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~ 追憶 ラナ ~ 左の耳がキーンとなって……、 音の出た場所が……、熱い……。 「お前、僕の話聞いて無かったのか? くちごたえするなって言ったよな?」 昨日に続いて、今日も滅茶苦茶ついて居る。 数時間前に私が思ったことが、 間違いだったということに、今気付いた。 「吞め」 私が頬に手を当てて下を向き、 黙って居ると、 私の視界に影が入る。 「ごめんごめん、ラナちゃんは甘えんぼさんだねぇ」 神さまはそう言ってグラスのウイスキーを煽り、 すぐわたしにキスしてきた。 突然わたしの口内に流れ込んできたウイスキーの、 アルコール度数の高さに思わずむせ込んだところで、 また殴られた。 「お前、いいかげん…
今日は頭が良く回る。気分が良いためかも。 アイラは楽屋へ引き返し、空席のソファに座った。取り出したギターを弾きはじめる。皆の視線が音に上乗せ。 ギターケースのポケットに入れた五線譜と鉛筆、そして譜面台を足元に引き寄せる。 空洞の体内、内なる声に耳を傾けた。 聞こえるだろうか、ちょっと心配。 いつもは、示された解答を私に合わせていた。しかし、これは実験。曲に形を完成させる、そして世に送り出す作品の評価を観測しないことには、始まっていない、単なる空想にすぎないのだ。 音色。歌でも声でも鳴き声や奇声とも言いがたい、自然の波。周波数が溶け出すバターのように固体を液体に、同心円状に宙空へ広がる。 流体。…
「おそらく、それで影響は八割方、回避が見込まれます」カワニは泣き顔に無理やり微笑を足したおかしな表情で続ける。「不本意ですよね?」探るようにきいた。わかっている質問は事実を確かめるためではない、安心と安定。 「起きてしまった過去に囚われる労力は無意味ですから、これからの話をするべき」 「相変わらず強い……んですね」 「いいえ」アイラは首を振る。「過去に興味がない、それだけのこと」 「頑なに出演は拒んできた。そのために売り上げを、目標数を大幅に上回る完璧な達成を果たしたのですよね」 「その答えは前に応えました、重複になるので言わない」 「出演は手を尽くして、数日にまとめてスケジュールを調整します…
見返りを求めない音はすべて私に返ってくる。妄信とは十二分に理解してる。刑事たちへの対応は心がこもっていない、儀礼としてのお辞儀を体現して、アイラは楽屋に引っ込んだ。ステージと楽屋の出入りは、いつの間にか許されて、ステージ脇のスタッフは楽屋や廊下に固まってこの後のお客の処理に頭を悩ませる。ステージで観客に約束したテレビ収録の件は、以前から再三、出演のオファーを受けては断っていたあるテレビ局の音楽番組にマネジャーのカワニを通じて連絡を取り、来月の出演を取り付けたのである。スタッフは私が一曲奏でたことに気にも留めていない、それよりもファンを失わないための配慮に各方面へ電話をかける人物の多いこと。うっ…
新谷は手帳を取りして確認。「入れ替えるのはドリンクと軽食が足りなくなった場合のみで、一回目の公演終了後には、オレンジジュースとジンジャーエールを調理場から補充する手はずです。出払った観客を見送ってから行うようですね、ちなみに二回目の講演までは約三時間の空き。一回目終了が遅く、二回目の開場早くても、十分前後の誤差」 「売店が気になります?」熊田がきいた。しかし、聞こえていなかったらしく、美弥都はそのまま階段を下りてしまう。熊田と新谷も一階に降り立つ。すると、ステージ袖からギターを抱えたアイラ・クズミが床を確かめるように視線を落として顔を見せた。 「警察の方ですよね?」その声に新谷が近寄る、尻尾が…
「鑑識の車両、遅れてるみたいですね」新谷が端末を見つめていた。「本部に戻るまで、まだかかる。結果は頼れなさそうです」 美弥都は後ろ手の二階へ上がっていった。熊田は、数歩遅れて急な階段を踏む。二階、ステージ正面の一段下がるカウンター席とその奥、美弥都が座っていたボックス席はどちらもステージと被害者のテーブルが視界に入る。左右の席も同様に一階を見渡せる。美弥都は下手側の階段から三階へ。 受付に通じるセキュリティドアの向こうで、観客が解放されて移動を始めていた。種田は早速、女性を引き止めてカバンを指差す。 「なんでしょう」美弥都が落ち着いた声を出した。三階に急ぐ。 「なにかありました?」三階席、正面…
「所持品は持ち去られたと考えるべきか、それとも観客が所持しているのか」熊田は腰に手を当てる。 新谷は持ち込んだ意見に確信を持って言う。「いいえ、初めから会場に移動する前も受付には預けていなかった。そうですね、たぶんどこかで直接手渡した」 「何のためにカバンごと渡す必要があったのかしら」美弥都が質問する。「渡したのが事実ならば、相手は女性に限定される。男性が持っているのは明らかに不自然。所持品検査も行った。そこでは疑わしい人物は見つからなかった、だから手をこまねいて現場を見返している。もしもバッグが観客の誰かの手に渡っていたとしたら、身分を証明する被害者の証拠品、カードや明細書、領収書などは処分…
「症状は毒物摂取に似た死因、ふうむ、飲まされたのが被害者にとっては毒だったんだろうかぁ……」熊田と日井田美弥都が無言で現場、被害者のテーブルに惜しみない愛情を注ぐ姿に、いたたまれなく、声を発したのだろう。熊田は若さは沈黙と飢餓に迫られると焦りを抱く、と新谷の言動に解釈をつけた。 遺体は鑑識が階段の急斜面と狭さに苦労しつつ、回収を終えていた。 「荷物はこれだけでしょうか」美弥都はドレスの裾を絞って、しなやかにしゃがむ。テーブル、天板の裏を眺める。 「化粧直しのポーチですか?」新谷も美弥都に習って、這い蹲るよう、床に手を着いて見上げる。 「受付に預けているにしても、食事の後に直すはず……」美弥都は…
「考えに著作権は発生しない」 「どうも」熊田は美弥都越しに新谷に言う。「ビル内の出入り口を警官に見張らせてください。地上、地下へのエレベーターの乗り降りも禁止、なるべくエスカレーターの移動を促すように、強制ではないことを初めに伝えてください。ただし、不審な行動は疑いを強める行為であるとも付け加えるように」 「警官を集めます」新谷が床を蹴って飛び出そうとしたので、佐山が行動を制する。 「待て!」リスクを恐れた思考。周りが見えていない証拠に、次の一手に目がくらむ。佐山は決断を見切れないでいるようだった。 「犯人を取り逃がす以前に、あなたが取るべき対処、それは着地点の明確化です」美弥都が丁寧に述べた…
「もう無理ですよ!」心からの悲鳴。新谷は言う。「事情聴取が終わり、所持品検査のほかに何をすれば?配属されて一週間の私に何ができるというのですか?」 指示がなければ、動けない。若い年代に見られる傾向だが、与えられた事柄を命令のよう従う社会に移行しつつあるという見方もできるだろう。彼らのせいではないが、無意識に状況に反応して生きる場面がここ数十年極度に増えた、これらが主たる要因だ。システムの仕組みが、簡易になればなるほど、作り手と使用者で理解度の乖離が進行する傾向が、この状況を物語る。自動車はキーを挿さなくとも、エンジンがかかって、ギアの入れ替えはあるにしてもアクセルを踏めば、操る難しさなしに動き…
熊田の冷静な応対に佐山は、取り乱した発言を急遽撤回、上った血液は循環を求めて体内を廻り始める。「……そのようなつもりで言ったのではなく、はい、私が指揮を取ってする初めての捜査でして……」 「観客は一度、家に帰すつもりでしょうか?」美弥都がきいた。「ライブ、遠方から来ている人を帰しては、気安く話を聞きに行くのに二の足を踏む。しかし、判断は早急、迅速さが求められる。かれこれ二時間以上かしら」美弥都は首を大きく傾け、佐山の左手の時計に正立する角度をとる。「食事が提供されるにしても、まあ交通網が麻痺している現実、どこへもいけませんから、少なくともビル内に留まる約束を交わしての解放が、双方歩み寄った落と…
熊田の勘は当たっていた。美弥都はかなり機嫌がいい。喫茶店での彼女とは、表情の柔らかさが格段に上。これが本来の彼女なのか、つまりお客への対応は仮面をかぶった状態。しかし、どちらが本心かは不明。だが、現状は確実に彼女へ私の印象はぐっと高まった、熊田は女性として美弥都の捉え始めた。 「毒物は検出されませんでした」半分ほどに伸びた灰を落とす。熊田は顔を上げて、質問を何気なく言い出した。「お一人の住まいですか?」 「孤独は嫌いと言いつつ、相手を誘うときは一人が好適。まったく矛盾している。自分さえよければ、いいえ、着飾りたいのでしょうね、埋め尽くした物が思考の停止を、隣のパートナーが悲観に走る思考を止めて…
「素敵なお召し物ですね」 「借り物です、私の所有物ではありません」 「どうやってこちらへ抜け出してこられたのか、理由の説明を」 「種田さんと言ったかしら、あの方と話しているところをドアマンの警官に見せて、あなたに用があると言って入れてもらいました」タバコとライターを彼女は裸で持参、女性には特異の行動、いいや男性が単にポケットがついた服を着ているのであって、裸で持ち歩くことにはなんら変わりはない。彼女は火をつけて、息を吐く。拡散、広がる煙は、天井の排気口とテーブル代わりの中央の装置に吸い込まれる。 「大胆なことをしますね」熊田は、機嫌のよさそうな美弥都に事件の感想を聞いた。「どう思われますか?」…
場内の観客を、受付フロアに隣接、限定的な入室が許される会員特別室に移動させた。警視庁の刑事と鑑識による本格的な捜査が着手して、かれこれ二時間が過ぎていた。本来は二回目のアイラ・クズミの公演が行われる時間である。だが、観客はアイラの次回公演に興奮をたぎらせて、口々にあれこれと空想、想像、構想、歌われる曲、演奏の形式を始めて顔を合わせた共通意志の崇拝者、仮組みの同志たちと互いに意見を交わしていた。端末は依然、使用を禁じ、警察の管理下で厳重に情報の流出を避ける目的、まったく批判をもろともしない保管を継続する。 日井田美弥都も含めた観客の聴取は、警視庁の刑事佐山とその部下新谷が熊田たちから捜査を引き継…
紫のネオンが背景を彩って、にこやかに顔がほころんだ。包み込んでくれるあの人。それは、何も持たないから。一つでも確信があったらな、たぶん、いいえ、絶対に取り込まれなかったはず。 歌うたびに、はがれた。 ほぐれた繊維状の外皮、小粒の石、粒の粗いに砂、さらさらの砂、あの人を通り過ぎる毎度、私はろ過され純化。 最小限のアンサンブル。楽器との呼吸。奏でるような歌声。歌っているの、わたしが。 ここにいるのは誰だろう。見えているのはあの人。それとも私? 料理が干からびる。乾いた表面。老化、老成。熟成は凝縮、それとも退廃? マイクを女性刑事に要求、会話。二言、三言。 「この度はせっかく足を運んでいだいたわけで…
カメラ、一眼レフのカメラ。私も持っている、同型のカメラ。もしかして、あれは私のでは? 撮影会。倒れた、亡くなった、これから無くなる、失った、灰と化す、自然に還る人物を撮り貯め。撮られた人物は見返すことが叶わないのに、身勝手な撮影。許可や著作権、肖像権を明らかに無視。 抱き起こされた上半身。 口からも鼻からも赤い液体が漏れる。私は心臓を触る。大丈夫、動いてる。 刑事と名乗った二人組みは、二つとなりの席に座っていたと思う。ぎこちない二人、付き合い始めに見えたのは互いの意思を交し合った仲の一歩手前、私が抱いた想像はずれた解釈だったらしい。 見たい。見れているわ、あの人が。本当は何もいらない、けれどあ…
「ドクターの専門は?」 「皮膚科です」 「申し訳ありませんが、そのまま速やかに席についてください」 「以前の専門は救急です」ドクターは眉を器用に上げる。「年齢に伴いまして引退したのですよ」 女性刑事は顔の角度をきつく、上階を眺める。二階に再び姿を見せた男性の刑事をじっと見詰めている。ドクターの声も年齢にしては大きく、会場はいつになく寝静まっている、たぶん二階の刑事にも声は届いただろう。アイラは代替の会場を押さえる許可が下りる時間を、彼らの観察に充てた。 一階のステージ、紫の照明が煌びやかに目に映ったのは始まりの一曲が演奏されたもう、幻の時に遡らなくては。二人の刑事が声を潜めて対策を話し合う。表…
「ホーディング東京と肩を並べる箱が早々見つかりますかね」 「振り替え公演をまずは行うか、否かの判断を仰ぐことが先決。お二人に権限はあるんですか?」アイラは不躾とも取れる問いかけを難なく、言ってのける。スタッフは顔を見合わせ、困惑。どうやらひげの男性が上司のよう。しかし、彼がすべての方向を決める権限を持っているのではない、インカムで連絡を取り始めた。誰かを呼び出す、どうやら相談相手は別の場所にいるようだ。 アイラは正面に向き直る。お客が振る手に振り返した。いつもならば行わない仕草、対応。久しぶりにつけたテレビ、スポーツ選手のインタビューを思い出す。練習後のサインに三十分も時間をとられて大変ではな…
埋め合わせ、新しい会場のセッティングと収容人数、今日と明日の二日間の延べ人数は?なぜ二度も同じことをしなくてはならないのか、できれば早々に反応がほしかった。 なんて稚拙、遅延。 人が亡くなるという稀有な状況を楽しめるのは歪んだ証拠、いや、そうとは言い切れない。一人ぐらいは興奮しているはず。あざとく、お客の手元が動いているのをアイラは見逃さない。 発信は、自分を介した欲求でいたいらしい。 スタッフを呼ぶ、ギターに差し込むコードを抜いてギターごと手渡した。刑事、彼女の言葉に私も含まれている、身勝手な行動は許されない、アイラは状況を飲み込んだ。死体にいやでも目が向く。突っ伏した女性、テーブル、砕けた…
ステージの歌手と目が合った。観客の何人かが歌手の目線を追って私を見据える。嫉妬か?人間の野性味は感情の発火に残されたのかも、熊田は思考を飛び越える動作と意識が通った観客の行動に意味付け。軽く頭を下げた。彼女の活躍の場を奪ってしまった非礼を詫びたつもりである。しかし、歌手はお辞儀を返すどころか、興味を失っていつの間にか持ち運んだスツールに腰を下ろし、ぶらりと両足を振っていた。もちろん、視線は外れている。 三階の観客はかなり少ない。一列に一人か二人。もっとも安価なチケットの購入者は、階下の高額な席と比較するまでもなく全体的な収入の格差は否めない。つまりは、電車、地下鉄以外の交通手段に割く出費は収入…
美弥都との接触はこれほど緊張を強いるのか、熊田は息を切らせた呼吸を階段を上る足取りの重さに擦り付けず、正直に反応と向き合う。普段の彼女と別人の姿、元々の素養は備わっていたが、改めて見つめられると、彼女が一人を好む理由はわからないではない。熊田は腿を上げて、幅の狭い一段をかみ締めるようにのぼる。ひっきりなしに襲うノイズに対して、はじめから一切取り合わない姿勢を見せ付ける態度が何よりの効力だろう。一度でも入り込める隙を見せようものなら、押し込まれ、扉を無理やり開け、止むことのないイナゴの大群が襲い掛かるはず。過去に体験済み、そうして現在、彼女のスタイルが確立した。しかし、もしかすると本質的に彼女は…
「どうしてこちらに?」 「仕事です」 「ライブ鑑賞がですか?」冷やかすように熊田は揚げ足を取る。相手はそれでも、不変で無表情、皺一つ作ってくれはしない。 「こちらの料理を勧められたの、店長さんに。断りましたが、チケットが余っていたそうで、奥さんと出かけるつもりだったようですね。私は日頃お世話になっているし、休みは定休日の一日。たまには有給休暇も必要だから、と店長の後押し。このような背景が私をこの場所へ連れてきた。本心ではありませんよ」 「今日は饒舌ですね」 「そうでしょうか。一般的なおしゃべりと比較すれば、さわり部分を話した長さ」日井田美弥都は首を傾ける。「死体に縁があるのね」笑顔だ。今日は晴…
二階。コの字型に切り取られた空間に沿ってテーブルが並ぶ。一階客席の中空がそのまま三階、つまり四階の床まで吹き抜けになっている。ステージ正面を見下ろす並びは一段落ち窪んでバーのカウンターを思わせる一人のみの席、左右に抜ける細い通路の奥まった位置に隣との視界を遮断する豪華なボックス席。熊田が登ってきた階段近く、ステージを横から眺める側面の席は、二人が座るソファ席が用意されていた。二人席は空席が目立ち、一人席は二つ空いていて、残りはすべて埋まる。人でごった返す会場に足を運び、無差別な歓声に飲まれてまで演奏を聴きたい、という欲求はこれまで膨らんだためしがない。わずかに一人席ならば、と熊田は会場に赴く姿…
「エレベーターはどちらに」死体に見入っていた給仕係が一拍遅れて、ステージ袖を指差す。歌手が登場した場所とはステージを挟んで反対側。ほぼステージの正面であるこの角度から、出入り口は全容を確認できない。「料理に携わるスタッフのあなたを含めた人数は?」熊田はきいた。 「四人です。一階に二人、二階に二人です」 「三階は?」 「飲食の提供は各自お客様が受付で軽食を購入するシステムですので」 「では、もう一人の方をここへ呼んでもらえますか?」 「あ、は、はい」給仕係を見送り、熊田は振り返る。 「種田!」 「はい」緊張感を感じさせる歯切れのいい種田の返答。 「二階を見てくる。誰も動かすな」 「マイクを借りら…
「動かないでっ!」種田がいち早く立ち上がり、周囲の動作を停止させた。左手に、引き抜いた警察手帳。動揺し現状を確かめようと立ち上がる観客を一人一人有無を言わせない圧力で種田の動物的な視線が射止める。対照的に熊田は時間が止まる会場を悠々歩いて、現場と目される騒ぎのテーブルへ。 テーブルはステージ向かって最前列、中央から右に二つ目の席。対面の席は空席なのか、熊田は残り数歩のところで、立ち止まり観察。テーブルに突っ伏する女性が、眠りこけたみたいに、たとえれば授業中の居眠りが適切だろうか。とにかく、生命活動に終わりを告げた者が突如として、ライブ会場に表出してしまったのだ。しかも、確実に見覚えのある人物が…
軽快だけど正確なストローク。でも、時折ミス、音をはずす。それがライブ、生の音。彼女の曲は、他社との共有、一時の統一を味合わせてくれる。シンクロ、鏡よりも身近で水面よりも儚い。それが彼女そのもの。 私は一人、席に着く。受付で相手を待つ人が数人いた。雪で遅れた相手と一緒に入るつもりなのか。私は最後まで一人だ。料理、透明な皿に四つの島が浮かんでいるみたいに、前菜が盛られた一品目がテーブルに置かれた。給仕係が会釈。ウエルカムドリンクを傾ける。少量でもアルコールの度数は高い。成功者の飲み物とされる液体。たんにそれは、高額価格帯であり、私たち庶民でも買える値段である。しかし、毎晩の晩酌に食卓を飾れない、だ…
歌っている、あの人が、私が歌えているの。ギターは、そう、いつもの相棒だ。前のモデルは絶対に駄目、不釣合い。この日を何ヶ月待ちわびたか、手帳の罰印を書き込むたび、私が眺めるあの人の歌う姿に近づけるのだと言い聞かせ、今日まで生きてきた。本来なら、もうとっくに見限りを付けていたはず。都会の生活はどうも私の体質には合わないのだと、気づいてから数年。しかし、帰る家は私が働いて私に提供する、それが唯一の方法。それでも世界を離れなかったのは、あの人と出会いが、私を引き戻したと言っても言い過ぎではない、それほど私は助けられていた。 一日の締めくくりにあの人の曲を私は覚えているはずなのに、何度も繰り返し、それこ…
十分。 スタッフがステージ袖に案内、彼に続く。廊下、見守る眼差し、広げた手のひらに不本意ならがら手を合わせた。 うつむいて歩く。スニーカーのまま。 ナツを呼ぶ。彼女はしっかり背の低いヒールをぶら下げて、私を後を追っていた。 感謝。 ステージ袖。音楽が流れている。打ち寄せる波の音。靴を履き替えた。水を一口、口に含む。ざわめき。虫の声は一様に聞こえるのだから、聞いていても疲れない。方や人間は好き勝手に話す。聞いてなどいられない。悪態。いつもの私だ。 開演時刻。ブザーを鳴らす。スタッフと目配せ、足を進める、光、淡い紫のステージ。歓声、拍手、人、テーブル、料理、空席、二階、三階、左右、マイクスタンド、…
ナツは部屋の隅、ソファで待機。不測の事態の備えて居座る。端末を手に指先を器用に動かしていた。 慌しく、人の出入りが活発な楽屋、アイラはテーブルに向き直り、何気に一点を見つめる。 セットリスト。 状況を端的に述べよ。 ライブ。 歌を歌う。 一人。 ギターの演奏。 ギターのチェックはまだだった、最終チェックを行うべき。 会場はかなり狭い、いつもと比べての感想。 一階と二階、三階席、上から見られてる意識が必要。 今日は雪。 会場に足を運ぶだけでも疲労は蓄積。 歌は徐々にテンポを上げる。 ミディアムに飛んで、一度逸る気持ちをテンポの速い曲で連れ去る。 そして、ミディアム、ゆったり、疾走。 終わりの二曲…
開場の一時間前。 髪のセットが出来上がる。スタイリストのナツが自分の仕事をしたいと、アイラにそれとなく機嫌を損ねないように要求を申し出たのだ。伸びた髪は左右にゆれて邪魔になったので、後ろで結んでもらう。アイラから提案したのではなくて、中途半端に伸びた髪を掴んだナツがスタイリングの方向性に困っていたため。髪が持つ固有特性とステージにあわせた公倍数がうまく見つからなかったらしい。過度なスタイルの変化を好まないので、ナツがいつも私に施すアレンジが適用外にまで伸びた髪だった。反論はない。誰がどう見ていようと受け取るのは曲である、とアイラは考えた。 「メイクはいつもの感じでいいですか?」大きすぎる鏡越し…
熊田はタバコを取り出して、佐知代に火を借りる。佐知代はそっけなく応えた。 「どうぞ、ああ、二度目はやめて下さる。こちらを差し上げますので、ご自由にお使いなって」佐知代はマッチを熊田に差し出した。演出。ついさっき顔をあわせてばかりで、ライターがなく、火を借りた、という設定だろう。 「すいません」熊田は身をかがめて、顔を突き出した。「開場前の下見に行く。種田はここで、佐知代さんを見張っていろ」 「彼女が移動したら、追跡しますか?」 「こっちに連絡だ。受付から私が見張る」 「わかりました」 「あとは頼む」熊田は灰皿に長く残るタバコを押しつけ、ドアをくぐった。どうやら、外に出るときは自動でドアが反応す…
「パティか佐知代で結構です。堅苦しいのは好きではないの」自らの堅苦しい言葉遣いを棚に上げた意見である。 「それは少々私には呼びにくい。佐知代さんではどうでしょうか?」何の取り決めだろうか、種田は呆れる。 「ええ、いいでしょう」立ったままの熊田に佐知代が変化を加えた質問。「あなた、まじめそうね。ご結婚はされていらっしゃる?」 「一人身です」 「そうよね、どこか危なっかしさが漂っているのに、放っては置けない感じ。普段はしゃべらないの」気を抜くと片言の言葉が口をつく。 「まあ、はい」熊田はそれとなく相手が求める回答を口にした。 「いいのよ、気を使わなくっても。経った半日、いいえもっと少ないわ、数時間…
「O署の熊田と言います、こちらは部下の種田です」テーブルを挟む、一脚のソファの脇に立ち、熊田が待ち人に自己紹介をする。熊田に紹介されたので、種田も名を発した。 「種田です」 「あなた方が二人だけですか、私のボディーガードは?」訛り。年配の女性の音声は外国独特のイントネーションであった。顔立ちは欧米の標準的なスタイル。髪の色はしかし、黒く、多種の遺伝がもたらした発現とみるべきだろう。落ち着いた音質とシックなスーツ。ライブ鑑賞のドレスにしては、地味な配色である。緑色の目が、光にさらされて明るく本来の透明度を私たちに見せつけた。 「生憎ですが、これ以上の人員は避けない。我々の正直な回答です」 「そう…
アイスバーを思わせる幻想的なネオンを配した受付までの階段。ホーディング東京の受付に刑事であること、観客の一人の警備で訪問したことを簡潔に熊田が告げた。種田は斜め後方で待機する。 「伺っております。ゲストは既にこちらにいらしておりまして、専用のお部屋にお通ししたところでございます」 「会えますか」受付嬢は頷くと、羽ばたくように右手を水平に引き上げる。階段を上がって通る受付フロアへのドアは左手に壁が迫り、空間は右側に広がっていた。受付嬢が案内をする方向に部屋があるのか、背後の種田は、階段を上がる数分前の景色を再生した。確かに、ドアの左側は階下までしっかり壁が聳えていた。どうやら、部屋がいくつか階層…
最上階から地上まで、このビルのすべてを無料で踏み入れられる場所を歩き回った。少し疲れたかも知れない。落ち着いた喫茶店はついに見つからなかったのは残念、明るく高級な家具と座り心地と天真爛漫な店員を避けようとしても、飲食店が軒を連ねる一階フロアはどれも外からの視界を要に、常に外の明かりを取り入れているみたいで、私には不向きだ。 散歩、私が決めたルールに従って青川セントラルヤードの敷地内を一歩脱出した場所をスタートにすえて、歩き始める。 右を選択。ここまで歩いてきた駅とは反対の方角か。今日は階段があれば上って、行き止まりは右に曲がる。喫茶店、あるいはそれに準じた落ち着ける店を見つけたら、すかさず躊躇…
見えた、目が合った。あの人は確実に私を捉えていた。もうほんの手が届く、声ならなおさら届けられたはずだ。いざ、言葉を交わすといつもの私を隠してしまう癖は直してしまうべきだったのに……。見ていた私と見られていた私。いつか、あの場所に私も立つのだ。決意が高まる。 注意。口頭で入場の取り消しも辞さない、受付の係員が目を吊り上げた正当な指摘。だけど、一目見たかったのだ。始まる前に、あなたの顔を、表情と歌う前の心持を、必死に感じ取って、傍でその空気を吸い込みたい。たったこれだけのこと。うん、わかります。厳重に注意、開場まで決して入らないように、二度目は入場を拒否します。息がかかるほどの音量だった。もう一人…
昼食を済ませた頃に、カワニが開いたままの室内のドアに登場した。ちょうど、アイラがバナナを口にすべて入れたところであった。 カワニはテーブルの反対側からきいた。「公演中に一度、五分のまとまった時間を用意していただいてもよろしいでしょうか?」 「従うしかないのでしょう」アイラは目を合わせずに言う。「それでは、いつものアンケート用紙を、お客を入れる時間帯に集めましょうか、お客さんの声を読み上げて、場をつなぎます。それとも生の質問を受け付けたほうがいいでしょうか?まあ、行き当たりばったりを演出しましょう。予定調和ばかりでは楽しくはない、何十年に?一度の大雪を大胆に利用するべきですね。プログラムが変わっ…
「大雪で電車がストップしてます、このままだとお客さんの開場入りを遅らせるかもしれません」カワニはありあらゆる可能性、特にマイナスに働く要素の予測に多少のおびえがちらつく。 「買われたチケットすべてが、当日、席を埋めるとは限らない」アイラはテーブルの水をおもむろに手に取り、一口飲んだ。ラックにはかかった衣装が用意されていた。 「空席は即、人気の低迷を連想してしまいます」怒らせた肩でカワニはとげとげしく応える。「いいですか、仮にも、アイラさんは人気者なのです。本人がまったくの無自覚であっても」 「当然です」アイラはそっけなく、しかし堂々と応えた。「求める手の届きにくい箇所を狙った曲を書いているので…
アイラは、会場への張り紙を頼りにステージ袖から中へ入った。紫の艶やかな照明、天井が高く、見上げると正面に二階席と三階席、左右にも席が見えた。これらは二人から一人の席だと記憶している。一階、ステージのフロアは二人席から四人席、丸く半円のソファに真円のテーブルが左右に四つステージに対し斜めに向いていた。 ステージを降りる。腰に手を当て、アイラは会場をぼんやりと眺めた。 軽く五分は眺めていただろうか、会場に入るチケット売り場からこちらを見つめる人物と目が合った。開場前に入れる人物はスタッフであるが、眼差しが何かを訴えている。 「お客様、困ります会場時間を守っていただかないと!」スタッフの女性がその人…
開演時刻の約四時間前が大体の現場に入る時刻。アイラ・クズミは、入念に体を解す。開演は午後四時と七時の二回公演。昼食のサンドイッチとバナナを会場に入る前、最寄り駅の構内で買った。楽屋にはスタッフ運営側の関係者が食事を揃えていてくれていた。私のためを思ってはいない数と量である。出演者は私だけ。ギターのみで今回は演奏をする予定。これは初めての試みだ。緊張は新しさに応じるための通常の反応と解釈している、だから失敗が頭をよぎることはまずもってありえない。 会場の下見に出る。どこへ行くのか、スタッフの一人が真剣に背中に聞いた。ビル内の買い物は控えてほしいそうだ、へりくだった態度。何か用事があれば自分に申し…
仲がいいとはいえないが、悪くもない。しかし、毎年私は実家には帰らないし、家族の集まりにも参加を拒否。近況報告を必ずするべきだ、そういった定常さは持ち合わせていないのだ。不誠実、世間ではそう取られなくもない。だが、熊田にとっては両親は離れた個体であり、自分の分身や帰属、隷属する対象ではなくなっている。生んでもらった感謝をすべきとの意見にも、彼は従わないだろう。また、離れていたとして、感謝の念を抱いたとして、お土産を持参して顔を見せたとして、喜ぶのは自分ではない他者。そう、私ではないのだ。 結婚の話も昨日の荷物をまとめる寝室に、ノックもせずに立ち入った妹が尋ねていた。 北西方向に建つビルの一階にウ…
交差点を二つほど、通り過ぎてビルが一気に低層に変わり、また空き地が増えて、遠くまで見渡せる景色に出くわす。すると、右手の一角、かなりの土地をこれまでのビルをはるかにしのぐ聳える高いビルを筆頭にそれらを囲む二棟とはなれた低層のビルが、視界に占有する。 「あそこか?」熊田は追いついた種田に訊いた。信号待ちの交差点である。 「はい、最短のルートは真正面の入り口、藍色のオブジェが道の中央に飾られています」端末に落とした視線は熊田には向けられない、彼女は目を見て話すという習慣を持たない人物、熊田も特別指摘はしない。目を見て話さなくとも意思は介在、しかも自分にとっては見つめ合う行動で意思疎通の速度が若干落…
「給仕係に扮装した監視ではいけませんか?」O署の刑事、種田の申し出はこれで三回目である。彼の上司、熊田はため息と音声を混合させて回答を躊躇わずに言い放つ。 「何も起こらない前提の監視。とって付けたような我々の任務は、数パーセントの可能性にしか、ねぎらいの言葉をかけてもらえない類のもの。さほど重要性を問わない。しいて言えば警察では人員を派遣しにくいが、申し出相手の手前、無碍には断りにくく、しかも表向きの格好は一般市民に溶け込まなくてはならない、そのため警察には見えない私たちが選ばれた」 二人が所属するO署は北海道S市の隣町に位置し、まだ雪と氷、特に雪解けが徐々に進行するここ数週間の氷の躍進に歩道…
断固反対。誰が書いてる、歌っている。私が発した言葉に力を持たせるには、私の意識が通ってなければ、届きはしない。 天命を待つ。 それじゃあ、締め切りに間に合わない。 ……自分が特別な思想を持っていると、勘違いしてないか? 受け入れられたのは確かに人の共感を得られたからだけど、でも特殊な、これまではないタイプの曲であると感じ取ったはずだ。 もともとあなたはどこからきたの?全体の一部だったのよ。現在はかなり偏った異質な立場。私の曲が新しさを彼らが見出すのではなくって、彼らのなかに私を見つけ出すの。難しかったかしら。 つまり、考えすぎていたんだ。ふうん。シンプルな形に舞い戻った、そういうことか。 おそ…
抜けるような青空とは程遠い三月のある朝、創作活動に行き詰まった。ちらついていた雪は早朝にはすっかり形を消して、空がほどほどに青い。微粒子が反射したための青だ。もっと大きな粒が浮かんでいたら、白く見える。だから雲は白だったのか、首をひねっても答えは生まれない。その先を知らないと私がこっそり手を挙げてすまなそうにはにかんでいるのだから。 歌詞が書けなくなった。 奇をてらった言葉ばかりが浮かんでは消えてく。まるで、シャボン玉みたいに。虹の色がついてはいるけれど、儚げとは対照的で突発的な脆さを露呈し、はじける。現代の隙間に寄り添う歌には一瞬にのみ、形状の維持が許される。たったの一瞬。 同時に進行する曲…
「では、外に吸い込まれたのは一体全体誰って言うんですか?」 「それも私です。ですが、あなたは私を単に固体として物質だけで捉えていたとは思えない。だったら、私が目の前から、視界から消えても、遮蔽物で隠れてしまうと、私を見失いますか?」 「ええ、見えていません。あのですね、もう少しわかりやすい説明を」男は困惑気味に訴える。 「この席に私は座っていようと、飛行機から飛び降りようと、トイレに隠れようと、あなたは次の瞬間に私を見つければ、躊躇なく、私であると認識するでしょう?それはあなたの中に私が含まれていることと同義です。つまり、私はあなたであり、さらにあなたは私であるのですよ。おわかりいただけたかし…
「よく理解できないな。要するに、人間自体も音を発して伝わる振動がそれぞれ異なる、あなたはそれを試していると?」男は対象者すべてに頭脳明晰で有能だと思わせたいらしい。それのどこに意味が価値があるのかまでは私は詮索をしない。 「半分だけ正解です」私はため息。とても無益な訂正に思えたからだ。「人だけではない、対象は会場のあらゆる物質。それらは時々の姿を、あなたが聞いた天候ように一つとして同一でありはしない」 「あなたが書いた歌詞を疑問視する声が上がっているのは知ってますか?」 「子どもが書くべき歌詞が共感を得るのならば本望です。しかし、そうであってはあなた方は、そっぽを向いたまんまで、手にすら取らな…
面倒であったが、通路側はふさがれている。乗務員は後部へカーテンを引いて、下がってしまった。助けを呼ぶには期待が薄い、私は、梃子でも動きそうのない、どっしりと構えた顔に言い放つ。 「音という概念はつまりは、振動です。これには固有の振動があり、それぞれが個別の振動数を持つ。楽器、例えばギターの弦は、弦の長さと張力と重さにより音の高さが異なる。高い音を出したければ、弦を短くして弾き、より弦をきつく張り、より重さを加えるとよいでしょう。ここまではついて来れてますね?」 「ええ」 「では、これらを音源、歌詞と楽器の演奏の複合である歌を吹き込む楽曲を売り出そうと私は決めたときに、現在の流行歌といわれる曲の…
トイレの前で私は軽く体のこわばりを取った。それからトイレに最も近い二席並んだ空席のひとつ、窓側の席に立膝をついて私の座席と反対側の主翼とフラップを見つめた。 「外は晴れているかな?」軽薄そうな若い男が座席に手を乗せて声をかけた。男を確認して、私はねじった首を窓に正対させる。 「無意味な質問は他の目的を示唆できる」私は、後頭部で応えた。 「隣座ってもいいだろうか、あいてるように見えるけど」 「私の席ではありません」 「だったら座ろうかな」男は滑り込むように座席に腰を落ち着ける、あたかもそこが数時間を過ごした自分の席であるかのようにだ。遠くに黒い雲を捉えた。機体のレーダーはとっくにあれを捉えた進路…
大学の声楽科、主に学術面の指導に力を入れて教鞭を執る人物が今回、私を呼び寄せたのだった。ネット上に散らばる動画を見て、テレビ局、レーベル、所属事務所を通じた連絡が先月に通訳を介して、直接私とコンタクトを取った。直接会うことは考えていない言い分やうわべの言葉がどのように通訳によって取り払われ、あるいは付け加えられるのかを見極める面白さに心惹かれて、受話器を耳に当てていた。若干、私の年齢に合わせた言葉遣いの配慮を汲み取って聞くと、話される内容は過去の声楽家のだれそれに私が似ていて、直接歌と私の思想に触れたい、という訴えにも思える申し出、オファーであった。断るつもりで即答を試みたが、スピーカー音で聞…