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トイレの前で私は軽く体のこわばりを取った。それからトイレに最も近い二席並んだ空席のひとつ、窓側の席に立膝をついて私の座席と反対側の主翼とフラップを見つめた。 「外は晴れているかな?」軽薄そうな若い男が座席に手を乗せて声をかけた。男を確認して、私はねじった首を窓に正対させる。 「無意味な質問は他の目的を示唆できる」私は、後頭部で応えた。 「隣座ってもいいだろうか、あいてるように見えるけど」 「私の席ではありません」 「だったら座ろうかな」男は滑り込むように座席に腰を落ち着ける、あたかもそこが数時間を過ごした自分の席であるかのようにだ。遠くに黒い雲を捉えた。機体のレーダーはとっくにあれを捉えた進路…
大学の声楽科、主に学術面の指導に力を入れて教鞭を執る人物が今回、私を呼び寄せたのだった。ネット上に散らばる動画を見て、テレビ局、レーベル、所属事務所を通じた連絡が先月に通訳を介して、直接私とコンタクトを取った。直接会うことは考えていない言い分やうわべの言葉がどのように通訳によって取り払われ、あるいは付け加えられるのかを見極める面白さに心惹かれて、受話器を耳に当てていた。若干、私の年齢に合わせた言葉遣いの配慮を汲み取って聞くと、話される内容は過去の声楽家のだれそれに私が似ていて、直接歌と私の思想に触れたい、という訴えにも思える申し出、オファーであった。断るつもりで即答を試みたが、スピーカー音で聞…
「座席に乗って覗くな。パパに何度言わせれば気が済むんだ、聖螺」父親の真壁は声を潜めて聖螺を叱りつける。 「ねえ、飛行機はどうしてこんな高いところを飛んで機体が凍らないの?」 「なあ、いい子だかいうことを聞いてくれよ。お前だってママには怒られたくないだろう?行儀悪くしたら、お前、家についてもお菓子やご飯、食べさせてもらえないぞ」 「それはないよ」聖螺ははっきりと首をひねって答えたが、すぐにまた首は飛行機の窓枠に戻す。「ママがトイレに立ったのは二分と三十秒前だし、読み終わった雑誌を手に持って尾翼方向のトイレに向かった。帰りに雑誌を選んで戻ってくるから、まだあと一、二分はこうしていられる」 「パパが…
エンジンを止めて降りようとしたら、厳しく係員に止められた。荷物を下ろすまでは降りない決まりらしく、また新人かという質問を受けた。そうだ、と答えたら、トラックはそのままで降りてはいけない、ここを出たら今日は近くのモーテルにでも泊まって翌朝荷物を積んだ倉庫に戻るように言われた。そういえば、出てきた時に帰ってくる時間は指示されなかった。しかし、帰り道がわからない。私は正直に係員に伝えた。 「帰りも六の番号を辿ればいい。休憩する場所は、これから出る通路を道なりに走れば、左側に見えてくる。帰り方がわからないときは、トラックの無線を使うといい。使い方はスイッチを入れてマイクに話しかければ、誰かが拾ってくれ…
「明日死ぬかもしれない、誰にもわからない。それはトラックの運転でも変わりがないと思います。答えになってませんかね?」 「いいや。合格だ。何でまたこんな基準を設けたのやら」男は呆れたように降りてくる私に手招き。「名前は?」 「タマキ」 男が言うには、トラック運転の採用基準に死を怖がるもの、死を厭わないものの両者を除く人物はすべて採用する、先代の気まぐれとも思える基準に則ったらしい。 死亡承諾と配送義務の契約書にサインした。手続きはこれで完了、道順を教える同乗者は乗せない決まりだそうだ、人件費の削減と、複雑な経路を通るわけでもない、大きな看板を見落とさなければ配送先には突いてしまえる、というのが男…
一分もかからなかった。目的の事務所、錆付いた、やけに高い位置で会社名を知らせる看板。彼女にお礼を言ってそこで降車する。しかし、車はなかなか発進しない、エンジン音が聞こえる。一度振り返って車を確かめた。こちらを伺っている彼女の表情はサングラス越しにでも心配が伝達するかのような振る舞い、それはあなたの身を案じているのだ、いたたまれないのは不安にさいなまれる自分の不快を収めるための対処。決して私が最上ではありはしない。ここでもまだ、私は傷を負うのか。 入り口ドアと平行の階段を上ってベルを鳴らす。セキュリティの類は、入り口の鍵。 誰も出てこない。もう一度押す。中から、うっすら人の音声が聞こえた。そっと…
思い出そうとするが、家を離れたきっかけは果たしてどこに由来するのだろう。明確な後押しやタイミングが重なったのだろうか、タマキはめずらしく昔を振り返っていた。シートを倒した運転席で。北の空が艶やかに瞬いて、広大な土地を余すことなくアスファルトが敷かれた駐車場の端に車を止める。人工的な明かりは低層のレストランとガソリンスタンドぐらいで、明かりと言えば空に浮かんだ星と月を指し示す。 一人の時間を保てたおかげで、生活も手に入れられた。免許は持っていなかったが、一度だけなけなしのお金で試験を飛び込みでパスしてしまえたのは、ラッキーだった。試験に落ちるとは思えなかった。それほど運転が難しい技術を要する動作…
トラックの生活は快適そのもの、タマキは車内で一日の大半を終えるこの生活がいたく気に入った様子であった。それまでの彼といえば、塞ぎ込み、半ば一生を諦めた生活を送っていたが、死を覚悟したこの生活は彼に活気と生きる指針を差し出してくれた。純粋無垢な彼にとって外の世界はひどく無謀で乱暴に彼を苦しめる。無論それらが当たり前で人がなんとも思わない些細な言動や日常の動作であっても彼にとって家に帰り着く頃には明日を生きられないほど打撃を受ける。外側の膜が回復不能にまで陥る生活を、不本意ながら家族や世間の手前もあって続けて、かろうじて息を吸っていた。だが、ある日、突然に彼は家を飛び出した。きっかけはなんだったの…
シャッターの閉まるかつての商店が建つ交差点を曲がって、川に出た。川沿いを歩き、坂を下る。途中、道が途切れたために、迂回を余儀なくされた。一ブロック大きく回る。そこで川に戻ったら、遠ざかるように水面が道を離れ、森の中に消えてしまった。川に近づきたくて道を下る。国道にぶつかった。逸れた川の方角に向かって工場を越えて、五分ぐらい歩くと、深い谷の狭間に川が姿をみせた。私が立つ橋は真下の川から数十メートルも上に位置する格好である。おそらくあの川はこの本流に合流したのだろう、森の奥にもう一本の川が流れる予測を私は地理的な確証を得ずに勘だけで決め付けた。しばらく、そこで車の走行音をバックに川を眺めて、家に戻…
朝早くに車で祖父は出かけた。私は見送りに玄関まで出て行った。ただ、ベンチに座りに言っただけである。犬は主人においていかれた悲しさを私で紛らわそうと近くによってうつぶせに寝転んだ。さわさわと森がはためく。登山の装備に身を包んだ団体が山に入る。そういった一団が三組通過して、私に不用意に声をかけた。挨拶が基本らしい、自分の勝手な解釈を押し付けているとも知らずに。 私は川の形状を残していたが、想像では地図は完成させていた。裏表が印刷可能な用紙にレイアウトと文字入力は家の㍶を使うとしよう。問題はデータをどこで印刷するかだ。母親に頼めば必ずチェックが入るから、なるべくなら完成まで、修正が不可能な時間まで彼…
次の日。夏休みの課題に厚みを持たせるために、街を散策した。犬の散歩という名目であれば、誰も私の身を案じたりはしない。祖父から大まかな地図をもらった。中央に白線が引いた道路だけが書かれていて、現在地と目安の建物が数件、大雑把な地図は私が提案したのだ。課題のことも伝えていた。朝の早い時間七時に祖父の家を出た。途中の休憩に昼食のおにぎりと携帯用のお菓子これは道に迷ったときにだけ食べるように念を押された、それと犬用の水。公園があったら犬に水を飲ませるように言われ、水道がなかったらこの水を飲ませること。それ以外は特に母親のように口うるさくあれこれと戒律を立ててこないでくれた。私はめったに使わない端末の番…
快晴の翌日。朝食を食べるか、という質問を始めてされ、それを快く断り、山に入る祖父と犬を追いかけるよう、私は山道を登った。ここは彼の山らしく、しかし、山道は一般向けに解放している。入山の許可が必要、緩やかなカーブを曲がった先の小屋で手続きを取った一行に出くわす。私を対象に聞き飽きた言葉がかかる。それとなく私は対処、慣れればどうってことはない。取り合ったらそれこそ時間のロス。彼らを追い抜かして、私たちは先を進んだ。 山中とはいっても、切り崩した平面の土地に畑らしき場所の名残が数箇所確認できた。私の視線に祖父の説明、米と野菜を作っていたのが四十年ほど前のこと。入山口周辺に人が移り住む前の風景だそうだ…
翌日。おにぎりを母親に言われたように食べる。身支度を整えて、その景色をパチリ、ファインダーに収めた。正午前の十一時にS駅に到着。ここからさらに今度は各駅停車の電車に乗り換える。一度、階段を下りて、向かうべきホームを探す。一番線の階段を見つけて、上る。合っているはずだ、間違えたくないので、運転を交代する車掌に切符を見せて行き先と車両を確認した。どうやら合っているらしく、降りる駅のまでの数も教えてくれた。駅名が読めないと、思ったのだろう。 電車に乗り込み、三十分ほど揺られて降車。カメラを構えて、電車が動き出す前に捉えた。 閑散とした風景を私は見渡す。改札を抜けると、目的の人物が出迎えた。母親の親、…
無意味な宿題のために、私は電車内の各所撮影に繰り出した。脳内で雑誌のレイアウトを構想しながらの撮影、闇雲にとってあとから選ぶ手間を省くためだ。限られたフィルムならばたぶんそうしているはず。 先頭に突き当たり、それから最後尾に行き当たった。私は小さいため、人とのすれ違いも苦もなくすり抜けられる。誰も声をかけないのがさらに積極的な私を駆り立てただろうか。 三ページで目次と行き先と車内の様子をあてがって、残りのページは滞在先の景色や移動の一場面を撮影することにしよう。流れは時間を正確に追う。帰りの電車でも撮影を忘れないようにしなくては。それでも、反対側の景色と乗り降りの写真、それに行き先表示の車両を…
どこへ行くのか、目的地すらも教えてもらえない。とにかく飛行機は万が一のことが心配だから、電車で行きなさい、とても不条理で独断的、恣意的と言ってもいいだろうか。父親の支配領域から飛び出すと途端に仕切りたがる性質を私にぶつける。操られた反動や日常生活の不自由さがここでいつも、そう、私へと向けられるのは、もう慣れっこ。特に、悲観的にも陥らない私は、享受だけの対人用のプログラムを既に完成させて今まさにその人物が対処しているところだ。午後七時台の電車に押し込まれるように乗り込んだ。母親が座席まで着いてきて、もちろん彼女は降りる。ホームから私へ、たぶんこれからの自分の楽しみへ手を振る、私が楽しみにしている…
熱く陽射しが照りつけた一週間の猛暑がようやく雨に救われた夏休みの中日。両親は夏休みの私の扱いに困り、主に母親であるが、自身のストレス発散を甘いシロップでコーティングした口実を彼女の両親、つまり、私の祖父母の家に押し付ける形で夏休みの大半を後半から終わりにかけて私はうっそうとした森と坂と海との境目の町で過ごしていた。十数年前の記憶である。思い返したのは、不意に訪れた、無理やり取らされた休暇を目的地を決めずに電車に揺られた車窓の風景がフラッシュバックのように、捨てたと思い込んだ記憶の欠片が集まってしまったからだろう。はっきりとした回答は自分に対してでも言えない。このときの私は、ありきたりな私の不明…
「うちの子です」男が紹介する、家族らしい。 「こんにちは」二人は声を揃えて合唱みたいに、挨拶を言ってのける。 「こんにちは」 「お姉さんは、ママとお友達?」 「えっ?」 「違うよ。この人はお店の人。クリーニング、パパの服を綺麗にしてくれる人だ」 「ママもお洗濯してたもん」 「してたもん」 「だから、違うんだよ。この人はママとは関係ないんだ。わかる?」 「わかんない。ねえ、ママはいつになったら帰ってくるの?」 「くるの?」 「パパだって今日はお休みでしょ、だけど、明日はお仕事。ママがいないと困るんだぁ。明日ね、お歌を歌うの。だからね、ママにね、きいてほしいの」 「ほしいの」 「パパはお仕事だから…
翌日。店番の交代を従業員に告げると、お客に届けるよう洗濯物を手渡された、配達の車両に積み忘れたそうだ。マンション名を頼りに、家に引き返した。自宅へは出し忘れた手紙を取りに帰るだけ、急ぎの用事ではないけれど、休憩時間の有効的な使い道も見出せないのだから、散歩がてら、時間に余裕を持って歩くことの贅沢さをかみ締めて約二十分の道のりを歩ききる。先に手紙を回収、荷物を届けるのは復路。 サンライズヴィレッジ星谷。ここだ。二棟のマンションと道路沿いに屋根付きの駐車場。中央に駐車場を突っ切る道は確立されていないらしい、左右のどちらかの棟にエントランスで行く先を明確に決定しなくてはならないらしい。ワイシャツに貼…
張り紙を取り外したのが男の来店から数えて二週間と一日。恐々張り紙を外しては、またつけるを一時間ごとに繰り返したが、結局、通常対応の時間間隔が戻り、常連客の足がもどりつつあった。 ところが、閉店間際に聞き覚えのある圧力と音声が聞こえた。あの男性である。一言言ってやろうかと思ったものの、何事もなかったように今日を終えようとしている私、それにこのお客が情報を広めたとは言い切れないのも事実だ。 男性がうっすら笑みを浮かべていた。気が変わった、笑い事で済ませてたまるか。 「先日は、どうも」男は言う。 「約束は守られなかったようですね」私はすかさず男性に切り替えした。 「何のことです。誓って、僕は他言して…
小説新人賞の一次選考を突破!過去作と通過作では何が違ったのか【考察】
小説現代長編新人賞の一次選考を突破した経験を記載します。これまで落ちていた作品と何が違ったのか。自分なりに考えたことを紹介します。新人賞は作家になるために誰もが通りたい道。小説家を目指す人の参考になればと思います。
男は時間ぴったりに出来上がったワイシャツを取りに姿をみせたが、翌日に問題が起きた。朝から駆け込みでしかもまだ開店前の午前九時に二人のお客が至急、汚れを落として欲しいとの要望をさも当たり前に私が以前から請け負っていたかのような面構えと態度。まだ準備中であり、優先的な緊急性の仕事に対応してはいないのだと、相手の逸る気持ちを宥めるように私は店の対応を説明した。一人が納得し返ったものの、もう一人はたった今、汚れを落とすことが必要なんだ、これは今日着るつもりの服で昨日見落とした箇所にしみができていたのを今朝見つけて、もうシミを落としてもらうしか方法ないのだと、切実な訴えにしたかなく、二日続けて私は要求に…
「どうにかならないか」 「要求には応じられない。一度の一回の確約が、弊害に発展してしまう。だから、私はこうして店のドアに書いてるように時間をあらかじめ示しています」 「あんた、店長か?」 「はい」 「シミを抜いたり、こびりついた襟汚れを取ってくれなんて無理なお願いじゃないんだ。明日から出張で海外へ行く。飛行機に乗る前にここへ寄ることもできるが、夜の内に仕上げたシャツを詰めて、明日はぎりぎりまで眠ってそれから空港に向かいたいのさ、わかるだろう?」眠りたいか。一定時間の睡眠が生体のリズムにとっては必要なバランスらしい。どこかで耳にした話だ、確証はない。そもそも時間という概念が細胞に組み込まれている…
クリーニングのお客は三種類に分かれる。開店まもなく、前日や前々日に仕上げを頼んだ服を出勤前や仕事終わりに受け取る人。正午から午後三時ぐらいにかけてが主婦、自宅では落としにくい襟汚れのワイシャツや年に数回のドレスなどを持ち込む人。そして、夕方から閉店八時にかけては、仕事帰りや一人暮らしの男性客が大半である。時間と労力に綺麗さと皺を取り去るクリーニングを選ぶ意識はこちらとしては願ってもない計らい。ただ、貨幣を支払ってまで落としきるような汚れが見つからない衣服もかなりの確率で耐久性の富んだ紙袋から飛び足してくるのが現状だった。もちろん、そういった服も同じように洗う。しかし、家に洗濯機がないとは思えな…
交差点で立ち止まり、マイを下ろす。かなり重くなった、もう抱えるのは無理かもしれない。大きくなった。しゃがんでライムを撫でる姿を記憶に納める。今日の光景は明日になれば終わってしまう。どうしたのだろうか、いやに感傷的な私。 「スーパーに寄って帰るから」横断歩道を渡りきって私は言った。 「お菓子が食べたいなぁ」 「今日はカレーだってさ」 「やったー。ライム、カレー食べられるって」 「ライムは無理だな」 「ええっー、そうなの。かわいそうね、ライム」 「犬は人間と同じものは食べられないの」 「ふうん、そうだんだ、そうなんだ」 川沿いの土手に入ったので、マイにリードを手渡した。小柄な影が土手に影を作る、ち…
「引き出しに、赤い財布が入ってるはず。中のお金を使って」 「ああ、これね。ちょっと待ってよ」私は電話のディスプレイの時刻表示を見た。「駅まで私歩いていくの、もしかして?」 「連絡する暇が会議で取れなくって、今やっと終わったところなのよ。だから、ごめんすぐに出て、そうしないと間に合わないかも」 「もうっ。まったく、どいつもこいつもなんだから」 「あっ、はい」電話口で誰かに呼ばれたようだ、小声にトーンが落ちた。「もういかなくちゃ。マイのことよろしく。食材はカレー用の具材を買って。じゃあね。よろしく」一方的に切られた。何を考えているのやら。癖で壁の掛時計を見た。午後三時半。すぐに出ないと、保育園に最…
襟と袖口を入念に使い古した歯ブラシで研磨。今シーズンに洗ったので汚れは落ちやすかったのかもしれない、十分に洗い流し、すすぎ、最後にネットに入れて洗濯機で脱水にかけた。 すっきりした。汚れを落とすって、もしかすると体に張り付いた不浄なものたちも削ぎ落としてくれる作用があるのかもしれない。視覚で汚れを体内のそれと重ね合わせて水で洗い流すんだ。だたし、内面と向き合わなくてはいけない。短時間でてきぱきと手軽にお掃除できるのは、うん、あんまり体にはよくないのかもしれない。 午後三時、電話がかかってきた。ソファでうつらうつら、眠気と戦っていたら、家の電話が鳴ったのだ。最近ではあんまり受話器を耳に当る動作は…
ダイエットのためという口実を武器に、私はお昼を抜いた。お腹が減っていないのであるから、食べる必要もないのでは、と改めて当たり前のことを考え、実行に移したわけである。正午前にパンとお菓子と煎餅とを食べていたのだから、体は十分満足しているはずである。ただ、昨日まで延々と続いた、お腹が減っていなくても正午近い時間にお昼は食べなくてはならない、という衝動が湧き上がるのを、ぐいっと意識の下に押し込めるのは非常につらい。でも、もうお腹はパンパン。お腹をさする、そうでもないか。いいや、食べるわけにはいかない。自分でも自覚はあるのだ、食べ過ぎていると。 午後は部屋の掃除に着手した。踏み切れずにいたクローゼット…
「最近さあ、遠吠えを聞かなくなったなあって、思い出してさ、昨日の夜。アコちゃん、良く吠えてたもんね」 「もう半年も前のことだ。忘れたよ、とっくに」 「写真立て、伏せたまんま。いつまでそうしてるの?」 「あのほうが落ちつくんだから、いいでしょう。もしかして、それを言いにわざわざ来たってことないよね?」 アカネは平然と応える。「あるかも」 「冗談。私、そんなに感傷的な女じゃない、作りは頑丈なの」 「そう見えて中身はボロボロってこともね」 「勝手に付け加えるな。そしてお前は吠えるな」合いの手よろしく、ライムが吠えた。 「構って欲しいのよ」 「それは妹の役目」 「別れるのが怖いんだ」アカネは牛乳を飲ん…
ライムと遊びたい、とアカネが頼むので、私は仕方なくゲージから犬を出した。駆け回って、大暴れ。うちにはあまり人は訪ねてこないし、母親もまして父親も散歩に連れ出す時間的、体力的な余裕を残さずに帰宅するので、ライムはほとんど家にこもりっきり。妹が唯一の遊び相手ではあるが、その場合はライムが遊んであげる立場を買って出る。だから、遊んでくれる人間には飛び切り好意を抱くんだろう。私なんかよりも、ひっきりなしに尻尾を振っている。ご飯のときでもこんなに尻尾は振らない、単なる同居人ぐらいの感覚か、まあ、悲観することもないさ。 私が願ったのはあの子だけ。 写真立ては伏せたまま。 家族の写真は私がいつも倒している。…
「座って」 私が寝転んでた場所に彼女は腰を下ろした。部屋を見回って言う。「あれっ、妹は?」 「ああ、保育園。飲み物、何がいい?」私は冷蔵庫に手をかけてきいた。 「紅茶ってある?」 「ちょっと面倒かも」 「ティーバッグとかないわけ」 「あるかもしれないし、ないかもしれん。ちょっとまっとれ、お客さん」 食器戸棚の上段を開ける。父親が飲むコーヒーの粉にまぎれて、紅茶を見かけたよう気がしたからだ。 「なかったら、なんでもいいかんね」 誰かが飲んだのかも、見当たらない。私はしぶしぶ紅茶を諦めて、牛乳で乾杯することに決めた。たいそうな名前がついても所詮はパン。牛乳と相性に抜かりはないはずだ。 リビング戻る…
春休み。短い休み、今年から二年生に進級する私にとって、あまり乗り気な休みではなかった。気の知れた友達とはやっぱり離れたくないのが本心だった。だけれど、誰にもそんなことはいえなくて、平静を装っていた。大丈夫、自分に言い聞かせるように友達を励ましていたのが先週。明日と明後日で、今年と来年の学校生活が決まってしまう。 煎餅を噛んで、ソファに寝転んでいた。両親は共働き、朝早くに、父親は今日から出張で朝の暗いにうちにドアの閉まる音が聞こえた。母親は、弁当を作る手間を私に昼食代を渡して簡単に済ませた。父親を見送りに玄関まで出て、一度起きたらしく、そこでまたベッドに戻って眠ったら、寝坊したそうだ。弁当は作る…
「ええ、つい先日に」店員はすまし顔で応えた。 「いつごろですか?」 「先週、手術の前の日です」 「覚えていないな」 「無理もありませんよ、皆さん、忘れて帰られますから。思い出して店を訪れたのは、今年であなたが二人目。もしかして、あなたも頭を代えたの?」 「はい」 「体は覚えているようね」パイの匂いが鼻をついた。何も覚えていない、いいや、内部が言葉への変換を拒んでいるようだ。だけど、思い出さないように厳重に鍵がかかっている。ジュースを飲んだ。そうしたらもう、掴みかけた記憶は消えてしまった。何を考えていたのかさえ、思い出せない。甘い、苦味に反して。 考えてる間に、パイが運ばれた。甘いものが好きなよ…
変化はあまりというか、ほとんど感じられない。比較的良好だ。頭を替えた、と言っていたけれど、支障はないし、こうして車の運転もできてしまえる。自宅に帰って、彼女へ報告。不具合がないことを伝えた。僕はシャワーを浴びて、すぐにベッドに入った。疲れていたのか、昼間に眠ったはずなのにすんなり睡魔が訪れたらしい。何か困っていたように思うが、思い出せない。考えることでもないのだろう。 そして、翌朝。頭がスッキリ。会社に出社。なにごともなく、というよりも仕事がはかどる。休養で英気が養われたようにも思える。休みはなにをしていたんだっけ? こうして、翌週。手帳に記されて検診日。休暇を取った僕は病院を訪れる。受付の待…
「今日、退院できますか?」予定は三日間の滞在、不意に浮かんだ予定。 「体調しだいですかね。数時間後にもう一度来ますので、そのときに経過をお伝えします。ですから、それまではベッドで安静に、お願いします」 看護師を見送って、一人、病室内。どうしてここにいるのだろうか、僕はベッドに腰を立てて座り、考えた。右手の窓、鳥が優雅に風を捕まえて浮遊。まるで、止まってるみたいだ。僕はどこから来たんだ……。思い出せない。おかしいな。室内を見渡す、病院であることは間違いない。僕は病気を患っていたのか、それとも怪我を負ったのか。 廊下を少年が横切った。弾力性の高いボールを胸に抱える。ドアを通り過ぎて、戻ってくる。病…
翌朝、慌しく体温と体調が入念に調べられる。僕はなすがまま。食事は水分だけを許された。そして、起床後、一時間で入れ替えが行われる手術室へ僕らは運ばれた。 「目をつぶってください、はい、楽にしててくださいね。はい、大きく息を吸って、深呼吸ですよ」最初に視覚が失われ、次に嗅覚、そして触覚、最後に聴覚だ。声は意識を失う直前まで聞こえていたように思う。結局、昨日のうちに答えは出なかった。もしかするとそれほど、昨日が思い出せなくても僕は生きられるのかもしれない。そういった解釈を残して、眠りに落ちた。他人の寝息が気になる前に眠れただけでも、合格点をあげたいぐらいだった。 僕の頭の情報を取り出して、新しい頭、…
それからだ、僕は彼女との出来事を気に留め始めたのは。 僕はポケットからタバコを取り出した。一連の動作、一本を口咥えるところでぴたりと動きを止めた。灰皿と喫煙の許可を探ったのだ。 「どうぞ、気にしないで」女性がコーヒーを運んで、僕に許可を与える。カウンターに手を伸ばして、二本の吸殻が残された灰皿を彼女はテーブルに置いた。よく見ると白いテーブルはところどころシミや焦げ痕がある。 「いいんですか、禁煙では?」 「いいのよ。あなた以外にお客がいるとしたら、足の生えていない人だわ」細めた目で彼女は微笑んだ。「入れ替え?」 「ええ、明日が交換です」 「ここへは、入れ替えに来る人がほとんど、普通のお客はうー…
カウンターとテーブル席が二つ、スタッキングチェア、カウンターはもちろん背の高いスツール。 「いらっしゃい」髪の長い女性が温かみのある声で出迎えた。テーブル席が一つ空いていたので、そちらへ座る。外は道路反対の遠くの丘陵が見える。夕日と朝日の赤が似合いそうな風景を脳内で思い描く。 メニューはコーヒーとオレンジジュースとアップルパイとミートパイの四種類。アクリルの薄い壁面に閉じ込められたメニュー表。 「すいません」僕はカウンターに顔を向ける。「コーヒーを」 「コーヒーね」女性はたぶん僕よりも若いか同年代ぐらいだろう。人のことを詮索したのは結婚前の彼女のときから数えて二年と六ヶ月と二十二日。彼女との記…
考え事に耽り、僕は病院を離れた。駐車場に僕の車が見える。黄色いスポーツカー。だけど、車には乗れない、これも検査での決まり。歩くことを望んでいた、こっちへ来てまで運転で気分を晴らそうとは思ってはいない僕である。スロープを降りた、左右どちらへ歩こうか選択に迷う。 左を選んだ。 病院へはひっきりなしに車が流れ着く。皆一様に陽気、空は晴れ渡り、オープンカーで風を感じられる時節だ。車にはハンドサインを返した、これで喜んでくれる。エネルギー消費に換算すれば、無駄でも受け入れられる。そうやって物事を処理しなくては。不本意だ、生まれてからずっとだろう。動物に話しかけることに比べたら、僕はずいぶんまともだと思う…
会社の定期健診は僕のメンテナンスのおかげで、スペック入れ替えは未体験。それでも彼女のためならと、こうして今に至る。家族はスペック検査と入れ替えには立ち会えない決まり。だから、病院内に活気溢れる会話は一切聞かれない。僕にとってはありがたいことである。 服装は自由とは言いがたいが、着物のような前を合わせる上着と下は締め付けがない寝巻きと運動着の中間、程よいゴムの感触。足元は素足にサンダル、サンダルは自宅の下駄箱から引っ張り出した数年前の代物。有効的な活用を見出せないまま、見ないように奥へ押しやったサンダルがやっと日の目を見た。海水浴に行かない限りは、履く機会にめぐり合えない。夏の到来、あるいは海外…
昨日はスペックの入れ替え検査に、丸一日を費やす。新築ビルのような病院を上から下まで行ったりきたり。僕を含めた三名と一緒に入れ替え検査を受診、今日の休息を挟み、明日が入れ替えの本番というわけである。肉体的な修復の前日は、外出などはもちろん、病院内を歩き回ることや飲食の有無も制限されるが、スペック入れ替えに関しては病院ビルの半径一キロまでならば、外出の許可が下りていて、食べ物も固形物以外は決められた時間内の摂取は問題がないらしい。 検査、一日、入れ替え、というスケジュール。 僕は初めての入れ替えであった。友達から検査の内容は聞いていたので、心構えはできているつもり。だけれど、やはり不安は拭えないら…
長々と綴った文章に終わりを告げた、手が痛くなったのだ。手帳を閉じて、つかの間の休息に浸る。飛行機はやはり得意になれない、ひどい揺れ。まもなく、着陸。アナウンスだ。初めての土地である。今日も自宅の目覚めは快調だった。機内に高揚感が漲る。非現実を取り戻すために、異世界が、日常が私に変換される。あの人は暮らしているだろうか、そろそろ建物が完成する時節。もう忘れよう、私の居場所ではない。目を閉じてリセット。ぐっと手を握られた、隣の女性にである。見覚えのある顔、いいや、どこにでもいる平凡な横顔。目を閉じた表情はかつてに、誰かに似ていた。そう思えたら、私はまた一つを取り戻した。 おわり
雨が落ちてきた。門を出た直後である。雨に濡れて、最寄り駅までを目指す。連休の最終日、出歩く人は少ない。私には好都合の環境、適合者を探すにはもってこいだ。肩口が濡れ始めた頃に最寄り駅に着く。進路を変更、今度は線路に沿って次の駅、自宅を目指した。事務所には帰らないつもり。 濡れることに厭わなくなって、 寒さに震え、 歩く速度が低下し、 私を守る私が表出を許され、 考えがまとまった。 あの土地、星が丘の線路を見下ろす土地の適合者は登場人物から選んだのだ。しかし正確には、雨の中で決まったわけではなく、後日当人に関する資料を集め、吟味を重ねた。売買の正式な決定は数週間後のこと。それでも雨の中で掴んだ直感…
ぐるっと、家の周りを嘗め回すように観察する。松の木だろうか、緑が一段と色濃く映えた植物が歩道にはみ出して日光を遮る。塀は低層ながらも植えられた大木によってどこも敷地内はまったく見えない。裏側にも通用口があった、こちらが駅へ向かう方角。住人の出入りはこっちに分があるのか、調月は裏口を通り過ぎて、また正面に戻り、早見の所在を確認した。本人が出るわけもなく、お決まりの冷徹な声が聞こえた。留守のようである。用件を訊かれた、土地売買に関しての要件で訪ねた、と言い返す。 「その場でお待ちください。お渡しするものがございます」なんだろうか、調月は想像を働かせる。まるで開く扉を待ちわびるかのように地面に靴底を…
二日目にして散策を楽しむ。しかも東京で。願った状況といえばそれまでか、調月は軽く息を弾ませて歩行速度を弱めた。大胆に予測を立てた方角と看板の示す位置表示と距離数では、もう目的地周辺のアラームは鳴っているはずだ。建物が多く、それも旧型のビルが立ち並び、隙間にはクレーン車がわんさか。覆われた背の高い工事用のウォールが完成までのこの一体の外観の役目を担っているらしい。遠くが見えなく方向感覚が鈍る。 現れた坂道に惹かれて上った先に下り坂が待ち構え、その下に低層のマンションが見えた。霞む石に刻まれた文字に接近、予感を確信に変える。あった。調月は同胞を見つけたように手を取り合うように、石の文字をぺしぺしと…
【本・お題】「好きな小説について」~昔好きだったファンタジー、推理小説などについて!!~
☆今週のお題は「好きな小説」☆ さてさて、今週のはてなブログのお題はぁ~? 「好きな小説について」ですっ!! ・・・。 あれ、なんかいつも小説の紹介とかしているし、今さらじゃねぇ? 何なら好きな作家10人とかでまとめ記事も作っちゃいましたしねぇ・・・。 hiro0706chang.hatenablog.com だけど、せっかく「好きな小説について」なんて、読書ブログ冥利に尽きるお題をはてなブログ様がお出しになって下さったのですから、「据え膳食わぬは男の恥」というものでしょう。 絶好のパスをもらってるのにパスしちゃう腰抜けFWみたいになるのは嫌なんで、このお題で記事を書いてみます。 そんで、普通…
「直感でも構いません」 「答えても?」時差式の信号が視界の隅で点滅。 「もちろん」風が通り抜ける。砂埃が舞い上がって、ビニール袋が生き物みたいに交差点でダンス。 「お売りできません」 「そう」彼女はほっとしたように調月からは見えた。「身の程を知ったわ」 「私からも質問を」調月はここで他者の価値に影響を受ける自分に興味抱いた。「私に選ばれることのどの辺りに価値を見出すのでしょうか?」 「資金的、社会的な地位を獲得したら、次に何を求めるのか。やはりそこはこれまでの価値や立場にさらに磨きをかける。面白みは十分に堪能しつくし、価値の見出し方、世の中の仕組み、人間という生き物の生態を知りえた。後は残りは…
忙しさをあの土地に当てはめてみるが、めまぐるしい都会だからこそ、成立する体を酷使した稼動に思えるのは、私だけだろうか、調月は街中で立ち止まる人物、いつもその脇を通過する世界を外部を内部と思い込める意識の人物に変容していた。 「そうですか、それでは」私は立ち去りを希望した。 「独断にも何らかの法則は必ず存在する、私の考えですが、調月さんは外面的な要素が判断の基準には組み込まれない、あえてそうしていないよう思います」言葉を切った早苗。「お答えください」 調月はいやに真剣な彼女を数秒眺めて口を開いた。「人の外部は内面の現れである。両方を一度に取り込もうとすると、混乱とひずみが生じる。私は器用な人間で…
早朝。暑さで目が覚めた。一瞬、場所の把握に混乱した気分が味わえた、調月は合格点を与える。今日は連休の最終日だ。人の出方が少ないことを祈ろう、とはいっても、車での移動を考えていない調月である。二つの訪問先は近所であり、さらには一軒目の早苗のマンションが近郊の駅から徒歩五分圏内と、乗り換え案内で知れた。調月が使用する端末の目的はほとんどが、この乗り換え案内である。他のサイト情報を収集するための利用にはまったく使われていない。使う必要がない、といったほうが正しいか。私の感覚で生きているのだから、それに従うまで。 午前九時に家を出て、早苗のマンションに辿り着いたのが十時前。電車は空いていて、しかし私は…
「少ない?まわりくどい、はっきりと言えばいいのに」 「言っているつもり」 「お二人ともそれ以上しゃべると私はあなた方を残して車から降ります」 「この人が言い出したことなんだから、機嫌を直してちょうだいよ」 調月は会話を無視して早野にきく。「早野さんの自宅はこの辺りでしょうか」 それからは、彼女の指示を聞くだけで、それ以外の質問には一切答えずに早野を下ろして、次に早瀬を自宅まで送る。しかし、彼女は自宅までのルートをよく覚えていない、いつもの違う道で迷ってしまったと、嘘のような言葉を並べて車内の滞在時間を延ばしていたが、私は早瀬の住所を辿り、一切の確認を要求せずに目的地までたどり着いた。大きな邸宅…
サムズアップで歩道に立つ女性は見覚えのある人物だった。早野に債権譲渡を持ちかけ、土地の獲得から身を引くように迫った早瀬である。日傘を差して歩道に立っている。おそらく、こちらを監視していた。だが、ここを通ることを予測できたとは思えない。本来私が通るはずのルートを選んだ場合に、到着時刻はさらに現在から二時間は遅れる。また、調月は早野に捕まらなければ、既に自宅に引き返していたのだ。これらの要因から早瀬は調月の行動を見張っていた、と予測した。 「どうも、奇遇ですね」わざとらしく早瀬は口を開いた。私は助手席の窓を開ける。 「狙っているくせに、芝居ならもっとうまくやってちょうだいよ」 「あなただって偶然を…