回は主役級の扱いで。 まず↑の画像は京都府京都市下京区にある新玉津島(にいたまつしま)神社。賑やかな五条エリアにあるこじんまりとした神社ですが、↓の説明板に書かれているようにもともとは藤原俊成(としなり/しゅんぜい。1114-1204)の邸宅内にあった神社です。 祭神の衣通姫は歴史上の人物で近親婚がらみの妖しい伝説を持っている人物です。この人だけでもネタになりそうな面白さを持った人物ですが、ここでは↓のWi…
伊勢神宮と仏教との関係を探る ~新古今和歌集から奈良の大仏を経て朝熊ヶ岳へ。ちょっと鎌倉初期の政治事情も。
“神風や みもすそ川の そのかみに 契りしことの 末をたがふな” ---by 藤原(九条)良経(1169-1206) from 新古今和歌集(1871) 前に何度か新古今和歌集の神祇歌をネタにしたのでもう一度。歌の作者九条良経は源頼朝と朝廷の橋渡し役を担った藤原(九条)兼実の息子です。百人一首にもこの人の歌が収録されています。 その百人一首の選者である(新古今和歌集の選者のひとりでもある)藤原定家は彼の九条家の家司的な立場にありました。この良経さん、定家からも将来を嘱望されていたようですが、満年齢37歳の若さで死去。 この歌は彼が平重衡によって焼け落ちてしまった奈良の大仏&大仏殿が無事再建され…
藤原魚名の大納言への抜擢は、藤原永手の死去後、北家の公卿が、魚名一人になったため、藤原氏一族の連帯を図るため、南家・北家・式家の釣り合いを取った結果によると…
神戸市須磨区にある関守稲荷神社(せきもりいなりじんじゃ)は、須磨の関の守護神、稲倉魂神を祀る神社です。名前の由来は、源兼昌が詠んだ百人一首のうちの一首に登場する須磨の関があったとされる場所に神社を建てたことから来ているそうです。須磨の関は古代、畿内と西国とを繋ぐ交通と軍事の要衝として重視されました。清少納言の『枕草子』にも、「関は、逢坂の関・須磨の関・鈴鹿の関・岫田の関・白河の関・衣川の関」と記さ...
小倉百人一首を編纂した藤原定家ゆかりの嵯峨野(5)嵯峨嵐山文華館
百人一首は、800年前に藤原定家がここ嵯峨嵐山で優れた和歌を撰んだことから始まると伝えられます。2006年1月から2017年3月まで営業していた百人一首ミュージアム「百人一首殿堂 時雨殿」を改装し、2018年11月1日に「嵯峨嵐山文華館」としてリニューアルオープンしました。常設展では百人一首の歴史やその魅力を伝える展示が行われています。1F 常設展百人一首の歌かるたは江戸時代の初期に誕生。当初は貴族や大名の嫁入り道具の1...
小倉百人一首を編纂した藤原定家ゆかりの嵯峨野(4) 中院山荘跡
清涼寺から西に約5分、二尊院門前北中院町の通り沿いに、地蔵尊が祀られており、その横に「中院山荘跡」の駒札があります。鎌倉時代のはじめ、僧・蓮生の中院山荘がありました。蓮生の出家前の名は、宇都宮頼綱といい、歌人としても著名で、藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築きました。『英雄百首』(歌川貞秀画)宇都宮頼綱鎌倉時代の武将,歌人。法名蓮生。宇都宮成綱の子。祖父朝綱の公田掠領の罪に...
二尊院は、平安時代初期の承和年間(834年 - 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したとされています。総門慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものと伝わっています。総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦などが施されており、室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅...
小倉山山腹に位置する常寂光寺にも、藤原定家の小倉山荘跡と伝えられる場所があります。 常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創されました。山門江戸後期に改築されたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。仁王門仁王門は、もとは本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものが元和二年(1616)に移築されました。 当寺...
『源氏物語』は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品です。平安中期、宮仕えで宮中の内情にも精通した紫式部が、和歌795首を詠み込んだ物語を通して、当時の貴族社会を描きました。『源氏物語』の原本は、今は残されていませんが、現存する最古の写本は、鎌倉時代に藤原定家(ふじわらのさだいえ)が残したものであるといわれており、定家の写本は、以後『源氏物語』の主流となり、広がっていきました。また、定家が京都小倉山の山...
藤原定家はなぜ悲運の人を選んだのか?百人一首のミステリーを解き明かす!
百人一首と言えば、かつてはお正月のカルタ遊びの定番で、中学生か高校生の時に暗記した方も多いのではないでしょうか?「競技かるた」も盛んで、最近ではアニメ「ちはやふる」の人気から、小中学生や外国人にまで愛好家が増えているようです。私も高校生の時
熊野御幸とは上皇(法皇)の熊野詣。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の院政期が中心で、この四上皇の度数がとりわけ多い。全体で100度を数える。この作品は後鳥羽上皇の熊野御幸に随従した歌人、藤原定家の記録を、和歌山県出身の作家 ...
仁王門から右の小道に向かうと、『源氏物語』二十二帖「玉鬘」ゆかりの二本の杉があります。幹の根元がくっついた杉の大木です。 謡曲「玉鬘」と二本の杉 謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が、僧を長谷寺の”二本の杉”の下に案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという物語になっている。 玉鬘は、光源氏と契り生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あ...
藤原定家直筆の「古今和歌集」注釈書が子孫のおうちで保管されていた木箱から発見されました。 藤原定家直筆というのが凄い。 歴史のはるか彼方の昔の人なのに、現代に直筆の「古今和歌集」注釈書があるとは。 最近は歴史の新事実や新発見が続いているので、かつて義務教育で習った常識が覆されているのは面白い。 当時習った藤原定家は全然わからない人だったのに。 今回でてきた本でまた古今和歌…
藤原定家による『古今和歌集』注釈書の自筆本が発見されたとの報道
藤原定家の自筆本見つかる古今和歌集注釈、冷泉家から―京都(時事通信)鎌倉時代初期の歌人である藤原定家(1162~1241)による『古今和歌集』の注釈書「顕注密勘」自筆本が見つかったと報じられています。なお、発表したのは、冷泉家の資料などを管理する財団です。・公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」それで、詳細は冒頭の記事をご覧いただければと思いますが、鎌倉時代の著名人による自筆資料ということで、貴重な発見となりました。これで、定家さんの和歌に関する研究が更に進むのでしょう。#ニュース藤原定家による『古今和歌集』注釈書の自筆本が発見されたとの報道
『愛国百人一首』の選定された36首目は藤原定家です。これより鎌倉時代の歌となります。(著者所持の『愛国百人一首』の源実朝の絵札) 曇 り な き…
#4066 むら雲の絶え間の空に虹立ちて時雨過ぎぬるをちの山の端
令和5年11月24日(金) 【旧 一〇月一二日 先負】・小雪 虹蔵不見(にじかくれてみえず)むら雲の絶え間の空に虹立ちて時雨過ぎぬるをちの山の端 ~藤原定家(1162-1241)『玉葉和歌集』 巻6-0847 冬歌雲の間の空に虹が立って時雨は過ぎてゆく、遠くの山の端のほうへと。Photo
#3992 荻の葉にかはりし風の秋のこゑやがて野分の露くだくなり
令和5年9月11日(月) 【旧 七月二七日 先負】・白露・草露白(くさのつゆしろし)このまどゐしづかに二百二十日かな ~富安風生(1885-1979)Photo:tenki.jp 今日は雑節の「二百二十日」。これは二百十日と同じく立春から数えた日数です。昔から稲作にとって重要な時期であ
#3885 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の 身もこがれつつ
令和5年5月27日(土) 【旧 四月八日 大安】・小満・紅花栄(べにばなさかう)来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の 身もこがれつつ ~藤原定家(1162-1241)『新勅撰和歌集』 巻13-0849 恋三松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想
#3823 やどごとに心ぞ見ゆる円居する花の都の弥生きさらぎ
令和5年3月26日(日) 【旧 閏二月五日 友引】・春分・桜始開(さくらはじめてさく)やどごとに心ぞ見ゆる円居《まどゐ》する花の都の弥生きさらぎ ~藤原定家(1162-1241)『夫木和歌抄』 巻4-1233 春歌四家ごとになごやかな団らんがあるような、花満開の都の二月三月の季節
江戸川柳でたどる偉人伝(鎌倉・室町時代①)源頼朝・北条政子・梶原景時・吉田兼好・藤原定家・北条時頼・佐野源左衛門常世
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
#3722 和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に
令和4年12月15日(木) 【旧 一一月二二日 友引】・大雪・熊蟄穴(くまあなにこもる)和射見《わざみ》の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に ~作者未詳 『万葉集』 巻10-2348 相聞歌和射見の嶺を通り過ぎる時に降る雪のように厭うことはないのだとその子に告げ
二尊院は、平安時代初期の承和年間(834年 - 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したとされています。総門慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものと伝わっています。総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦などが施されており、室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅...
常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創。本堂は慶長年間に小早川秀秋公の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営されました。 山門江戸後期に改築されたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。仁王門仁王門は、もとは本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものが元和二年(1616)に移築されました。 当寺の建築物の中...
大河ドラマでは、源実朝の和歌の師匠が藤原定家になりましたね。これから益々和歌に傾倒していくようです。京都の嵯峨野は、平安遷都後には、風光明媚なため、天皇や大宮人たちの遊猟、行楽地でした。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住し、以後貴族・文人などにより、山荘や寺院が次々と建てられました。藤原定家がこの地に小倉百人一首を編纂したとされる小倉山の山荘「時雨亭跡」とされる遺跡が、厭離庵、二尊院、常寂光寺に残...
鎌倉市坂ノ下の海浜公園に、源実朝の歌碑があります。長谷寺から成就院に行く途中で立ち寄りました。実朝は、後鳥羽上皇が熱中していた蹴鞠と和歌にも「当代は歌鞠をもって業となす,武芸廃れるに似たり」と批判されるほどに執心したといいます。承元3年7月には、和歌30首を藤原定家に送って指導を求めており、和歌は死後に『金槐和歌集』としてまとめられました。金槐和歌集(きんかいわかしゅう)鎌倉前期,源実朝の歌集『鎌倉右大...
以下、目次 第 一章 佐渡の暮らし 第 二章 隠岐からの便り 第 三章 京都の法要 第 四章 隠岐と佐渡 第 五章 鎌倉の変事 第 六章 父宮の思い出 第 七章 少女との出会い 第
令和4年4月10日(日) 【旧 三月一〇日 赤口】・清明・鴻雁北(こうがんかえる)春草を馬咋山《うまくひやま》ゆ越え来なる雁の使は宿り過ぐなり ~柿本人麻呂歌集 『万葉集』 巻9-1708 雑歌春草を馬が食うという馬咋山を越えてやって来た雁の使いは、故郷から何の便りも持た
※2019年の旅行でござる では、境内を歩いてみまひょう~、の続きでござる。 本堂のお隣に、位牌堂「御霊屋」。 その隣に、弁財天堂「九頭龍弁財天」。 階段を挟んで、右にある鐘楼