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史書から読み解く日本史
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山水翁さんの新着記事

1件〜30件

  • 記紀神話:『日本書紀』に見る黄泉めぐり

    一書に曰く(第六)その後に伊弉諾尊は、伊弉冉尊を追って黄泉に入り、共に語った。伊弉冉尊が言うには、我が夫よ、何とも来るのが遅すぎた、私は既に黄泉の食物を口にしてしまった、今から眠るので、決して寝姿を見ないで欲しいと。伊弉諾尊はこれを聞き入れず、密かに火を灯して妻の姿を見てみると、そこには膿が沸き蛆が集っていた。伊弉諾尊は大いに驚いて、吾は思いがけず酷く穢れた所へ来てしまったと言い、速やかに逃げ帰ろうとした。伊弉冉尊はこれを恨んで、なぜ頼み言を聞かずに私に恥辱を与えるのかと言い、泉津醜女(よもつしこめ)八人を遣わして追い付かせた。伊弉諾尊は剣を後ろに振りながら逃げ、鬘を投げるとこれが葡萄になった。醜女はこれを拾って食べたが、食べ終るとまた追ってきた。そこで伊弉諾尊が櫛を投げるとこれが筍になった。醜女はこれを抜いて...記紀神話:『日本書紀』に見る黄泉めぐり

  • 記紀神話:日本と大陸の神話の間で

    一書に曰く(第六)(冒頭部は前出)火の神軻遇突智が生まれるに至って、伊弉冉尊は焦かれて世を去った。伊弉諾尊が十拳剣を抜いて軻遇突智を三段に斬ると、それが各々神になった。また剣の刃から垂れた血が天安河辺にある五百箇磐石となった。これは経津主神(ふつぬしのかみ)の祖である。また剣の鐔から垂れた血が神となった。名を甕速日神(みかはやひのかみ)と言う。次に熯速日神(ひのはやひのかみ)。この甕速日神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖である。また剣の鋒から垂れた血が神となった。名を磐裂神(いはさくのかみ)と言う。次に根裂神(ねさくのかみ)。次に磐筒男命(いはつつのをのみこと)。また剣の頭から垂れた血が神になった。名を闇龗(くらおかみ)と言う。次に闇山祇(くらやまつみ)、次に闇罔象(くらみつは)。一書に曰く(第七)伊弉諾尊...記紀神話:日本と大陸の神話の間で

  • 記紀神話:『日本書紀』に見る神生み

    以上ここまでは『古事記』を中心に見てきましたが、同書は意図的な加飾が歴史の本質を見え難くしているので、ここからは『日本書紀』に沿って読み進めてみたいと思います。まず『日本書紀』に記された神生み(第五段)について、本文から順を追って見て行くと次のようになります。『日本書紀』本文伊弉諾尊と伊弉冉尊が共に議して言うには、吾は已に大八島洲国と山川草木を生んだ、どうして天下に主たる者を生まないことがあろうかと。そこで共に日神を生んだ。大日孁貴(おおひるめのむち)と言う。一書に天照大神と言い、一書に天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)と言う。この子は光華明彩にして六合之内(四方)を照らし徹した。二神は喜んで、吾が子は多しといえど、これほど孁異な子はいない、久しくこの国に留めておくのは宜しくない、早く天に送って天上の...記紀神話:『日本書紀』に見る神生み

  • 記紀神話:黄泉めぐり

    『古事記』によると、続いてイザナギ・イザナミ両神は、鳥之石楠船神(とりのいはくすふねのかみ)を生みました。亦の名を天鳥船(あめのとりふね)と言います。次に大宜都比売神(おおげつひめのかみ)を生み、次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)を生みました。亦の名を火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)と言い、亦の名を火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と言います。トリノイハクスフネは、『日本書紀』一書(第二)に蛭児(ひるこ)を流すために生まれた船(『古事記』では葦船)として出てきます。『日本書紀』での表記は「鳥磐櫲樟船」で、「楠」と「樟」はどちらも「くすのき」を表し、腐食に強いため古くから舟の材料に用いられました。オオゲツノヒメは、その名の示す通り穀物の女神で、記紀共に他の箇所でも別の形でその名が見えるように、単独の一神...記紀神話:黄泉めぐり

  • 記紀神話:国生みから神生みまで

    国を生み終えたイザナギ・イザナミ両神は、続いて諸々の神を生みました。『古事記』に記された最初の神々は以下の通りです。①大事忍男神(オホコトオシヲノカミ)②石土毘古神(イハツチビコノカミ)③石巣比賣神(イハスヒメノカミ)④大戸日別神(オホトヒワケノカミ)⑤天乃吹男神(アメノフキヲノカミ)⑥大屋毘古神(オホヤビコノカミ)⑦風木津別之忍男神(カザモツワケノオシヲノカミ)⑧海の神、大綿津見神(オオワタツミノカミ)⑨水戸の神、速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)⑩速秋津日子神の妻、速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)以上『古事記』では、大事忍男神か速秋津比売神までを十柱と数えており、本文中では特に言及されていませんが、恐らく石土毘古神と石巣比売神も(夫婦か兄妹かは別にして)男女の対神と見ていいでしょう。また風木津別之神ま...記紀神話:国生みから神生みまで

  • 記紀神話:神世七代から国生みまで

    記紀共に本文は皇室の祖先神を語るところから始めており、それは取りも直さず日本最古の神々に他なりません。『古事記』はまず天地が初めて開けた時に高天原に現れた神として、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神の名を挙げ、次に国の形がまだ朧気だった時に現れた神として、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の二柱の神の名を挙げ、この五柱の神を「別天つ神(ことあまつかみ)」つまり殊に別格の天神としています。そしてこの五柱の天つ神は、出雲大社の「御客座五神」でもあります。次に現れた神は国之常立神、次に豊雲野神であり、別天つ神とこの二柱の神は独神(ひとりがみ)です。次に現れたのは宇比地邇神とその妻須比地邇神、次に角杙神とその妻活杙神、次に意富斗能地神とその妻大斗乃辨神、次に於母陀流神とその妻阿夜訶志古泥神、次に伊邪那岐神...記紀神話:神世七代から国生みまで

  • 記紀神話:古事記と日本書紀

    続いて記紀神話を読み解いてみたいと思います。「記紀」とは言うまでもなく『古事記』と『日本書紀』を指し、どちらも奈良時代に成立した我が国の史書の原点であり、神話に始まるこの国の歴史を今に伝えます。記紀共にその原典となっているのは、両書以前に存在したとされる帝紀及び旧辞という史伝で、一般に帝紀は天皇の系譜や妻子の名前、在位中の主な業績、宮殿や陵墓の場所等を、旧辞は神話や様々な逸話等を伝えていたと解説されますが、その辺りの整合性については不明な点も多く、どちらも原文は早くに散逸しているため、後世の我々は記紀を通してその面影を探るしかありません。尤もかつて『東観漢記』が『後漢書』に再編されることで滅失してしまったように、帝紀と旧辞もまた『古事記』と『日本書紀』に姿を変えただけのことなので、記紀の内容こそが帝紀と旧辞その...記紀神話:古事記と日本書紀

  • 魏志:卑弥呼と台与

    更にこの両年の日食を特別なものにしているのは、正始八年のそれは日没と共に太陽が浸蝕される日食なのに対して、正始九年のそれは日出と共に太陽が復活する日食であり、恐らくはこの二つの日食とほぼ時を同じくして女王卑弥呼が世を去っていることです。また既に暦法の確立されていた漢土では、正始八年と九年の日食の間隔は一年半になりますが、日食の起きた時期がそれぞれ昼夜の長さが同じになる三月と九月だったため、当時の倭人の年の数え方ではちょうど丸三年の節目だったかも知れません。そして「卑弥呼」の名が、倭語では「日御子」或いは「姫(日女)御子」であり、一時的な混乱を経た後、彼女の後継として再び女王が即位していることから、二度の日食は新旧女王の交代劇を見事なまでに象徴する出来事となっています。卑弥呼の死後について『魏志』に伝えるところで...魏志:卑弥呼と台与

  • 魏志:卑弥呼の死

    卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者奴婢百余人。更えて男王を立てるも国中服さず。更に相誅殺し、時当に千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壹與、年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。張政、檄を以て壹與に告喩す。卑弥呼は已に死んでおり、径百余歩の大きな塚が作られていた。奴婢百余人が徇葬された。改めて男王を立てたが国中が服さず、互いに相誅殺して、当時千余人が殺された。そこで再び卑弥呼の一族の少女で十三歳の壱与を王に立てると、遂に国中が定まった。張政は(改めて)壱与に告諭して激励した。「卑弥呼以て死す」の「以て」は「已に」の意。つまり張政等が倭国へ至った時には、既に女王卑弥呼は崩じており、径百余歩の墳墓が造られた後だったということです。そして前後の流れからすると、王頎を始め郡の面々は彼女の死を知らないま...魏志:卑弥呼の死

  • 台風15号

    今回の台風15号に被災された方々の安全と健康を心よりお祈り申し上げます。また昼夜を通して復旧に尽力されている全ての方に厚く御礼申し上げます。一週間ほど更新が滞っていますが、私の住んでいる地域でも台風15号による被害が少なからずありました。テレビ等でも報道されている通り、台風15号通過の際の暴風により、9日(月)未明に千葉県全域で大規模な停電が発生し、5日目を迎えた今も電気の復旧していない地区が広範囲に存在します。幸い私の自宅や職場は、昨夜になって電気が復旧してくれましたが、親戚や友人、職場の同僚の中には、今も電気のない生活を余儀なくされている人が大勢います。また同じ町内でも電気の戻った所とそうでない所が混在しており、完全復旧の見通しは立たない状態です。停電中は、テレビやインターネットはもちろん、固定電話も使えな...台風15号

  • 魏志:卑弥呼と卑弥弓呼

    其の八年、太守王頎、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史の張政等を遣わして、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りて之を告喩す。正始八年、太守の王頎が帯方郡に着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と平素より不和であった。(女王は)倭の載烏越(人名か)等を郡に遣わし、(載烏越等は)相攻撃する状を説いた。(王頎は)塞曹掾史の張政等を倭に遣わし、(張政等は)詔書と黄幢を持って行き、難升米に預け、これを告諭して激励した。正始八年(西暦二四七年)、玄菟郡の太守だった王頎が、帯方郡へ転任となりました。これはこの前年に帯方太守の弓遵が、韓との紛争で戦死したことを受けての人事で、恐らくは高句麗遠征等で見せた王頎の手腕に期待し...魏志:卑弥呼と卑弥弓呼

  • 魏志:魏と倭国の交流の真偽

    正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、並びに詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上奏し、詔恩を答謝す。其の四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木□・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。其の六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。正始元年(二四〇年)、太守弓遵は建中校尉梯儁を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国へ行き、倭王(もしくは代理)に拝し、並びに詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜った。倭王は使者を通じて上奏し、詔恩を答謝した。その四年(二四四年)、倭王は、また使者の大夫伊声耆や掖邪狗等八人を遣わして、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木□・短弓矢を上献し...魏志:魏と倭国の交流の真偽

  • 魏志:司馬懿と四郡

    次いで、楽浪・帯方の二郡へ太守が赴任して来たのは、果していつ頃だったのかという問題があります。尤もこれについては意外と早い時期だったと見てよいでしょう。本来『魏志』内にその年月が明記されていればよいのですが、同書にはただ「景初中」とあるだけで、景初年間のいつの時点なのかについては全く触れられていません。前記の通り両郡を制圧したのは、司馬懿率いる討伐軍ではなく別働隊の水軍であり、この水軍は対呉戦に備えて曹操の時代から育成してきた艦隊で、かつて一度は赤壁で敗れたりとはいえ、依然として魏の水軍も強大でした。公孫淵のような地方の軍閥一つ踏み潰すのに、明帝が大尉の司馬懿を召喚したのみならず、水軍まで参戦させたということは、いかに戦線の長期化を厭っていたかが分かります。勿論失敗など絶対に許されません。これは北条征伐の際の秀...魏志:司馬懿と四郡

  • 魏志:遼東征伐と倭人

    正親町帝の天正十三年(西暦一五八五年)、平民出身者として初の関白となった秀吉は、翌々年の天正十五年に島津氏を討伐して九州を平定すると、天下統一の仕上げとして東国の運営に着手します。同天正十五年十二月、まず秀吉は関東奥羽の諸大名に惣無事令を発して停戦を命じ、当主自らの上洛を促しました。そして毛利家や徳川家がそうであったように、たとい一度は敵対して干戈を交えた相手でも、上洛して臣従すれば赦すというのが秀吉の基本方針でしたから、もしこの時点で北条氏政と伊達政宗が上洛して秀吉に服していれば、伊豆以東の諸大名の所領は(一時的とは言え)ほぼそのまま安堵された可能性が高かったでしょう。しかし東国の諸将の中には時勢を読み誤る者も多く、九州同様にいずれ兵馬で解決しなければならないのは始めから分かっていたことであり、むしろ惣無事令...魏志:遼東征伐と倭人

  • 魏志:親魏倭王

    三角縁獣神鏡(景初三年銘):神原神社古墳出土景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将送って京都に詣らしむ。其の年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝が在る所踰かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。是れ汝の忠孝にして、我甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して仮授せしむ。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路に勤労す。今難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見して労賜し、遣わし還す。...魏志:親魏倭王

  • 魏志:倭国の周辺

    女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り、皆倭種。また侏儒国有り、その南に在り。人の長三四尺、女王を去る四千余里。また裸国、黒歯国有り、またその東南に在り。船行一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中の洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。(魏志倭人伝)女王国から東へ千余里ほど海を渡るとまた国がある。皆倭種である。その南に侏儒国がある。人の身長が三、四尺。女王国から四千余里ほどである。その東南に裸国と黒歯国がある。船行一年にして着くだろう。倭の地を参問してみるに、海中の洲島の上に国が点在し、或いは孤島、或いは連なって、周旋五千余里ばかりである。女王国より東へ海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆倭種といえども女王に属せず。女王国より南へ四千余里、朱儒国に至る。人の長三四尺。朱儒より...魏志:倭国の周辺

  • 魏志:倭国大乱

    その国、本また男子を以て王と為し、住ること七八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿なく、男弟有り、佐けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。女王国は、もと男王が治めており、在位すること七、八十年に及んだ。(その王の死後に)倭国は乱れて、互いに攻伐して時を経た。そこで双方が共に先王の娘を王に立てることで合意した。名をヒミコ(ヒメミコか)という。鬼道を事として衆を惑わしている。すでに成人しているが夫や婿はいない。弟が補佐して国を治めている。王となって以来、その姿を見た者は...魏志:倭国大乱

  • 魏志:倭の風景(二)

    その俗、拳事行来に云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占う。先ず卜する所を告げ、その辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。その会同坐起に父子男女の別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人は寿考にして、或いは百年、或いは八九十年。その俗、国の大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を没す。尊卑各差序有り、相臣服するに足る。挙事行来に何かあれば、骨を焼いて吉凶を占う。(そのやり方は)先ず卜うべきことを告げ、令亀の法のように火の裂け目を視て兆(吉凶)を占う。会合や立居振舞に父子男女の差がない。酒が好きである。自分の敬うべき大人が見えると手を打って跪拝に代える。人...魏志:倭の風景(二)

  • 魏志倭人伝(四)

    男子は大小となく皆黥面文身す。古より以来、その使の中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚水禽を厭う。後やや以て飾と為す。諸国の文身各異なり、或いは左、或いは右、或いは大、或いは小、尊卑差有り。その道理を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。その風俗淫ならず。男子は皆露紒し、木綿を以て頭を招い、その衣は横幅ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は皆髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑綿を出す。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵は矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所、儋耳・...魏志倭人伝(四)

  • 魏志倭人伝(三)

    次いで方位を見てみると、郡から末盧までについては、特に問題ないものと思われます。ただ末盧以降(つまり倭本土上陸以降)については、明らかに方位が時計回りへ四半回転されているのが見て取れます。例えば倭人伝では末盧(松浦)から伊都(怡土)、怡土から奴(儺)への方向をどちらも東南としていますが、実際には(東北東に近い)北東です。また不弥以降については、これが伊都の次は奴、奴の次は不弥という具合に隣続しているものなのか、それとも伊都から放射状に位置しているものなのかという議論もあります。ただ伊都から見て北東にある筈の奴を東南としている訳ですから、これに従えば東というのは即ち北ということであり、もし伊都から東(北)へ百里というならば、糸島半島を飛び越えて玄界灘へ出てしまいます。従って不弥はやはり奴から北へ百里と読むべきで、...魏志倭人伝(三)

  • 魏志倭人伝(二)

    (前略)以上は倭人伝を読み下して行く中で、魏使が道中の里数や戸数について、ある程度は把握していたと仮定した場合の話ですが、一方で少なくとも距離に関して言えば、もともとこれは実測値から導き出されたものではなく、単に要した日数を里数に換算しただけとする見方もあって、恐らくはその解釈の方が実情に近いと思われます。と言うのも魏使が他国との間を往来する場合、道中の安全も考慮して現地人の郷導を用いるのが普通ですし、ましてや道中で測量をしている訳でありません。実際に魏使が異国での正確な地理を知るためには、専門の技術者が同行して現地で測量をしなければなりませんが、古今東西の常識として他国での測量は侵攻の前兆と見做されるため、その土地の首長がそれを許可する筈がないからです。因みに魏と倭の交流から三百数十年後、隋の国使が日本での見...魏志倭人伝(二)

  • 魏志倭人伝(一)

    ※諸事情により三か月ほど放置していましたが、緩やかに再開します。次いで『魏志』倭人伝について考察してみます。正しくは『魏書』東夷伝倭人条と言うべきなのでしょうが、ここでは一般に馴染みの深い『魏志』倭人伝もしくは単に「倭人伝」で通すことにします。そしてこれから倭人伝を読み進んで行くに当たっては、基本的に原文は省き、読下し文、現代語訳、解説の順で記して行きます。但し『魏志』に限らず、漢語の史書の原文には句読点すら振られていないのが普通なので、読下し文に設けられている句読点は、読む側が適当に割り振ったものです。また倭人伝はかなりの長文なので、その内容を把握しやすいように区切りの良い箇所でいくつかに分割し、それぞれを個別に扱う形で進めて行こうと思います。倭人は帯方の東南海中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の...魏志倭人伝(一)

  • 天下統一(趙の攻略)

    紀元前三四一年、馬陵の戦いで斉軍に大敗し、翌年には秦に黄河以西を奪われるなど、魏が次第に弱体化して行く中で、代って台頭してきたのは北の趙でした。晋の六卿を独占する六氏の一角を占めていた趙氏は、姓を嬴と言い、秦王室とは同祖だと伝えます。魏が覇権を失った後の河北では、威王の下で急速に国力を増強させていた斉と、商鞅を用いて法治国家への道を歩み始めていた秦が、中原を挟んで東西に覇を唱えていましたが、趙もこの二強には及ばないとは言え、旧晋領から更に北方へ領土を拡大して着実に国力を蓄えていました。ただ韓魏趙の三氏が晋を分割して独立した頃には、晋と同じく国内の分裂していた斉が田氏の単独統治によって復活し、西方の弱小国だった秦が絶対王権と法治主義を掲げて急成長を遂げると、分裂したままの三氏は彼等に対して劣勢に立たされることが多...天下統一(趙の攻略)

  • 天下統一(魏の盛衰)

    韓を滅ぼした後、秦が次の標的として矛先を向けたのは、政とも因縁浅からぬ趙でした。過去にも幾度となく城の取り合いをしてきた秦と三晋でしたが、戦国時代も後半になると、支那大陸の北部を北から南に流れる黄河が、旧晋諸国と秦との天然の国境となっていました。もともと黄河流域を開拓したのは晋であり、かつて晋が中原の大国で、秦が西方の弱小国だった頃には、晋(及びその後衛である韓魏趙の三国)の国土は黄河の西岸にまで及んでいましたが、秦が強国として領土を拡大するようになると、黄河以西の土地は尽く秦に併呑されてしまっていたのです。そして嬴政が王として国権を握ると、いよいよ秦は黄河東域の完全なる平定に向けて、前人未到の大業を実行に移し始めたのでした。ただ秦と魏の国境が、その中心を流れる黄河という天然の障害を除けば、ほぼ一面の平野だった...天下統一(魏の盛衰)

  • 天下統一(韓の滅亡)

    もともと韓候は晋の公族出身で、従って姓は周王室と同じく姫であり、氏の韓は地名に因るものです。戦国も半ばを過ぎると、魏秦楚の三国に囲まれた韓は、七雄の中でも最弱というのが定位置となり、その国土は諸国の侵食によって縮小の一途を辿っていました。しかし独立間もない頃の韓は、隣接する魏と並んで晋を二分する勢力であり、その国土も周王室の直轄領(洛陽とその周辺)を中心に、それを韓魏の二国が半周ずつ囲うような形で分けられており、むしろ天下の中心に位置する有力国でした。その後は戦国の常で国境は絶え間なく変化し、特に魏との間では各地で複雑に領土が入れ替り続けましたが、やがて戦国も末期の頃になると、中原を西から東へと流れる黄河を天然の国境として、その北岸を魏領、南岸を韓領(但し遷都後の魏の国府大梁は黄河の南側)とする形でほぼ定着して...天下統一(韓の滅亡)

  • 天下統一(統一前夜)

    果して秦がいつ頃から天下統一を意識し始めたのかという点については、実のところよく分かっていません。後年はそれが何度も繰り返されたので、支那大陸の統一という大事業でさえ、既に誰もが認識可能な現象となっています。しかし現実問題として、戦国時代にそれを思い描いていた人間が何人居たのかとなると、頭の中だけの夢物語を別にすれば、これは甚だ疑問となります。むしろ天下の統一が可能だなどと何の疑いもなく確信していたのは、天下広しと言えども始皇くらいのものだったでしょう。そして最終的にはその意識の差が秦と他国との明暗を分けていて、秦以外の大国が、戦国とは言いながらも誰一人として滅びることのない共存の中で、これから先もその状態を続けるつもりでいたのに対して、もはや秦王政には春秋戦国のパワーゲームに付き合う気など更々なく、始めから自...天下統一(統一前夜)

  • 天下統一(斉と晋)

    ここで斉と晋について軽く触れておくと、斉は武王の覇業を補佐した太公望呂尚を始祖とする国で、呂尚は姓が姜、氏が呂だったため、王姓は姜であり、周一門ではなく臣下が封ぜられた中では最も大きい国です。但し呂尚が下向した当時の斉は、殷に属していなかった莱という部族の土地であり、要するに彼は既に開けていた国を与えられたというよりも、莱を征伐してその故地に建国することを認められたようなものでした。周が次代成王の世になると斉は、周王室に対して罪を犯した諸侯を討伐する権限を許されたとも伝えられ、ちょうど関中と斉とで中原を挟撃するように、周の版図の東端にあって諸国に睨みを利かせる存在となっていました。ただ武王が太公望を莱の地に封じたのは、彼が最も信頼できる臣下だったのは当然にしても、後に豊臣秀吉が重臣の徳川家康を関東へ、謀臣の黒田...天下統一(斉と晋)

  • 天下統一(春秋の風景)

    呂不韋を排除したことで、いよいよ秦王政の親政が本格化し、長く続いた戦国の世も終焉に向けて動き始めることになります。因みに呂不韋は丞相だった頃から、次々に訪れる他国の要人や使者と交わるのを好み、これは河南の食邑へ移ってからも変らなかったのですが、そもそも他国の方が競って呂不韋に接近したのは、何も彼の機嫌を取りたかったからでも、彼が優れた人物だったからでもありません。要は商人上がりで浮世の栄誉しか考えていない呂不韋のような人物に、大国秦の実権を握ってもらっていた方が好都合だっただけの話であり、ましてや秦王と呂不韋の間で内紛など起きてくれれば、他国にとってはこの上ない幸運だったのです。しかし呂不韋が秦王から死を賜ったことで、彼と太后の双頭時代には暫し秦の脅威から解放されていた諸国も、再び西方に神経を尖らせねばならなく...天下統一(春秋の風景)

  • 天下統一(呂不韋の盛衰)

    呂不韋は史書によると、荘襄王が即位するなり秦の丞相に就任したといいますが、流石にそれは有り得ないでしょう。呂不韋が荘襄王の即位に尽力したのは誰もが認めるところであり、王自身は彼に生涯の大恩があるにせよ、それはあくまで子楚個人の恩義な訳ですから、商人である呂不韋には商売上の便宜を図ってやれば済む話で、秦に何の功もない他国人の彼を丞相に据える口実にはなりません。これが趙夫人と政をそれぞれ王妃と太子に立てる程度ならば、条件さえ揃えば上意を通すこともできるでしょうが、いかに秦は他国に比べて王権が強いとは言え、どこの馬の骨とも知れぬ怪人をいきなり丞相に任ずるというのは、流石に王族や重臣の同意を得られなかったものと思われます。もともと秦は西方(と言っても周の故地なのですが)にあって、中原の諸国からは後進地域として蔑まれてき...天下統一(呂不韋の盛衰)

  • 天下統一(始皇と呂不韋)

    何かと武帝に比較されることの多い始皇帝もまた、武帝とよく似た生涯を送った帝王です。後の始皇帝こと嬴政がこの世に生を受けた時、祖国秦の君主は彼の曾祖父に当たる昭襄王でした。太子の安国君(政の祖父)には二十人以上の子がありましたが、政の父の嬴子楚は人質として隣国の趙へ送られており、長子の政も秦ではなく趙の首都邯鄲で産まれ、そのまま同国で父母と共に少年期を過ごしています。数ある安国君の子の中から、特に子楚が趙への人質に選ばれたのは、彼の生母に対する太子の愛情が薄かったためで、要はどうなっても構わないような捨て駒です。それ故に子楚は秦の王族の一人でありながら、異国の地にあって衣食にも事欠く有様であり、もし秦と趙が事を構えるようなことになれば、真っ先に殺される危険とも常に隣合せの境遇でした。その不遇の人質に呂不韋という衛...天下統一(始皇と呂不韋)

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