史書から読み解く日本史
住所
出身
ハンドル名
山水翁さん
ブログタイトル
史書から読み解く日本史
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/sansui-ou
ブログ紹介文
歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。
自由文
-
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山水翁さんのブログ記事

  • 魏志:親魏倭王

    三角縁獣神鏡(景初三年銘):神原神社古墳出土景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将送って京都に詣らしむ。其の年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝が在る所踰かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。是れ汝の忠孝にして、我甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して仮授せしむ。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路に勤労す。今難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見して労賜し、遣わし還す。...魏志:親魏倭王

  • 魏志:倭国の周辺

    女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り、皆倭種。また侏儒国有り、その南に在り。人の長三四尺、女王を去る四千余里。また裸国、黒歯国有り、またその東南に在り。船行一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中の洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。(魏志倭人伝)女王国から東へ千余里ほど海を渡るとまた国がある。皆倭種である。その南に侏儒国がある。人の身長が三、四尺。女王国から四千余里ほどである。その東南に裸国と黒歯国がある。船行一年にして着くだろう。倭の地を参問してみるに、海中の洲島の上に国が点在し、或いは孤島、或いは連なって、周旋五千余里ばかりである。女王国より東へ海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆倭種といえども女王に属せず。女王国より南へ四千余里、朱儒国に至る。人の長三四尺。朱儒より...魏志:倭国の周辺

  • 魏志:倭国大乱

    その国、本また男子を以て王と為し、住ること七八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿なく、男弟有り、佐けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。女王国は、もと男王が治めており、在位すること七、八十年に及んだ。(その王の死後に)倭国は乱れて、互いに攻伐して時を経た。そこで双方が共に先王の娘を王に立てることで合意した。名をヒミコ(ヒメミコか)という。鬼道を事として衆を惑わしている。すでに成人しているが夫や婿はいない。弟が補佐して国を治めている。王となって以来、その姿を見た者は...魏志:倭国大乱

  • 魏志:倭の風景(二)

    その俗、拳事行来に云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占う。先ず卜する所を告げ、その辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。その会同坐起に父子男女の別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人は寿考にして、或いは百年、或いは八九十年。その俗、国の大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を没す。尊卑各差序有り、相臣服するに足る。挙事行来に何かあれば、骨を焼いて吉凶を占う。(そのやり方は)先ず卜うべきことを告げ、令亀の法のように火の裂け目を視て兆(吉凶)を占う。会合や立居振舞に父子男女の差がない。酒が好きである。自分の敬うべき大人が見えると手を打って跪拝に代える。人...魏志:倭の風景(二)

  • 魏志倭人伝(四)

    男子は大小となく皆黥面文身す。古より以来、その使の中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚水禽を厭う。後やや以て飾と為す。諸国の文身各異なり、或いは左、或いは右、或いは大、或いは小、尊卑差有り。その道理を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。その風俗淫ならず。男子は皆露紒し、木綿を以て頭を招い、その衣は横幅ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は皆髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑綿を出す。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵は矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所、儋耳・...魏志倭人伝(四)

  • 魏志倭人伝(三)

    次いで方位を見てみると、郡から末盧までについては、特に問題ないものと思われます。ただ末盧以降(つまり倭本土上陸以降)については、明らかに方位が時計回りへ四半回転されているのが見て取れます。例えば倭人伝では末盧(松浦)から伊都(怡土)、怡土から奴(儺)への方向をどちらも東南としていますが、実際には(東北東に近い)北東です。また不弥以降については、これが伊都の次は奴、奴の次は不弥という具合に隣続しているものなのか、それとも伊都から放射状に位置しているものなのかという議論もあります。ただ伊都から見て北東にある筈の奴を東南としている訳ですから、これに従えば東というのは即ち北ということであり、もし伊都から東(北)へ百里というならば、糸島半島を飛び越えて玄界灘へ出てしまいます。従って不弥はやはり奴から北へ百里と読むべきで、...魏志倭人伝(三)

  • 魏志倭人伝(二)

    (前略)以上は倭人伝を読み下して行く中で、魏使が道中の里数や戸数について、ある程度は把握していたと仮定した場合の話ですが、一方で少なくとも距離に関して言えば、もともとこれは実測値から導き出されたものではなく、単に要した日数を里数に換算しただけとする見方もあって、恐らくはその解釈の方が実情に近いと思われます。と言うのも魏使が他国との間を往来する場合、道中の安全も考慮して現地人の郷導を用いるのが普通ですし、ましてや道中で測量をしている訳でありません。実際に魏使が異国での正確な地理を知るためには、専門の技術者が同行して現地で測量をしなければなりませんが、古今東西の常識として他国での測量は侵攻の前兆と見做されるため、その土地の首長がそれを許可する筈がないからです。因みに魏と倭の交流から三百数十年後、隋の国使が日本での見...魏志倭人伝(二)

  • 魏志倭人伝(一)

    ※諸事情により三か月ほど放置していましたが、緩やかに再開します。次いで『魏志』倭人伝について考察してみます。正しくは『魏書』東夷伝倭人条と言うべきなのでしょうが、ここでは一般に馴染みの深い『魏志』倭人伝もしくは単に「倭人伝」で通すことにします。そしてこれから倭人伝を読み進んで行くに当たっては、基本的に原文は省き、読下し文、現代語訳、解説の順で記して行きます。但し『魏志』に限らず、漢語の史書の原文には句読点すら振られていないのが普通なので、読下し文に設けられている句読点は、読む側が適当に割り振ったものです。また倭人伝はかなりの長文なので、その内容を把握しやすいように区切りの良い箇所でいくつかに分割し、それぞれを個別に扱う形で進めて行こうと思います。倭人は帯方の東南海中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の...魏志倭人伝(一)

  • 天下統一(趙の攻略)

    紀元前三四一年、馬陵の戦いで斉軍に大敗し、翌年には秦に黄河以西を奪われるなど、魏が次第に弱体化して行く中で、代って台頭してきたのは北の趙でした。晋の六卿を独占する六氏の一角を占めていた趙氏は、姓を嬴と言い、秦王室とは同祖だと伝えます。魏が覇権を失った後の河北では、威王の下で急速に国力を増強させていた斉と、商鞅を用いて法治国家への道を歩み始めていた秦が、中原を挟んで東西に覇を唱えていましたが、趙もこの二強には及ばないとは言え、旧晋領から更に北方へ領土を拡大して着実に国力を蓄えていました。ただ韓魏趙の三氏が晋を分割して独立した頃には、晋と同じく国内の分裂していた斉が田氏の単独統治によって復活し、西方の弱小国だった秦が絶対王権と法治主義を掲げて急成長を遂げると、分裂したままの三氏は彼等に対して劣勢に立たされることが多...天下統一(趙の攻略)

  • 天下統一(魏の盛衰)

    韓を滅ぼした後、秦が次の標的として矛先を向けたのは、政とも因縁浅からぬ趙でした。過去にも幾度となく城の取り合いをしてきた秦と三晋でしたが、戦国時代も後半になると、支那大陸の北部を北から南に流れる黄河が、旧晋諸国と秦との天然の国境となっていました。もともと黄河流域を開拓したのは晋であり、かつて晋が中原の大国で、秦が西方の弱小国だった頃には、晋(及びその後衛である韓魏趙の三国)の国土は黄河の西岸にまで及んでいましたが、秦が強国として領土を拡大するようになると、黄河以西の土地は尽く秦に併呑されてしまっていたのです。そして嬴政が王として国権を握ると、いよいよ秦は黄河東域の完全なる平定に向けて、前人未到の大業を実行に移し始めたのでした。ただ秦と魏の国境が、その中心を流れる黄河という天然の障害を除けば、ほぼ一面の平野だった...天下統一(魏の盛衰)

  • 天下統一(韓の滅亡)

    もともと韓候は晋の公族出身で、従って姓は周王室と同じく姫であり、氏の韓は地名に因るものです。戦国も半ばを過ぎると、魏秦楚の三国に囲まれた韓は、七雄の中でも最弱というのが定位置となり、その国土は諸国の侵食によって縮小の一途を辿っていました。しかし独立間もない頃の韓は、隣接する魏と並んで晋を二分する勢力であり、その国土も周王室の直轄領(洛陽とその周辺)を中心に、それを韓魏の二国が半周ずつ囲うような形で分けられており、むしろ天下の中心に位置する有力国でした。その後は戦国の常で国境は絶え間なく変化し、特に魏との間では各地で複雑に領土が入れ替り続けましたが、やがて戦国も末期の頃になると、中原を西から東へと流れる黄河を天然の国境として、その北岸を魏領、南岸を韓領(但し遷都後の魏の国府大梁は黄河の南側)とする形でほぼ定着して...天下統一(韓の滅亡)

  • 天下統一(統一前夜)

    果して秦がいつ頃から天下統一を意識し始めたのかという点については、実のところよく分かっていません。後年はそれが何度も繰り返されたので、支那大陸の統一という大事業でさえ、既に誰もが認識可能な現象となっています。しかし現実問題として、戦国時代にそれを思い描いていた人間が何人居たのかとなると、頭の中だけの夢物語を別にすれば、これは甚だ疑問となります。むしろ天下の統一が可能だなどと何の疑いもなく確信していたのは、天下広しと言えども始皇くらいのものだったでしょう。そして最終的にはその意識の差が秦と他国との明暗を分けていて、秦以外の大国が、戦国とは言いながらも誰一人として滅びることのない共存の中で、これから先もその状態を続けるつもりでいたのに対して、もはや秦王政には春秋戦国のパワーゲームに付き合う気など更々なく、始めから自...天下統一(統一前夜)

  • 天下統一(斉と晋)

    ここで斉と晋について軽く触れておくと、斉は武王の覇業を補佐した太公望呂尚を始祖とする国で、呂尚は姓が姜、氏が呂だったため、王姓は姜であり、周一門ではなく臣下が封ぜられた中では最も大きい国です。但し呂尚が下向した当時の斉は、殷に属していなかった莱という部族の土地であり、要するに彼は既に開けていた国を与えられたというよりも、莱を征伐してその故地に建国することを認められたようなものでした。周が次代成王の世になると斉は、周王室に対して罪を犯した諸侯を討伐する権限を許されたとも伝えられ、ちょうど関中と斉とで中原を挟撃するように、周の版図の東端にあって諸国に睨みを利かせる存在となっていました。ただ武王が太公望を莱の地に封じたのは、彼が最も信頼できる臣下だったのは当然にしても、後に豊臣秀吉が重臣の徳川家康を関東へ、謀臣の黒田...天下統一(斉と晋)

  • 天下統一(春秋の風景)

    呂不韋を排除したことで、いよいよ秦王政の親政が本格化し、長く続いた戦国の世も終焉に向けて動き始めることになります。因みに呂不韋は丞相だった頃から、次々に訪れる他国の要人や使者と交わるのを好み、これは河南の食邑へ移ってからも変らなかったのですが、そもそも他国の方が競って呂不韋に接近したのは、何も彼の機嫌を取りたかったからでも、彼が優れた人物だったからでもありません。要は商人上がりで浮世の栄誉しか考えていない呂不韋のような人物に、大国秦の実権を握ってもらっていた方が好都合だっただけの話であり、ましてや秦王と呂不韋の間で内紛など起きてくれれば、他国にとってはこの上ない幸運だったのです。しかし呂不韋が秦王から死を賜ったことで、彼と太后の双頭時代には暫し秦の脅威から解放されていた諸国も、再び西方に神経を尖らせねばならなく...天下統一(春秋の風景)

  • 天下統一(呂不韋の盛衰)

    呂不韋は史書によると、荘襄王が即位するなり秦の丞相に就任したといいますが、流石にそれは有り得ないでしょう。呂不韋が荘襄王の即位に尽力したのは誰もが認めるところであり、王自身は彼に生涯の大恩があるにせよ、それはあくまで子楚個人の恩義な訳ですから、商人である呂不韋には商売上の便宜を図ってやれば済む話で、秦に何の功もない他国人の彼を丞相に据える口実にはなりません。これが趙夫人と政をそれぞれ王妃と太子に立てる程度ならば、条件さえ揃えば上意を通すこともできるでしょうが、いかに秦は他国に比べて王権が強いとは言え、どこの馬の骨とも知れぬ怪人をいきなり丞相に任ずるというのは、流石に王族や重臣の同意を得られなかったものと思われます。もともと秦は西方(と言っても周の故地なのですが)にあって、中原の諸国からは後進地域として蔑まれてき...天下統一(呂不韋の盛衰)

  • 天下統一(始皇と呂不韋)

    何かと武帝に比較されることの多い始皇帝もまた、武帝とよく似た生涯を送った帝王です。後の始皇帝こと嬴政がこの世に生を受けた時、祖国秦の君主は彼の曾祖父に当たる昭襄王でした。太子の安国君(政の祖父)には二十人以上の子がありましたが、政の父の嬴子楚は人質として隣国の趙へ送られており、長子の政も秦ではなく趙の首都邯鄲で産まれ、そのまま同国で父母と共に少年期を過ごしています。数ある安国君の子の中から、特に子楚が趙への人質に選ばれたのは、彼の生母に対する太子の愛情が薄かったためで、要はどうなっても構わないような捨て駒です。それ故に子楚は秦の王族の一人でありながら、異国の地にあって衣食にも事欠く有様であり、もし秦と趙が事を構えるようなことになれば、真っ先に殺される危険とも常に隣合せの境遇でした。その不遇の人質に呂不韋という衛...天下統一(始皇と呂不韋)

  • 武帝の功罪(時代の終焉)

    武帝からの絶大な信任を得て、一時は並ぶ者のない権勢を誇った江充でしたが、彼自身には巷で誇張されるような職制上の大権はなく、その実態は甚だ脆いものでした。何故なら彼の置かれた立場というのは、江戸時代の側用人や現代の大統領補佐官のように、あくまで元首個人の私設秘書官のような役職に過ぎず、その権力は偏に武帝の威光を頼りとしていたからです。従って他の高位高官のように、朝廷内での実績や閨閥を持たない江充は、主君の後楯以外には何ら身の拠り所がなく、仮に武帝が崩御するような事態になれば、その瞬間に今ある全てを失う可能性すら否定できない存在だった訳です。無論江充が自分を拾ってくれた武帝に義理を通して、初めから今上一代に限って精一杯の奉公をする志だったならばそれでも構わないでしょう。しかし武帝の死後も廷臣としての地位を保持しよう...武帝の功罪(時代の終焉)

  • 武帝の功罪(君主の直感と江充)

    君主の直感について言えば、国家の長い歴史の中でも、特に重大な決定を下す際には、常に主要な因子の一つとなっています。例えば公表こそされていませんが、今も日本の国務大臣は、元首である天皇に対して、内奏という国務報告を行っています。かつて昭和天皇への内奏に臨んだ諸大臣は、問答に表れる先帝の聡明さに驚愕し、国会答弁などとは比較にならないほど緊張したといいます。もともと君主というのは世俗に塗れていないので、世の中に対する余計な雑念が殆どない上に、全ての言葉が下問という形を取るため、率直に思ったことや、物事の本質だけを単刀直入に尋ねてきます。一方答申する大臣にしてみれば、そこには飾言の入り込む余地や、予め官僚の用意した答案もないため、嘘偽りなく事実を正直に上奏するしかありません。無論現代の憲法下では、天皇に政治的な権限はな...武帝の功罪(君主の直感と江充)

  • 武帝の功罪(李広と司馬遷)

    武帝も晩年になると、漢帝国の発展も既に終息し、帝自身が歴史的な役割を終えていたこともあって、臣下にとって忖度すべきは帝の政治方針などではなく、単に主君の個人的な趣向に過ぎないことが多くなっていました。一見すると臣下の方では基本的に同じことをしているだけなのですが、決定的に似て非なるところは、主君の所信に従い、これを実現すべく尽力するのが忠臣であるのに対して、主君の欲望を見抜き、これに迎合して媚び諂うのは佞臣だということです。そして所謂佞臣の得意とするところは、劣情や私欲といった主君の悪徳から発した行為でさえ、尤もらしい理屈を設けて正当化し、良心から発する主君の罪悪感を鈍化させてしまうことであり、これを巧みにやられると、次第に常識的な是非善悪の区別すら付かないようになります。同じく武帝の治世も晩期になると、帝の望...武帝の功罪(李広と司馬遷)

  • 武帝の功罪(人事の成否)

    郡国に令して毎年有徳者一名を推挙するよう命じた翌年、馬邑に大軍を動員しながらも空振りに終った一件を契機として官軍の再編に着手するなど、着実に親政への移行を進めていた武帝でしたが、解決しなければならない問題は身近にもありました。かつて劉徹は立太子の代償として伯母である館陶公主の娘と婚約しており、即位後はその妻を皇后に立てていました。公主が陳氏という臣下に降嫁していたため陳皇后と呼ばれています。その陳皇后は、武帝が即位できたのは自分の母親のお陰だということを知っていて、彼女の生まれ育った家庭が内親王である母親を中心に動いていたことや、夫の即位後もしばらくは実の祖母である董太皇太后が朝廷の実権を握っていたこと等も影響してか、帝に対して不遜な態度を取ることもあったようで、このいとこ同士の結婚は余り良い結果を生みませんで...武帝の功罪(人事の成否)

  • 武帝の功罪(儒教と道教)

    黄老の理念に基づき職務を行っていた漢朝の役人というのは、たといどんな不都合があろうと、基本的には現状をそのまま肯定し、既に出来上がっている体制を無理なく運営することを本分としており、そこに何らかの自発的な改革を求めることは殆ど不可能に近いような集団になっていました。もともと内部の人間が、自分の所属している組織を変えること自体が甚だ困難であるのに、変えないことを是とする思想のお墨付がある訳ですから、殆どの役人は自分の任期中のことしか考えません。従って武帝が即位した時、若く野心的な皇帝の目に映ったのは、凡そ合理化などという概念もなく、何をするにも仕事が遅い上に、自分には責任が及ばぬことを優先にして作業を進めているような、いつの時代にも変らぬ硬直化したお役所の姿でした。そしてその形骸化した組織に大改革を施したのが武帝...武帝の功罪(儒教と道教)

  • 武帝の功罪(黄老と停滞)

    内政面での武帝の評価を落としている要因の一つが、急激な変革によって齎された社会の混乱に対して、政治による有効な解決策を明示できなかったことならば、もう一つは統治者として天下に及ぼした負の側面、即ち天子である武帝個人に向けられた批判となります。ちょうど武帝の治世の頃に表面化し始めた、貧富の格差の拡大や末端の民衆生活の崩壊、治安の悪化や汚職の蔓延といった諸問題が、あくまで帝独りではなく朝廷全体の責任であるのに対して、帝自らが招いた人主としての悪評については、流石に臣下を罪に問うという筋の話ではありません。元より五十年以上にも渡って帝位に君臨した絶対者に関して、殆ど低評価を下しようがないなどということは有り得ないのですが、功罪半ばして当然ということを考慮しても、度重なる暴政や恣行に代表される専制君主としての弊害が、国...武帝の功罪(黄老と停滞)

  • 武帝の功罪(汚職の蔓延)

    治安の悪化と並んで、内政面での武帝の評価を落としている現象に、汚職の蔓延があります。無論汚職そのものはいつの時代にもあることで、何も武帝の時代に限ったことではないし、これから先も絶対になくなりません。また当時の漢は世界有数の超大国であり、且つ先進国でもあったから、どれほど汚職が目立つようになったと言っても、それが大漢帝国を傾けたとか、統治機構を崩壊させたなどということもなありませんでした。とは言え武帝以降の漢では、治安の悪化と同様に、汚職もまた国民からは当然の日常と認識されるようになっており、歴代の皇帝にとっても頭の痛い問題であったことに変りはありません。何しろ本来は君主を補佐して、それを撲滅すべき立場にある朝廷の重臣でさえ、お世辞にも清廉潔白とは言えませんでしたから、効果的な改善など余り期待できないのは自明の...武帝の功罪(汚職の蔓延)

  • 武帝の功罪(酷吏と粛清)

    またこの時代を象徴する職種に、「酷吏」と呼ばれた僚吏がいます。尤も正規の官名ではなく、読んで字の如く余り良い意味を持ちませんが、法を笠に着て人を罪に陥れ、それを容赦なく処罰した役人に対して、多分に蔑称として用いられた言葉です。また私情や個人的な意見の対立等から、正義の名を騙って政敵や邪魔者を貶めようとした例も多く、酷吏が政争の道具に使われるのも日常茶飯事でした。司馬遷は『史記』の中に酷吏伝を設けて、十一人の酷吏について扱っており、一口に酷吏と言ってもその個性は様々ですが、たとい相手が誰であろうと憚らずに法を適用し、その罪状が明確であれば厳罰を以て臨んだことで、法と行政に対する威信を回復させて、主君や上司から全幅の信頼を得ると共に、皇族や高官からも恐れられたという点では共通しています。一方でその人格や信念は決して...武帝の功罪(酷吏と粛清)

  • 武帝の功罪(汚職の蔓延)

    治安の悪化と並んで、内政面での武帝の評価を落としている現象に、汚職の蔓延があります。無論汚職そのものはいつの時代にもあることで、何も武帝の時代に限ったことではないし、これから先も絶対になくなりません。また当時の漢は世界有数の超大国であり、且つ先進国でもあったから、どれほど汚職が目立つようになったと言っても、それが大漢帝国を傾けたとか、統治機構を崩壊させたなどということもなありませんでした。とは言え武帝以降の漢では、治安の悪化と同様に、汚職もまた国民からは当然の日常と認識されるようになっており、歴代の皇帝にとっても頭の痛い問題であったことに変りはありません。何しろ本来は君主を補佐して、それを撲滅すべき立場にある朝廷の重臣でさえ、お世辞にも清廉潔白とは言えませんでしたから、効果的な改善など余り期待できないのは自明の...武帝の功罪(汚職の蔓延)

  • 武帝の功罪(豪族の台頭)

    治安の目安となるもう一つの犯罪とは、庶民と犯罪者の垣根がないような日常の軽犯罪ではなく、盗賊や裏社会といった組織的な犯罪で、代々漢の朝廷が頭を痛めたのもこれでした。いつの時代もこうした犯罪組織というのは、社会から逸脱して行き場を失った不適格者に加えて、国内の少数民族や海外からの移民といった、所謂マイノリティと呼ばれる集団よって構成されるのが一般的です。そして武帝の治世はその輝かしい成功の陰で、前述した流浪農民の他にも、度重なる徴兵や徭役によって多数の逃亡兵を発生させており、故郷にも帰れない彼等は無戸籍の日陰者として生きる以外に術はなく、その中から多くの犯罪者が育成されて行きました。また急激な領土拡大は多様な人種を国内に抱え込むことにもなり、それに伴って従来の生活手段を失った民族や、漢人の制度に溶け込めない集団も...武帝の功罪(豪族の台頭)

  • 武帝の功罪(治安の悪化)

    武帝は内外に国境を消し、王を称していた者達を次々に廃しましたが、それと平行する形で各地に豪族が出現し始めました。これは至極当然のことで、例えば後世の日本にあっても、幕府と地頭(御家人)が直結していた鎌倉時代は守護の力が弱く、逆に守護が強大となった室町時代は幕府と地頭(国人)の力が弱くなっています。そして地頭の力が弱まると、在地の実権は更にその下の地侍へ移るようになり、遂にはその地侍達が連合して守護大名と対立するようになりました。無論景帝以前にも各地に豪族は憚っていましたが、武帝以降の漢では地方領主の権限が縮小し、州郡は中央から派遣された刺史や太守が統治する体制となったため、実際には現地の有力豪族が郡府や県の役職に就任し、赴任して来た太守の下で実務を担当するという形が徐々に定着して行きます。この頃に帝国全土で台頭...武帝の功罪(治安の悪化)

  • 武帝の功罪(格差社会)

    君主としての武帝の功罪については評価の分かれるところで、その未曾有の功績については敢て論ずるまでもない反面、その罪過もまた甚大に過ぎたというのが、ほぼ共通の認識となります。もともと武帝の業績の大半は外征に起因しており、国内の繁栄も基本的には対外的な拡張路線に沿ったものでしたから、主要な事績の多くは外征と切り離して語ることができません。但しそれは裏を反せば、その前段階となる外交の方は余り成功しなかったという意味でもあり、外征にしても(対匈奴戦を除けば)強者に作戦無しとばかりに圧倒的な兵力で相手を踏み潰すのが常であって、内容自体はお世辞にも完勝とは言えない戦役も多かったのです。とは言え少なくとも対外的な面だけを見れば、匈奴を北方へ駆逐したことや、空前の大帝国を築き上げた実績等から、武帝を支那史上有数の名君とするのが...武帝の功罪(格差社会)

  • 新世界秩序(二)

    そして武帝の代から約千五百年後、明の太祖(朱元璋)が子孫への遺訓に「不征の国」を示し、遠路の出兵を戒めています。そこで征してはならない国として挙げられているのは、朝鮮、日本、琉球、台湾、東南アジア諸国など十数国で、不征とすべき理由は、兵を派遣したところで補給が続かないことと、平定したところで現地人を使役できないことでした。言わば中国にとっては何の得にもならない国々なので、敢て相手にしなくてもよいと諭した訳です。明の外臣だった朝鮮を別にすれば、不征の国は日本を始めとする東の海上の島々と、越南からインドまでの間に存在した南方の国々に分かれており、地理的に東と南に偏っているのは、明そのものが江南から興った国で、当時の首都が南京に置かれていたからでしょう。太祖洪武帝の遺訓に見える明の対外方針は、基本的に漢の武帝の時代か...新世界秩序(二)

  • 新世界秩序(一)

    そして農耕民が遊牧民の土地を占拠しても使い道がないように、遊牧民もまた農耕民の土地に居座ったところで何ができる訳でもないので、古来数え切れないほど干戈を交えてきた両者ですが、あくまでそれは一時的な紛争に過ぎず、お互いの生活圏を奪い合うような戦争ではありませんでした。要するに遊牧民は農耕民の土地を襲っても留まることはなく、勝敗に関らず事が終れば放牧地へ戻るのが常であり、逆に農耕民が遊牧民の土地へ兵を進めても、目的を達すれば軍を引いたからです。従って漢と匈奴が出遭う以前の農耕民と遊牧民の争いというのは、万里の長城に象徴される両者の境界域で繰り広げられた一種の陣取り合戦のようなもので、お互いが相手の棲息圏には関与しないことを前提としていましたから、ある意味では平和だったとも言えます。また白登山の戦いで漢軍は、高祖自ら...新世界秩序(一)