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宝治2年(1248)3月14日、道元禅師は永平寺にて帰山の報告をされた。宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に云く。山僧、昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月昨日、帰寺、今朝陞座す。這一段の事、或いは人有って疑著す。幾許の山川を渉って、俗弟子の為に説法する、俗を重くし僧を軽んずるに似たり、と。又た疑わく、未曾説底の法、未曾聞底の法有りや、と。然而、都て未曾説底の法、未曾聞底の法無し。只だ、他の為に説く、修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、抛塼引玉のみなり。然も是の如くなりと雖も、這一段の事、永平老漢、明得・説得・信得・行得なり。大衆、這箇の道理を会せんと要すや。良久して云く、尀耐、永平が舌頭、説因・説果・無由。功夫耕道、多少の錯りぞ。今日、憐むべし水牛と作ることを...道元禅師による永平寺帰山の上堂について
【鎌倉・建長寺(前編)】大禅寺 鎌倉一の 威容かな |60歳からの御朱印めぐり〔020/541〕
ついに来ました、建長寺。鎌倉五山第一位にふさわしく、堂々たる陣容の見どころの多い寺院です。※2022年11月参拝
武士道精神の原点「北条時頼の撫民思想」と騎士道精神「ノブレス・オブリージュ」
鎌倉時代の年表 【一神教のキリスト教国西洋が持つ異教徒に対する優越感】 1868年(明治元年)、国際舞台にデビューし、近代化に梶を切り替えた日本の明治時代前半は世界に追いつけ追い越せと、莫大な費用をかけ招聘した外国人教授・専門家の「お雇い外国人」から必死になって政治・産業・科学技術・教育・文学・芸術などすべての分野について学んでいました。 (お雇い外国人の招聘を終了した明治28年(1895)を境に明治時代を概略前半と後半に分けた。) 1.明治時代前半28年間:明治元年(1868)~明治28年(1895) 2.明治時代後半17年間:明治29年(1896)~明治45年(1912) yaseta.h…
祇央山 龍頭院 妙法寺(→神奈川県川崎市高津区久末)は、開基不詳の天台宗寺院ですが、本堂には1976(昭和51)年春に山門前から出土した鎌倉時代中期の「建長七年」と彫られた鎌田政清(かまたまさきよ→源義朝の乳兄弟)の往生を願うと記された板碑が安置されています。1255(建長7)年は鎌倉幕府の5代執権北条時頼(→泰時の孫)の治世で、鎌田政清の没後100年(→百回忌)にあたります。「主君聖霊」とあるので政清の家臣の子孫たちによって建...
義時・泰時の血を引く5代執権・北条時頼は良い人悪い人?時頼ゆかりの「建長寺」「明月院」へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、義時・泰時の血を引く5代執権・北条時頼は良い人悪い人?時頼ゆかりの「建長寺」「明月院」へ…です。
江戸川柳でたどる偉人伝(鎌倉・室町時代①)源頼朝・北条政子・梶原景時・吉田兼好・藤原定家・北条時頼・佐野源左衛門常世
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)は創建の詳細は不詳で様々な俗説が伝わりますが、川崎市教育委員会の調査によると室町時代中期の嘉吉(→1441年~1444年)・文安(→1444年~1449年)年間に川崎市宮前区有馬から現在地に移築されたという真言宗智山派寺院です。寺伝では西福寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼の創建といいますが、真偽の程は定かではありません。ただし、有馬郷は鎌倉時代には鎌倉北条氏の荘園が...
武士の都・鎌倉・・・源頼朝によって、日本初の武家政権がこの地に誕生しました。ところが、頼朝の直系は、実朝暗殺によって三代で途絶えることになります。この時、頼朝の妻・政子と二代執権・北条義時兄弟は、次の将軍に皇族の皇子を望みました。しかし、朝廷はこれを受け
鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある浄光明寺は、北条義時の孫であり、6代執権を務めた北条長時が創建した寺院です。鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷、泉ヶ谷に位置し、鎌倉の交通上、防御上、重要な地域にある寺院といえます。寺伝によれば、建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山は真阿(真聖国師)でした。...
法堂は、文化11年(1814)に建長寺派の寺院により再建されたものです。関東最大の法堂で、2005年に重要文化財に指定されました。堂内中央奥に高さ2メートルを超える法座を設け、その奥に本尊千手観音坐像を安置観音様の御前立は、2005年愛知万博に陳列されたパキスタンのラホール中央博物館所蔵の釈迦苦行像のレプリカが万博終了後にパキスタンより寄贈され、安置されたもの。天井の雲龍図は、建長寺の創建750年を記念して、小泉淳...
鎌倉の建長寺は、1253年、禅によって国の興隆をはかるため、北条時頼の願いにより、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が開いた日本で最初の禅の大道場で、建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。現在の総門は、1783年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)で建てられたものを1940年に移築したものです。安永4年(1775年)の上棟で、楼上には、釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢...
鎌倉市長谷にある日蓮宗の寺院・光則寺開基は北条時頼の家臣で寺社奉行の宿屋光則(やどやみつのり)で、日蓮が佐渡に流罪になっている間、光則は弟子の日朗を土牢に監禁しましたが、次第に日蓮宗に心を寄せる様になり、1274年(文永11年)頃に自邸を寺院に改め、日朗を開山に迎え、父の名「行時」を山号、自身の名「光則」を寺号として「行時山光則寺」を創建しました。1260年(文永元年)に日蓮は宿谷氏の邸宅を訪ね、「立正安国論...
熊野山観音院 玉泉寺(→東京都狛江市東和泉3丁目)は、飛鳥時代前期の634(舒明天皇6)年に僧の浄慶法印が薬師如来と文殊菩薩を安置して開基した大輪寺という寺が前身の天台宗寺院ですが、鎌倉時代に廻国伝説をもつ5代執権北条時頼(ほうじょうときより→北条泰時の孫)が諸国行脚の折に、荒廃した堂宇を再造営したという寺伝を持ちます。そのためか山門の瓦には北条氏の家紋である三鱗紋が、本堂の瓦や寺紋には丸に三鱗紋が用いられてい...