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「大丈夫か、あいつら」思わず言うと、梁朋《りょうほう》が答えた。「あの方は、壺中《こちゅう》のなかでも一、二を争う使い手です、大丈夫ですよ!」「なんだって?壺、中……?」なんだそれは、と聞き返そうとしたところで、梁朋の脚が止まった。行く手の木陰で、じっとこちらをうかがっている人物がいるのだ。笠をかぶった背の高い男だった。その男の衣は、昨日見た、梁朋と会話をしていた男と同じだ。敵か、味方か?戸惑う徐庶に対し、梁朋は表情を明るくした。その者は、笠を軽くあげて、梁朋に叫ぶ。「梁朋、逃げるぞ、こちらへ!」その声を聞いて、徐庶はぎょっとしたが、考えている暇もなく、梁朋は徐庶を連れて、その笠の者のほうへ向かう。笠の者は、梁朋に優しい口調で言った。「よくやったな、逃げ道は作った。急ぐぞ」「ありがとうございます!さあ、元...赤壁に龍は踊る三章その17脱出と再会
まさに万事休すかと思ったとき。目の前に、ぱらぱらと埃《ほこり》と木くずの雨が降ってきた。なんだろうと思う間もなく、ばきばき、めりめりっ、と派手な音がして、壊れた木材と一緒になって、人間が降って来た。あっと声をあげることもできなかった。降って来た人間は、剣を一閃させると、徐庶と大男の前に割って入ってきた。そして、風のようにくるりと身をひるがえすと、迷うそぶりもなく、大男のどてっ腹に、手にしていた剣の切っ先を突き立てる。大男は呆然と、おのれの腹に深々と突き刺さった剣を見つめた。それから、がふっと血を吐いて、その場に崩れ落ちた。「て、敵だっ、こっちにも敵がいるぞっ」鍾獏《しょうばく》が慌てふためいて叫ぶが、応援がやってくる気配はない。床に転がったままの徐庶は、唖然として、突如としてあらわれた助け手の背中を見上げ...赤壁に龍は踊る三章その16驚きの中で
蔡瑁は、拷問部屋に入ってくるなり、張允《ちょういん》に踏みつけられている徐庶を無感動な顔で見つめてきた。「訴状は取り上げたのか」「もちろんでございます。こんなものが丞相の手元に渡ったら……」「わかっておる。さすがにわしもおまえも御終いじゃ。しかし面倒な。出撃の前に、こやつに、おのが罪を認めさせねばならんとはな」出撃、と聞いて、張允が徐庶を踏みつけていた足を止めた。「出撃と申しますと?」「聞いておらぬのか、のんきな奴め。おまえもすぐに支度をせよ。丞相は夜明けとともに江東へ出撃することを決められたのだ」「なんと。では、いよいよ決戦で?」問われて、蔡瑁は訳知り顔になって、よく手入れのされたあごひげを手で弄んだ。「そうではあるまい。じつはさきほど、陸口《りくこう》に派遣されていた使者が帰って来たのだ。それが、周瑜...赤壁に龍は踊る三章その15万事休す
※「やはり、こやつは、例の建屋のひみつに気づいてたようだな。とんでもないやつだ。鍾獏《しょうばく》、そなたがしっかりしていないから、こんなやつに気づかれてしまうのだぞ!よいか、このことが丞相に知れたら、われらもただでは済まぬが、おまえも同罪。それをわかっておるのか!」一拍置いて、蚊の鳴くような声が応じた。「そ、それは、あなたがたが、わたしどもに無理やり」「なんだと!」「いえ、申し訳ありませぬ。以後、気を付けます」それでよい、とキンキンした声をした男が吐き捨てるように言う。この声、どこかで聞いたことがあるような?がんがんと痛む頭を振りつつ、徐庶は目をひらいた。手を地面に付こうとしたが、うまく動かない。そこでようやく、自分が手枷《てかせ》をされていることに気が付いた。頭痛に耐えながら顔をあげると、ぱらりとほど...赤壁に龍は踊る三章その14囚われて
徐庶は知らず、ガタガタと震えている自分に気づいた。おそらく、連中の埋めようとしているのは、人だ。怒りのために震えているのではない。怖かった。時代は乱世で、いつどこで人が死んでもおかしくないし、戦場以外でも路傍に死体が転がっているのさえ珍しくない。なのに、無性に怖かった。かれらがあまりに死というものに慣れ過ぎている、そのおぞましさと無自覚さが恐ろしかったのだ。悪鬼だ。あそこで人を埋めている男たちは、悪鬼そのものだ。身体の震えをおさえるため、徐庶は持ってきた長剣の柄をぎゅっと両手で握りしめた。それからしばらくして、男たちは作業を終えたらしく、足早に建屋に戻っていった。徐庶はかれらが扉の中に消えてしまうのをじっと待ってから、堀棒のところへ急いで駆け付ける。堀棒は、墓標のように地面に突き立てられていた。掘られたば...赤壁に龍は踊る三章その13暗転
※夜が更けていく。静かに音もなく移動していく星座のまたたきを上に、徐庶は闇のなか、目を凝らしつづけていた。建屋の小さな扉がひらくことはない。そも、徐庶が夜陰に紛れて動こうと考えたのは、ほんとうに死体を処理しているのなら、目立たない夜にも動きがあるだろうと判断したからだ。こちらは一人で、相手は複数だろうから、現場を押さえることはむずかしい。だが、なにか証拠をつかみ、それを公にできたら……そこまで考えて、徐庶は、ふと思った。『丞相はこれを知っているのか?』まちがいなく、いま軍中に流行り病が広がりつつある。それを隠蔽しようとして、病人が出ると建屋に押し込めて、見殺しにしているのにちがいない。それを主導しているのはだれなのか?仮にそれが曹操の命令だとすると、とてもではないが、もう付き従うことはできない。しかしだか...赤壁に龍は踊る三章その12星座の下で
※梁朋《りょうほう》は夕暮れまで戻ってこなかった。そろそろ帰って来いと呼びにいくかなと徐庶が考えていると、その梁朋が、建屋のほうから、息を切らせて駆け戻ってくる。「どうした」徐庶が問うと、梁朋は、きょろきょろとあたりを見回してから、小声で言った。「おかしなことがあります」「どんな?」「建屋の後ろに、小さな扉があるんです。あそこから、医者の部下みたいな連中が、人を運びだしているんです」「なんだと、だれを運び出しているのだ」「わ、わからないけれど」ごくり、と梁朋はつばを飲み込み、それからさらに小声で答えた。「あれは死体だと思います。布をかぶせられていたから、絶対とはいえないけれど。元直さま、危ないよ、これは」徐庶はそれを聞いて、暗然とした気持ちに襲われた。予感はしていた。戻ってこない兵士は、どこへ連れていかれ...赤壁に龍は踊る三章その11深夜の冒険
※徐庶は、起床して顔を洗うと、持ち場に行くまえに荊州の兵士たちがあつめられている宿舎へ向かった。昨日の、高熱に苦しんでいた兵士がどうなったか気になったためである。すると、宿舎のおもてでは、梁朋《りょうほう》がひとりでつくねんと徐庶を待っていた。徐庶の姿を見るなり、梁朋は駆け寄ってくる。「おはようございます、元直さま。あのう」「なんだ?その様子じゃあ、今朝は喧嘩はなかったようだな」「喧嘩のことじゃないんです。あのう、昨日のことなんですけれど」昨日と言われ、徐庶は梁朋が、何者かわからない背の高い男と話していたことを思いだした。歩きながら、徐庶は梁朋にたずねる。「あいつは本当に道を聞いてきたやつだったのか?」「そ、そうです。それが本当だって言いたくて」「待っていたのか。朝っぱらから」この寒さが日に日に増している...赤壁に龍は踊る三章その10烏林の朝
※そうこうしているうちに、周瑜のもとへ、曹操から使者がやってきた。使者は四十がらみの頑固そうな顔をした男で、死をも決意して曹操のためにやってきたのは一目瞭然だ。どうするだろうかと、孔明は大勢の将兵たちとともに、周瑜の行動を見守った。周瑜は使者の持ってきた曹操からの親書に目を通し、ときどき、こらえきれない、というふうに笑みをこぼす。まったく事情を知らない者がその様子をみたら、親戚が寄越した手紙をひさびさに読んで笑みをこぼしているのではと、まちがった感想を抱いてもおかしくないほどの様子だった。周瑜があまりに余裕たっぷりの態度なので、手紙の中身を知らない将軍たちが、おなじく馬鹿にしたように笑いを浮かべ始めたほどだ。使者はそれが我慢ならない様子である。だんだん、使者のこめかみに青筋がたち始めているのが、孔明の目か...赤壁に龍は踊る三章その9曹操からの使者
やがて、馬をかっ飛ばしてきたらしい魯粛が、挨拶もそこそこにやってきた。従者も連れていない。いや、連れていたのかもしれないが、あまりに急いだので、脱落したのかもしれなかった。「おい、孔明どの、本気かっ」前置きもなく魯粛は怒鳴るように言った。孔明はそれに対し、しらっとして答える。「本気も何も、劉玄徳の軍師に二言はございませぬ。この甲冑を見ていただければ、わたしの覚悟がわかるはず。周都督に聚鉄山《じゅてつざん》を攻めろと言われ、出来ますと答えたのですから、やらねばなりますまい」「ばかな、死ぬぞ」「そうでしょうな」「なに?」「わたしには、たしかに軍略があります。だが、ざんねんながら大軍を率いて戦った経験は一度もない。それでもなお、周都督はわたしに五千もの尊い命を預けて戦えとおっしゃった。周都督の厚い信頼には答えね...赤壁に龍は踊る三章その8刃をしのぐ
※その後、孔明は仮屋にもどり、江夏《こうか》からもってきた甲冑を取り出すと、それを身に着けはじめた。趙雲のほうは手早いもので、さっと自分の甲冑を身に着け終えている。それでもなお、怪訝そうな表情を崩さず、孔明をちらちら見てきていた。「子龍、すまないが、うしろの紐を結ぶのを手伝ってくれないか」言いつつ孔明が背中を向けると、趙雲はうなるような返事をして、紐を器用に結び始めた。「軍師、重ねて問うが、ほんとうに聚鉄山《じゅてつざん》を攻めるつもりか。五千の兵がどれほどのものなのかわからない状態で、曹操がそれこそ固く守っているだろう聚鉄山に突っ込んでいって、とても勝てるとは思えない」「だろうな。まともに行けば、みな討ち死にだろう」「わかっていて、なぜ周都督の要求を呑んだ?策があるのか?」「策か、あるような、ないような...赤壁に龍は躍る三章その7戦の支度をしたものの
※曹操軍に先んじて陸口《りくこう》を押えた周瑜率いる江東の軍団は、すぐさま城を中心に陣を組んだ。陸口は水陸の要衝である。曹操がここを狙って江東の地に上陸せんとしているのは、陸口から見て北西の烏林《うりん》の地に大要塞を築いていることからもあきらかであった。それは周瑜をはじめとする江東の将兵はみなわかっていて、陸口をとったからといって、曹操を軽んじる者はだれもいなかった。孔明と趙雲は魯粛の手配で陸口に仮屋を得て、そこで寝起きした。とはいえ、そこでじっとしていることはできないでいる。曹操と実際に対戦したことのある孔明と趙雲の情報は非常に重宝され、魯粛だけではなく、程普や周瑜らにも、しょっちゅう呼び出され、あれこれと質問を受けていたからだ。質問を受けるたびに、孔明はよどみなく答えた。わからないことは、素直にわか...赤壁に龍は躍る三章その6聚鉄山
※軍師の荀攸《じゅんゆう》は烏林《うりん》の要塞のなかに個室を得て、そこで執務をおこなっていた。徐庶が目通りを願うも、取り次ぎの者がそれをゆるさない。その態度はけんもほろろで、荀軍師は忙しいから、敵が攻めてきたというのでもないかぎり、会うのはあとにしろと言ってきた。同じ潁川《えいせん》の出身でも、寒門《かんもん》の徐庶には、荀攸も冷たい。さて、これをどう突破したらいいだろう。『粘って待ってみるか?』と考えていると、取り次ぎの者が言った。「粘っても無駄でございますよ。荀軍師はとてもお忙しいのです、貴殿と面会している暇はありませぬ。どうしてもとおっしゃるなら、わたくしがご用件を伺います」「それなら、蔡都督が監督している、医者のことについて相談があると言ってくれ」「医者ですな」すまし顔の取り次ぎは、荀攸の執務室...赤壁に龍は踊る三章その5ささやかな願い
※風は北西から吹き付けてくる。ぴりっとした寒さが、徐庶の青白い頬を痛めつけた。なるほど、こんな風のなかで警備の仕事なんぞをしていたら、風邪のひとつもひくだろう。そろそろ兵の調練がはじまる時刻である。途中、曹操軍中の顔見知りともすれ違ったが、徐庶が挨拶しても、向こうは無視するか、あいまいにうなずくだけだった。曹操のもとでは、張遼や張郃《ちょうこう》、そして蔡瑁《さいぼう》らを引き合いにだすまでもなく、かつては敵陣にいたが、その軍門に下ったという者は多い。だが、徐庶のようにいまだになじみ切れていない者には、だれもがよそよそしさを隠さなかった。そんな環境に慣れたとはいえ、このままでいいのかという、おのれへの疑問もわく。母を失ってから、自分が臆病になっていることにも、徐庶は気づいていた。無辜《むこ》の母をその手に...赤壁に龍は踊る三章その4冷たい風のなかで
徐庶はふんと鼻を鳴らすと、控えていた士卒長に言った。「監督不行き届きだぜ。こいつは牢に入れておけ。あとから沙汰があるだろうよ」「お手数をおかけして、申し訳ございませんでした」指名された士卒長は決まり悪そうに言うと、部下に命じて、泣きべそをかいている男を連行していった。「さて」徐庶はまだ解散していない兵士たちの一団を見回した。「言いたいことはおまえたちにも山ほどあるだろう。だが、ここでこの弱っている若いのを痛めつけていい理由はどこにもないはずだぜ、ちがうか?だれだってこんな状況じゃ、具合が悪くなる。明日にもおまえたちだって熱が出て動けなくなるかもしれないのだ。そうなったときにお互い助け合うのが仲間ってもんだろう。おまえたちの気持ちは痛いほどわかるが、だからこそ、弱っている仲間をいじめるような真似はしてくれる...赤壁に龍は踊る三章その3帰らない者たち
※荊州兵の宿舎はひどいことになっていた。まるで餌にたかる蟻の一群のように、宿舎の一か所におおぜいの兵が集まっている。わあわあと乱暴な言葉をがなりながら、血気盛んにあおる者がいると思えば、やめろと金切り声で叫ぶ者、喧嘩に参加しようとする者もいて、めちゃくちゃである。「ますますひどいや」呆れたように、徐庶の背後の梁朋《りょうほう》がつぶやいた。宿舎の一室に具合の悪い者がいたようで、それを無理やりに外に出そうとしている者と揉めている。さらに、それを仲裁しようとする者もいるのだが、いかんせん、権限がないからか、だれも言うことを聞こうとしていない。どころか面白半分にそいつに殴りかかったのがいて、仲裁役も腹を立てて殴り返す。すると、ほかの者が仲間を助けろと無責任なことを言って殴ってくる。さらに、仲裁役の仲間のほうが、...赤壁に龍は踊る三章その2徐庶、仲裁に乗り出す
物語は烏林《うりん》に舞台を移す。掘っ立て小屋と言ってもおかしくないような宿舎の壁には、ところどころ隙間が空いている。その隙間から、秋の終わりの風がぴゅうぴゅう入ってきて、寒いことこのうえない。しかし寒さを上回る眠気が襲ってくるのも事実で、徐庶はその朝、何度目かの寝返りを打って、一秒でも長く眠っていようと努力していた。しかし。宿舎の扉が、どん、どん、と無粋に叩かれる。自分の監督者である程昱《ていいく》は陸軍のほうへ赴任しているから、長江のほとりの烏林にやってくるはずもなく。だれだろうな、こんちくしょうめ、と徐庶はこころのなかで舌打ちをうつ。昨晩も、荊州兵の世話をして遅くまで仕事だった。今朝こそは起床時間のぎりぎりまでゆっくりしてやると誓っていたのに、徐庶をほうっておかないだれかがいるらしい。扉がまた、どん...赤壁に龍は踊る三章その1烏林の徐庶
※周瑜のことばは本当だった。大船団は樊口《はんこう》をはなれ、長江をふたたび遡上《そじょう》し、大地をまわり込む形で陸口《りくこう》へ向かいはじめた。孔明もまた、周瑜らの動きを見定めるため、劉備とは別行動で陸口へ向かう。あわただしい出立のさい、孔明は劉備に呼び止められた。孔明の着物の袖をぐっと引っ張り、劉備は小さな声で素早く耳打ちしてくる。「孔明、周公瑾にはじゅうぶん気をつけるのだ。あれはなにかを企んでいる顔だぞ。たくさんの人間を見てきたが、あれはかなり上等な人間だろう。だが、目の表情がときどき隠しようもなく暗くなる。こちらをまったく信用していない証拠だ」孔明は、さすがに劉備は人を見る目を備えているなとおどろいた。短いあいだに、周瑜が孔明に対し、悪感情を持っていることを見抜いたらしい。「よいか、無理をして...赤壁に龍は踊る二章その8陸口をめぐる意外な顛末
※樊口《はんこう》には先に周瑜たちが上陸した。すでに夏口《かこう》からきている劉備たちもいるようで、港の浅瀬に停泊している船に『劉』の字が染め抜かれている旗がひるがえっているのが見えた。孔明の乗った船もまた、浅瀬に停泊し、その後、小舟に乗り換えて樊口に入る。江東の大きな楼船《ろうせん》が港のほとんどをふさいでしまっているので、孔明の乗った船は浅瀬に停まらざるを得なかったのだ。趙雲が漕ぐ小舟に揺られてしばらく行くと、孔明はおどろくべきものを見た。劉備の精鋭たちが、劉備と関羽を中心に整列し、周瑜たち江東の軍を待ち受けていたのだ。とくに関羽の、深緑色の戦袍《せんぽう》に身を包んだ姿は戦神そのもので、川の風に長いひげをなびかせ、あたりを厳しく睥睨している。劉備も威風堂々といった姿で周瑜を待ち受けており、その姿はま...赤壁に龍は踊る二章その7劉備と周瑜
※客館のあるじに別れの挨拶をして、ふたりして急いで港へ向かう。壮行会はふたりが到着するのとほぼ同時に始まった。孫権をはじめ、程普《ていふ》や黄蓋《こうがい》ら重鎮のほか、多くの柴桑《さいそう》の民が見物に押しかけている。江東の民の勇壮なことと言ったらない。周瑜が天の神、地の神に酒を注ぎ、祈りをささげているあいだこそ静かだったが、船を出すという段になると、いっせいに、「いいぞ、曹賊をやっつけてくれ!」「ぜったいに勝ってきて下せえ!」と口々に応援のことばをかけていた。周瑜もまた、たいへんにこやかに人々にこたえていて、集まった民のうち、女たちは、その一挙手一投足にきゃあきゃあ言って大騒ぎである。周瑜のほうも心得ていて、民がなにかことばをかけてくるたび、それに応じて、「きっと勝ってくるぞ」と言ってみたり、女たちに...赤壁に龍は踊る二章その6樊口へ
「困った子だよ、本当に、いったいどこへ行ってしまったのか」ぼやく孔明に、趙雲は「ほんとうだな」と相槌を打ちつつ、言った。「おれはこれから魯子敬のところへ行ってくる」「そうだな。なにもかもおんぶにだっこで、かれに申し訳ない気もするが」「しかし、ここには、ほかに頼れる者もいない。ともかく出立前に話をつけてくるから、おまえはここで少し待っていてくれ」そう言って、趙雲は身支度もそのままに、ぱっと客館を出て、魯粛のもとへ出かけて行った。このあたりの身の軽さは趙雲の良いところであった。待つ身になった孔明は、気が気ではなく、何度も客館の玄関と胡済《こさい》のあてがわれていた部屋を往復した。胡済がひょっこりと帰ってくることを期待しながら。しかし、胡済が帰ってくる気配はなく、むしろこれから出立する周瑜の船団の壮麗な壮行式を...赤壁に龍は踊る二章その5行方を捜して
孔明の脳裏に浮かんだのは、周瑜の端正すぎるほど端正な顔だった。とたん、どきん、どきんと胸が不吉に鼓動を高くしはじめた。胡済は、なぜか周瑜のことを過度に気にしていた。自分の推理が正しければ、おそらく胡済は、壺中《こちゅう》にいた時分に、刺客としてか、あるいは細作として江東に来て、周瑜とかかわりができたのだろう。『まさか、もう一度、周瑜に会いに行った?』そう思ったが、その自分の考えを、孔明はすぐに打ち消した。『それはないな。あの子は刺客稼業から足を洗ったはずなのだし、第一、周瑜になにか傷をつければ、あの子自身もただではすまない。あの子の仕える劉公子(劉琦)だって不利な立場になってしまう。その計算はできるはずだ』孔明は落ち着くため、ふうっと息を吐き、それからちっち、と舌を鳴らした。「偉度のようすがおかしかったの...赤壁に龍は踊る二章その4戸惑いの夜明け
※客館の外は風が強く吹いている。「今日は寒うございますから、綿入りの布団をもう一枚、足しましょう」といって、客館の主人が寝室に布団を入れなおしてくれた。風が上空でうなり、その風にあおられて木々の葉と葉がこすれる音は、孔明が眠りにつくまでつづいた。外の木立のざわざわと騒ぐ声をうるさいと思う者もいるだろうが、孔明はその音を聞くとふしぎとこころが落ち着く。孔明は、明日はこの柴桑《さいそう》から出立なのだと思い出し、めまぐるしいこの数日の結果、こうして枕を高くして眠れていることをありがたく思った。孫権への説得が成功し、同盟は成った。都督の周瑜があまりこちらを好意的に見ていないことは気になったが、かれがいますぐ自分たちを害なす可能性は低い。とりあえず、すべてはうまくいったと言っていいだろう。兄の諸葛瑾にも会えたし、...赤壁に龍は踊る二章その3眠りをやぶるもの
つぎつぎと家臣たちがあらわれては、赴任先へ向かっていったが、孔明が孫権のもとにいるあいだ、噂の周瑜は、けっきょく一度も顔を見せなかった。避けられているのだろう。明日には出立だという、そのときになっても、わざわざ孔明のいない時を見計らって、孫権と面談しているようだ。ずいぶん嫌われたものだと思うと、孔明は落ち着かなく、またむずむずするほかない。その様子を見て、趙雲はすっかり周瑜に悪感情を抱くようになったようで、めったに人をあしざまに言わないのに、「周都督は噂とちがって狭量なところがあるな」と、言い出した。もちろん、人目のすくない客館に帰ってきてから言い出したのだが、孔明は申し訳ない気持ちである。というのも、思わず悪口が出るほどに周瑜の態度があからさまなのは、自分が至らないせいだと思ってしまうからだ。賢明な趙雲...赤壁に龍は踊る二章その2出立を前に
開戦が決まったのち、さっそく作戦会議どおりの行動が開始された。周瑜率いる水軍は、長江をさかのぼって大陸を西へ丸く回り込むかたちで陸口《りくこう》へ移動することになった。陸口は、曹操が拠点を置いた江陵《こうりょう》から東へ向かうと、ちょうど長江をはさんで対岸にある土地なのである。だれの目にも、曹操の大軍が陸口を目指してくるのはあきらかであった。陸口への上陸を許したら、あとは陸上戦の連続となってしまう。水上戦が得意な孫権軍としては、それはなんとしても避けたいところなのだ。周瑜の水軍の調練の結果はすさまじく、かれらは鄱陽湖《はようこ》から柴桑《さいそう》に到着後、すぐさま陸口へ移動する準備にはいった。そのあいだに混乱はなく、何者もの付け入る隙を与えなかった。孫権も、全幅の信頼を置いている周瑜のうごきに満足してい...赤壁に龍は踊る二章その1孫権と孔明
※諸葛瑾と、その愉快で忠実なお供のふたりは、朝焼けの空の下、おのれの泊っている館へと帰っていった。これから盧江《ろこう》へ出立するのだろう。かれらとまた会える日は来るのだろうか。宋章《そうしょう》と羅仙《らせん》は、何度も何度も振り返って、こちらに手を振ってきた。それに趙雲も応じていると、隣の孔明も手を振りながら、ぼやく。「兄が会いに来てくれてうれしかったが、しかしこのあとが気の毒だよ」「なぜ」「おそらく、このあと兄は周都督に叱られてしまうだろうからさ」「叱られるとは」なんでだろうと考えて、趙雲はすぐに思い当たり、あわててとなりの孔明をまじまじと見る。「兄君は、よもやま話をしに来たわけではないということか」「そうさ。一言もそれらしいことは言わなかったが、まちがいなく周都督の言いつけてわたしのところへ来たの...赤壁に龍は踊る一章その20暗い密談
※丸くてごつい岩のような宋章《そうしょう》とのっぽで細いねぎのような羅仙《らせん》は、趙雲と胡済《こさい》が酒と肴《さかな》を持ってくると、たちまち目を輝かせた。「おれたちなんかに差し入れしてくださるとは、なんて寛大な方々なんだ」と、おおげさに宋章が感激する。羅仙もまた、杯に酒をつぐ胡済の流麗な動作に目を白黒させていた。「差し入れしてくださるだけじゃなく、いっしょに呑んでくださるので?」「もちろんだ。どうせ暇だし、軍師と子瑜どのも、それぞれ盛り上がっているだろうしな。おれたちはおれたちで、たのしくやろうではないか」趙雲が言って、ふたりに杯をすすめると、まだ一口も呑んでいないうちから、かれらはほほを赤くして、「ありがたい、ありがたい」と恐縮して首をすくめた。趙雲は、この気のいいふたりを気に入った。「明日は盧...赤壁に龍は踊る一章その19楽しい宴
※「亮よ、久しいな、元気そうで何よりだ」と、諸葛瑾は面長の顔をほころばせた。面長で背のひょろりとした、実直そうな男。それが、諸葛瑾《しょかつきん》、あざなを子瑜《しゆ》であった。趙雲が見るかぎり、この兄弟は風貌があまり似ていない。背の高いところと、人品のよさそうなところは似ているが。「来てくださるとは思っておりませんでした」「何を言うか、おまえがわざわざこの地にやって来たのだ。兄たるわたしが会わずにいられようか」「うれしゅうございます、今日はゆっくり語り合おうではありませぬか」孔明の屈託のない笑顔を見て、諸葛瑾の連れてきたお供の二人のほうが感激して、「よろしゅうございました、よろしゅうございました」と、なぜかおいおいと泣いている。お供の名は宋章《そうしょう》と羅仙《らせん》といって、丸くて大きいのが宋章で...赤壁に龍は踊る一章その18兄弟の再会
※開戦の決定を受け、まさに柴桑《さいそう》は沸騰した。開戦か、降伏か。どちらかになるかを息をつめて見守っていたひとびとも、ひとたび開戦と決まると行動は早かった。家臣たちはあらたに役職をあたえられ、曹操軍にそなえるべく、それぞれの陣地移動をはじめた。物資を売る商人たちも大きく動き出し、陸路も水路もさまざまな物資で満ちた。だれもが曹操に対抗するのだという意志で燃えているように見える。上は都督から下は奴婢まで、曹操に一丸となって戦う態勢となりつつあるようだ。この豊かな江東の土地を、曹操の好きにさせてたまるか、という気概が満ち満ちている。降伏派の中心にいたひとびとさえ、もう文句のひとつも言わなくなったとか。机とおなじ運命になってはたまらないと思ったのもあるだろうが、江東を包み込む闘争心に圧倒されたというのが本当の...赤壁に龍は踊る一章その17思いがけない来客
※周瑜が柴桑《さいそう》城へ到着すると、魯粛が待ち受けていた。かれの満面の笑みを見て、周瑜は互いにことばを交わさぬうちから、『開戦か』と判断した。どうやら、夏口からやってきた劉備の軍師は、なかなかの口達者らしい。「決まったのか」確認のため、端的にたずねると、魯粛は大きくうなずいた。「決まりました。いま、孫将軍が開戦を宣言なさるところです」「そうか、わたしは間に合ったのだな」「間に合うも何も……もちろん、公瑾どのを待っての宣言となりましょう。貴殿がいらっしゃらなければ、わが軍は回りませぬ」魯粛のほうをちらりと見れば、かれがお追従《ついしょう》ではなく、本気で言っているのが見て取れた。顔が笑っていない。「ところで、劉豫洲の軍師という人物は、どうだ」「孔明どのですかい、噂にたがわぬ傑物ですよ」「どのように」「弁...赤壁に龍は踊る一章その16敵対の予感
胡済に関しては、今後の展開の軽微なネタバレがあります。作品を前知識なく楽しみたいという方は、大変申し訳ありませんが、引き返していただくことを推奨いたします……※名・来歴・年齢※胡済(偉度)荊州の義陽《ぎよう》出身物語の来歴については「奇想三国志英華伝臥龍的陣」を参照いただきたい。かれはオリジナルキャラクターではなく、「蜀書董和《とうわ》伝」に出てくる「孔明が自ら、気が合った人物として名を挙げた四人のうちのひとり(ほかは崔州平、徐庶、董和)」である。劉琦の学友で、劉表の一族と関係が深いというのはオリジナル設定。史実では、いつごろからかは分からないが、孔明の主簿として働き、董和の子・董允《とういん》や費褘《ひい》とも親交があった。孔明の死後は中典軍として軍を率いて戦い、最終的には右驃騎《うひょうき》将軍にまで...奇想三国志英華伝設定集胡済(偉度)
※拳《こぶし》の手当てをしてもらったあと、孫権と対面した。孫権と、そのそばには孫策から後を託されたといって張り切っている張昭がいる。周瑜はそのとき、両者にどう言葉をかけたのか、よくおぼえていない。これから江東を守り抜くため、互いに力を合わせて弟君を盛り立てていきましょうということを張昭に言ったのだろう。張昭は満足した顔をしていたが、しかし孫権は突然の事態に頭が追い付いていないようで、まだうつろな顔をしていた。孫権とひさびさに顔を合わせて、周瑜はざんねんなことに、かれはあくまで伯符(孫策)の弟であって、伯符本人ではないなと思ってしまった。かつて初めて舒《じょ》にて孫策と会ったとき、そのはつらつとした明るさと、見る者を陶然とさせるほどの美しさを見て、周瑜は、この大地に、はじめて仲間を見つけたと思った。周瑜は育...赤壁に龍は踊る一章その15周瑜の思惑
「于吉《うきつ》とは……たしか世を騒がしている道士だったな」于吉仙人と呼ばれ、民から厚い支持を受けている道士の名が、于吉という。かれは瑯琊《ろうや》出身だが、江東に流れてきており、精舎をたてて符や聖水などをつかって、民の病気をなおしていた。その求心力は孫策も無視できないもので、常日頃からおもしろくなく思っていたという。黄蓋は苦々しく言う。「伯符さまが城門の楼のうえで会合をひらいていたとき、たまたまなのか、わざとなのか、于吉が門の下を通り過ぎたのです。人々はそれを見ると、伯符さまそっちのけで于吉を拝みだしました。さすがに宴会係がこれを止めようとしたのですが、それでも誰も言うことを聞かず……これを由々しきことだと思われた伯符さまは、于吉を捕えてしまわれたのです」「瑯琊の于吉は、太平道の祖ではないかという話も聞...赤壁に龍は踊る一章その14小覇王の想い出その3
やがて、周瑜は孫策の遺体が仮埋葬された長江のほとりの街、丹徒《たんと》に到着した。春という季節もあり、すでに遺体が傷み始めていたということで、かれの死に顔を見ることはできなかった。白い喪服を着て、大きく哭礼《こくれい》をつづけている人々を見て、周瑜は呆然と立ち尽くした。つねにきびきびと動き回り、いかなるときでもおのれを見失わない周瑜にとって、孫策の死がほんとうのことなのだと実感することは、まだできなかった。孫策の妻の大喬が髪を振り乱して泣いている。母親もまた、立ち上がれないほどに取り乱し、侍女たちに支えられながら、子の名を何度も呼んで泣いていた。弟の孫権は、背中を丸めて座り込み、うつむいて声もたてない。泣いているのか、それすらもわからなかった。家臣たちもそれぞれ嘆き悲しんでいたが、そのうち黄蓋《こうがい》...赤壁に龍は踊る一章その13小覇王の想い出その2
※名・来歴・年齢※陳到《ちんとう》(あざなを叔至《しゅくし》)。豫洲の汝南《じょなん》出身。正史三国志においては、趙雲と並び称された人物として名が挙がるのみで、詳しい事績は全く不明。そこで奇想三国志では「趙雲の副将」ということにした。袁紹軍に参加していたが、官渡の戦いのどさくさに、趙雲より直々にスカウトされて、劉備の家臣となった。以来、趙雲の陰にひっそりと存在し、その活動を支えている。武芸の腕もたつが、事務能力も高い。地味だが、オールマイティーな男である。とぼけたところもあるが、人当たりは悪くない。家にこわーいお嫁さんがいるが、この嫁と娘たちを守ることを陳到は第一義にしており、出世して妻を変えるとか、妾を増やす、なんてことは欠片も考えていない。ちなみに、この、こわーいお嫁さんは、過去に書いた作品では「田豊...奇想三国志英華伝設定集陳到(叔至)
※鄱陽湖《はようこ》のほとりに滞在する周瑜のもとに急使がやってきたのは、孔明が孫権の説得に成功してからすぐであった。周瑜としては、孫権が開戦を決めたことにおどろきはなかった。いまは亡き小覇王・孫策が血みどろの努力を重ねて得た土地。その苦労をしっている孫権が、よそ者たる曹操に無傷で明け渡すはずがないと確信していたのだ。柴桑《さいそう》に向かうため、身なりを整える。その出立の準備は、同行している妻の小喬がやってくれた。三十路に入ってもなお、人の目を奪うほどのみずみずしい美しさをそなえている小喬は、無言で周瑜のからだを飾り立てていく。それに周瑜も無言でこたえながら、そういえば、曹操は、わが妻と義姉を狙っているという下世話な噂があったなと思い出していた。曹操が好色な男だというのは江東の地にも聞こえていて、その魔の...赤壁に龍は踊る一章その12小覇王の想い出その1
「曹操は百万の兵を率いてやってきたのだぞ。それなのに、平然としておられるものか。第一、その曹操に敗れて江夏に逃げ込んだのは、どこのどいつだ」「それは決まっております、われらが劉豫洲は、斉の壮士・田横のごとく義を守る者。しかも漢王室の末裔であり、なおかつ優れた力量をもっておられる英才です。いまでこそ敗走した身ではありますが、やがて水が海へ流れていくように、天下もまたわが君のもとへ流れてくることでしょう。仮にこれがうまくかなかったときは、天命というもの。そうとわかっているのに、なにゆえ曹操ごときを恐れ、これに仕えられましょうか」「曹操ごとき、か。口では何とでもいえよう。それでは、劉豫洲は漢王室に殉じる覚悟というわけだな」「もちろん。孫将軍にはもはや関係のない話かもしれませぬが、われらはあくまで漢王室復興を目指...赤壁に龍は踊る一章その11響いた太鼓
※『見られているな』というのが趙雲の第一印象だ。孫権のいるという奥堂につづく長い廊下をいくあいだも、だれかに見られている気配を感じた。黄蓋はひとことも余計なことをしゃべらず、もくもくと孔明と趙雲を先導する。趙雲はあたりに目を光らせながら、異変が起こらないよう気を配っていた。それというのも、孫権が自分たちを捕縛しないという保証は、まだないからである。さきほどの家臣たちの様子からするに、降伏派のほうが弁の立つ連中がおおく、優勢のようだった。それに押されて、孫権が降伏にこころを傾け、劉備の使者としての自分たちを捕縛し、曹操に引き渡さないともかぎらない。それを避けるため、すでに魯粛に頼んで小舟を用意し、胡済をそこに待機させている。逃げる手はずは整えてある。だが、問題はこの城内から出られるか、であった。こちらを見張...赤壁に龍は踊る一章その10孫権との対面
すると、その隣にいた棒切れのような細長い顔の男が叫んだ。「率直にお尋ねする。曹操とは?」「漢室の賊臣なり」細長い顔の男は、小ばかにしたように鼻を鳴らした。「よくもまあ、いい切れるものよ。漢の命運は尽きているのは童子でもわかること。一方の曹丞相は天下の三分の二をすでに治め、良民もかれに付き従っておる。そんな曹丞相を賊呼ばわりするということは、名だたる帝王たちや武王も秦王も高祖も、みな賊となってしまおうぞ」おどけてみせる細長い顔の男の態度に、それまで穏やかな笑みを浮かべていた孔明は、急に顔をこわばらせると、これまでより声高に言った。「その無駄口を叩く口は閉ざされていたほうがよろしかろう。貴殿の言は父母も君主もない人間のことば。そもそも、曹操は漢室の碌を食みながら、邪悪な本質をあらわにし、天下の簒奪を試みている...赤壁に龍は踊る一章その9舌戦その2
急に空気がぴりっとしたのを受け、初老の男はこほん、と軽く咳をしてから言った。「わが名は張昭《ちょうしょう》、あざなを子布《しふ》という」「おお、ご高名はかねがね耳にしております」孔明は軽く礼を取る。張昭は慇懃に、うむ、と答えてから語りだした。「遠路はるばるいらした劉豫洲の使者に向けていうことばではないかもしれぬが、聞いてほしい。われらと同盟を組みたいと劉豫洲はおっしゃっているが、それはつまり、手を組んで曹操軍と戦おうということであろう?しかしその肝心の劉豫洲は、劉表の死後、荊州を取ることもできず、新野も追われ、みじめな逃亡を余儀なくされた。そも、荊州を取らなかったのは何ゆえか」「それは愚問ですな。わが君はもとの州牧である劉表どのとは同じ宗室ですぞ」「宗室か。つまり同族だからと言いたいのかね。ところで貴殿は...赤壁に龍は踊る一章その8舌戦その1
来歴はみなさまご存じのとおり。「奇想三国志英華伝」では、十代で公孫瓚に仕えたことにしている。年齢は、だいたい孔明より五歳くらい年上。※容姿※男らしく凛々しい容姿にめぐまれている。体格はいかにもしなやかそうで、角ばったところはすくない。張郃などは官渡で見た趙雲の後ろ姿を何年もおぼえていたほどで、背中で語れるタイプらしい。背丈は八尺(約180cmくらい)で、孔明とほとんど同じくらい。つねにあたりを警戒する癖がついているせいか、表情は険しいことが多いが、親しい者……とくに孔明にはさまざまな顔を見せているようす。ふだんは無口。なので逆に口をひらくと人が耳を傾けてくれる。核心をついたことを口にすることが多いが、声が若いのと、もともとの誠実な口調ゆえに、あまり相手に威圧感を与えずにすんでいる。めったなことでは自分から...奇想三国志英華伝設定集趙雲(子龍)
※魯粛の先導で柴桑城内へ向かう。城のまえには、馬だの馬車だの鹿車だのがずらりと並んでいて、ありとあらゆる身分の家臣たちがこの城内につどっていることが知れた。主人を待つ従者や御者たちの顔もまた、弛緩しておらず緊張しているように見えるのは、おれが緊張しているせいかな、と趙雲は思う。孔明はあいかわらず涼しい顔だ。客館には、胡済が待機している。変事があった場合は、用意した小舟に移動し、二人を待つよう指示を出しておいた。さすがの胡済も、この指示にはぶうぶういうことはなく、おとなしくわかりましたと答えてくれた。やがて城内に入ると、がやがやと大広間を中心に声が聞こえてきた。どうやら雑談しているなどと言う穏やかなはなしではなく、喧々諤々《けんけんがくがく》の議論が交わされているようだった。見れば、それぞれ五十名ほどの正装...赤壁に龍は踊る一章その7舌戦はじまる
趙雲は周瑜と胡済が会った……あるいは再会した場合の「まずさ」について、素早く頭を回転させた。まず、胡済が刺客として江東に派遣されたことがある場合で、周瑜がそれを知ってる状態が、いちばんまずい。孔明が、かつて自分の命を狙った人物を連れてきたと思われてしまう。それでは喧嘩を売りますよと思っているのだと、勝手に受け止められてしまってもおかしくない。胡済だけが周瑜を知っていて、向こうが胡済を知らない、というのが一番穏便だ。胡済はおもしろくないだろうが、ここは我慢してもらうほかない。どちらかわからない以上、二人を対面させる機会はないほうがよさそうだ。「偉度と周公瑾を会わせるのはまずいな」趙雲が言うと、孔明もわが意を得たりという風に深くうなずいた。「周公瑾がまだ鄱陽湖《はようこ》にいるというのは幸いだ。明日、いきなり...赤壁に龍は踊る一章その6打ち合わせその2
※ともかくゆっくり休んでくれと魯粛は言い残し、夕暮れに客館から去っていった。あとのもてなしは、館の主人がしてくれて、三人はひさびさに温かい食事にありつけた。食事のあとは、明日へのかんたんな打ち合わせをし、それから解散となった。趙雲もあてがわれた部屋へもどる。どこからか、楽器こそ言い当てられないが、練習をしてるのだとおぼしき楽の音が聞こえてきた。客館のあるじに聞くと、近くで女楽(芸妓)が練習しているのだという。たびたび音を外すその音楽を聴きながら、そう言えば、周瑜という男は楽団が演奏しているとき、ちょっとでも誰かが音を外すと、その外した者のほうを振り返るのだったと、趙雲は思い出していた。周瑜はけっこう細かい男らしい。その話には、『江東の美周郎は音楽も解する、優雅で知的な貴公子』という意味合いが含まれているこ...赤壁に龍は踊る一章その5打ち合わせ
ほどなく、客館の主人が気を利かせて、茶とあんずの干したものを卓のうえにだしてくれた。みな、ありがたくそれを口にする。旅の疲れに茶の渋みと、あんずの甘味はほどよく沁みた。「ところで、孫将軍のところにはどなたが集まっておられるのです?噂の美周郎どのはすでにいらしているのですか?」あんずをぺろりと平らげた胡済の問いに、魯粛は、おや、というふうに答えた。「あんたは美周郎どのを知っているのかい、ご期待に沿えなくて申し訳ないが、公瑾どのはまだ鄱陽においでだ。水軍の調練で忙しいから、あとから柴桑にいらっしゃるだろう」「そうですか」「そう。それと、だ」魯粛は居住まいを正して、孔明をまっすぐ見た。「船の中でも打ち合わせで言った通り、孔明どのはざんねんながら歓迎されないだろう。いま、孫将軍のまわりでは降伏派が優勢なのだ」「な...赤壁に龍は踊る一章その4不審な胡済
「客館とやらは、まだ遠いのですか、くたびれてしまいました」ぼやきはじめたのは、胡済《こさい》、あざなを偉度《いど》である。趙雲がものめずらしさに、あたりをきょろきょろしているのに対し、胡済は十五という年に似合わず落ち着いていた。むしろお上《のぼ》りさんのようになっている趙雲に、「何が珍しいのやら、主騎なら軍師どのだけ見ていればよいものを」などと嫌みを言ってくるほどだ。あいかわらず、はりねずみのようなやつ、と趙雲はすこしむっとするも、相手が加冠しているとはいえ、まだまだ中身は子供であるから、本気で怒りはしない。「客館はもうすぐだよ。おれたちが帰って来たことは先に伝えてあるから、すぐに休めるようになっているはずだ」「段取りのよいことで」「まあな、そういうのは得意なのさ」魯粛は胡済の嫌みに近い言葉も気にせず、陽...赤壁に龍は踊る一章その3客館に到着
※柴桑《さいそう》への道中は、魯粛がのべつまくなしに江東の地の解説をしてくれることもあり、退屈するということはなかった。とくに趙雲は、これまで荊州から東南へ行ったことがなかったので、見るもの聞くもの、すべてがあたらしい。道中に目にするいかにも神仙がいそうな奇岩や、剣山をひっくりかえしたような山々は見ていて面白かった。刈り入れの終わった田圃《たんぼ》には落穂ひろいをしている女たちのほか、野鳥がにぎやかにさえずっていて、あぜには子供らが遊ぶ声がひびく。集落のまわりには冬支度をはじめている柴を背負った男たちの姿がある。かれらは遠くにいてその表情を見ることはできなかったが、おそらくだれもが穏やかな顔をしているだろう。まず思ったのは、江東は噂通り、豊かな土地だな、ということだった。未開の地と馬鹿にする中原の人間もい...赤壁に龍は踊る一章その2柴桑の街へ
ながくつづいた長江を下る旅は終わった。脚の裏が大地についたとたん、趙雲の口から思わず安堵のため息が出た。船に揺られっぱなしの旅であった。夏口から船に乗った趙雲と孔明らは、長江をくだり、豫章郡《よしょうぐん》柴桑県《さいそうけん》へたどりついたのだ。そこに討虜《とうりょ》将軍・孫権が滞在しているからである。趙雲の船酔いは、この船旅があと三日続いていたらと思うと、さすがに勘弁してほしいと弱音を吐きたくなるものだった。曹操より先んじて動かねばならないという焦りもあるから船は急いでいて、それがまた揺れを加速させていたからだ。魯粛も孔明も、趙雲とおなじ北の人間だというのに、ケロッとしていて船酔いの気配すらなさそうである。かれらは暇さえあれば上陸後の打ち合わせをしていた。もうひとり、孔明が無理やり江夏からつれてきた少...赤壁に龍は踊る一章長江を流れ下りて
※漢水《かんすい》のわたしで、あれほどの恐怖を味わっていたのが嘘のように、船に乗ったひとびとは、穏やかな航路をたのしんでいた。曹操軍はまだ荊州の水軍を把握しきれていないようすで、追ってこない。趙雲は、なみだで腫れた顔を冷まして、真水で顔を洗い、それから劉備の元へ向かった。途中、なつかしい顔と再会した。夏に樊城《はんじょう》で別れた切りになっていた、胡済《こさい》である。地味な衣をまとっているが、その目もさめるような美貌は変わっていなかった。「生きていらしたのですね、よかったです」と、なかなか可愛らしいことをいうな、こいつも成長したなと思っていると、中身はまったく変わっておらず、つづけた。「あなたがたが心配だったようで、軍師は連日徹夜ですよ。倒れるんじゃないかとひやひやしていましたが、今日でそれもおしまい。...地這う龍五章その8東へ
空に、大きなはやぶさが飛んでいた。くるくると輪をかきながら、飛んでいる。陳到が叫んだ。「明星《みょうじょう》だっ!」あるじの呼びかけに、はやぶさが、きぃぃぃ、と高らかに鳴いた。と、さきほどはあれほど目を凝らしてもまったく見えなかった船団が、東のほうから、靄を破って、凄まじい勢いでこちらへ近づいてくるのがわかった。「船だあっ!」「軍師たちが戻って来たぞ!」「やった、感謝するぞ、孔明、雲長!」感激のあまりか、劉備がめずらしく感極まった声を出す。それに呼応して、葦原に隠れていた民も、岸辺に飛び出して、船に向かって、おおい、おおいと手を振りはじめた。船がやって来たのが曹操軍にも見えたようである。突撃命令がくだるのを待つばかりだった曹操軍が、船からの攻撃を恐れたのか、動きを止めた。船はあっという間に帆に風をはらみつ...地這う龍五章その7歓喜と涙と