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前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎は元服しました。この時代、大人になる儀式をして烏帽子をかぶる…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)追放!源為義(みなもとのはちろう)は検非違使別当…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。為義(ためよし)と揉め、平手打ちされた八郎(はちろう)は居館を飛…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。源為義(みなもとのためよし)と、その長男、義朝(よしとも)は言い…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。関白、藤原忠通(ふじわらのただみち)の館、東三条殿(ひがしさんじ…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)の長兄、源義朝(みなもとのよしとも)は正室、由良…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。「平忠盛(たいらのただもり)、清盛(きよもり)に厳罰を与えよ!!…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)は兄である源義朝(みなもとのよしとも)に打ち負か…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。「我は八郎(はちろう)だ!」八郎は東国から帰京した兄、源義朝(み…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)の父、源為義(みなもとのためよし)は藤原摂関家の…
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。江口(えぐち)での貴族の酒宴の中、警備のため、末席にいた源為義(…
鎌田堂(→神奈川県横浜市都筑区東山田町)は、平安時代後期の武将で源義朝(→源頼朝の父)の家人で乳母子でもある鎌田政清の館跡に建立されたと伝わる地蔵堂です。江戸時代前期までは純金製の観音菩薩像を安置していたようですが、盗賊に奪われ、1673(寛文13)年に石の地蔵尊を建立したと記されます。江戸時代には真言宗豊山派寺院の妙見山 不動院 長泉寺(→神奈川県横浜市都筑区北山田7丁目)が管理し、幕末の安政年間(→1855年~1860年)...
鎌倉殿の証し!源氏棟梁の髑髏(どくろ)は実在した?鎌倉「勝長寿院跡」へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、鎌倉殿の証し!源氏棟梁の髑髏(どくろ)は実在した?鎌倉「勝長寿院跡」へ…です。
江戸川柳でたどる偉人伝(源平合戦時代①)俊寛・平忠盛・源義朝・常盤御前・平清盛・平忠度・平敦盛・斎藤実盛・源義仲・源三位頼政
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
寿福寺は、鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の鎌倉五山第3位の寺院で、源頼朝が亡くなった翌年の1120年、頼朝の菩提を弔うために、妻の北条政子が明庵栄西禅師を開山として建立した寺です。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、「喫茶養生記」を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。 この地はかつて頼朝の父・源義朝の館があったところで、頼朝が鎌倉入りした際、ここに館を建てようとしましたが...
楽しい日本史 -武士による支配- 11.平氏と源氏の戦いと平氏の政権
武士の力が強まり、平治の乱で平氏の地位が上がる。さらに平清盛は太政大臣までのぼりつめる。平清盛がすごいのは知っ
京都市下京区堀川六条周辺には源義朝の屋敷がありました。義朝の三代前に当たる河内源氏初代・源頼信の嫡男で、河内源氏二代目・源頼義が邸宅を構えたとされています。若宮八幡宮は、後冷泉天皇の勅令で、源頼義が創建し、女牛井八幡とも呼ばれ、長年にわたり源氏の崇拝を受けました。周辺には六条堀川館があり、京に入った源義経もその邸宅を宿としたそうです。 若宮八幡宮は、慶長10年(1605)東山五条坂へ移転しましたが、もと...