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医王山 法徳院 正福寺(しょうふくじ→神奈川県川崎市宮前区土橋6丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、宮前区が刊行した『宮前区歴史ガイドまち歩き』によると、江戸時代中期に僧の了廓(りょうかく)が開山した天台宗寺院といい、当時は第六天社(→現在の和田八幡宮)とともに土橋太田という小字にあったようですが、江戸時代後期の天保年間(→1830年~1844年)に火災で伽藍を焼失し、現在地に移転・再建されたといいます。江戸時代に...
和田八幡宮(→神奈川県川崎市宮前区野川)は鎌倉幕府の有力御家人で相模三浦氏の支流・和田氏の氏神が祀られたのが起源となる神社です。創建年代の詳細は不明ですが、地元の伝承として「池の主」と呼ばれていた白蛇(→龍神のこと)が、住みかの池を埋められて逃げてきた場所が和田八幡宮であったといい、境内には白蛇池が残されています。この地は鎌倉時代前期は和田氏の所領であったので、伝承は1213(建暦3)年5月の和田合戦で和田一族...
霞ノ関南木戸柵跡(→東京都多摩市関戸6丁目)は、鎌倉時代前期の1213(建暦3)年におきた和田合戦を契機に、北関東からの侵攻を防ぐ要衝として鎌倉幕府が設置した軍事的な関所と言われ、関戸熊野神社の参道で発見された南木戸柵の柱穴上に木柱がたてられています。和田合戦 (「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)和田合戦では、横山党(→武蔵武士団)の横山時兼(よこやまときかね)が姻戚関係にあった和田義盛(わだよしもり)加勢してお...
【鎌倉殿の13人】惜別、和田義盛。そして「黒い義時」は張りぼてだった
しっかり描かれた和田義盛の死に顔 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は10/30、第41回「義盛、お前に罪はない」を放送した。いやー、凄かった。見終わってしばらく脱力しちゃったこともあり、また振り返りのブログが遅くなった。もう本日夜には42回「夢のゆくえ」が放送される。 41回では鎌倉最大の市街戦とも言われる和田合戦が力を込めて描かれ、愛されキャラ「和田っち」和田義盛の最期が待っていた。「のえ」が「離れ離れは嫌です!」「二階堂に戻ります!」の切り替えの早さで笑わせるなど箸休めパートはあったけれど、「トロイ」か三国志の「レッドクリフ」か(BGMまでそんな感じになっていたような)を見ているような息…
【鎌倉殿の13人】過保護パパ義時、遠すぎる目標設定がいけない
千世の本音は幸せ3,寂しさ7 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、もうあと何時間かで和田合戦を描く第41回「義盛、お前に罪はない」が始まる。癒しの「和田っち」和田義盛が死ぬ結果はわかっているので、和田っちファンの「かしまし歴史チャンネル」のきりゅうさんは、既に涙して「寝込んで動画が更新できないかも」とまで予告していた。無理もない。 youtu.be 私もドキドキしているが、第40回「罠と罠」についてのブログを忙しくて書きそびれていた。今さらどうしようかと思うけれど、やっぱり少しだけでも書いておこうかと録画を見返した。 前39回「穏やかな一日」で、実朝のカミングアウトによって心の通じた千世と実…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜今回も涙無くしては見れなかったね〜ってことで第14話の感想ぉ〜!和田義盛が御所に行っている間に出陣してし…
第二の執権となった北条義時は、姉の北条政子とともに、三代将軍・源実朝を補佐していましたが、建暦3年(1213)、 信濃の武士・泉親衡(いずみちかひら)が、比企一族の残党を集め、二代将軍・源頼家の遺児・千手丸を擁立して謀反を企んでいることが発覚。この計画に和田義盛の子や甥が加担していていたことが判明。義盛は実朝に息子と甥の赦免を願い出て、息子は許されましたが、甥の胤長は、罪人としての侮辱を受けた上で配流となり...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜今日は、えいたろうの旅行記はお休みで「鎌倉殿の13人」第40話の感想ぉ〜和田義盛…とっても面白い「俺に免…