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『源氏物語』は、日本の古典文学であり、女流作家である紫式部(むらさきしきぶ)によって11世紀に書かれた物語です。物語は約54の巻からなり、平安時代の貴族社会を舞台に、貴族たちの愛と人生の模様を描いています。以下に、物語の概要を要約します。 **物語の概要:** 物語は、光源氏(ひかるげんじ)という貴族の男性を中心に展開されます。源氏は第一皇子であるため、父である天皇の関白である頭中将(くびかさのしょ…
フランツ・カフカ作『変身』の読書感想文です。語るまでもない超有名作ですが、ここまで触れずにきたカフカ初心者の読んだまま解説。読んだのは角川文庫より2022年発売の、川島隆さん訳。
Noteを更新しました。ご一読いただければ幸いです。 以前に清少納言と中宮定子についての投稿をしたことがありましたが、この投稿ではそんな二人のエピソードを「枕草子」から紹介してみました。 note.com ランキング参加中神社仏閣・古墳・歴史的建造物めぐり ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中歴史
松山中学在任当時の体験を背景とした初期の代表作。物理学校を卒業後ただちに四国の中学に数学教師として赴任した直情型の青年、坊ちゃんが周囲の愚劣、無気力などに反発し、職をなげうって東京に帰る。主人公の反俗精神に貫かれた奔放な ...
あなたの知らなくていい世界 ~ 安倍晴明と紫式部 in 京都御苑その他・後編
さて、前回の投稿の続き。これからが本番です。前編をまだお読みになっていない方はぜひご一読のほど、よろしくお願いいたします↓ aizenmaiden.hatenablog.com 前回の最後に少し触れた藤原道長の邸宅、土御門邸。現在の京都御苑の敷地内にあったのですが、残念ながら説明板の立て札のほかはなんにも残ってなくて寂しい。↓がその跡地の様子です。 ここで道長が栄華を極めるとともに、彼の権力の土台となった外孫の天皇たちが生まれた地でもあります。1016年に邸宅が火事で焼失してしまった際にはあの源頼光が再建の際の家具・調度品をすべて用意した、なんてエピソードも伝えられていたりしてなかなか興味深い…
海野つなみさんといえば『逃げるは恥だが役に立つ』が有名ですが、実は古典をベースにした作品も描いています。 『後宮』は鎌倉時代、後深草院に使えた女官・二条の書いた『とはずがたり』を元に描かれた漫画。彼女の成長とともに体験する、ドロドロの宮中愛
源氏物語「若紫」現代語訳と考察 平安時代に成立した『源氏物語』は、日本文学の最高峰として知られています。その中でも、第五帖「若紫」は光源氏と後に妻となる紫の上との出会いが描かれた重要な巻です。この物語の現代語訳と考察を通して、当時の社会背景
源氏物語「末摘花」現代語訳と考察 『源氏物語』は、紫式部によって11世紀に書かれた日本文学の古典であり、その中でも六帖「末摘花」は特に興味深い章です。この帖では、光源氏と末摘花という女性との関わりが描かれています。末摘花の特異な外見や性格が
源氏物語七帖「紅葉賀」の考察 『源氏物語』は日本文学の金字塔であり、その全54帖の中でも七帖目の「紅葉賀」は、光源氏がその栄華を極める若き日々を描いた重要な一篇です。この帖では、源氏の人生における華やかな一面と、裏に潜む運命の影が巧みに描か
源氏物語八帖「花宴」考察―光源氏と桜の宴 『源氏物語』は、日本文学の最高傑作の一つとして知られています。その中でも八帖「花宴」は、桜の宴での美しい光景と、光源氏の儚い恋心が描かれた章として人気があります。この章は、華やかな宴会の場面と、それ
源氏物語 九帖「葵」考察 『源氏物語』は紫式部によって書かれた平安時代の文学作品であり、その中でも特に有名な一章が「葵」巻です。この「葵」巻では、主人公である光源氏とその正妻である葵の上、そして源氏の情熱的な愛人・六条御息所との関係が中心に
源氏物語十帖「榊」考察 『源氏物語』は、紫式部が11世紀初頭に著した古典文学の傑作であり、日本の文学史において非常に重要な位置を占めています。その中でも「榊」(さかき)は、十帖目にあたる巻であり、物語全体のテーマをさらに深く掘り下げています
源氏物語十一帖「花散里」考察 『源氏物語』は、平安時代に紫式部によって書かれた日本文学の傑作です。全54帖からなるこの物語は、主人公である光源氏の恋愛模様を中心に描かれています。その中でも、十一帖「花散里」は、光源氏とその愛人の一人である花
30年前、夢中で読んだ「わたしの古典」シリーズ全22巻との再会
ご訪問くださいましてありがとうございます。Mrs.エステティシャン花音です。今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」を毎回楽しみにしています。いよいよ、今週回は「源…
公共図書館の魅力を紹介し、豊富な資料や静かな環境、コミュニティスペースとしての役割を解説します。図書館利用の方法もわかりやすく説明しています。
古典というとちょっと堅苦しい感じがありますが、最近は素晴らしい先生方のお仕事によって現代風にアレンジされた作品も多々…そのなかで、今回の私のおすすめは『落窪物語』マンガ日本の古典(2) 落窪物語 (中公文庫)↑ちなみにこちらは図書館などにあるのでは…?と。私
読書記録:大鏡ビギナーズ・クラシックス 日本の古典(角川ソフィア文庫)[武田 友宏]「枕草子」現代語訳があまりに難易度高かったので、今度はタイトルに初心者向けとある物を選んでみました。推定1068年頃に..
ごぶさたしております。一応元気ですが、忙しくなり筆は遠ざかる一方です。 が、さすがに書かねばならぬことが乱発している第18回~第20回です。 道長 内覧に就任…
『光る君へ』第16回について。 この回は定子サロンの華やかさが描かれましたが、公任らが中宮様と直に対面していました。公卿といえども、几帳越しではなかったのかし…
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに」 後京極摂政前太政大臣 妻を亡くした寂しさを和歌に昇華させた
百人一首第91番目の歌の作者は後京極摂政前太政大臣ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじんです。 関白九条兼実の子で、藤原忠通の孫にあたります。 今回は後京極摂政前太政大臣について紹介します。 後京極摂政前太政大臣とは 後京極摂政前太政大臣とは藤原良経のこと。 生年が1169年、没年が1206年。 祖父の藤原忠通は百人一首第76番目の歌の作者ですね。 保元の乱の中心人物でした。 dantandho.hatenadiary.com 藤原良経は政界で活躍しながらも、和歌や漢詩などの文学に通じていました。 自らも優れた和歌を残しています。 そして、当時の文学界の有力なパトロンで、百人一首の選者…
百人一首の第81歌から第90歌までをまとめます。 保元の乱、平治の乱、それに続く源平の合戦期。 その時代の歌人たちの作品が中心になります。 選者の藤原定家と、実際に交流のあった歌人の作品もいくつかありますね。 この後は第91歌から第100歌まで。 源平の合戦後までの歌人の作品になります。 dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com…
「弟の牛若は、四歳までは母とともに暮らしていたが」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(五)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの五回目。 常盤は清盛を受け入れます。 そして三人の子らの命を助けます。 ここで、今若、乙若、牛若(義経)三人の生涯が語られます。 今若は、八歳になった春の頃からかんじょう寺(観音寺、醍醐寺か)で学問をさせ、十八の年に受戒し禅師の君と呼ばれるようになった。後に駿河の国、富士の裾野の阿野という山寺で仏法を盛んにしておられたが、そこでは悪禅師殿と称せられるようになっていた。 乙若は八条に住んでいたが、僧ではあっても企みのある恐ろしい人で、加茂、春日、稲荷、祇園の御祭があるごとに平家を狙い、最後は紀伊国(きのくに)にいた叔父新宮十郎行家が反乱を起こした…
「見せばやな 雄島の海人の 袖だにも」 殷富門院大輔 和歌の上手として多くの歌が勅撰和歌集に選ばれた
百人一首第90番目の歌の作者は殷富門院大輔いんぷもんいんのたいふです。 歌人仲間からは「千首大輔」とあだ名されるほどの多作の人だったようです。 今回は殷富門院大輔について紹介します。 殷富門院大輔とは 生年が1130年頃、没年が1200年頃。 藤原氏北家の一人、藤原信成の娘です。 後白河院皇女の殷富門院に出仕しました。 鴨長明からは和歌の上手の一人に挙げられ、またとても多作だったことから、和歌仲間からは「千首大輔」とあだ名されるほどでした。 藤原定家、西行らとも交流があり、当時の歌壇の中心にいた人だったようです。 作った歌は多くの勅撰和歌集に選ばれています。 新古今和歌集に10首、新勅撰和歌集…
「清盛は、常盤がもし自分に従いさえするのであれば」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(四)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの四回目。 常盤は清盛らに囚われてしまいます。 そして清盛は常盤に文を届ける。 常盤は子らのためと心を決め文を開きます。 清盛は、常盤がもし自分に従いさえするのであれば、将来たとえ平家の敵になったとしても構わぬ、その三人の子らを助けてやろうと思った。それで、頼方、景清に命じて、七条朱雀(しゅじゃく)というところに常盤らを置いた。見張りの当番の采配は頼方にまかせて守護させた。 常盤のもとに、清盛は手紙を書いて届けさせたが、常盤はそれを手に取りもしなかった。それでもついには、子を助けたいがために、清盛の意に従うことにした。常盤のこの決心のおかげで、三…
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば」 式子内親王 斎院による「忍ぶ恋」の歌
百人一首第89番目の歌の作者は式子内親王しょくしないしんのうです。 賀茂斎院かものさいいんとして11歳から21歳まで過ごした人でした。 今回は式子内親王について紹介します。 式子内親王とは 生年が1149年、没年が1201年。 後白河天皇の皇女です。 守覚法親王や以仁王の姉にあたります。 21歳で斎院を退きますが、その後は社会とは交わらず、藤原俊成や藤原定家らの指導を受けて和歌を勉強するような、静かな暮らしをしていたようです。 その式子内親王は、のちに呪詛事件の犯人とされてしまいます。 この事件があってから、式子内親王は出家しますが、亡くなるまでの生涯は、本人が希望したような穏やかなものではな…
「常盤らが都に出てきたことが六波羅に伝えられた」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(三)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの三回目。 常盤が清盛と対面します。 清盛は常盤を見て、急に怒りがさめてしまいます。 一転して、常盤にご執心となります。 常盤らが都に出てきたことが六波羅に伝えられた。悪七兵衛景清(あくしちひょうえかげきよ)、監物太郎(けんもつたろう)に命じて、子ともども六波羅に引き立てた。清盛は常盤を捕らえたら、火でも水でももって責めてやろうと思っていたが、常盤の姿を目の当たりにすると、そのように怒る心は静まってしまった。常盤という女は、日本一の美人であったのだ。九条院、すなわち近衛天皇の中宮藤原呈子(ていし)は、派手な催し事が好きであった。それで都中から容顔…
大河ドラマ『光る君へ』第10話が放送されました。8話と9話については書きませんでした。早いうちに「毎回は書かないぞ」という姿勢を示したかった(笑)のもあります…
「そこへ、常盤の母、関屋という者が」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(二)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの二回目。 都では、常盤の母、関屋が平家の手に落ちます。 それを心配する常盤は、三人の子らをつれて都に出て行きます。 そこへ、常盤の母、関屋という者が、楊梅(やまもも)町に住んでいるということを六波羅の平家の者たちが見つけ出し、捕らえて厳しく取り調べしているという噂が聞こえてきた。常盤はこの噂に悲しんだ。母の命を助けようとすれば三人の子の命を失う。子らを助けようとすると老いた母の命を失う。親の不幸についての嘆き、子らに降りかかる災難への苦しみ、いずれも疎かにできるものではないが、子のために親を見捨てることなどできるだろうか。親に孝行を尽くせば、堅…
「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ」 皇嘉門院別当 難波江の一夜の恋に身を尽くし
百人一首第88番目の歌の作者は皇嘉門院別当こうかもんいんのべっとうです。 皇嘉門院聖子せいしに仕えた人でした。 今回は皇嘉門院別当について紹介します。 皇嘉門院別当とは 生没年は不詳。 藤原忠通の娘で崇徳天皇の皇后であった皇嘉門院聖子に支えていました。 保元の乱では崇徳天皇と藤原忠通が対立。 皇嘉門院聖子はその板挟みとなり苦悩したことでしょう。 乱の後に出家します。 皇嘉門院別当も、共に出家したと考えられています。 百人一首に選ばれている歌は、掛詞、縁語が多用されています。 「難波江の芦」は「かりね」の序詞。 「かりね」は「刈り根」ですが、「仮寝(仮初の共寝)」。 「ひとよ」は「一節」と「一夜…
ちょっとした着眼点の違いで、小説はもっと面白くなる。本書は「蹴りたい背中」「ゴールデンスランバー」など、現代の純文学やミステリー、古典などを題材に、作品をより深く楽しく味わうコツを、人気小説家が分かりやすく解説。小説を読 ...
「平清盛が、これらの子を捕らえて斬るべしと言った」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(一)
こんにちは、暖淡堂です。 今回から「義経記」の常盤都落ち。 常盤は三人の子らと逃げるのですが、平氏に追われていると知られているので、誰も助けてくれません。 頼りに出来る人がいない状況です。 平清盛が、これらの子を捕らえて斬るべしと言ったとさかんに聞こえてきたので、平治二年二月十日のまだ明け方、常盤は三人の子らを引き連れて、大和の国宇陀の郡岸の岡というところにあった外戚の家をたずねていったが、このように世間が乱れている中では頼りにならず、匿ってくれなかった。それで、大和の国の大東寺という所に、常盤は三人の子とともに隠れていた。 現代語訳:暖淡堂 *☺☺☺☺☺* 常盤の苦労が続く部分になります。 …
先日、壊れてリピートしたと書いた、ダイソーのメガネ型ルーペ(1.3倍)。その後、間一日おいて出勤した昨日、駄目元で室内を探してみたところ……見つかっちゃったよ(驚)テーブルからかなり離れた隅の方の絨毯..
「村雨の 露もまだ干ぬ 槇の葉に」 寂蓮法師 日本的な風景を目で追うような叙景詩
百人一首第87番目の歌の作者は寂蓮法師じゃくれんほうしです。 定家の従兄弟にあたる人です。 今回は寂蓮法師について紹介します。 寂蓮法師とは 生年は1139年頃、没年は1202年。 俗名は藤原定長で、父は阿闍梨俊海。 後、阿闍梨俊海の兄の藤原俊成(藤原定長の伯父)の猶子(養子)となります。 30歳過ぎに出家しました。 出家後も御子左家の歌人として活躍し、新古今和歌集の選者の一人となっていましたが、完成する前に没してしまいました。 この歌の「村雨」とは通り雨、にわか雨。 その雨が梅雨を真木(まき:杉や檜で常緑樹)の葉に露を残します。 その露の滴に視点を集中してから、目を上げ、立ち上る霧を見ます。…
読書記録:■和泉式部日記・訳|杉篁庵 https://sankouan.sub.jp/izumisikibunikki-yaku.htm個人サイトさんで公開されている、「和泉式部日記」の口語訳。原文と口語訳を、同画面で対訳しているページも用意されて..
【読書】アッシャー家の崩壊をプライムビデオ視聴→オーディオブックを聴いてみた
アッシャー家の崩壊をプライムビデオで視聴→オーディオブックで再読 今回は、何かの拍子にエドガー・アラン・ポーの名前を聞いて、ふと プライムビデオでポー原作の映画を見られないものか? と思ったのがきっかけで、1960年版の映画版を視聴 さらにAudiobook.jpでオーディオブックを聴いた感想を書いていきたいと思います
中国太古は木徳の王から始まる 十八史略原文データ化極私的プロジェクト
こんにちは、暖淡堂です。 十八史略原文の電子データ化を進めています。 十八史略の冒頭部分、「太古」の内容について簡単に説明します。 「太古」は「天皇てんこう氏」から始まります。木徳ぼくとくによって王となったとされています。 この木徳とは五行(木・火・土・金・水)の一番初め。 「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずる」とされていて、その最初に置かれています。 それで、「天皇氏」の次の「地皇氏」は火徳をもって王になるとされます。 「天皇氏」の時代は、純朴な人々だったので、ことさらなことをしなくても、世の中が穏やかに治っていました。 「天皇氏」も「地皇氏」にもそれぞれ…
「そのほかに腹違いの子供は多くあった」 義経記 巻第一 義朝都落(みやこおち)の事(四)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の四回目。 源義朝と常盤(常盤御前)との間に子供が三人いました。 そのうちの一人、牛若が後の源義経です。 そのほかに腹違いの子供は多くあった。尾張の国熱田の大宮司の娘との間にも子があった。遠江蒲(とうとうみかば)というところで成人したので、蒲の御曹司(おんぞうし)と呼ばれている。のちの三河守(みかわのかみ)がこの人である。 九条院の雜仕(ぞうし)常盤(ときわ)とも三人の子があった。今若七歳、乙若(おとわか)五歳、一番下の牛若は生まれたばかりであった。 現代語訳:暖淡堂 *☺☺☺☺☺* タイトルの付け方のルールを考えてみました。 これでインデックスされるかなあ…
「嘆けとて 月やは物を 思はする」 西行法師 平清盛とともに北面武士であった歌人
百人一首第86番目の歌の作者は西行法師さいぎょうほうしです。 定家らの時代にもその歌と生涯は愛されていましたが、現代でも西行法師の歌は多くの人に読み継がれていますね。 今回は西行法師について紹介します。 西行法師とは 生年は1118年、没年は1190年。 平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた人でした。 1140年に出家する前は俗名佐藤義清(さとうのりきよ)といい、武士でした。 鳥羽院の頃、北面武士として奉仕していましたが、この頃にはすでに歌人としての評価を得ていたようです。 なお、同じ頃の北面武士に、平清盛がいます。 出家後は崇徳院に会いに四国に出かけたり、東大寺再建のための勧進に出かけた東…
十八史略とは 徳川家康をはじめとする戦国武将たちも愛読した「十八史略」。 これは中国の歴史書です。 内容は太古の伝説的な出来事から始まって、歴代の国のことを書いて、最後は元が南宋の支配圏を飲み込むまで。 特に宋(北宋)から南宋の滅亡までが詳しく書かれています。 長い期間の出来事をまとめて書いていますので、それぞれの時代の記述は簡単なものになっています。 中国の歴史を一通り頭に入れたいという時にはとてもよい本です。 十八史略の作者、書かれた時期 この「十八史略」を書いたのは曾先之そうせんしという人です。 書かれたのは元の初期。 南宋の役人だった曾先之が引退した後に執筆したもののようです。 出身は…
こんにちは、暖淡堂です。 今回は「義経記」の三回目。 源義朝が都落ちするときに一緒に逃げた子らの最後になります。 頼朝は逃げる途中ではぐれてしまっています。 義朝は、悪源太に北国の勢力を駆り集めよと命じ、越前の浦に送った。しかし、それはうまくいかなかった。近江の国、石山寺にこもっていたところを平家のものども聞きつけて、妹尾、難波次郎らを差し遣わし、生捕りにさせた。悪源太義平は都へ引き立てられていき、すぐに六条河原で斬られてしまった。 弟の朝長も千束が崖というところで、山法師大矢の注記が射た矢で弓手(ゆんで)の膝を射抜かれ、美濃の国の青墓というところまで逃げてそこで死んだ。 現代語訳:暖淡堂 *…
「夜もすがら 物思ふ頃は 明けやらで」 俊恵法師 鴨長明の師でもあった
百人一首第85番目の歌の作者は俊恵法師しゅんえほうしです。 東大寺の僧にして、歌人でもありました。 今回は俊恵法師について紹介します。 俊恵法師とは 生年は1113年、没年は1191年。 父は源俊頼(百人一首74番の歌人)です。 dantandho.hatenadiary.com 出家後、白河にあった自房を歌林苑と名付け、そこで盛んに歌会や歌合を行いました。 また俊恵法師は鴨長明の師としても知られています。 sirdaizine.com 俊恵法師が自らの歌林苑で歌合を行っていた頃は、次第に平家の権勢が頂点を極めていった時期。 時代の大きな変わり目を生きながら、歌道を極めていったということでしょ…
ファーストサマーウイカ演じる清少納言の初登場となりました!ご存じかもしれませんが、「初夏」と書いて「ウイカ」、それを英単語に置換して「ファーストサマー」という…
「ながらへば またこの頃や 忍ばれむ」 藤原清輔朝臣 平安末期の歌壇で藤原俊成と並ぶ大御所
百人一首第84番目の歌の作者は藤原清輔朝臣ふじわらのきよすけのあそんです。 平安末期、藤原俊成とともに歌壇を牽引した大御所です。 今回は藤原清輔朝臣について紹介します。 藤原清輔朝臣とは 生年は1104年、没年は1177年。 この人も藤原北家の一人。 平安時代末期の歌壇の中心人物ともいえます。 勅撰和歌集には89首選ばれています。 また歌学書には、「袋草紙」、「奥義抄」、「和歌一字抄」などがあり、当時の歌学の確立、発展に貢献しました。 百人一首に選ばれているこの歌。 今の辛い状況は、時間が経てば懐かしい思い出になるのだろうか、過去の辛い体験でさえ、今思い出せば懐かしいくらいなのだから。 そんな…
前回、いよいよ三郎=藤原道長であることを認識したまひろ。道長とまひろが対面するシーンで、まひろの独り語りにつらい告白がありました。まひろが母の敵である道兼を憎…
『光る君へ』第4話。第2話から変わらず、永観二年(984)です。 物語の前半、左大臣・源雅信の屋敷である土御門殿に盗賊が押し入りました。散楽の公演を行っている…
「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る」 皇太后宮大夫俊成 百人一首の選者藤原定家の父にして歌道の大家
百人一首第83番目の歌の作者は皇太后宮大夫俊成こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜいです。 藤原俊成で、百人一首の選者藤原定家の父にあたります。 歌道の大家ですね。 今回は皇太后宮大夫俊成について紹介します。 皇太后宮大夫俊成とは 生年は1114年、没年は1204年。 この人も藤原北家に連なる人。 藤原道長の孫にあたるようです。 平安時代から鎌倉時代にかけて、歌壇で存在感を示します。 後白河院の院宣を受け「千載和歌集」の選者となります。 また後鳥羽院の頃に和歌所寄人となるなど、歌道の大家として活躍します。 勅撰集に選ばれた歌は紀貫之、藤原定家に次ぐ歴代3位(414首)。 数ある歌の中から藤原定家に…
いつもNHKの大河ドラマは、最初こそ観るもののそのうち脱落してしまう。 でも、今回の『光る君へ』は面白くて、何だか続きそう! 大学時代日本文学を専攻していた私の後悔は、もっと古典にも触れておけば 良かっ
こんにちは、暖淡堂です。 ジェームズ・ジローさんのブログ記事に「左遷」のことが書かれていました。 1月25日は菅原道真(菅公)が太宰府に左遷された日とのことです。 kuu-ki.hatenablog.com で、気になったのが左遷の「左」。 なんで「左(ひだり)」なんでしょうね。 goo辞書には以下のように書かれていますが、どうして右がよくて左がよくないのかがわかりません。 dictionary.goo.ne.jp 我が家の書棚にある白川静さんの「常用字解」によると「左」は神に仕える人(巫祝)が左手に呪具(工)を持つ姿で、神のいる所を尋ね、神の助けを求める、という意味だそうです。 で、一方の「…