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向拝の龍 子引き龍 彫工は二代石原常八主信です。二代といわれてますが、父親ははっきりわかっておりません。父親とされている初代常八の雅詖(まさとも)といわれて…
ニャンニャンニャンの猫の日ポーズ。はい、今日は2月22日のお話です。おっ、凛々しいね。大雪で大変な地域を想うとなんとも申し訳ないが、走れる時に走っときます。でもこのあたりも毎日のように北西の風が凄い。だから風が遮られる長崎半島の東側を走ります。西側も自転車ほどには風に振られないから走れはするけど、潮の飛沫や砂が飛んできて楽しくないんだ。途中、レッドバロンへ。(この写真、使いまわしてます)ここ数日、バ...
お昼を食べて落ち着いた二人。そわそわと落ち着かない私はまたバイクでプチツーへ。昨日と同じコースを同じような時間に。ここは長崎市飯香浦町、地名の由来は・・・長崎新聞HPより【飯香浦(いかのうら)町】 神功皇后が現在の飯香浦町にある山に登って「甑(こしき)」(ご飯を炊く道具)を使って炊事をしたとされる。その地は「甑岩(こしきいわ)」と呼ばれ、麓にある浦にはご飯の香りが漂ったことから飯香浦と言われるように...
【住吉三神・考】住吉大社御祭神 表筒男命・中筒男命・底筒男命が西向きに直列する意味
正月三が日の初詣参拝客数が毎年200万人を超える摂津国一ノ宮・住吉大社。インフルエンザが流行中の昨今、三が日は家でと思い一足早く参拝。境内を歩きながら御祭神・海神の住吉三神が二次向きに直列する意味をあらためて考えました。 目次 住吉大社参道 反橋(太鼓橋)は天の浮橋 住吉大社の東西ライン 謎の三海神・考 youtube動画(住吉大社レイラインⅠ) 本文 住吉大社参道 住吉大社 住吉大社 ひと皮むける新年の願い…うまいこと書きますねぇ( ´艸`) 住吉さんは海神を祀ります。 参道沿いに掲示された江戸時代(俵屋宗達)に描かれた豪華な屏風図。 光源氏の住吉参詣と白砂青松の景色を描いています。 平安時…
邪馬台国すべての謎と改ざんに挑む・卑弥呼と邪馬台国は遼東公孫氏国にあり、卑弥呼も台与も公孫氏出身再論
「晋書」名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 について : 民族学伝承ひろいあげ辞典「晋書(しんしょ)」 巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」「舊以男子為主 漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子為王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文
図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください) 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。
ども。今回の絶景は、大分県の「宇佐神宮」です。初めての参拝は、表参道ではなく、勅使街道↑から向かいます。石畳の勅使街道↑をいずみ2号で宇佐神宮にすすむ君。突き当たりに鳥居↑が立ってて、その左側が無料駐車場です。(正確には、この左の道路沿いに有料駐車場があって、さらにその左側が無料駐車場です。)表参道の方の駐車場は有料なので、こちらに来ましたw駐車場にいずみ2号を駐めて、徒歩で橋↑を渡って境内へ。隣に、...
「松浦の語元」に関連する【木越神社】の所在地がわかりました。…◆「木起し神社」(牧島地区/佐賀県伊万里市木須町木須西に建立/神功皇后が朝鮮半島からの帰還地)。…
109. 宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)・前編 〜福岡県福津市〜
福岡県福津市にある宮地嶽神社。以前、日本航空のCMで使われて一役有名になった「光の道」。一年のうち、2月と10月にだけ、この宮地嶽神社の参道から見ることができます。今回はその貴重で神々しい景色も後編でご紹介します。
記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、九州に上陸。最後に残された北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐。日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのか? 経緯①敦賀進出 『仲哀天皇は即位元年閏11月に越からの献上品の邪魔をした異母弟の蒲見別王を滅ぼし、即位2年2月に敦賀の気比宮に入った』 息長宿禰王に庇護された仲哀天皇は、即位直前に琵琶湖決戦で近江の成務天皇に勝利したと考えられる(仲哀天皇勝利への道 - 上古への情熱)。 古事記の崩年干支から成務天皇崩御の年は西暦355年。仲哀天皇の勝利の…
記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐して、日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのであろうか? 「仲哀天皇の事績① - 上古への情熱」からの続き。 経緯③長門国へ出兵 『熊襲反乱の報に接し、仲哀天皇は紀伊国から長門国に船で出兵、敦賀気比宮の神功皇后にも船で長門国へ出兵させた。出兵後、即位2年6月には長門国の豊浦津に入り、7月には神功皇后が合流した。』 熊襲は景行天皇九州巡幸によって征服されたとされていることから、このタイミングでの熊襲反乱は、景行…
記紀によると仲哀天皇は神の怒りにふれて崩御されたとされている。 実際には何があったのか? 暗殺説 現代人の感覚からすると暗殺されたように見えるが、暗殺とすると、誰が暗殺したのか。 首謀者は敵か身内か。敵としては北九州勢や熊襲が考えられるが、敵による暗殺の場合は、その後の影響としては、後で論じる戦死説と同じである。 身内の場合、崩御後に利益を得た者が怪しい。多大な利益を得たのは、神功皇后、武内宿禰、このほか、和珥氏の建振熊、吉備氏となるが、暗殺の首謀者となると、①神功皇后か②武内宿禰になる。 ①神功皇后による暗殺説 仲哀天皇崩御後、神功皇后は忍熊王を滅ぼし自分の子の応神天皇の即位への道を開いた。…
昨年の秋、用事があって出掛けた帰り道、少し時間があり、神戸の「生田神社」を訪問していましたので、記録しておきます。 もう二十年以上前から神戸にはご縁があり、時々行っていたのに、氏神様である「生田神社」にお参りしたという、はっきりとした記憶が持てず、この際にお参りしておこうと思ったのです。 「生田神社」は、JR三ノ宮駅から程近い、にぎやかな街中にありますが、氏子地域は、神戸市中央区と兵庫区の、広域に渡っているという事です。 【電車で行く場合のご参考】 JR三ノ宮駅、私鉄各線三宮駅より北へ徒歩10分JR新神戸駅(新幹線)より南へ徒歩20分JR新神戸駅よりタクシーで約5分JR新神戸駅より地下鉄で一駅…
明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。 初日の出は雨で見れなかったので、地元鏡神社で初もうでをいたしました。 長い行列に並ぶの…
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九州シリーズ第1弾は、福岡県の高良大社(こうらたいしゃ)。筑後国一の宮。社殿創建は西暦400年という、歴史の深い神社。社殿は久留米藩主第3代・有馬頼利(よりとし)公の寄進九州最大を誇る。高良山の中腹に鎮座する高良大社からの筑紫平野の景色は素晴らしい。
九州は福岡県、筑後国一の宮である「高良大社(こうらたいしゃ)」の御朱印を紹介します。高良大社は高良山の中腹に鎮座しており、晴れていればここからの筑紫平野の景色を一望できるスポットでもあります。夜には133段もある階段の両脇の灯籠に明かりが入り幻想的。
和田八幡宮(→神奈川県川崎市宮前区野川)は鎌倉幕府の有力御家人で相模三浦氏の支流・和田氏の氏神が祀られたのが起源となる神社です。創建年代の詳細は不明ですが、地元の伝承として「池の主」と呼ばれていた白蛇(→龍神のこと)が、住みかの池を埋められて逃げてきた場所が和田八幡宮であったといい、境内には白蛇池が残されています。この地は鎌倉時代前期は和田氏の所領であったので、伝承は1213(建暦3)年5月の和田合戦で和田一族...
聖母宮(しょうもぐう)神功皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)にちなむ神社 壱岐
モカジャバカフェ大久保本店 勝本浦は港に沿って家々がひしめくように建っていて、迷路のような路地に入り込むと、懐かしい暮らしぶりがあふれていました。 聖母宮 拝殿 神功皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)にちなむ神社で、征伐に勝利したことから勝負の神として知られ、また、皇后は三韓征伐の際に応神天皇を身籠り、凱旋の後に無事に出産したとの伝えから安産の神としても知られています。 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には加藤清正から正門は奉納されたもで、神社周囲の石垣も当時風待ち時に配下に積ませたもので、朝鮮半島と風に縁のある神社です。 対馬暖流に乗り様々な漁種が回遊する豊かな海で、勝本港は漁火を煌々焚いて漁をするイカ釣り漁の船がひしめくそうです。 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 撮影:2013.05.25 長崎県壱岐市勝本町勝本浦 200..
遠石八幡宮の御朱印|珍光景!神社と工場のコラボレーション(山口県周南市)
所在地山口県周南市遠石2丁目3−1祭 神応神天皇・神功皇后・宗像三女神由 緒622年、宇佐八幡大神のお告げにより神霊を奉安したのが始まり。その後、708年に社殿を造営。平安時代からは石清水八幡宮の別宮となり、本朝四所八幡の1つと称されたとい
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南原寺の御朱印|山口県内最古の真言宗寺院|南原寺七不思議(山口県美祢市)
所在地山口県美祢市伊佐町南原宗 派真言宗御室派札 所・長門三十三観音霊場 第17番・十八不動三十六童子霊場 第7番・西日本ぼけ封じ観音霊場 第23番由 緒神功皇后が創始、聖徳太子が開基、花山法皇が中興した山口県内最古の真言宗寺院。寺伝による
1月8日(日) 『ろばたやき山ろく』さんへ行ってきました。(2回目)この日も10時頃目掛けて行き予約後30分ほどで入店できました。予約後でも待っている間はお…
江戸川柳でたどる偉人伝(神代)天照大神・素戔嗚尊・日本武尊・神功皇后・仁徳天皇
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
11月11日(金) 「あさくら だ ふぁみりあ」さんへ行ってきました。 こちらは実家の目と鼻の先に本日OPENしたお店です。 ハーモニーさんが以前から看板を…
新作八幡宮(→神奈川県川崎市高津区新作3丁目)は、創建年代などは不詳ですが新作村の鎮守社として崇敬され、幕末期の慶応年間(→1865年~1868年)に村内の熊野神社を合祀したといいます。神仏習合の江戸時代には、無量山 昌谷院 養福寺(→神奈川県川崎市高津区新作1丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。〖祭神〗・玉依姫(たまよりびめ)・応神天皇(おうじんてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)〖境内社〗・飯綱大権現・...
※未来記事で投稿しておりますワケあって25,26日と寝込んでおりました。訪問できずにごめんなさい。 10月16日(日) 香椎宮で2日間にわたり行われた秋季大祭…
※未来記事で投稿しております 10月15日(土) 香椎宮で瑞穂舞が初奉納されたこの日、私も観覧に行ってきました 『香椎宮「秋季氏子大祭」瑞穂舞奉納』 2022…
下関ってどんなとこ?? ~彦島八幡宮(10月23日に秋季例大祭が開催されます)~
平治元年(1159)10月15日、本島開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされた「彦島八幡宮」。一名灘八幡と言っただけに宮の沖合…
今年の初詣で訪れた神社「関の氏神 亀山八幡宮」。御祭神は「応神天皇(おうじんてんのう)」「神功皇后(じんぐうこうごう)」「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」「仁…
仕事でのパトロール中、あちこちで彼岸花を見掛けては写真を撮っていますこの町は他の地区より開花が早いもよう仕事のパートナーWさん撮影 カントリーエレベーター…
※未来記事で投稿しています。 8月26日(金)参拝 隣の部署のかたの現地確認同行後、帰りに「お参りしていきません?」と誘われ行って来ました。私はこの町の人間で…
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5月28日(土)参拝 たかくらじんじゃ住所:福岡県遠賀郡岡垣町高倉1113大社の印象があり、前々からGoogleMapに印をつけていたところです。この度、年…
6月7日(火)参拝 橿日宮(かしひのみや)住所:福岡県福岡市東区香椎4丁目16−1ブロ友のshinさんと香椎宮、名島神社、宗栄寺、櫛田神社をお参りさせていた…
5月28日(土)参拝 「お尋ねです」に書いていた神社がお蔭様で早期に判明し、ついに参拝が叶いましたありがとうございました🙇体力が衰える前に伺えてよかったで…
6月30日 早朝中庭の軒下に何やらぶらさがっておりました。ストッキング❓笑 …な、訳ないこの時期、穿かない ピントを合わせますよ 違う角度から凄い!顔もある笑…
2022年4月23日(土)参拝 前記事の小烏大神社➡宮地嶽神社へ向かいました。予定では舞仲間のTさんと、Tさんのご友人と3人で巡ることになっていましたがご友…
【堺市北区】神功皇后・三韓征伐 素戔嗚尊と神頗梨采女ゆかりの地『宝蔵(寳藏)神社』
今回は堺市北区船頭町に鎮座する小さな神社の紹介です。『寳藏神社』という社標が出ていますが、最初何と読むのか分かりませんでした。ほうぞう神社と読むようです。社標には漢文で由緒が書かれているんですが、分かる部分だけをつなげてみると…神功皇后が三韓征伐を終えて
今回からは、応神天皇から雄略天皇までの時代について、少し厳密に年代を推定し、漢字が輸入された時代背景を考察していきたいと思います。そこで今回は、応神天皇の幼少期、すなわち母親の神功皇后が摂政だった時代について、『日本上代史の一研究日鮮の交渉と日本書紀』(池内宏:著、近藤書店:1947年刊)という本を参考にしながら、年表を作成してみました。この本の著者の池内宏氏は、『文禄慶長の役』、『東洋史論叢』、『元寇の新研究』、『満鮮史研究』などの本を書いている歴史学者で、虚偽の記述が多い古代の記録を精査して、歴史的事実と認められる事項を抽出しているので、その部分には★印をつけてあります。なお、年代の決定方法ですが、神功紀には神功皇后の六十九年(没年)が己丑(つちのとうし)の年と書かれているので、この年を西暦389年と考えて...年代推定神功皇后
ご訪問ありがとうございます🙏 日本最古の用水路『裂田溝(さくたのくなで)』に水を流すために築かれた『一の井堰』近くに鎮座しています。また、こちらは京都 伏見…
ごしゃじんじゃ住所:福岡県朝倉郡筑前町赤坂2608こちらは仕事中、地図を眺めているときに見つけました。拝殿内の壁画が面白そうだったので行ってみることに。Goo…
財土を求む 皇后と宿禰の真意 渡韓を決めたのは誰か 財土を求む 続いて神功紀本文では、皇后が海を渡って新羅を征伐したという話を伝えます。山門から松浦に移った皇后は、自ら男装して群臣に語って言うには、「師を興し衆を動かすのは国の大事である。国の安危と成敗は必ずここにある。今征伐する所があり、事を群臣に委ねる。若し事が成らなければ、罪は群臣にあろう。これは甚だ傷ましいことである。吾は婦女にして未熟ながら、暫く男の姿に仮装して、強いて雄々しい戦略を立てよう。上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを借り、兵を興して嶮浪を渡り、船を整えて財土を求める。若し事が成れば、群臣は共に功があり、事が就らなければ、吾…
『日本書紀』第九巻神功紀(気長足姫は女帝ではないので、本来ならば紀ではなく伝とすべきだと思いますが、同書には伝が設けられていないことと、敢て一巻を割いていることから、便宜上神功紀とします)は、次のような書き出しで始まります。気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の曾孫、気長宿禰王の女です。母を葛城高顙媛と言います。仲哀天皇の二年に皇后に立てられました。幼くして聡明で賢く、容貌も麗しく、父王も訝しがるほどでした。九年の春二月に仲哀帝が崩じました。時に皇后は天皇が神の教えに従わずして早く崩じたことを傷み、祟るところの神を知って財宝の国を求めようと思いました。そこで群臣及び百僚に命じ、罪を…
記紀に見る新羅征伐 新羅征伐を考察する 記紀に見る新羅征伐 神功紀本文に描かれた皇后の新羅出兵は次のようなものです。秋九月に諸国に令して船舶を集め兵士を練りましたが、時に軍卒が集まりませんでした。皇后が「これは神の御心だろう」と言って、大三輪社を立てて刀矛を奉ると、軍衆が自ずと集まりました。出発に臨んで皇后が吉日を卜ったところ、まだ日がありました。皇后は親ら斧鉞*1を執り、三軍に令して言うには「鐘鼓が節無く乱れ、帥旗が混じり乱れる時は、士卒は整わないものである。財を貪り物を欲し、私を懐いて妻妾を顧みれば、必ず敵の捕虜となる。敵が少なくとも軽んじ侮ってはならぬ。敵が強くとも怖じて屈してはならぬ。…
内乱の経緯 麛坂王と忍熊王の出自 内乱の考察 内乱の経緯 朝鮮から戻った気長足姫は、筑紫で男児を出産しました。応神天皇です。ここからは記紀共に仲哀帝皇子の麛坂王と忍熊王が起こしたという反乱の話を伝えています。神功紀本文によると、皇后は十二月に皇子を出産し、翌年の二月に群卿百僚を率いて穴門の豊浦宮に移り、天皇の遺骸を収めて海路より都へ向かいました。時に麛坂王*1と忍熊王*2は、天皇が崩じ、また皇后が西方を征し、併せて皇子が新たに生まれたと聞き、密かに謀って言うには、「今、皇后には子があり、群臣は皆従っている。必ずや共に謀って幼主を立てるだろう。吾等は兄の身でありながら、どうして弟に従えようか」と…