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天皇の諡号を表すのに、例えば「朱雀帝」とか「持統帝」とか、「○○帝(てい)」という呼び方をすることも少なくない。それに、「持統帝」のような女性天皇については「女帝(じょてい)」という言葉も併せて使われている。ところがダ、いったんは天皇に即位しながら諸事情
橘樹神社(たちばなじんじゃ→神奈川県川崎市高津区子母口)は、古墳時代前期の4世紀に大王(おおきみ)となったとされる第12代景行天皇(→実在したかは不明)の子で、第14代仲哀天皇(→実在性は極めて低い)の父とされる日本武尊(やまとたけるのみこと)とその妻・弟橘比売(おとたちばなひめ)を祭神として祀る神社です。明治時代に天照大神(あまてらすおおみかみ)も合祀されたため、今は三柱が祀られています。〖祭神〗・天照大神(あまてら...
下関ってどんなとこ?? ~彦島八幡宮(10月23日に秋季例大祭が開催されます)~
平治元年(1159)10月15日、本島開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされた「彦島八幡宮」。一名灘八幡と言っただけに宮の沖合…
今年の初詣で訪れた神社「関の氏神 亀山八幡宮」。御祭神は「応神天皇(おうじんてんのう)」「神功皇后(じんぐうこうごう)」「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」「仁…
5月28日(土)参拝 たかくらじんじゃ住所:福岡県遠賀郡岡垣町高倉1113大社の印象があり、前々からGoogleMapに印をつけていたところです。この度、年…
6月7日(火)参拝 橿日宮(かしひのみや)住所:福岡県福岡市東区香椎4丁目16−1ブロ友のshinさんと香椎宮、名島神社、宗栄寺、櫛田神社をお参りさせていた…
成務天皇の業績 垂仁天皇と成務天皇 成務天皇の業績 小碓尊に先立たれた景行帝は、第四子の稚足彦尊を立てて皇太子としました。母は後皇后の八坂入媛命で、崇神帝皇子の八坂入彦命の娘です。稚足彦尊の立太子については、景行紀に次のような話が載せられています。ある時、景行帝が群卿を召して宴を催し、それが数日に及びました。しかし稚足彦尊と武内宿禰は宴に参加しなかったので、天皇が皇子を呼んでその理由を尋ねると、答えて言うには「こうした宴楽の日には、群卿百僚も戯れ遊ぶことに心が傾き、国家を顧みようとしない。もし狂った輩が現れて、警衛の隙を伺うやも知れず、故に門下に侍って非常に備えている」と。景行帝は稚足彦尊を誉…
財土を求む 皇后と宿禰の真意 渡韓を決めたのは誰か 財土を求む 続いて神功紀本文では、皇后が海を渡って新羅を征伐したという話を伝えます。山門から松浦に移った皇后は、自ら男装して群臣に語って言うには、「師を興し衆を動かすのは国の大事である。国の安危と成敗は必ずここにある。今征伐する所があり、事を群臣に委ねる。若し事が成らなければ、罪は群臣にあろう。これは甚だ傷ましいことである。吾は婦女にして未熟ながら、暫く男の姿に仮装して、強いて雄々しい戦略を立てよう。上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを借り、兵を興して嶮浪を渡り、船を整えて財土を求める。若し事が成れば、群臣は共に功があり、事が就らなければ、吾…
『日本書紀』第九巻神功紀(気長足姫は女帝ではないので、本来ならば紀ではなく伝とすべきだと思いますが、同書には伝が設けられていないことと、敢て一巻を割いていることから、便宜上神功紀とします)は、次のような書き出しで始まります。気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の曾孫、気長宿禰王の女です。母を葛城高顙媛と言います。仲哀天皇の二年に皇后に立てられました。幼くして聡明で賢く、容貌も麗しく、父王も訝しがるほどでした。九年の春二月に仲哀帝が崩じました。時に皇后は天皇が神の教えに従わずして早く崩じたことを傷み、祟るところの神を知って財宝の国を求めようと思いました。そこで群臣及び百僚に命じ、罪を…
仲哀帝即位 筑紫入り 仲哀帝即位 成務天皇が崩ずると、太子の足仲彦尊が即位しました。仲哀天皇です。但し足仲彦尊は先帝の実子ではなく、その兄王小碓尊の子であり、成務帝にとっては甥に当たります。そもそも成務帝の皇子については記紀共に殆ど記載がなく、『古事記』は穂積臣の祖の建忍山垂根の女との間に和訶奴気王という一柱を儲けたと伝えるのみで、『日本書紀』に至っては后妃子女に関する記録そのものがありません。尤も成務紀ではなく仲哀紀の方に、稚足彦天皇には男子が無かったので、足仲彦尊を後嗣に立てたという一文があることから、読み流す限りでは実子に恵まれなかった成務帝が、日本武尊の忘れ形見に皇位を譲っただけのよう…
内乱の経緯 麛坂王と忍熊王の出自 内乱の考察 内乱の経緯 朝鮮から戻った気長足姫は、筑紫で男児を出産しました。応神天皇です。ここからは記紀共に仲哀帝皇子の麛坂王と忍熊王が起こしたという反乱の話を伝えています。神功紀本文によると、皇后は十二月に皇子を出産し、翌年の二月に群卿百僚を率いて穴門の豊浦宮に移り、天皇の遺骸を収めて海路より都へ向かいました。時に麛坂王*1と忍熊王*2は、天皇が崩じ、また皇后が西方を征し、併せて皇子が新たに生まれたと聞き、密かに謀って言うには、「今、皇后には子があり、群臣は皆従っている。必ずや共に謀って幼主を立てるだろう。吾等は兄の身でありながら、どうして弟に従えようか」と…
その後の神功皇后 新羅再征 その後の神功皇后 『日本書紀』の年号によると、仲哀帝が崩じたのは在位九年の二月のことで、気長足姫は同年十月に新羅へ出兵し、十二月に筑紫で男子を出産すると、翌年二月に先帝の遺骸と共に豊浦を発ち、翌三月には忍熊王を討って王都に入りました。従ってこの年を以て神功皇后の摂政元年とします。尤もこれが西暦で何年に当たるかについては未だに解答はありません。そして翌二年の十一月に先帝を河内国の長野陵に葬ると、翌三年には誉田別皇子を太子に立て、大和の磐余に新都を造営したといいます。 摂政五年、新羅王が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣わして朝貢しました。これには先に人質となっていた…
糸島市川付にご鎮座する宇美八幡宮です。県道49号線(大野城二丈線)沿いにある長糸保育園から長野川を南下して進むと鳥居と藤棚を発見。雉琴神社から南西にご鎮座していて地図で見るとけっこう近いです。宇美八幡宮といえば、大抵が糟屋郡宇美町の宇美八幡宮を想像すると