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前回「系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱」は倭根子王家について説明したが、倭根子王家は系図上は景行天皇の代で途絶える。 倭根子王家・吉備氏系図※作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 景行・成務による倭根子王家簒奪 倭根子王家は系図上は景行天皇の世代で終わる。 景行天皇は、ハエイロドの子、四道将軍派遣時に吉備を征服した若彦建吉備津彦の子の、播磨のイナビ大娘(景行皇后)・イナビ若娘の姉妹を娶り、耳王家・磯城県主家の子孫の立場となっている。 皇后イナビ大娘の子に若倭根子皇子がいて、倭根子王家最後…
成務天皇の業績 垂仁天皇と成務天皇 成務天皇の業績 小碓尊に先立たれた景行帝は、第四子の稚足彦尊を立てて皇太子としました。母は後皇后の八坂入媛命で、崇神帝皇子の八坂入彦命の娘です。稚足彦尊の立太子については、景行紀に次のような話が載せられています。ある時、景行帝が群卿を召して宴を催し、それが数日に及びました。しかし稚足彦尊と武内宿禰は宴に参加しなかったので、天皇が皇子を呼んでその理由を尋ねると、答えて言うには「こうした宴楽の日には、群卿百僚も戯れ遊ぶことに心が傾き、国家を顧みようとしない。もし狂った輩が現れて、警衛の隙を伺うやも知れず、故に門下に侍って非常に備えている」と。景行帝は稚足彦尊を誉…
仲哀帝即位 筑紫入り 仲哀帝即位 成務天皇が崩ずると、太子の足仲彦尊が即位しました。仲哀天皇です。但し足仲彦尊は先帝の実子ではなく、その兄王小碓尊の子であり、成務帝にとっては甥に当たります。そもそも成務帝の皇子については記紀共に殆ど記載がなく、『古事記』は穂積臣の祖の建忍山垂根の女との間に和訶奴気王という一柱を儲けたと伝えるのみで、『日本書紀』に至っては后妃子女に関する記録そのものがありません。尤も成務紀ではなく仲哀紀の方に、稚足彦天皇には男子が無かったので、足仲彦尊を後嗣に立てたという一文があることから、読み流す限りでは実子に恵まれなかった成務帝が、日本武尊の忘れ形見に皇位を譲っただけのよう…