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大化改新の方程式(267) 皇極期における山背大兄の立ち位置
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。2つ目の争点を論ずるにあたり、皇位継承に関わる最近の学説をまとめてみた。...
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。2つ目の争点では、議論のとっかかりとして、推古天皇没後の皇位継承問題であ...
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点では、女帝の存在にネガティブなイメージをもつ儒教的エートスに...
大化改新の方程式(264) “女帝不可”のイデオローグ・高向黒麻呂
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点に関し、儒教的エートスに染まった唐からの帰朝者たちが皇極女帝...
大化改新の方程式(263) “女帝不可”の思想の背後にある儒教的エートス
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点に関し、女帝の存在にネガティブなイメージをもつ儒教的エートス...
大化改新の方程式(262) 中国留学組が純化させた“女帝不可”の思想
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点では、皇極朝において唐からの帰朝者たちが重用されていないこと...
大化改新の方程式(261) “蘇我氏政権下”で帰朝者が重用されなかった真の理由
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾として、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。【ここでの課題】第一の争点である「“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝...
大化改新の方程式(260) 乙巳の変を解くカギは“女帝不可”の思想
テンプレートを変更してみました・・・仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』(以下、本書)において、自説と照らし合わせていきたい論点は以下の3つだ。・女帝不可の思想の影響・「韓政に因りて」の解釈・孝徳朝における鎌足のスタンスまず、最初の「女帝不可の思想の影響」についてみていこう。繰り返しになるが、「乙巳の変を解くカギは“女帝不可”の思想」というのが自説の根幹の1つだ。仁藤氏も「乙巳の変を解くカギ...
大化改新の方程式(259) 『東アジアからみた「大化改新」』を読む
仁藤敦史氏の主張に賛同するかどうかは別として、『東アジアからみた「大化改新」』は、厩戸皇子(聖徳太子)没後から孝徳期までの対外関係を唐および朝鮮3国の動向をからめて理解するには、一般書としては最適な本であると私は評価したい。amazonへのリンクそこで今回は、その概要を解説しておこう。仁藤氏が本書で提起した課題は、なぜ7世紀中葉になって、〔大化改新という〕政治改革が必要となったのかについては、「蘇我氏の専...
中大兄皇子が、即座に「入鹿は、皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は、無言のまま、殿中へ退いた。 佐伯子麻呂と犬養網田は、蘇我入鹿を…
中臣鎌足は、更に蘇我一族の長老、蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れると、その娘を中大兄皇子の妃とした。 蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の息子、蘇我倉麻呂の息…
日本書紀の蘇我氏悪役歴史観により悪様に描かれる蘇我入鹿。実際の蘇我入鹿は何を考えて行動していたのか? 極めて有能であった入鹿 日本書紀は蘇我氏を悪役に仕立てているため、入鹿に対しては悪意をもった解釈でしか描かれていない。 本当の入鹿はどんな人物だったのか。 奈良時代の藤原仲麻呂が書いた藤氏家伝では、入鹿は極めて有能であったと描かれている。藤氏家伝は藤原仲麻呂による脚色の多い小説みたいな記録との分析があるが、奈良時代において蘇我入鹿を有能と描いても不自然ではなかったとは解釈できる。 実際、有能でなければ日本書紀も悪様には描けなかったであろう。 入鹿が生きた時代の背景 蘇我氏はもともと朝鮮半島情勢…
643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家滅亡事件。系図を見ると用明天皇後裔一族のほぼ全員が殺されているのがわかる。凄まじい皆殺し事件である。 皇極天皇の関与 皇極天皇は事件に関与していたのであろうか。 皇極天皇の前夫の高向王が泊瀬王の義兄弟との解釈が正しいとすると、628年の政変時に、皇極天皇は舒明天皇+山背大兄王+蘇我蝦夷陣営に対し、相当な恨みを持っていた可能性がある。 593年に聖徳太子は崇峻天皇=泊瀬部天皇の後継の地位を継承したが、この崇峻天皇の資産を継承したのが名前からすると聖徳太子第二皇子の泊瀬王である。 628年推古天皇崩御時、聖徳太子の最有力後継者はおそらく泊瀬王であっ…
淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の父方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の父は茅渟王であり祖父は押坂彦人大兄皇子となっている。茅渟王の母に関する記載はない。 古事記では押坂彦人太子の子の智奴王の母は「漢王の妹、大俣王」としていて、大俣王の父母が誰か書かれていない。 漢王の妹、大俣王 大俣王については同名の大俣王が敏達天皇妃の春日老女子の第四子にいるが、敏達天皇の子に漢王の名がない。 春日老女子の第四子の大俣王の同母兄としては難波王、春日王がいて、いずれかの別名が漢王であれば当該大俣王が智奴王の母との解釈も可能となる。 また後世の資料…
643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件。641年舒明天皇崩御を契機とした政変である。 事件の経緯 日本書紀による経緯は以下の通り。641年10月 舒明天皇崩御642年1月 皇極天皇即位642年12月 舒明天皇の喪葬の儀643年9月6日 舒明天皇を押坂陵に葬る643年9月11日 吉備嶋皇祖母命薨去643年9月17日 皇祖母命喪葬の儀643年9月19日 皇祖母命を葬る643年10月6日 蘇我蝦夷病気で出仕せず、紫冠を入鹿に授ける。643年10月12日 蘇我入鹿、上宮王家諸王を排し、古人大兄王擁立を謀る643年11月斑鳩宮襲撃。山背大兄王一族集団自決。入鹿の行動に蝦夷が怒り罵る。(なお、上宮…
宝皇女=皇極天皇の庇護のもと葛城王・多智奴女王・漢皇子は生き残り、天智・間人・天武となったとする解釈。 さらに解釈を進めると持統天皇の母は間人皇女という驚愕の解釈も可能になる。 智奴の名を嗣ぐ者 皇極天皇の父、茅渟王は、その母である大俣王が敏達天皇皇女である(継体持統⑦:漢王の妹、大俣王 - 上古への情熱)場合、田村皇子と血統的には差がなく、皇嗣筆頭であった可能性が高い。 皇極天皇の前夫、高向王は、用明天皇第一皇子である田目皇子の息子である可能性があり、姉妹の佐富女王は聖徳太子第二皇子の泊瀬王妃である。泊瀬王、高向王とも聖徳太子の後継者として有力な皇子であった可能性が高い。 628年推古天皇崩…
推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか? 628年推古天皇崩御時にあったこと 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王も推古天皇崩御までに排除されたと見られる。 結果、①蘇我蝦夷が蘇我本宗家の地位、大臣家の家督を獲得、②聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得、③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇と…
淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の母方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の母は吉備姫王であり吉備姫王の両親の記載はない。出自を記載しない方針であったように見える。 後世の系譜資料では、吉備姫王は、欽明天皇の子、桜井皇子を父とし、母不詳としている。 二人の桜井之玄王 吉備姫王の父とされる欽明天皇の子である桜井皇子、日本書紀では堅塩媛の第十子桜井皇子であり、古事記では桜井之玄王とされている。 古事記では桜井之玄王は二人いる。堅塩媛の皇子の桜井之玄王と、敏達天皇推古天皇の子=堅塩媛の孫の皇女の桜井玄王である。 吉備姫王の親の名は桜井玄王で…
日本書紀斉明紀の書き出しは衝撃的である。「天豊財重日足姫天皇(皇極・斉明天皇)は、最初、橘豊日天皇(用明天皇)の孫、高向王に嫁がれ、漢皇子をおうみになった。」 舒明紀でも皇極紀でもなく、なんと、斉明紀の冒頭に、しれっと、「皇極天皇にとって舒明天皇は再婚相手であった」と暴露している。 用明天皇の子であり孫であるとは? 日本書紀では高向王の父母は記載されていない。 高向王は日本書紀で明確に用明天皇の孫とされているが「本朝皇胤紹運録」では用明天皇の子となっている。 高向王は用明天皇第一皇子の田目皇子の子であるとする説がある。 この説の通りとすると、用明皇后の子であり用明天皇の孫であることになる。「本…
天皇が亡くなると次の天皇が立つというのが自明のようだが、皇后はどうなのか? 皇后の地位は天皇が亡くなると消えるのか? 皇后の地位は消えず終身制ではないのか? 推古天皇の権威の源泉 推古天皇の権威の源泉は、敏達天皇の皇后であったからというのは、異論は無いだろう。ということは、推古天皇は敏達天皇の継承者として権力を振るったことになる。 皇后の任務として、一般に言われているのが、天皇不在時の天皇の代わりである。では天皇の権威を皇后はどのように継承するのか? 推古天皇は敏達天皇の殯を行っている。敏達天皇の権威を継承する儀式と解釈できる。 用明天皇即位後も殯は続いていて、穴穂部皇子が敏達天皇の殯に乱入し…
大化改新の方程式(249) 自説のまとめ:鎌足失脚説 その7
【前回までのおさらい】自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、最後の「斉明朝では鎌足は失脚していた」の話。・それを語るうえで避けては通れない、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説を検証した結果、この説には、『日本書紀』や中国史書の記述を覆すだけの根拠が足りないことを示した。・鎌足がずっと中大兄とコンビでやってきたという先入観を排除すれば、乙巳の変から孝徳崩御まで、鎌足が軽皇子(孝徳天皇)の忠実なる僕(...
大化改新の方程式(247) 自説のまとめ:鎌足失脚説 その5
【前回までのおさらい】自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、最後の「斉明朝では鎌足は失脚していた」の話。・それを語るうえで避けては通れない、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説を検証した結果、この説には、『日本書紀』や中国史書の記述を覆すだけの根拠が足りないことを示した。・鎌足がずっと中大兄とコンビでやってきたという先入観を排除すれば、乙巳の変から孝徳崩御まで、鎌足が軽皇子(孝徳天皇)の忠実なる僕(...
大化改新の方程式(241) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その5
かなりインターバルがあいてしまいました。申し訳ございません。4月以降、ビジネス環境がコロナ前に回帰したとたん、多忙を極め土日もない状態が続いています(現在進行形)。とはいえ、閉鎖してしまったと思われるのは哀しいので、暇をみつけてやっとかたちにできた記事を1本あげておきます。【前回までのおさらい】・大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化...
【酒船石(さかふないし)】古代日本のミステリー なんなんでしょ 2カ所で発見されているらしいです
< 7世紀の人工物ってことですから1400年ぐらい前ですけど その役割は解ってないんですねえ > 奈良県明日香村の岡っていう地域にある酒船石が「岡の酒船石」「岡の酒船石」は江戸時代にはすでに見つかっていたらしいですね。 で、もう1つは「出水(でみず)の酒船石」大正時代に発見。 飛鳥川の畔、「岡の酒船石」の北西3キロメートルほどの出水っていう場所で、農家の人が2つ石造物を同時に掘り出したんだそうです。 今は「岡の酒船石」からほぼ真北に1キロメートルほどの、奈良文化財研究所飛鳥資料館、前庭に常設展示されているみたいです。でもコレ、レプリカだそうですね。 ホンモノの出水の酒船石は、京都市左京区南禅寺…
大化改新の方程式(240) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その4
【前回までのおさらい】・大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化を企てた。それが皇極・斉明の両期における彼女の“興事”だった。・『日本書紀』皇極紀おいて、八佾の舞や甘樫丘の邸宅建造など蘇我父子の専横の象徴として描かれているものの多くは、宝皇女による飛鳥聖地化に向けた“興事”の一貫であった。彼らは女帝に忠実だったがゆえに、後世、汚名を被るこ...
大化改新の方程式(239) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その3
【前回までのおさらい】・大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化を企てた。それが皇極・斉明の両期における彼女の“興事”だった。・『日本書紀』皇極紀おいて、八佾の舞や甘樫丘の邸宅建造など蘇我父子の専横の象徴として描かれているものの多くは、宝皇女による飛鳥聖地化に向けた“興事”の一貫であった。【ここでの課題】彼女の“興事好き”が、乙巳の変以降の...
大化改新の方程式(238) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その2
【前回のおさらい】大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化を企てた。それが、皇極・斉明の両期における彼女の“興事”だった。【ここでの課題】彼女の“興事好き”が、大化改新前後の出来事にどう関わったのか。宝皇女が最初に行った“興事”に、板蓋宮建造と八角墳造営がある。前者は彼女の“新し物好き”として片付けることができるかもしれないが、後者はそれだけ...
大化改新の方程式(237) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き”
【ここでの課題メモ】前回から始めた自説を振り返るための、自説のまとめ第2弾。その第1弾として前回では、皇極期を通して皇極女帝への圧力となり、上宮王家滅亡事件や乙巳の変に大きく関わる“女帝不可”の思想をとりあげた。『日本書紀』によれば、斉明天皇は“興事好き”で、飛鳥を中心に多くの構造物を創造した。斉明朝の実力者が中大兄皇子や中臣鎌足であったというのでなければ、この所業は斉明こと宝皇女の強烈な個性を示すもの...
大化改新の方程式(236) 自説のまとめ:“女帝不可”の思想
ずいぶんと遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。さて、前回「自説を振り返る」と自らに宿題を課した手前、この年末年始の暇な時間を利用して、過去の記事を読み返してみた。「大化改新の謎解き」をテーマにしつつも、話は6世紀末の穴穂部皇子騒動から663年の白村江の戦いまでおよび、その間、自らトンデモ宣言した説や後日再考すべしとして放置した考えが数多あり、また、自説として残したい考察にも、理屈や資料解...