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「そうですか、だとすると、そこのラウンジで待たせてもらうことは可能でしょうか?」熊田はデスクが並ぶ端に見つけた、従業員の休息用の空間を言う。 「ああ、ええ、どうぞ。でも、どのぐらいの時間がかかるかわかりませんよ」ぶっきらぼうな言い方、仕事で気持ちに余裕がなくなっているのだ。余裕か、余裕がないと配慮が足らない、つまりそれは本質的に配慮に欠ける人物なのだろう。熊田は安藤の性質を書き加えて、真っ赤なソファに腰を落ち着けた、肩と頭部が露わになる。まるで休めそうもないやわらかすぎる座面に座って、重たいだけがとりえのカラフルな広告と見分けのつかないやけにかしこまった表情の女性がこちらを見つめる雑誌を手にと…
フロアの偵察を一通り、目に焼き付け、熊田は次の九階に降りようとしたが、エレベーターのドアが開かない。開閉ボタンにドアが応じないのだ。許可されていない、エレベーターの回数表示に乗降無許可の文字が示されていた。社長代理である玉井が制限を解除したのではなかったのか、熊田は玉井に連絡を取ったが、彼女は出ない。仕方なく熊田は次の行き先を考えて、三階から情報収集を試みた。 三階。 せわしなく人が動く社内をイメージしていたが、三階は動かないほうが正常らしい。人の頭が左右前後との仕切りの間から抜き出ている。立ち上がり、熊田の脇を颯爽と鞄をかけて時計と端末を見て、明らかに退社の雰囲気で人が、一人、二人と仕事場を…
七階に到着。着地音が妙に響き渡るように聞こえた。 廊下がエレベーターを降りた左右に続く、熊田は角を曲がる。六階の廊下を想像して、右側の通路を歩いた。ペルシャ絨毯のような幾何学模様で、落ち着いた色合い。 足元に気をとられていると廊下に沿ってドアが一枚も見当たらないことに熊田は気づいた。天井の白い出っ張りが等間隔で配置、スプリンクラーにしては形状が小さく、カメラにしても台数が多すぎる、どういったものであるか、彼は思考をめぐらせて、先を進む。通路は六階の社長室を突き抜けた辺りで左に曲がる。壁で遮る熊田の左側は明らかにおかしな空間である。降りられるのだから、何かしらの意味があるはずだ。観葉植物が角に置…
一F→7・8F→×九F→三F 自由な各フロアに降り立つ移動手段が欲しい、所属のフロア以外に降りるためには許可が必要である。熊田は地下で警察手帳をかざして特別な形式でビル内に入った、現在自由に行き来可能な場所は一階の食堂のみである。待てよ、熊田は思う。だが、思い付きを取り払う。六階へはそうか、警備に乗降許可をもらったのだった。 彼は玉井タマリの端末に電話をかけて、すべてのフロアの乗降許可を申請した。顔写真はエレベータ内のカメラで収めているらしく、早急に対処に当たるとのことで、数分の作業で降りられるようになるという。許可が下りた場合は、端末に一度着信履歴を残しておく、手間になる会話を避けるためらし…
「エレベーターのデザインってあまり変わりませんよね。ああ、私、デザインが仕事なものですから、ははは。ついその皆さんの仕事振りを拝見して、エレベーター内の仕組みに興味を持ちましてね」熊田は思う限りの紳士な態度を表現した。正解だったろうか、相手がひるむくらいがちょうどいい加減だ。演じているとも思わせない演技力のなさには、振り切った変人を装うのが最適である。 「おーい」作業員がエレベーター内に声をかけると、もう一人の作業員が顔に黒い汚れをつけて腰に取り付けた金具をかちゃがちゃと取りはずす、作業を遮蔽する衝立は人の出入りのために開口していた。内部は相当暑いようで、顔全体に首周りまで汗をびっしりかいてい…
「そうですか」熊田は休むように座るベテランの鑑識から目を離して、軽く唸った。 「遺体はこっちの管轄が回収するが、それで間違いはないな?」両手を腿に乗せた鑑識は部下たちへの掛け声と一緒に立ち上がる。 「……ええ、問題ありません。鑑識に情報を尋ねるくらいの注意を受ける覚悟は私にとっては日常の出来事、気まずさ、緊張感は生まれますが、情報はいただけるとおもいます」熊田は何かを思い出したように、思いっきり眉を上げて、答えた。彼は縛りを受ける環境にはいないのだ。部署は追いやられた人員が送り込まれる。その部署に捜査権が回ってきた、ということはほぼ際限なくこちらの仕事を見下して、期待すらされていない。さらに言…
六F O署の熊田の到着から約六時間後の午後七時二十三分に、S市の鑑識班が到着。彼らは三名の少数で、一人を除き、二名は配属されたばかりの新人であった。S市の内部事情は考えるに、他の現場を優先、無理をかけて捻出した人員がベテラン一名と新人二名の組み合わせとの予測。熊田はエレベーターを降りた地下駐車場で一向を出迎え、六階の社長室に導き、彼らの手技を見守った。捜査範囲は社長室、地続きの二つの会議室、廊下、エレベーター前のトイレ、エレベーター内部、特にボタンを入念に調べ上げた。邪魔にならないよう熊田は隅や端に移動しつつ、結果の報告を待った。死体に係りきりの老練の捜査員が手袋を脱ぎ、傍を離れたのが到着後か…
「一定時間のPC操作が行われない場合。または、生体機能を探知するセンサーが社長室内に搭載されていて、メールが送られた」 「社長のPCから送られたと?」 「それは判別できません。もし犯人が送ったとしても不思議ではありません。現場に滞在していた、PCは電源が切られていたようですし、それにオンになっていたのを犯人がメールを送った後にシャットダウンしたのかもしれません。だとすれば、あらためてPCを立ち上げる必要性も回避されています。ただし、少なくともそれらは私に社長の死が伝わった理由とは異なりますよ。取締役が得た情報が送られた、と私は解釈します。その人たちが生前の社長の指示に従って私の元にメールを届け…
二F 目覚ましが鳴る前に玉井タマリは体力の回復が完了した知らせを無意識に体が感知、起き上がる体勢に体を起こして、ようやく目が覚めた。仮眠室で寝ていたのだ、目を擦る、耐衝撃性に優れた腕時計を見ると時間は予定の半分に到達したばかりだった。眠ろうにも、もう眠れない。私の体質。重たい体と思い込んで、立ち上がると以外にも全体的なパフォーマンスは回復してるのかも、しかし、表向きの回復という説もありうる。 不要な詮索は控えて、とりあえず一階に降りた。食堂で頭を動かすために栄養を補給しなくては。玉井は食堂の水をグラスに注いで、天ぷらうどんを手に取った。西日が差す人気のない窓際、奥の席に陣取る。うどんを二口運ん…
「警察の方には楽観が求めれると思いますよ。だってこんな殺人のような現実を毎回見てきているんだから。悲観に暮れたら、生きていけない」 「それはそうですね。ですが、仮に私が悲観的であっても、明日の事は考えませんよ。まだ今日が終わってもいないのに」 社は皿を綺麗に片付けた。お茶を勢い良く、グラスを空に。「もう時間ですから」 「まだ、外には出ないでください」 「言われなくてもそうします」エレベーターに乗り込む。まだエレベーターは修復なのか、点検なのか、作業を続けていた。私が殺人を犯した、刑事はそう思っている。大胆にあのドアを開けたからだ。しかし、だけど偶然にあのドアが開くような感覚が誘った。誰もいない…
「お子さんがいらっしゃるので?」 「ええ、いけませんか」またつっけんどんな言い方。 「仕事と家庭との両立は大変でしょう。子供とはかけがえないものと伺いますが、本心で言っている人がどれくらいかを考えると、半数以上は流れに乗って何の考えもなしに、ただその本能に任せ、その後の将来をも踏みにじる現実を見られない思考の停止。あなたは、一体どちらでしょうか?」 「あなた、独身ですか?」 「あなたの予測で正解です」 「それ以上言わないほうが身のため。子育ての何たるかは、子どもを持つ人だけが語る資格があるの」自分勝手だということは薄らいではいても、身に沁みてる。深層に居座って、常に毎日、毎時間、嫌というほど味…
「それはわかりません。だだし、凶器を持っていなかったと考えるならば、成立はします」 「大げさな凶器に思えませんけど、頭を殴るのにかさばる物が必要かしら」先を促すような刑事の表情だったので社は言い加えた。「例えば、古典的なのは氷を持ち運び、凶器として利用する。溶けてしまえば残りません、トイレにでも細かく砕いて流したら、証拠は現場から消えます」 「それを持ってエレベーターに乗れますか?」 「うーんと、大丈夫ですよ。たぶん、工事中のエレベーターを利用したんですよ。故障は演出、実は正常に動いているとか」 「可能性はありますね。出入りが自由で監視カメラの記録が遮断されていたという前提ですがね。調べるのを…
一F→五F 昼間の感触を断ち切るため、いつもと違う行動に移した。この時間はいつもデスクに張り付き、子どもを迎るに足りるギリギリの退社時間と作業の進捗具合とを見比べて、旦那へ連絡するか否かの選択に迷う時間帯であったが、今日は時間にゆとりをもって作業の大半を、仕事の精度と価値を損なうことなく終えて、食堂での休憩にありついた。 席を探す。まだ夕飯には早いが最後一押しを乗り切るため、甘そうなチーズケーキを一皿とお茶を選択して、席に着いた。 端末をテーブルに置いて、フォークを握ったとき、窓際の人物が席を立って、私の真正面に座った。先ほど社長室で別れた刑事であった。仕事中に事情を聞かれなかったことを幸いと…
鍵が開いていた事実も二人の証言によるもので、もしかすると彼ら三人の誰か、あるいは三名ともが共謀して、社長を殺害し、第一発見者を装ったかもしれない。だが、その場合は殺害後に施錠を解除しなくてはならない。廊下側のドアは外側からでは指紋登録とフロアの時間認証が必要になる、社は廊下側のドアは開いていたと証言。しかし、可能性はあるにはある。死体の指紋をあらかじめ、これは生前でも死後でもいいが、採取を行う。そしてドアレバーの認証機にかけて施錠を行う。いいやダメだ。指紋登録には簡易なものであっても当人の記録が残すカメラやセンサーの類がついているはずだ、未確認ではあるが、おそらくはついているだろう。採取した指…
安藤アルキと武本タケルの発言には矛盾点が生じていた。熊田は出会った直後の二人の会話一切触れていない。互いに知らないことを匂わせていた二人が、十分も無言だったのは考えにくい。いくら口下手な人種であっても意思疎通のリターンは数回往復した。それに会議出席の人数の少なさにも異常性が見られる。偶然が引き起こしたのかもしれない。しかし、社長が時間を割くのに三名というのはいささか少なすぎはしないだろうか。 熊田はトイレから出ると、セルフサービスのコーヒーをカップに注ぐ。並々ついでこぼさないように窓際の席まで、膝の振動を与えないように運んだ。安藤は思ったとおり姿を消していた。席に着いて、外を眺めつつ、思考を再…
「曲はなぜ聴かなくてはいけないのですか?」「曲からインスピレーションを得るためです。ただし、一日中聞いてなくてはいけない。方針はたぶん、偏った創作を防止するために聞かせているのでしょう。しかし、私にはそれこそ刑事さんにだって曲の好みはありますから、あまりにも聞きなれない曲やマイナーなジャンルの曲を無理やり聴くのは人によっては苦痛以外の何物でもない。ですが、いざ曲が提供されない事態になれば、慌てたでしょう。つまり、何も考えていないということ。頼りすぎている、ニュースの提供と同じように」「あなたは話されるほうがいいでしょう」「なにがですか?」「話すことで先が見えてくる。次のギアに徐々に手渡して回転…
熊田という刑事に促されて、安藤アキルは出勤から社長の発見までを語った。 「出勤してから、二時間ほど時間を決めて作業に取り組みました。ああ、そういえば今日はCDの配布がありませんでしたね。いつもは一日一曲、CDを聞く決まりなんです。作業がスムーズだったのはもしかするとそのためかもしれません。それからは、ええっと一度休憩に席を立って、三十分ほど水を飲んだりして、席に戻り目を閉じて、黙ってみたり、……同じフロアにずっといましたね。休んで二回目の作業に取り掛かりました。これが終わって、約束の時間の十二時十分前にエレベーターの乗り、手前の入り口から入って、二つ目の会議室で武本さんを会い、それから、話した…
「私ですか?初めてです、今日が」 「緊張なされた?」 「ええ、まあ、人並みには。ただ、仕事ですし、判定を待つようなことではないので、必要以上に肩の力は入っていなかったと思います」 「そうですか。社長の真島さんに提案だったのですか」 「仕事の改善点というか、建築に関してのどの程度まで自由に設計を行ってよいのか、疑問を持ったので」 「建築のデザインは専門家の方の仕事、と聞きました。安藤さんは建築方面のデザインが担当ですか?」 「いえ、僕は通常のといいますか、普通の一般のデザインです」 「建築のデザインもまかされていると?」 「概要だけですよ。つまり大よその、ラインをこちらが引いて、取りまとめるのは…
そうだ、社長が亡くなったのだ。 トレーをもって、席を探しつつ、社長を死体を目の当たりにした、直後に食事を取ろうとする自分を客観的に見て、不謹慎だろうか、という概念が浮かばなかったことに、安藤はありがたみを感じた。通常ならば食事も喉を通らないのだろうけれど、もちろんそういった感傷的な心情も持ち合わせてはいるが、私にとってはそれは単なる日めくりカレンダーのような出来事で、予測するに明日になっても同じように泣きはらすことが適わないのなら、現在の私を尊重するべき、と考える。もちろん、悲しい。だけれども、それと私の生命活動は一体ではない。密室でこれから次に殺されるのが私の番で殺人鬼に追い詰められたら、そ…
三F→一F 午前、会議の時間に合わせた計画を立てていた。そのため、社長の死亡を発見したことにより、計画に大幅に狂いが生じてしまう。それでも、安藤アルキは掴みかけた、どのクライアントからの仕事に対しても柔軟に応じられる法則を見出しつつあり、現在はそれを実践で試そうと締め切りに追われる悲壮感は姿を消していた。 警察の取調べを受けて、仕事に戻る。たぶん、大勢の警察が到着したら、また同じ話を様々な人間にしゃべるだろうから、その不測の事態まで時間をおいて見返す必要性がある完成の一歩手前を目指す。私は仕事に取りかかる。いつもならば、明日のため、余力を残しているのだが、やはり昨日に引き続き、今回も思うけど、…
「思い知ったらそれまでのこと。改善点が見てくるではありませんか。立ち止まっていられない、むしろ次の行動を示してくれたのです。私を止めることなどはできない」 「芸術家を束ねるのが、面倒に思えてきた」重役は突如、いいや、本来の姿勢、手のひらを返した。「私は元々が外部の人間、会社のいろはを知らない社長によって引き抜かれた人材だからね、社長のように芸術やガラクタに価値を見出し、生み出す人間を認める懐の深さは持ち合わせてない、残念ながら。しかし、仕事だ。しょうがないから、取り組んで、君にまで頭を下げているのさ」 「同情を誘うつもりですか?」 「こちらの手の内を見せて判断を、決めてもらおうとしたのだよ。そ…
「私に頼まなくても殺された事実は公に知られます。警察の発表とわが社の説明に食い違いが見られることのほうが、問題を誘発する。それこそ契約は解消されかねない」 「いや、知らなかったことを装うつもりだ。指摘があって、社長の死にかかりっきりでそちらへの対応を忘れていた、と弁明するつもりだ。どうだろうか、無理があるだろうか、君の意見を是非聞きておきたいんだ」座りなおした重役は前のめりに体重を傾けた。 「私の?ご冗談でしょう。経営に関してはまったくの素人ですよ」 「君の意見が好ましい。社長は生前に君に仕事を任せ、デザイナーの仕事と取締役のポジションも与えるべきだ、そういっていたんだ」 「それは初耳ですね」…
二つの文房具は同時に売り出すことを提案、デザインに組み込んで、提出した。時刻は午後の六時。正確な分数まで、知る必要はない。今日の業務はこれで終了。だが、社長の死が発表されたら簡単に帰れる状況ではなくなるだろうし、警察はあの刑事一人だけだ、応援が駆けつければ、それだけ帰りにくくはなるし、また、一応死体の発見者であるため勝手にビルの外に出ないようにと、釘を刺されてもいる。どうしたものか。武本は不都合な時間の使い道に悩んだ。音楽が意識に上がった、そうだ、聞いていたんだ。武本はいつも、何かに憑つかれるように仕事を熱中していた。休日以外は自宅で過ごすことが多く、あまり人とも会わない。情報を遮る環境に身を…
一F 食堂→四F 完全にこちらを疑った聞き方、あれが事情聴取というのだろう。まったく、理に適った方法がもう少しあっただろうに。いや、あれが完璧なのかも。だって、私の神経は軽く逆なで、まるで、不意に肌の表面を絶妙なタッチで触られた不可思議な、うずくて、気持ちがいい感覚だった。スリル、それもあるか。 武本タケルは、しかし、仮眠後の頭と体の始動にとってはかなり刺激的な出会いだったように思う。エレベーターで四階へ。工事は進んでいるのだろうか、エレベーターに乗り込む前に、私は三つ並ぶ左側の一基をぼんやりと階下に降り立つ箱を待ちわびて、視線を合わせていた。武本は思う、もしかするとこのエレベーターの一基から…
「前例を壊すような印象でした、先ほどのお会いした場面では」社長室で捉えた武本タケルの第一印象をはっきりと言葉に変える。既存に縛られない、先端、エッジの効いた鋭さ。 「いつも既存の形を壊しているわけではありません。エレベーターだって、もう何十年もあの形です。時にははじめから最良の形というものもあれば、時代によって変わるべきものもあるのです。まあ、大抵は耐用年数に応じて形態は変わりやすい性質。ですが、例えば、ペンなどはあまり形が変わらない、変わる必要がないからです」 「そうですね」熊田は相手の言葉が切れたのでカレーを口に運んだ。複雑な味が高濃度に染み込むルーが深い味を作り出していた、口の中で滞在を…
「ああ、すいません。気にしないでください。今は休憩中ですから」 「はっきりと仕事と休息を分けていらっしゃる?」 「一人の仕事ですし、ペースは人それぞれ。仕事によっては時間の使い方を変えたほうが、よりよい効率や仕事の出来栄えに繋がる。一日だけなら体は堪えてくれるが、数週間、数ヶ月単位であると、日々の疲労は非効率となって襲ってきます。安易に今日だけなら、という誘惑に駆られないように、こうして日々のメンテナンスが欠かせないんですよ。エレベーターもそういえば、点検をしてました」 「差し支えなければ……、社長に何を進言しようとしていたのでしょうか」話題を逸らしかけた、熊田は見逃さない。 武本はコーヒーを…
一F 四月二日 熊田の予測である鑑識の到着予定時刻は既に一時間をはるかに超えて、検視から導かれる犯人の確定に熊田の期待が薄らいだ。一階の食堂に安藤アルキの姿を見つけた、声をかけることは躊躇ったが、あちらはこちらの様子を何度か盗み見ていたのは確認が取れていた。タバコの消費に対しての収穫の少なさは壊滅的な状況と言わざるをえない。非情だ。熊田が捜査の合間に挟む喫煙は、得てして捜査方針の考察のため、一呼吸置くためにブースに隠れ、息を潜めるのであるが、今日は事件の概要を纏め上げる初期段階で既にタバコに手を伸ばす。もちろん、一人の捜査で自由が認められたことも大いに関係している。 外は薄い雲が延々と伸びてい…
文面を洗う。曲もちょうど頭に戻る。 内容を簡潔に言えば、衣装デザインの発注である。着用者は有名な人物らしい、何十点かのサンプル品の制作が仕事を引き受ける最低条件で、しかもそのラインを突破しても報酬は支払われるらしいのだ。一体どういった了見だろうか、玉井は肘をついて、画面を見つめた。 何を言っているのだろうか、という疑問が生じれば、それは何を言っているのかすら、わかっていない証拠。ならばさらに立ち返り、より抽象的に捉えるべきだ。誰の加減だろうか、そうか、社長の捉え方で考えているのだった。いつの間にやら私は反対に取り入れられていたんだ。 抽象的とは、考えるに、大まかに大雑把に物事を捉えること。具体…
次項は、海外からの発注か、玉井は頭を抱える。すべて文面は英語であるのだ、翻訳を同僚に頼めはしない。かろうじて仕事の依頼ということまではわかるが、具体的な内容を把握するにも時間がかかりそうだ。翻訳ソフトにかけなくては概要すらつかめそうもないので、きっぱりと諦め、後回し。次の案件は、融資の申し出。融資。つまり、こちらに資金を借りさせてなしかしらの事業を行いませんか、ということだろう。資金の回転をお金を貸すことで促し、そこで生じた利益から銀行側の取り分を頂く算段。これは次の、事業拡張に関係しているか。社外からの提案である非関連の新規事業に、興味はない。異業種に取り組んでいるのはそこに活路を見出さなく…
三F 大幅に遅れている作業をこれからどのように取り戻そうか。社長の代理の仕事は病院でこなした数件のみで、それ以来の取り組みだった。社長宛のメールが私に転送されている。不意に、周囲の視線が気になったが、誰も気にかけている同僚はいない。しかも、私が社長の仕事に取り掛かろうとしているとは夢にも思っていないはず、いいや、私が何をしていようと、もし社長がこの席に座っていようとも自分たちの仕事が最重要なのだ。私もそうだったはず。 音楽を再開。オリエンタルな響き。 メールは六件。とりあえず一件目から片付けるとしよう。効率は後回し。一件目はデザインの仕事とは思えないほどの大掛かりな、プロジェクトと言い換えたほ…
私は誰のために生きているのだろうか、という問いかけを社は仕事に復帰してから幾度となく繰り返した。不安定なのだろうか。日々をこなすだけ、その時間を見つめる余力が足りていない。時間は削れるだけ削っている。テレビも見なくなったし、友人とは自然と疎遠になった、ママ友だって、仕事をしているから、会うことはほぼ不可能に近い。夜は家で過ごし、家事に追われる。纏いつく子どもの相手。格闘の末、眠ってからはもう私の体はいうことをきかないのだから、考える以前にまずは体力の回復に努めて、旦那を出迎え、二人ともへとへと。話し合う余裕はゼロに等しいし、話しても私は怒りをぶちまけるだけ。なので、一人でそっとつかの間のお風呂…
五F 社ヤエは夫に連絡を取りたかったが、なかなかでない。通話中らしい、こんな時間に誰と話しているんだか、いけない、怒るのはよそう、決めたんだ。一呼吸置いて、落ち着いて発言に気を遣うと。子どもが生まれて仕事に復帰してからは、いつも何かにつけ、気の休まる暇がなく、慌てた状態が通常だったので、つい子どもにもそれから旦那には私が常識の範囲外を見つけるたびに怒りをぶつけていたんだ。そしてあるときに、不意に、洗濯物と格闘しながら何気なく耳を傾けた夫の話、節度をわきまえた行動を改めないのならば、これ以上一緒に暮らせない、と真剣に言い渡されて、改心したのだった。 纏わりつく音楽。 見えていなかったのは私のほう…
それでも席を離れなかったのは、社長の死について考えていたからである。特別に恩義のある人物とまではいえないにしても、それなりの功績は認める。あまり人を認めないが、彼女は仕事やデザイナーの想いを汲んでくれたはずだ。だからこれほどまでに会社に人が集まったのだ。 新しい突拍子もない仕事を持ちかけて、あの場に行かなければ、第一発見者にはならずに済んだのに、武本は後頭部に両手を組んで斜め上、無機質な代わりばえのしない灰色の天井を見やった。現場に訪れたときのあの男の名前は、安藤といったか、あいつはどうにも挙動不審だった。トイレから戻ったときに、室内をあれこれ物色していたんだから、疑いたくはなるさ。会議室中央…
四F 間の悪い。昨日の作業とは一転、限られた時間内で二つの案件仕上げなければならないのか。武本タケルは、個人ブースで二つ作業に取り組む方針を考えあぐねていた。席についてから、もうかれこれ十分はロスしている。短い時間……となると、休憩は取りやめに、しかし休憩は作業効率を考えれば全体的にはマイナス。後半の能率低下に繋がるのは、身にしみて感じている、スケジュールから取り外すわけにはいかない。とすれば、外の散歩を切り捨てるしか方法は残されていないのか。また、刑事が事情をタイミング悪く聞きに訪れる場面も想像しやすい、そのときにために休憩を取っておくという考えもできなくもないか。 武本はクライアントの優先…
食堂で刑事を見かけた、喫煙室で面倒臭さそうにタバコを吸っている。そういえば、刑事に話した内容は少しだけ事実と違ったところがあったのだ。一度、廊下正面の社長室のドアをノックしたのだ。セキュリティは万全だと思っていたため、ドアレバーに手はかけなかったが、もしあそこでドアを引きあけていたら、僕が死体を見つけたのかもしれない。それにだ。武本という人が、僕よりも先に会議室にやってきたというが、彼は一度部屋を出ている。トイレに行くと告げて席を立った。トイレはエレベーターの真向かいに設置されてる。だから、一度廊下に出る必要があるのだ。どのぐらいの時間だったかは覚えていない。短時間で済むほうの生理現象に思える…
三F→一F 三十分。時間を決め、仕事の方針を打ち出す。安藤アキルは遅れた時間の取り戻しをこれまでの方針を潔く捨て、新しいアプローチの仕方に焦点をおき、貴重で希少な時間内にありったけの力を費やした。あまりにも時間に対してルーズに取り扱っていたのだと、気づかされた。時間を細かく再設定する、まずは三十分に区切るとしよう。時間の感覚を体に刻み込ませるのだ。時間は敵でしかなかったはずが、こうして短いスパンで向き合うと、制限時間までに通過点がはっきり見えてくる。追い詰められたときに襲うめまぐるしい思考、そういった感覚に似ている。 一時間。もうかれこれ一時間が過ぎていた。作業のアイディアは確実に前よりも思い…
いったい自分のおかれた状況をいつ抜け出せるのか、彼は食べ進める箸の運びを止める。代わりにコーヒーを傾けた。 ここまで歩いた短時間に、新商品を身につける流行好きの姿を確かめられた。開発の準備期間は三年、現物化の許可にこぎつけて二年、計五年の歳月を注ぎ込んだ商品がまさに今人の手に、いいや腕に渡って、もうそれは満足といってもいい。商業目的とはいえ、開発者の根本は純粋に未知の領域に思えた私の突飛な発想の具現化、それだけが望み。ブルー・ウィステリアという世界規模の看板はそのためにこちらが利用しているようなものだ、会社自体への貢献度によって報酬の増減があろうとも、私は金銭を天秤に掛ける、ほとんどの開発者に…
昼下がりの市内、テイクアウトのランチを片手に男はコーヒースタンドのちょうど切れた列の最後尾に並んだ。洋風建築を思わせる飲食店の行列に並んだ時はそちらもずらりと人が並んでいたのだった。目の錯覚に思えたが、よく考えれば、コーヒーの出来上がりは数分程度、対してランチのテイクアウトは注文を受け取り、品物を運び、手渡し、料金を徴収するんだ、比べること自体が間違いというもの。 仕事は休み。週末が稼ぎ時なので、平日に休みが回る。 警察の質問に、答えた。男は思い返す。 当日の飛行が法律に抵触するとは思えない。私は飛行船のパイロットで、停電のあの日は飛行船のフライト予約が埋まらなかったので、飛行船は格納庫に納ま…
「ないとは言い切れないね」 「そうですか、それはそれは」次の仕事を彼女は探す。「先輩、先輩って」 「……なに?」 「休憩ですよ。それ私が代わります」 「うん、そうね。もう休憩の時間か、あっという間だ、びっくり。じゃあ、お先に休憩いただきます」 「店長、気に触ることでも言ったんじゃないんですか?」厨房を出る館山を見送って、小川がこっそりと僕に真相を確かめた。 「意見の変更は受け付ける、これはいったかな」 「店を離れる、これは結構堪えますよ、店長とは違うんですから」しんみりと小川が呟いた。国見の位置に彼女は陣取る。ステンレスの壁面を物悲し気に見つめる小ぶりな瞳、片目がみえた。 引き続き店が明日も存…
「安佐、あんた、どうしちゃったの。えらく優等生な答えじゃない」ホールから国見が言った。姿が見えないのは、カウンター席に座っているためだ。 「馬鹿にしてもらっちゃあ、こまりますんで。私は実はこう見えて、スマートに物事を考えられる才能に溢れているわけなのです、はい」 「溢れすぎて、こぼれちゃうから、普段のあなたは抜けているのね」国見が的確に矛盾点を強打する。 「騙されましたね。それは相手に油断させるためですよ。ようしようし、蘭さんもひっかかりましたね、くふふふふ」 「今日は何曜日?」国見が訊く。 「火曜日ですよ」 そがれた勢い、流れに水を差された小川は、会話の内容をすっかり脇に置き去る。 「あれれ…
ドアが閉まって、小川の大げさため息が聞こえる。事実、大変だったのだろう。ただし、僕は感謝の弁は述べないつもり。当然のことであり、だけれど褒めて欲しいという提供側の労わりはあえて取り除くべきだ、そう店主は考える。気にかけているが、本筋はそこではないことを感じ取れてくれたら幸い。もしも、見過ごしこちらの配慮のなさに嫌気がし、窮状を訴えてこようものなら、時と場合、頻度によっては厳しくこちらの考えを言い渡すつもり。だが、一度は伝えているのであって、やはり二度目の言及は面倒、これが僕の正直な意見だ。付け加えるとすれば、自らの気分を律する事態も店に関わるものとしては、統制が取れるべきと捉える。 テイクアウ…
↑ブログ村でオリジナル小説ランキングが、7位⇒5位ときて、本日(4/18)なんと3位に輝きましたこれもひとえに読んでくださる皆様のおかげです駄文や愚痴に付き合…