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2018/11/26

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  • 応神天皇(応神紀と成務天皇)

    応神紀と応神記 応神紀の初期年表 甘美内宿禰の讒言 応神紀と成務天皇 武内宿禰の野心 応神紀と応神記 古代国家大和の形成は、まず御間城入彦天皇(崇神帝)が四道へ将軍を派遣して周囲を平定し、続く活目入彦天皇(垂仁帝)がこれを継承して国家の礎を築いた。大足彦天皇(景行帝)は実子の小碓尊(日本武尊)と共に筑紫と東国を鎮撫して八洲を統一し、稚足彦天皇(成務帝)は郡県を設置して国内を安定させた。足仲彦天皇(仲哀帝)は鎮西の軍を興して筑紫に親征するも陣中に斃れ、気長足姫(神功皇后)は群臣と共に亡夫の遺志を継いで三韓を臣従させた。これを継体したのが誉田天皇(応神帝)である。では古代大和を完成させた誉田天皇と…

  • 神功皇后と応神天皇(後編)

    九州の伝承 関ケ原と応神天皇 九州の伝承 応神天皇と神功皇后にまつわる伝承の中に、昔何かの本で読んだ忘れられない話があります。その著者も書名も失念してしまったのが残念ですが、その内容だけは今もはっきりと覚えていて、それは次のようなものでした。神功皇后が九州に居た時、男児を出産した。父親は武内宿禰だった。やがて応神天皇が大和から兵を率いて攻め下ってきた。九州の兵士達は皆神功皇后を天照大神の再来と信じて皇后と共に戦った。しかし戦は応神天皇が勝ち、皇后は捕えられ、その子と大臣は殺された。この戦で九州の勇者が多く戦死した場所を今に千人塚と言うと。 元よりこの伝承が史実だと言うつもりはありませんし、どこ…

  • 神功皇后と応神天皇

    神功皇后と応神天皇の関係 八幡神社の祭神 言霊と祟り 神功皇后と応神天皇の関係 気長足姫の産んだ子が仲哀帝の子ではないということに関しては、実のところ記紀の中にもそれを暗示している箇所はあって、その一つに神託があります。既知の通り仲哀帝が熊襲征伐のために筑紫まで親征した際、その陣中で皇后が神憑り、とある神が現れて熊襲ではなく新羅を攻めるよう帝に教示したものの、その神告を信じなかった帝が急死するという事件が起きました。と言うより起きたことになっています。そして皇后に託した神の教えを疑う帝に対して、その神はかなり厳しい言葉でこれを責める訳ですが、その時に神が帝に向けて放った台詞といのうも、改めて読…

  • 仲哀天皇の系譜

    ここで仲哀帝の血統をもう一度確認しておくと、父は景行帝皇子の小碓尊(日本武尊)、母は垂仁帝皇女の両道入姫命であり、史書に従えば両親は甥と叔母の関係になります。続いて仲哀帝の子女について記紀では、従姉妹の大中姫との間に麛坂皇子と忍熊皇子、皇后気長足姫との間に誉田別皇子、更に誉屋別皇子という計四人の男子を儲けたとします。この誉屋別皇子の出自に関しては両書に相違が見られ、『日本書紀』では来熊田造の祖の大酒主の女の弟媛を生母とするのに対して、『古事記』には「また息長帯比売を娶して生みませる御子、品夜和気命、次に大鞆和気命、亦の名は品陀和気命」とあり、応神帝の同母兄とします。新撰姓氏録には子孫の名も記さ…

  • 好太王碑と神功皇后

    以上が好太王碑に刻まれた四世紀後半から五世紀初頭の倭と朝鮮の風景です。そして我々の知る日本史の中には、これ等の出来事に呼応するだけの明確な痕跡がない訳ですが、確かに碑文自体は高句麗側の視点で語られているにせよ、その内容が全くの創作であろう筈もありません。もし十九世紀に入って偶然この石碑が発見されなければ、我々はかつて日本と高句麗が戦ったという事実さえ永久に知らなかったことを考えると、まさにこれは天恵と呼べるほどの大発見だったと言えます。従ってこの発見を我々自身の歴史とするためには、国内に伝わる日本史と好太王碑の記述を一体化させる作業が必要になります。そこでまず碑文の方を簡単な年表にしてみると次…

  • 好太王碑に見る倭

    好太王碑 丙申戦争:百済征伐 庚子戦争:新羅救援 甲辰戦争:倭軍撃退 好太王碑 『日本書紀』の言う皇太后の摂政期が六十余年にも及んだとか、彼女が百歳まで生きたなどという話が虚構であることは誰もが理解していますし、神功皇后の伝記が日本国内で完結している分にはそれでも問題ありません。しかし新羅征伐や百済との交流のように、他国との接点を骨子に据えるのであれば、やはり相手側もしくは第三者の史料と照合させることによって、その事実関係を検証しなければなりません。そこで朝鮮半島や大陸の文献の中から、この時代の日朝関係を記録した箇所を探してみると、唯一個々の時事の年代まで信用できる史料として、高句麗の好太王の…

  • 神功皇后の摂政期

    その後の神功皇后 新羅再征 その後の神功皇后 『日本書紀』の年号によると、仲哀帝が崩じたのは在位九年の二月のことで、気長足姫は同年十月に新羅へ出兵し、十二月に筑紫で男子を出産すると、翌年二月に先帝の遺骸と共に豊浦を発ち、翌三月には忍熊王を討って王都に入りました。従ってこの年を以て神功皇后の摂政元年とします。尤もこれが西暦で何年に当たるかについては未だに解答はありません。そして翌二年の十一月に先帝を河内国の長野陵に葬ると、翌三年には誉田別皇子を太子に立て、大和の磐余に新都を造営したといいます。 摂政五年、新羅王が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣わして朝貢しました。これには先に人質となっていた…

  • 神功皇后(忍熊王の乱)

    内乱の経緯 麛坂王と忍熊王の出自 内乱の考察 内乱の経緯 朝鮮から戻った気長足姫は、筑紫で男児を出産しました。応神天皇です。ここからは記紀共に仲哀帝皇子の麛坂王と忍熊王が起こしたという反乱の話を伝えています。神功紀本文によると、皇后は十二月に皇子を出産し、翌年の二月に群卿百僚を率いて穴門の豊浦宮に移り、天皇の遺骸を収めて海路より都へ向かいました。時に麛坂王*1と忍熊王*2は、天皇が崩じ、また皇后が西方を征し、併せて皇子が新たに生まれたと聞き、密かに謀って言うには、「今、皇后には子があり、群臣は皆従っている。必ずや共に謀って幼主を立てるだろう。吾等は兄の身でありながら、どうして弟に従えようか」と…

  • 神功皇后(新羅征伐)

    記紀に見る新羅征伐 新羅征伐を考察する 記紀に見る新羅征伐 神功紀本文に描かれた皇后の新羅出兵は次のようなものです。秋九月に諸国に令して船舶を集め兵士を練りましたが、時に軍卒が集まりませんでした。皇后が「これは神の御心だろう」と言って、大三輪社を立てて刀矛を奉ると、軍衆が自ずと集まりました。出発に臨んで皇后が吉日を卜ったところ、まだ日がありました。皇后は親ら斧鉞*1を執り、三軍に令して言うには「鐘鼓が節無く乱れ、帥旗が混じり乱れる時は、士卒は整わないものである。財を貪り物を欲し、私を懐いて妻妾を顧みれば、必ず敵の捕虜となる。敵が少なくとも軽んじ侮ってはならぬ。敵が強くとも怖じて屈してはならぬ。…

  • 神功皇后(出兵前夜)

    財土を求む 皇后と宿禰の真意 渡韓を決めたのは誰か 財土を求む 続いて神功紀本文では、皇后が海を渡って新羅を征伐したという話を伝えます。山門から松浦に移った皇后は、自ら男装して群臣に語って言うには、「師を興し衆を動かすのは国の大事である。国の安危と成敗は必ずここにある。今征伐する所があり、事を群臣に委ねる。若し事が成らなければ、罪は群臣にあろう。これは甚だ傷ましいことである。吾は婦女にして未熟ながら、暫く男の姿に仮装して、強いて雄々しい戦略を立てよう。上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを借り、兵を興して嶮浪を渡り、船を整えて財土を求める。若し事が成れば、群臣は共に功があり、事が就らなければ、吾…

  • 神功皇后(神託)

    『日本書紀』第九巻神功紀(気長足姫は女帝ではないので、本来ならば紀ではなく伝とすべきだと思いますが、同書には伝が設けられていないことと、敢て一巻を割いていることから、便宜上神功紀とします)は、次のような書き出しで始まります。気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の曾孫、気長宿禰王の女です。母を葛城高顙媛と言います。仲哀天皇の二年に皇后に立てられました。幼くして聡明で賢く、容貌も麗しく、父王も訝しがるほどでした。九年の春二月に仲哀帝が崩じました。時に皇后は天皇が神の教えに従わずして早く崩じたことを傷み、祟るところの神を知って財宝の国を求めようと思いました。そこで群臣及び百僚に命じ、罪を…

  • 仲哀天皇

    仲哀帝即位 筑紫入り 仲哀帝即位 成務天皇が崩ずると、太子の足仲彦尊が即位しました。仲哀天皇です。但し足仲彦尊は先帝の実子ではなく、その兄王小碓尊の子であり、成務帝にとっては甥に当たります。そもそも成務帝の皇子については記紀共に殆ど記載がなく、『古事記』は穂積臣の祖の建忍山垂根の女との間に和訶奴気王という一柱を儲けたと伝えるのみで、『日本書紀』に至っては后妃子女に関する記録そのものがありません。尤も成務紀ではなく仲哀紀の方に、稚足彦天皇には男子が無かったので、足仲彦尊を後嗣に立てたという一文があることから、読み流す限りでは実子に恵まれなかった成務帝が、日本武尊の忘れ形見に皇位を譲っただけのよう…

  • 成務天皇

    成務天皇の業績 垂仁天皇と成務天皇 成務天皇の業績 小碓尊に先立たれた景行帝は、第四子の稚足彦尊を立てて皇太子としました。母は後皇后の八坂入媛命で、崇神帝皇子の八坂入彦命の娘です。稚足彦尊の立太子については、景行紀に次のような話が載せられています。ある時、景行帝が群卿を召して宴を催し、それが数日に及びました。しかし稚足彦尊と武内宿禰は宴に参加しなかったので、天皇が皇子を呼んでその理由を尋ねると、答えて言うには「こうした宴楽の日には、群卿百僚も戯れ遊ぶことに心が傾き、国家を顧みようとしない。もし狂った輩が現れて、警衛の隙を伺うやも知れず、故に門下に侍って非常に備えている」と。景行帝は稚足彦尊を誉…

  • 日本武尊(白鳥の御陵)

    『日本書紀』に見る日本武尊の薨去 『古事記』に見る日本武尊の薨去 両書の総括 『日本書紀』に見る日本武尊の薨去 東国平定の大任を全うして尾張まで戻って来た日本武尊でしたが、何故か直には大和へ帰国しようとしませんでした。『日本書紀』によると、尾張に還った日本武尊は、尾張氏の女の宮簀媛*1を娶り、久しく留まって月を経ました。ここで近江の五十葺山*2に荒ぶる神があることを聞いて、剣を解いて宮簀媛の家に置き、徒歩で出向いて行きました。胆吹山に着くと、山の神が大蛇に化けて道を塞ぎました。尊は主神が大蛇に化けているとは知らずに、「この大蛇は、きっと荒ぶる神の使いであろう。主神を殺すことができれば、この使い…

  • 日本武尊(東国平定)

    伊勢出立から上総まで 上総から蝦夷、常陸から信濃へ 伊勢出立から上総まで 熊襲を討伐した日本武尊は、景行帝から統一の仕上げとして東国の平定を託されることになりました。そしてこの東国平定によって大和朝廷の日本統一がほぼ完了し、千数百年後の現代まで続く万世一系の日本という国家が完成したことを思えば、それを成し遂げた小碓尊を号して日本武尊と称えるのは、まことに理に適っている訳です。但しその間の帝と尊の親子関係について、記紀両書で真逆の描写がされているのは有名な話で、当然それによって両者の伝説に対する見方も変ってしまう訳ですが、そうした細部の相違を別にすれば、やはり記紀共にほぼ同じ物語を伝えています。…

  • 日本武尊(前編:熊襲征伐)

    『日本書紀』に見る日本武尊と熊襲 『古事記』に見る倭建命と熊曾 筑紫巡幸と日本武尊 大碓御子 『日本書紀』に見る日本武尊と熊襲 景行天皇こと大足彦忍代別天皇は、前皇后の播磨稲日大郎姫との間に双子の皇子を儲けました。双子の名は、兄を大碓皇子、弟を小碓尊と言い、小碓尊を称して日本武尊(記は倭建命に作る)と言います。日本武尊の熊襲征伐と東国平定については、記紀共にほぼ同じ話を伝えており、原典となる共通の伝説があったことを窺わせます。しかし『日本書紀』では日本武尊に先立って行われたとされる景行帝の筑紫巡幸が、『古事記』では全く語られていないなど、物語の前後で両書にかなりの相違が見られます。そこで記紀そ…

  • 景行天皇(筑紫巡幸:其四)

    筑紫巡幸の疑問点 そもそも巡幸だったのか 筑紫巡幸とは何だったのか 筑紫巡幸の疑問点 以上が景行帝による筑紫巡幸の要略ですが、こうして読み終えてみると、恐らく誰しも疑問に思うことがいくつかあります。まず一つは、天孫瓊瓊杵尊が日向の高千穂に天降り、その曾孫の神武帝が日向から東征して大和に入ったという神話を国史としながら、皇祖降臨の地である高千穂を景行帝が訪れていないことです。これは何とも不思議な話であって、もし高千穂が天孫降臨の地であり、皇室が天孫の嫡流であるならば、筑紫巡幸の目的の中に高千穂参拝が入っていないのは明らかにおかしいでしょう。しかし『日本書紀』や『風土記』は無論のこと、他の史料にも…

  • 景行天皇(筑紫巡幸:其三)

    火の国 火から筑紫へ 火の国 さて熊県(肥後国磨郡)で弟熊を討った景行帝は、『日本書紀』によると海路から葦北(同葦北郡)に渡ったとされます。ただ地図を見れば誰でも分かる通り、球磨郡と葦北郡は隣接しているので、険阻な山越えを伴うとは言え、わざわざ一旦日向まで戻り、舟で大隅海峡を迂回するよりは、そのまま陸路を進軍してしまった方が遥かに早くなります。にも拘らず海路からの移動を選択したのは、恐らく天皇の親征ということで皇軍が多勢だったことや、その後の行程を考えても日向に船団を置いて行けなかったこと等が、その理由かと思われます。要は天皇以下の主力が先に陸路から葦北に抜け、別動隊として水軍に後を追わせると…

  • 景行天皇(中編)

    熊襲征伐 夷守と球磨(熊) 豊国巡幸と土蜘蛛討伐 熊襲征伐 直入の土蜘蛛を討伐した景行帝は、更に南下して日向に到り、行宮*1を建てて熊襲を討つことを議しました。帝が群卿に詔して言うには、「聞けば襲の国に厚鹿文と迮鹿文という者がおり、この両人は熊襲の武勇の者にして衆類も多い。これを熊襲の八十梟帥*2と言う。勢が盛んで敵う者がない。帥を興すこと少なければ賊を滅ぼせまい。しかし多くの兵を動かせば百姓の害となる。何とか鋒刀を用いずに自ずと彼の国を平らげられぬものか」と。すると一人の臣が進み出て言うには、「熊襲梟帥には二人の娘があり、姉を市乾鹿文、妹を市鹿文と言う。容姿が端正で気性も雄々しい。貴重な贈物…

  • 景行天皇(前編)

    筑紫巡幸 大和の勢力範囲 豊臣秀吉の日本統一 景行期の大和朝廷 土蜘蛛 筑紫巡幸 実父垂仁天皇の後を受けて即位した景行天皇は、いよいよ日本統一の事業を開始します。『日本書紀』によると、景行帝がまず着手したのは筑紫*1への巡幸でした。その理由について同書では、熊襲が背いて朝貢しなかったので、熊襲征伐のための巡幸だったとしています。ただ当時の大和と熊襲の関係が、既に宗主国とその藩屏というものだったかどうかは疑わしく、恐らく朝貢云々は後世の脚色で、実際には熊襲が九州諸国を度々侵犯したため、帝が統一の一環として親征を行ったというものでしょう。因みにこの遠征で皇軍が武力を用いた相手は現地の土蜘蛛と熊襲だ…

  • 垂仁天皇(まとめ)

    垂仁帝の有名な治績の一つに、殉死の廃止と埴輪の起源に関する話がある。『日本書紀』に伝えるところでは、天皇の同母帝倭彦命が亡くなった時、その近習者を集めて、尽く生きたまま陵域に埋め立てた。日を経ても死なずに昼夜泣き呻き、遂に死んで腐ると犬鳥が集まってこれを食った。天皇はこれに心を痛めて、群卿に詔して言うには、「主人が亡くなった時に、生前愛しんだ人々を殉じさせるのは、甚だ傷ましいことである。古よりの風であるといっても、良くないのであれば従うことはあるまい。今より以後は、議って殉死を止めるように」と。 その数年後、後皇后の日葉酢媛が天皇より先に亡くなった。葬るにはまだ日があったので、天皇が群卿に詔し…

  • 垂仁天皇(後編)

    狭穂彦王の謀反 古事記に描かれた沙本毘古の謀反 記紀に見る垂仁天皇暗殺未遂事件 誉津別命 田道間守と橘 皇太子の選定 狭穂彦王の謀反 続いて『日本書紀』本文では、皇后の兄の狭穂彦*1王が謀反を企てた話を伝えています。皇后が休息して家にいるときを伺い、狭穂彦は妹に語って「汝は兄と夫と孰れか愛しき」と問いました。皇后がその意趣を知らずに、「兄ぞ愛しき」と答えると、狭穂彦が誂えて言うには、「色を以て人に仕えるは、色衰えて寵緩む。今天下に佳人は多し。各々進んで寵を求む。豈永に色を恃むことを得ん。これを以て冀わくは、吾皇祚に登れば、必ず汝と天下に臨まん。則ち枕を高くして百年を終えんこと、また快からずや。…

  • 垂仁天皇(前編)

    垂仁紀と垂仁記 大加羅国の王子 天日槍(天之日矛) 加羅王子の来朝はいつ頃だったか 新羅王子としての天日槍 『三国史紀』と『日本書紀』 天日槍と但馬氏 二人の天日槍 垂仁紀と垂仁記 続いて実質的な第二代天皇である垂仁天皇に話を進めて行こうと思います。その前に記紀それぞれの記録を項目毎に追ってみると、『日本書紀』の垂仁紀は、まず任那・新羅両国との関係に始まり、次いで皇后の兄狭穂彦王の謀反、野見宿祢と角力、丹波の姉妹、皇子誉津別命、伊勢の祭祀、殉死の禁止と埴輪、石上神宮と神宝、新羅の王子天日槍の神宝と続き、田道間守を常世の国へ遣わした話を記して終ります。一方『古事記』の方は、まず王宮の場所と后妃皇…

  • 崇神天皇(まとめ)

    『日本書紀』の崇神紀は、まず即位と后妃皇子女に始まり、次いで神々の祭祀、四道将軍と武埴安彦の謀叛、大物主神の妻問、御肇国天皇の称号、皇太子の選定、出雲の神宝と続き、造営した池を顕した後、任那が使者を遣わして朝貢してきた話を記して終る。一方の『古事記』は、まず即位と后妃皇子女、次いで神々の祭祀,三輪山の伝説、建波邇安王の反逆と続き、初國知しし天皇の称号と造営池を記して終る。文字数が多いのは記紀共に大物主神に関する話と武埴安彦の反乱の話で、この二件が崇神帝の治世で最も重要な出来事だったことが分かる。在位中に造営した池名を挙げるのは、崇神帝以降に見られる記紀共通の項目で、宮殿の地名や后妃皇子女の姓名…

  • 崇神天皇(後編)

    四道将軍 崇神天皇の素性 武埴安彦の反乱 崇神紀と崇神記 出雲の神宝 皇太子の選定 四道将軍 一通り諸神の祭祀を終えた崇神天皇は、周辺諸国の平定に着手します。即ち大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西海へ、丹波道主命を丹波へ遣わして、伏さぬ者は討てと命じました。所謂四道将軍です。これは現代で言うところの方面軍制度であり、日本史上で再びこれをやったのは織田信長一人しかいません。織田家の軍制下でも、柴田勝家を北陸へ、滝川一益を関東へ、羽柴秀吉を中国へ派遣し、明智光秀には丹波から山陰への国替えを命ずるなど、崇神帝とほぼ同じ将配置となっています。更に信長は丹羽長秀に四国征伐の準備をさせています…

  • 崇神天皇(前編)

    御肇国天皇 大物主神の祟り 天照大神と倭大国魂神 大日孁貴はなぜ日本の最高神か 御肇国天皇 神武天皇の東征から十世代の時を経て、止まっていたこの国の時間が再び動き始めることになります。第十代崇神天皇こと御間城入彦五十瓊殖皇尊*1(記は御眞木入日子印恵に作る)の登場です。初代神武帝と同じく「御肇国天皇*2(記では初國知らしし御眞木天皇)」と称される崇神帝は、史学的にその実在性が確実視される最初の天皇であり、以後は今日に至るまで皇位に欠史はありません。実のところ神武帝から開化帝までの九代というのは、邪馬台国と同じく基本的には考古学の領域であり、明確に史学の対象と呼べるのは十代以降に限られるので、通…

  • ブログ引っ越します

    近々ブログを引っ越す予定です。過去記事は移さずそのままにして、少しだけ重複させようと思います。 旧ブログ → 史書から読み解く日本史 (goo.ne.jp)

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