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「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに」 後京極摂政前太政大臣 妻を亡くした寂しさを和歌に昇華させた
百人一首第91番目の歌の作者は後京極摂政前太政大臣ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじんです。 関白九条兼実の子で、藤原忠通の孫にあたります。 今回は後京極摂政前太政大臣について紹介します。 後京極摂政前太政大臣とは 後京極摂政前太政大臣とは藤原良経のこと。 生年が1169年、没年が1206年。 祖父の藤原忠通は百人一首第76番目の歌の作者ですね。 保元の乱の中心人物でした。 dantandho.hatenadiary.com 藤原良経は政界で活躍しながらも、和歌や漢詩などの文学に通じていました。 自らも優れた和歌を残しています。 そして、当時の文学界の有力なパトロンで、百人一首の選者…
百人一首の第81歌から第90歌までをまとめます。 保元の乱、平治の乱、それに続く源平の合戦期。 その時代の歌人たちの作品が中心になります。 選者の藤原定家と、実際に交流のあった歌人の作品もいくつかありますね。 この後は第91歌から第100歌まで。 源平の合戦後までの歌人の作品になります。 dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com…
「弟の牛若は、四歳までは母とともに暮らしていたが」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(五)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの五回目。 常盤は清盛を受け入れます。 そして三人の子らの命を助けます。 ここで、今若、乙若、牛若(義経)三人の生涯が語られます。 今若は、八歳になった春の頃からかんじょう寺(観音寺、醍醐寺か)で学問をさせ、十八の年に受戒し禅師の君と呼ばれるようになった。後に駿河の国、富士の裾野の阿野という山寺で仏法を盛んにしておられたが、そこでは悪禅師殿と称せられるようになっていた。 乙若は八条に住んでいたが、僧ではあっても企みのある恐ろしい人で、加茂、春日、稲荷、祇園の御祭があるごとに平家を狙い、最後は紀伊国(きのくに)にいた叔父新宮十郎行家が反乱を起こした…
「見せばやな 雄島の海人の 袖だにも」 殷富門院大輔 和歌の上手として多くの歌が勅撰和歌集に選ばれた
百人一首第90番目の歌の作者は殷富門院大輔いんぷもんいんのたいふです。 歌人仲間からは「千首大輔」とあだ名されるほどの多作の人だったようです。 今回は殷富門院大輔について紹介します。 殷富門院大輔とは 生年が1130年頃、没年が1200年頃。 藤原氏北家の一人、藤原信成の娘です。 後白河院皇女の殷富門院に出仕しました。 鴨長明からは和歌の上手の一人に挙げられ、またとても多作だったことから、和歌仲間からは「千首大輔」とあだ名されるほどでした。 藤原定家、西行らとも交流があり、当時の歌壇の中心にいた人だったようです。 作った歌は多くの勅撰和歌集に選ばれています。 新古今和歌集に10首、新勅撰和歌集…
「清盛は、常盤がもし自分に従いさえするのであれば」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(四)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの四回目。 常盤は清盛らに囚われてしまいます。 そして清盛は常盤に文を届ける。 常盤は子らのためと心を決め文を開きます。 清盛は、常盤がもし自分に従いさえするのであれば、将来たとえ平家の敵になったとしても構わぬ、その三人の子らを助けてやろうと思った。それで、頼方、景清に命じて、七条朱雀(しゅじゃく)というところに常盤らを置いた。見張りの当番の采配は頼方にまかせて守護させた。 常盤のもとに、清盛は手紙を書いて届けさせたが、常盤はそれを手に取りもしなかった。それでもついには、子を助けたいがために、清盛の意に従うことにした。常盤のこの決心のおかげで、三…
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば」 式子内親王 斎院による「忍ぶ恋」の歌
百人一首第89番目の歌の作者は式子内親王しょくしないしんのうです。 賀茂斎院かものさいいんとして11歳から21歳まで過ごした人でした。 今回は式子内親王について紹介します。 式子内親王とは 生年が1149年、没年が1201年。 後白河天皇の皇女です。 守覚法親王や以仁王の姉にあたります。 21歳で斎院を退きますが、その後は社会とは交わらず、藤原俊成や藤原定家らの指導を受けて和歌を勉強するような、静かな暮らしをしていたようです。 その式子内親王は、のちに呪詛事件の犯人とされてしまいます。 この事件があってから、式子内親王は出家しますが、亡くなるまでの生涯は、本人が希望したような穏やかなものではな…
「常盤らが都に出てきたことが六波羅に伝えられた」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(三)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの三回目。 常盤が清盛と対面します。 清盛は常盤を見て、急に怒りがさめてしまいます。 一転して、常盤にご執心となります。 常盤らが都に出てきたことが六波羅に伝えられた。悪七兵衛景清(あくしちひょうえかげきよ)、監物太郎(けんもつたろう)に命じて、子ともども六波羅に引き立てた。清盛は常盤を捕らえたら、火でも水でももって責めてやろうと思っていたが、常盤の姿を目の当たりにすると、そのように怒る心は静まってしまった。常盤という女は、日本一の美人であったのだ。九条院、すなわち近衛天皇の中宮藤原呈子(ていし)は、派手な催し事が好きであった。それで都中から容顔…
大河ドラマ『光る君へ』第10話が放送されました。8話と9話については書きませんでした。早いうちに「毎回は書かないぞ」という姿勢を示したかった(笑)のもあります…
「そこへ、常盤の母、関屋という者が」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(二)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの二回目。 都では、常盤の母、関屋が平家の手に落ちます。 それを心配する常盤は、三人の子らをつれて都に出て行きます。 そこへ、常盤の母、関屋という者が、楊梅(やまもも)町に住んでいるということを六波羅の平家の者たちが見つけ出し、捕らえて厳しく取り調べしているという噂が聞こえてきた。常盤はこの噂に悲しんだ。母の命を助けようとすれば三人の子の命を失う。子らを助けようとすると老いた母の命を失う。親の不幸についての嘆き、子らに降りかかる災難への苦しみ、いずれも疎かにできるものではないが、子のために親を見捨てることなどできるだろうか。親に孝行を尽くせば、堅…
「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ」 皇嘉門院別当 難波江の一夜の恋に身を尽くし
百人一首第88番目の歌の作者は皇嘉門院別当こうかもんいんのべっとうです。 皇嘉門院聖子せいしに仕えた人でした。 今回は皇嘉門院別当について紹介します。 皇嘉門院別当とは 生没年は不詳。 藤原忠通の娘で崇徳天皇の皇后であった皇嘉門院聖子に支えていました。 保元の乱では崇徳天皇と藤原忠通が対立。 皇嘉門院聖子はその板挟みとなり苦悩したことでしょう。 乱の後に出家します。 皇嘉門院別当も、共に出家したと考えられています。 百人一首に選ばれている歌は、掛詞、縁語が多用されています。 「難波江の芦」は「かりね」の序詞。 「かりね」は「刈り根」ですが、「仮寝(仮初の共寝)」。 「ひとよ」は「一節」と「一夜…
ちょっとした着眼点の違いで、小説はもっと面白くなる。本書は「蹴りたい背中」「ゴールデンスランバー」など、現代の純文学やミステリー、古典などを題材に、作品をより深く楽しく味わうコツを、人気小説家が分かりやすく解説。小説を読 ...
「平清盛が、これらの子を捕らえて斬るべしと言った」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(一)
こんにちは、暖淡堂です。 今回から「義経記」の常盤都落ち。 常盤は三人の子らと逃げるのですが、平氏に追われていると知られているので、誰も助けてくれません。 頼りに出来る人がいない状況です。 平清盛が、これらの子を捕らえて斬るべしと言ったとさかんに聞こえてきたので、平治二年二月十日のまだ明け方、常盤は三人の子らを引き連れて、大和の国宇陀の郡岸の岡というところにあった外戚の家をたずねていったが、このように世間が乱れている中では頼りにならず、匿ってくれなかった。それで、大和の国の大東寺という所に、常盤は三人の子とともに隠れていた。 現代語訳:暖淡堂 *☺☺☺☺☺* 常盤の苦労が続く部分になります。 …
先日、壊れてリピートしたと書いた、ダイソーのメガネ型ルーペ(1.3倍)。その後、間一日おいて出勤した昨日、駄目元で室内を探してみたところ……見つかっちゃったよ(驚)テーブルからかなり離れた隅の方の絨毯..
「村雨の 露もまだ干ぬ 槇の葉に」 寂蓮法師 日本的な風景を目で追うような叙景詩
百人一首第87番目の歌の作者は寂蓮法師じゃくれんほうしです。 定家の従兄弟にあたる人です。 今回は寂蓮法師について紹介します。 寂蓮法師とは 生年は1139年頃、没年は1202年。 俗名は藤原定長で、父は阿闍梨俊海。 後、阿闍梨俊海の兄の藤原俊成(藤原定長の伯父)の猶子(養子)となります。 30歳過ぎに出家しました。 出家後も御子左家の歌人として活躍し、新古今和歌集の選者の一人となっていましたが、完成する前に没してしまいました。 この歌の「村雨」とは通り雨、にわか雨。 その雨が梅雨を真木(まき:杉や檜で常緑樹)の葉に露を残します。 その露の滴に視点を集中してから、目を上げ、立ち上る霧を見ます。…
読書記録:■和泉式部日記・訳|杉篁庵 https://sankouan.sub.jp/izumisikibunikki-yaku.htm個人サイトさんで公開されている、「和泉式部日記」の口語訳。原文と口語訳を、同画面で対訳しているページも用意されて..
【読書】アッシャー家の崩壊をプライムビデオ視聴→オーディオブックを聴いてみた
アッシャー家の崩壊をプライムビデオで視聴→オーディオブックで再読 今回は、何かの拍子にエドガー・アラン・ポーの名前を聞いて、ふと プライムビデオでポー原作の映画を見られないものか? と思ったのがきっかけで、1960年版の映画版を視聴 さらにAudiobook.jpでオーディオブックを聴いた感想を書いていきたいと思います
中国太古は木徳の王から始まる 十八史略原文データ化極私的プロジェクト
こんにちは、暖淡堂です。 十八史略原文の電子データ化を進めています。 十八史略の冒頭部分、「太古」の内容について簡単に説明します。 「太古」は「天皇てんこう氏」から始まります。木徳ぼくとくによって王となったとされています。 この木徳とは五行(木・火・土・金・水)の一番初め。 「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずる」とされていて、その最初に置かれています。 それで、「天皇氏」の次の「地皇氏」は火徳をもって王になるとされます。 「天皇氏」の時代は、純朴な人々だったので、ことさらなことをしなくても、世の中が穏やかに治っていました。 「天皇氏」も「地皇氏」にもそれぞれ…
「そのほかに腹違いの子供は多くあった」 義経記 巻第一 義朝都落(みやこおち)の事(四)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の四回目。 源義朝と常盤(常盤御前)との間に子供が三人いました。 そのうちの一人、牛若が後の源義経です。 そのほかに腹違いの子供は多くあった。尾張の国熱田の大宮司の娘との間にも子があった。遠江蒲(とうとうみかば)というところで成人したので、蒲の御曹司(おんぞうし)と呼ばれている。のちの三河守(みかわのかみ)がこの人である。 九条院の雜仕(ぞうし)常盤(ときわ)とも三人の子があった。今若七歳、乙若(おとわか)五歳、一番下の牛若は生まれたばかりであった。 現代語訳:暖淡堂 *☺☺☺☺☺* タイトルの付け方のルールを考えてみました。 これでインデックスされるかなあ…
「嘆けとて 月やは物を 思はする」 西行法師 平清盛とともに北面武士であった歌人
百人一首第86番目の歌の作者は西行法師さいぎょうほうしです。 定家らの時代にもその歌と生涯は愛されていましたが、現代でも西行法師の歌は多くの人に読み継がれていますね。 今回は西行法師について紹介します。 西行法師とは 生年は1118年、没年は1190年。 平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた人でした。 1140年に出家する前は俗名佐藤義清(さとうのりきよ)といい、武士でした。 鳥羽院の頃、北面武士として奉仕していましたが、この頃にはすでに歌人としての評価を得ていたようです。 なお、同じ頃の北面武士に、平清盛がいます。 出家後は崇徳院に会いに四国に出かけたり、東大寺再建のための勧進に出かけた東…
十八史略とは 徳川家康をはじめとする戦国武将たちも愛読した「十八史略」。 これは中国の歴史書です。 内容は太古の伝説的な出来事から始まって、歴代の国のことを書いて、最後は元が南宋の支配圏を飲み込むまで。 特に宋(北宋)から南宋の滅亡までが詳しく書かれています。 長い期間の出来事をまとめて書いていますので、それぞれの時代の記述は簡単なものになっています。 中国の歴史を一通り頭に入れたいという時にはとてもよい本です。 十八史略の作者、書かれた時期 この「十八史略」を書いたのは曾先之そうせんしという人です。 書かれたのは元の初期。 南宋の役人だった曾先之が引退した後に執筆したもののようです。 出身は…
こんにちは、暖淡堂です。 今回は「義経記」の三回目。 源義朝が都落ちするときに一緒に逃げた子らの最後になります。 頼朝は逃げる途中ではぐれてしまっています。 義朝は、悪源太に北国の勢力を駆り集めよと命じ、越前の浦に送った。しかし、それはうまくいかなかった。近江の国、石山寺にこもっていたところを平家のものども聞きつけて、妹尾、難波次郎らを差し遣わし、生捕りにさせた。悪源太義平は都へ引き立てられていき、すぐに六条河原で斬られてしまった。 弟の朝長も千束が崖というところで、山法師大矢の注記が射た矢で弓手(ゆんで)の膝を射抜かれ、美濃の国の青墓というところまで逃げてそこで死んだ。 現代語訳:暖淡堂 *…
「夜もすがら 物思ふ頃は 明けやらで」 俊恵法師 鴨長明の師でもあった
百人一首第85番目の歌の作者は俊恵法師しゅんえほうしです。 東大寺の僧にして、歌人でもありました。 今回は俊恵法師について紹介します。 俊恵法師とは 生年は1113年、没年は1191年。 父は源俊頼(百人一首74番の歌人)です。 dantandho.hatenadiary.com 出家後、白河にあった自房を歌林苑と名付け、そこで盛んに歌会や歌合を行いました。 また俊恵法師は鴨長明の師としても知られています。 sirdaizine.com 俊恵法師が自らの歌林苑で歌合を行っていた頃は、次第に平家の権勢が頂点を極めていった時期。 時代の大きな変わり目を生きながら、歌道を極めていったということでしょ…
ファーストサマーウイカ演じる清少納言の初登場となりました!ご存じかもしれませんが、「初夏」と書いて「ウイカ」、それを英単語に置換して「ファーストサマー」という…
「ながらへば またこの頃や 忍ばれむ」 藤原清輔朝臣 平安末期の歌壇で藤原俊成と並ぶ大御所
百人一首第84番目の歌の作者は藤原清輔朝臣ふじわらのきよすけのあそんです。 平安末期、藤原俊成とともに歌壇を牽引した大御所です。 今回は藤原清輔朝臣について紹介します。 藤原清輔朝臣とは 生年は1104年、没年は1177年。 この人も藤原北家の一人。 平安時代末期の歌壇の中心人物ともいえます。 勅撰和歌集には89首選ばれています。 また歌学書には、「袋草紙」、「奥義抄」、「和歌一字抄」などがあり、当時の歌学の確立、発展に貢献しました。 百人一首に選ばれているこの歌。 今の辛い状況は、時間が経てば懐かしい思い出になるのだろうか、過去の辛い体験でさえ、今思い出せば懐かしいくらいなのだから。 そんな…
前回、いよいよ三郎=藤原道長であることを認識したまひろ。道長とまひろが対面するシーンで、まひろの独り語りにつらい告白がありました。まひろが母の敵である道兼を憎…
『光る君へ』第4話。第2話から変わらず、永観二年(984)です。 物語の前半、左大臣・源雅信の屋敷である土御門殿に盗賊が押し入りました。散楽の公演を行っている…
「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る」 皇太后宮大夫俊成 百人一首の選者藤原定家の父にして歌道の大家
百人一首第83番目の歌の作者は皇太后宮大夫俊成こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜいです。 藤原俊成で、百人一首の選者藤原定家の父にあたります。 歌道の大家ですね。 今回は皇太后宮大夫俊成について紹介します。 皇太后宮大夫俊成とは 生年は1114年、没年は1204年。 この人も藤原北家に連なる人。 藤原道長の孫にあたるようです。 平安時代から鎌倉時代にかけて、歌壇で存在感を示します。 後白河院の院宣を受け「千載和歌集」の選者となります。 また後鳥羽院の頃に和歌所寄人となるなど、歌道の大家として活躍します。 勅撰集に選ばれた歌は紀貫之、藤原定家に次ぐ歴代3位(414首)。 数ある歌の中から藤原定家に…
いつもNHKの大河ドラマは、最初こそ観るもののそのうち脱落してしまう。 でも、今回の『光る君へ』は面白くて、何だか続きそう! 大学時代日本文学を専攻していた私の後悔は、もっと古典にも触れておけば 良かっ
こんにちは、暖淡堂です。 ジェームズ・ジローさんのブログ記事に「左遷」のことが書かれていました。 1月25日は菅原道真(菅公)が太宰府に左遷された日とのことです。 kuu-ki.hatenablog.com で、気になったのが左遷の「左」。 なんで「左(ひだり)」なんでしょうね。 goo辞書には以下のように書かれていますが、どうして右がよくて左がよくないのかがわかりません。 dictionary.goo.ne.jp 我が家の書棚にある白川静さんの「常用字解」によると「左」は神に仕える人(巫祝)が左手に呪具(工)を持つ姿で、神のいる所を尋ね、神の助けを求める、という意味だそうです。 で、一方の「…
こんにちは、暖淡堂です。 古典の「義経記」をゆっくりと紹介していきたいと思います。 暖淡堂による現代訳を少しずつ掲載します。 ほぼ一回一文くらいずつのペースです。 「義経記」とは、あの、源義経を主人公にした物語です。 「平家物語」を読み終えた後、なんとなく読みたくなって探していました。 現代語訳はいくつかあったのですが、原文が確認できるものを古書で入手できないかな、と思って。 底本は、数年前に神田の古書店街で行われた古本まつりで入手した、日本古典文学大系<三一>義経記です。梶原正昭さんの校注・訳です。 「岩波書店 日本古典文学大系」より芝居物中心10冊 義経記・御伽草子・狂言集・浄瑠璃集・曽我…
「思ひわび さても命は あるものを」 道因法師 生涯歌に執着した歌人
百人一首第82番目の歌の作者は道因法師どういんほうしです。 俗名は藤原敦頼ふじわらのあつより。 90歳になっても歌合に参加していたという人です。 今回は道因法師について紹介します。 道因法師とは 生年は1090年、没年は1182年。 藤原北家に連なる人ですが、官位は高くなく、晩年は出家しました。 出家した頃は80歳を越えていたようですが、歌道への執着は強く、もっといい歌が詠めるようにと、大坂の住吉大社まで毎月詣でていたようです。 百人一首に選ばれている歌も、恋の歌として読むことはできますが、道因法師自身の歌道への思いとも読み取ることもできますね。 時代背景 青空文庫に尾崎士郎による現代語訳があ…
何だかんだ3週連続で大河ドラマの記事を書いています。笑 第3話でまた『シェヘラザード』的BGMが使われました。 18秒から始まる木管の和音なんて、そのままで…
『おちくぼ物』は平安時代、継母にいじめられる姫君を貴公子が救い出して幸せになるという、まさに「平安時代版シンデレラ」のような物語。 現代のラノベ風に言えば「継母にいじめられていた私がイケメン貴族に溺愛される件」といった感じでしょうか。 古典
田辺聖子さんの古典解説は面白い。難解なをユーモアあふれる文章で紹介してくれるので、気軽に古典文学を楽しめます。 「蜻蛉日記をご一緒に」は、もともと田辺聖子さんの講演会の内容を書籍化したもの。口語体で書かれているのでわかりやすく、するするっと
15年ほどテレビを見ない生活をしてきた私が、 今年になってNHKオンデマンドに入会 私はNHKの回し者では無いが、 NHKオンデマンドを観るようになってから、 毎日ワクワクした気持ちで朝を迎えている 定年退職となり、 急に自由な時間を与えら
「ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば」 後徳大寺左大臣 初夏の朝に動く空気
百人一首第81番目の歌の作者は後徳大寺左大臣ごとくだいじのさだいじんです。 後徳大寺左大臣とは藤原実定のこと。 後とつくのは、祖父の徳大寺(藤原)実能が徳大寺左大臣と呼ばれていたことから。 今回は後徳大寺左大臣について紹介します。 後徳大寺左大臣とは 生年は1139年、没年は1192年。 晩年は源平の騒乱の渦中に生きました。 官位は正二位、左大臣。 若くして公卿に列せられたが、平清盛が権勢の中心にいた時期は不遇であった。 平家衰亡のあとは、源義経を立て、源頼朝追討に賛同。 源義経は結局都落ちしますが、その後源頼朝により議奏公卿に推挙されます。 それからは朝廷と幕府の間での調整役として働きました…
一昨日から昨日にかけて大雪 今朝夫と出勤しようと車で出発 ところが幹線道路に出るともう渋滞 別のルートで向かうも、どんどん中心街へ向かう車の列が・・・ このままでは時間までに到着しない 朝方、オラがまちに登録しているLINEに建設局から、
約千年前に紫式部によって書かれた「源氏物語」は五十四帖からなる世界最古の長編物語。日本文学最大の傑作を、小説としての魅力を余すことなく現代に蘇らせた。読売文学賞(研究・翻訳賞)受賞の角田源氏。 河出文庫カバーより 光源氏 ...
『徒然草』の191段です。自分自身も夜派なのですが、今と当時とでは夜の暗さがまったく違いますからね。当時の夜の暗さで、同じく夜派だったかどうかは分かりません。…
あけおめでございます。本年も宜しうお願い致します。 昨年は事情がありまして、ブログの更新頻度が極端に落ち込んでおりました。元々毎日書くようなブロガーではな…
「長からむ 心も知らず 黒髪の」 待賢門院堀河 黒髪の乱れが象徴するもの
百人一首第80番目の歌の作者は待賢門院堀河たいけんもんいんのほりかわです。 女房三十六歌仙、中古六歌仙の一人です。 今回は待賢門院堀河について紹介します。 待賢門院堀河とは 生年、没年、いずれも不詳。 その他も詳しくは伝わっていません。 父は神祇伯 源顕仲で、村上源氏に連なる家系。 白河院の皇女二条大宮令子内親王や鳥羽天皇の中宮待賢門院藤原璋子に出仕します。 この待賢門院藤原璋子に仕えたときに堀河と呼ばれるようになります。 百人一首に選ばれた歌で、中心的な題材となっている黒髪。 この黒髪には女性の情念が象徴されています。 黒髪の寝乱れた様子からは、愛人と過ごした夜を思い出す心が想われます。 ま…
「秋風に たなびく雲の 絶え間より」 左京大夫顕輔 白河院、崇徳院、藤原忠通に近仕した六条家歌人
百人一首第79番目の歌の作者は左京大夫顕輔さきょうのだいぶあきすけ(藤原顕輔)です。 白河院、崇徳院、藤原忠通らに仕え、勅撰集の撰集を行っています。 今回は左京大夫顕輔について紹介します。 左京大夫顕輔とは 生年は1090年、没年は1155年。 保元の乱(1156年)の前年に亡くなっていますね。 官位は正三位、左京大夫。 白河院の側近であった藤原顕季の子で、父が所蔵していた人麿影を譲り受けました。 setsuwa-hyakkei.com これが世襲的歌道家の始まりとされています。 この人麿影は、藤原顕輔が亡くなる時、次男の藤原清輔に譲り渡されます。 崇徳院の命により勅撰集「詩歌和歌集」を撰集し…
【読書】毎年繰り返して読むチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』
チャールズ・ディケンズの『 クリスマス・キャロル』を何故繰り返し読むのか? クリスマスが近づくこの時期、私は毎年のように手元にあるチャールズ・ディケンズの『 クリスマス・キャロル』を紐解きます
「淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に」 源兼昌 光源氏が侘び住まいした「須磨」の情景を詠う
百人一首第78番目の歌の作者は源兼昌みなもとのかねまさです。 宇多源氏に連なる人で、当時の歌壇で活躍しました。 今回は源兼昌について紹介します。 源兼昌とは 生没年は不詳です。 官位は従五位下まで。 あまり官位には恵まれませんでした。 後に出家したようです。 当時の歌壇で活躍し、勅撰和歌集に数首歌が選ばれている実力者ですが、出世にはつながらなかったようですね。 百人一首に選ばれている歌は「金葉和歌集」に収められているものです。 時代背景 歌に出てくる「須磨」とは、現在の神戸市須磨区。 対岸に淡路島が見えます。 千鳥は須磨と淡路島の間を往き来しては、物悲しく鳴きます。 平安時代の前期頃までは、摂…
人すまぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風(新古今・雑中) 後京極摂政殿と呼ばれた九条良経の歌です。1201年に詠まれた歌だそうです。不破関というの…
「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の」 法性寺入道前関白太政大臣 闘争の日々の中での心の解放
百人一首第76番目の歌の作者は法性寺入道前関白太政大臣ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん、藤原忠通です。 藤原忠通は保元の乱の中心人物。 弟の藤原頼長と闘い、藤原氏の頂点に立ちます。 動乱の時代の中心で生きた人です。 今回は法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)について紹介します。 法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)とは 生年1097年、没年は1164年。 藤原北家の人で、父は関白藤原忠実です。 藤原忠通は25歳で鳥羽天皇の関白となります。 その後も崇徳天皇、鳥羽天皇、後白河天皇の3代にわたって摂政、関白を務めました。 保元の乱、平治の乱を通じて肉親との対立がありました。 …
【読書】夢野久作の『ドグラ・マグラ』をAudibleで聴いてみた
夢野久作の『ドグラ・マグラ』をAudibleで聴いてみた 引き続き、人間力を高める野望のために、Audibleで古典文学を聴いてみました
【臨済録を読む】示衆(2)「今日多般用處、欠少什麼。」(今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ) ないもの探しの無意味さについて 原文と現代語訳
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」の示衆から。 臨済の下に集まって教えを乞う僧たちは、きまって、今自分が持っていないものを求めています。 自分が理解できていないもの、知らないもの、所有していないもの。 そんなものが、禅を修行することで得られると信じているようなのです。 そんな僧たちに対して、臨在は丁寧に説明します。 その中の一文。 原文:今日多般用處、欠少什麼 現代語訳:今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ この世には、全てがあり、何かが欠けている訳ではない。 一人一人の人間にも、必要なものは全てあり、不足しているものはない。 それに気づかないだけだ。 …
「契りおきし させもが露を 命にて」 藤原基俊 子の出世を気にかけた親の心情
百人一首第75番目の歌の作者は藤原基俊ふじわらのもととしです。 百人一首の選者藤原定家の父、藤原俊成の和歌の師でもありました。 今回は藤原基俊について紹介します。 藤原基俊とは 生年が1060年、没年は1142年で、平安時代後期の人。 権勢の中心にいた藤原北家の一人です。 藤原道長の曾孫にあたりますが、生涯高い官位にはつきませんでした。 晩年は出家し覚舜と称しました。 歌人、書家として評価されました。 藤原基俊の子は律師光覚としい、奈良興福寺の僧でした。 この光覚を、興福寺で開催される維摩会の講師に選ばれるようにさせてあげたく、時の権力者藤原忠通に頼みました。 藤原忠通は、期待させるようなこと…