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龍野古城(鶏籠山城)から紅葉谷を下山する途中に、野見宿禰と書かれた誘導板がありました。せっかくなので、行ってみることに。 しばらく進むと、「力水」と書かれ...
本居宣長の義理の曾孫で幕末・明治期に活躍した国学者・歌人 本居豊頴(もとおり とよかい)が評論した田道間守(たじまもり)
田道間守慟哭の絵 田道間守の評論文語意調査表 私は公爵、伯爵などの爵位や博士の学位を持つ明治時代の有名人が尊敬に値する人物を評論した明治32年発行の「明治名家古人評論」という文庫本サイズの祖父の蔵書を持っています。 これまで、その中から「ラ・ファイエット」、「上杉謙信」、「鄭成功」を取り上げ、ブログで紹介しましたが、今回は「お菓子の神様」の田道間守(たじまもり)について紹介します。 今回のテーマ「田道間守」を評論した本居豊頴(もとおり とよかい)」という人はこ爵位や博士を持っていませんが、国学者・歌人として、教育者・評論家の「杉浦重剛」と同様に、明治時代に日本文化の発展に貢献した功労者の一人で…
富雄丸山古墳と宝来山古墳(垂仁天皇陵)の太陽方位の共有(同伴性)
はじめに 学術論文のようなテーマになってしまいましたね😀日本書紀 #垂仁天皇 #野見宿禰 のよく知られた話から、#宝来山古墳 が垂仁天皇陵ならば、太陽方位を共有する#富雄丸山古墳 の被葬者は!? 目次 奈良盆地北西の「トミ」伝承地エリア 「トミ」に関連する史跡 野見宿禰と垂仁天皇 富雄丸山古墳と宝来山古墳(垂仁天皇陵)の太陽方位の共有(同伴性) 本文 奈良盆地北西の「トミ」伝承地エリア 富雄丸山古墳(古墳時代前期末、西暦紀元四百年前後)から、大陸も含めて他に類例がなく銅鏡としては世界最大の盾形銅鏡と、同じく世界最大2.38㍍の蛇行剣が出土したニュースに触れて、 ヤマトの古代豪族と前方後円墳の空…
布田天神社(ふだてんじんしゃ→東京都調布市布ヶ丘1丁目)は、平安時代前期の927(延長5)年に制定された『延喜式』神明帳に名を連ねる武蔵国多磨郡八座の1つに数えられる多摩地方有数の古社です。社伝では11代垂仁天皇(→死亡した西暦70年は弥生時代にあたるため実在性はかなり低い)の時代に創建されたと伝わりますが、木簡などの記録から平安時代前期の900年には少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭神とする社(やしろ)が創建されてい...
【柏原市山ノ井町】垂仁天皇の皇女・若倭姫命が祀られた『若倭姫神社』
八尾市の山沿いの古道を歩いて柏原市に入りました。今回はたまたま山中の神社ばかり訪れていますが、最後も生駒山麓に鎮座する神社の紹介になります。柏原市山ノ井町の瑠璃光寺境内に『若倭姫(わかやまとひめ)神社』は鎮座していました。柏原市内の集落に鎮座する『若倭彦神
成務天皇の業績 垂仁天皇と成務天皇 成務天皇の業績 小碓尊に先立たれた景行帝は、第四子の稚足彦尊を立てて皇太子としました。母は後皇后の八坂入媛命で、崇神帝皇子の八坂入彦命の娘です。稚足彦尊の立太子については、景行紀に次のような話が載せられています。ある時、景行帝が群卿を召して宴を催し、それが数日に及びました。しかし稚足彦尊と武内宿禰は宴に参加しなかったので、天皇が皇子を呼んでその理由を尋ねると、答えて言うには「こうした宴楽の日には、群卿百僚も戯れ遊ぶことに心が傾き、国家を顧みようとしない。もし狂った輩が現れて、警衛の隙を伺うやも知れず、故に門下に侍って非常に備えている」と。景行帝は稚足彦尊を誉…