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内乱の経緯 麛坂王と忍熊王の出自 内乱の考察 内乱の経緯 朝鮮から戻った気長足姫は、筑紫で男児を出産しました。応神天皇です。ここからは記紀共に仲哀帝皇子の麛坂王と忍熊王が起こしたという反乱の話を伝えています。神功紀本文によると、皇后は十二月に皇子を出産し、翌年の二月に群卿百僚を率いて穴門の豊浦宮に移り、天皇の遺骸を収めて海路より都へ向かいました。時に麛坂王*1と忍熊王*2は、天皇が崩じ、また皇后が西方を征し、併せて皇子が新たに生まれたと聞き、密かに謀って言うには、「今、皇后には子があり、群臣は皆従っている。必ずや共に謀って幼主を立てるだろう。吾等は兄の身でありながら、どうして弟に従えようか」と…
その後の神功皇后 新羅再征 その後の神功皇后 『日本書紀』の年号によると、仲哀帝が崩じたのは在位九年の二月のことで、気長足姫は同年十月に新羅へ出兵し、十二月に筑紫で男子を出産すると、翌年二月に先帝の遺骸と共に豊浦を発ち、翌三月には忍熊王を討って王都に入りました。従ってこの年を以て神功皇后の摂政元年とします。尤もこれが西暦で何年に当たるかについては未だに解答はありません。そして翌二年の十一月に先帝を河内国の長野陵に葬ると、翌三年には誉田別皇子を太子に立て、大和の磐余に新都を造営したといいます。 摂政五年、新羅王が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣わして朝貢しました。これには先に人質となっていた…
好太王碑 丙申戦争:百済征伐 庚子戦争:新羅救援 甲辰戦争:倭軍撃退 好太王碑 『日本書紀』の言う皇太后の摂政期が六十余年にも及んだとか、彼女が百歳まで生きたなどという話が虚構であることは誰もが理解していますし、神功皇后の伝記が日本国内で完結している分にはそれでも問題ありません。しかし新羅征伐や百済との交流のように、他国との接点を骨子に据えるのであれば、やはり相手側もしくは第三者の史料と照合させることによって、その事実関係を検証しなければなりません。そこで朝鮮半島や大陸の文献の中から、この時代の日朝関係を記録した箇所を探してみると、唯一個々の時事の年代まで信用できる史料として、高句麗の好太王の…
以上が好太王碑に刻まれた四世紀後半から五世紀初頭の倭と朝鮮の風景です。そして我々の知る日本史の中には、これ等の出来事に呼応するだけの明確な痕跡がない訳ですが、確かに碑文自体は高句麗側の視点で語られているにせよ、その内容が全くの創作であろう筈もありません。もし十九世紀に入って偶然この石碑が発見されなければ、我々はかつて日本と高句麗が戦ったという事実さえ永久に知らなかったことを考えると、まさにこれは天恵と呼べるほどの大発見だったと言えます。従ってこの発見を我々自身の歴史とするためには、国内に伝わる日本史と好太王碑の記述を一体化させる作業が必要になります。そこでまず碑文の方を簡単な年表にしてみると次…