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ご存じ、天才軍師。三国志演義では八面六臂の活躍をみせ、神算鬼謀の軍師として生き、蜀漢の丞相となってからも劉備の遺志をひきつぎ、そして志に殉じたとされる。史実の場合は、意外にも軍師として戦場で活躍したことは少なく、陳寿に評された通り、政治家としては超一流だったが、戦術家としては、ざんねんながら超のつく一流とはいいがたかった。「奇想三国志英華伝」(当作品)においては、知恵のあるリアリスト・常識人として描かれる。きわめてまっとうな倫理観を持ち、どんな局面においても揺らがない。育ての親である叔父に感謝の念を伝えきれなかった後悔から、周囲の人への感謝の念は、言うべき時にはっきり口にするよう自分に習慣づけている。それにより周りはおおいに照れたり、呆れたりするが、きざなのではなく、乱世において、明日また会える保証はない...諸葛亮(孔明)
※石広元の屋敷で数日ほど世話になったあと、その足で、徐庶は、襄陽をあえて通り過ぎ、孔明が隠遁しているという、隆中へと向かった。教えられた道のとおりに孔明の庵へ行くと、その途中、拍子抜けするほど、あっさりと、本人と再会した。孔明は、なだらかな丘のうえで、ひとり、身をかがめて、草を摘んでいた。農作業をしている、というふうではない。人の影もまばらな、のどかな光景のなかにあっても、孔明は相変わらずの着道楽だった。だれも見ていないというのに、質のよさそうな洒落た衣を纏っているのが、孔明らしいといえばらしかった。孔明は草叢で、丹念に植物を取って、几帳面についている土を払っている。薬草を集めているようだ。旅の中で、さまざまな顔を見た。男の顔、女の顔、年寄りの顔、子供の顔、人種もばらばらな顔だ。しかし、孔明の顔というのは...臥龍的陣番外編空が高すぎるその30
徐庶は複雑だった。徐庶が旅をはじめたのは、まず孔明から遠ざかるためでもあった。劉表に仕官を求めた日以来、徐庶は孔明との距離が、いま以上に縮まるのを恐れた。孔明がおのれを頼りすぎて、自分を押し込めているのが見えてしまったのが、ひとつ。もうひとつが、孔明の優しい誘いに、抗えなくなる自分が、こわかったのが、ひとつ。田舎に隠棲して暮らすことは、その気になれば出来ただろう。あまり仲のよくなかった石広元さえ、いつのまにか心服させている孔明である。一緒にいれば、楽しいに決まっている。だが、その先にはなにもない。自分で築いてきたものを捨てる代わりに、未来も捨てることになる。それに、徐庶には、わかっていた。いままでは、孔明は、杖にすがるようにして、徐庶にすがって生きていた。だが、孔明は、徐庶がいなくなったことで、かえってと...臥龍的陣番外編空が高すぎるその29
「なぜ旅をしてきたのだい。襄陽のほうじゃ、あんたは劉表に振られたのが悔しくて、出奔したことになりつつあるそうだぜ」徳利《とっくり》を傾けながら笑う石広元に、徐庶はつられて苦笑いを浮かべた。「言いたいやつには、言わせておけばいい。襄陽のことは、俺の耳にも入っている。あんまり変わっていないようだな」「そうだな、孔明のやつが、すっかり隆中の田舎に引っ込んだよ。弟夫婦の畑がもぐらに悪さされてたまらないから、もっと土地のいいところに移ったと本人は言い張っているが、実際は世間から遠ざかりたいからだろうという噂だ。とはいえ、孔明は、妙なものだが、隆中に引っ込んでからのほうが、人づきあいがよくなったようだよ。暇さえあればぶらぶらと、知り合いの家へ出かけて、ほとんど家には帰らないらしい。徐兄がいたころは、ほかのやつとは、あ...臥龍的陣番外編空が高すぎるその28
※徐庶は、旅の終わりに、襄陽にはもどらずに、石韜《せきとう》、あざなを広元のところへ向かった。石広元は、もともと徐庶と同郷である。徐庶がおたずね者になって逃亡する際に、いっしょになって付いてきてくれた若者であった。地味であるが、気のいい青年で、孔明とはまたちがった意味で、長年、徐庶を支えてくれた人物でもある。小さな丸い顔に、カラスの羽をふたつハの字に並べたような髭が特徴で、目も鼻もまるっこい形をしており、人柄のよさがそのまま顔にあらわれている。石広元は徐庶が顔を出すと大変よろこんで、一家をあげて迎えてくれた。かれは、崔州平とおなじく、すでに家に妻を迎えており、さらには故郷の両親を呼び寄せて、ともに暮らしていた。石広元の位は郡の戸曹史主記である。つまりは戸籍係であるが、辺鄙な土地柄で、禄は高くなく、生活は苦...臥龍的陣番外編空が高すぎるその27
徐庶が劉表へ仕官をしようとした件は、内密にしていた者であったのだが、それがだれからともなく漏れていった。それはやがて知らぬ人のいないこととなり、司馬徳操の私塾の生徒の、いちばんの話題とまでなった。司馬徽の塾の生徒たちの大半は、裕福な家庭の子弟であったから、徐庶の挑戦を酒の肴にしては、どこがどう駄目なのかと、他人事のように勝手なことを話し合った。司馬徽の塾に来てだいぶ経ち、その理解者も増えては来ているももの、一定数の徐庶の『敵』は存在する。その『敵』と犬猿の仲の孔明が、徐庶の悪口をたたく者たちの場に居合わせると、かならず喧嘩となった。以前は孔明と『敵』の喧嘩が始まると、仲裁に入っていた司馬徽であったが、最近では、どちらかが気絶するまで放っておくことが増えた。きりがないと思われてしまったのだろう。孔明のこのと...臥龍的陣番外編空が高すぎるその26
「わたしは、こうして相談できる相手がいるだけしあわせだな。徐兄がいなくなってしまったら、いったいどうなってしまうだろう。想像もつかない」「どうもならんさ。なんとかなっているだろう」「そうは思えないよ。いつまでも間違いに気づけない、いま以上に嫌な人間になってしまうと思う。なにもかも世の中のせいにして、いじけて、そのくせ、心の中では、人が怖いと怯えている人間だ。けれど徐兄がわたしの間違いを教えてくれるから、わたしもすこしは、まともでいられる。ほんとうに感謝している。ありがとう、吹っ切れた。徐兄の言うとおりにしてみるよ」「ま、おまえの考えもところどころ入れて、自分なりにがんばれ」「うん、がんばろう。わたしたちの将来を、きっといいものにするように、がんばらなければならないな」孔明の声が眠気まじりのものになる。しか...臥龍的陣番外編空が高すぎるその25
「俺や家族に触れられるのは平気なのだろう。だったら、そのうち、ほかのやつで親しくなった者には平気になるかもしれない。だいたい、家族や仲間以外の人が身体に触れてこることなんて、日常ではあまりないものだぞ。気持ちはわかるが、そこまで深刻にならなくてもいいんじゃないか」「人が怖いのだ」「うん?」「揚州で叔父が朝廷の命令を受けてやってきた新しい太守に追い出されたとき、そそのかされた一部の民が蜂起した。賞金首に目がくらんだのだ。叔父は、いま振り返ってみても、よい太守であったと思う。いつも民のことを考えて、自分は質素に暮らしていた。なのに、みな妄言に振り回されて、血なまこになって、武器を手にわたしたちを襲ってきた」「ああ、大変な目に遭ったって言っていたな」「すまない、嫌な話だし、何度も聞きたくないよね。でも、わたしは...臥龍的陣番外編空が高すぎるその24
※数日後、徐庶と孔明は、劉表の返事をもらったあと、襄陽城市の宿で夜を迎えた。こういうときに、亡くなった叔父から多額の遺産を受け継いでいる孔明は、頼りになる。宿代などは、すべて孔明持ちなのだ。徐庶とて面子があるから、すこしは払おうとする。だが、孔明はこういうとき、頑として徐庶の財布を開かせない。「叔父上は、いつもよい友を得よ、そのためならば、手間も時も金も惜しむなとおっしゃっていた。徐兄は、わたしにとっては最良の友なのだから、わたしがもてなすのは当たり前だ。だから、金はわたしがすべて払う」というのが孔明の理屈である。孔明のなかで、叔父という人物は、だいぶ美化されているようだ。もちろん、徐庶は孔明の叔父という諸葛玄のことを見聞でしか知らない。だが、割り引いて見ても、孔明には、たいへんに立派なところを見せた男だ...臥龍的陣番外編空が高すぎるその23
※劉表は謁見のあと、徐庶に後日、返事をする、といった。だが、徐庶にはわかっている。劉表の徐庶を見る目は冴えないもので、表情も退屈そうであった。のちほど返事をするとは言ったものの、色よい返事は期待できないであろう。直接、本人に言わないところは気遣いの人なのか、それとも優柔不断なのか…あるいは、とても悪くとれば、善人ぶっているのかもしれない。どちらにしろ、実際に顔を合わせてみた劉表という人物は、思った以上に、緩慢な印象を与える人物であった。これほど襄陽城の風俗をきっちり取り締まって、儒を尊ぶ気風を励行しているわけだから、風采が立派で凛とした聖人君子があらわれるのではなかろうかと徐庶は期待していたのだ。たしかに礼装をしてあらわれた劉表は、血筋のよさゆえか、それなりに貫禄はあった。しかし、かれを主君としてあおぎ、...臥龍的陣番外編空が高すぎるその22
「毎日、むやみやたらに喧嘩ばかりしているやつが、言うな。しかし、さすが多くの修羅場を経験してきているやつのことばだ。わかっている、と誉めてやらんでもない」「けなしているの、誉めているの、どっち」「両方だ。まあ、要するに、おまえの言うとおり。ここの連中は、無駄に誇りが高すぎる。劉豫洲の家来があんまりコテンパンにやりすぎてしまったので、かえってここの文官たちの反感を買ってしまったようなのだ。出自のあやしい傭兵あがりの家来ごときが、意気がるな、とな」「それもひどいな。劉豫州は帝におなじご血筋だと認められたと聞いているし、その家来だって、すべてがすべて、流浪者ではない。徐州の麋家をはじめ、名門の人間だって加わっているぞ」「いくら帝室に認められても、その義兄弟は、肉屋とおたずねものだぞ」「その義兄弟だって、長いひげ...臥龍的陣番外編空が高すぎるその21
※さきほどの武人と徐庶は、廊下で行き交う形となった。徐庶は、自分とは真逆の方向へ行く武人に興味が引かれたものか、ちらりとそちらに顔を向けた。武人のほうは徐庶の目線を気にしない様子で、軽く会釈をしただけで、そのまま立ち去っていく。そのきびきびした颯爽とした歩き方は、いかにも武芸に秀でた男というふうだ。からだの動きにいっさいの無駄がない。武人の背中が遠ざかると同時に、徐庶が近づいてきた。「こんなところにいたのか、探したぞ。州平は帰ってしまったというし」「帰ったというのはひどいな。徐兄を置いていくなんて、無責任じゃないか」崔州平は、律儀で真面目な性格なのだが、ときどき、戸惑うほどに気まぐれな振る舞いをすることがある。孔明や徐庶にはわからない、崔州平だけが感じる『不快さ』が原因らしい。だが、たとえ状況が落ち着いた...臥龍的陣番外編空が高すぎるその20
※気づけば、孔明は花安英とぶつかった廊下にまで戻ってきていた。さきほどぶつかったときに散った白の花びらが、まだ廊下に残っている。だれもいない。しんとした廊下のなかで、孔明は、柱にもたれて、こみ上げる嘔吐感と戦っていた。深い呼吸をくりかえしているうちに、頭痛も落ち着いて、わずかな吐き気が残る程度にまでおさまった。大きく息をつき、柱に首をあずける。なんの因果か。すでに太陽は西に傾きはじめている。その光の色はあざやかな茜色に転じて、孔明の立つ廊下と、花々の咲き誇る中庭を血のように染め上げる。あのときと同じ。豫章から逃げてきた叔父と孔明たちを支援してくれた劉表に、礼をいうための登城だった。まずは孔明と叔父が劉表に型通りの挨拶をした。そのあと、叔父だけが残り、劉表となにか話し合いをした。会談は喧嘩別れに終わったらし...臥龍的陣番外編空が高すぎるその19
こちらの事情をすべて知り尽くしているような男の振る舞いに、孔明はむしろ、気味悪く思いはじめていた。思い切って、たずねる。「失礼ですが、あなたはどなたです。劉公子のご学友ですか。 花安英《かあんえい》と同じく」孔明に問われて、男は、はじめて名乗っていなかったことに気づいたようで、きまり悪そうに笑った。「ああ、すまぬ、失礼をした。俺は 程子文《ていしぶん》という。そのとおり、劉公子の学友というやつだ」「どこかでお会いしましたか」「いや、初対面だな」言いながら、程子文は孔明の横を過ぎる。そして、白い花を片手に、放りっぱなしの画材道具のところまで行き、ていねいに片づけをはじめる。花安英のものではなかったのか。孔明はたずねた。「絵を描かれるのですか」「ちょっとした趣味でね。昔からこれは得意だった。俺ができることのな...臥龍的陣番外編空が高すぎるその18
※気を取り直してまいりましょう、と伊籍にうながされ、孔明はさらに奥に通された。たどりついた場所は、清潔にととのえられた城のなかでもとくに古色蒼然とした雰囲気のある場所であった。なぜだか孔明は、その場に来てほっとした。きちんとしているけれど、そう片付きのよいほうではなく、生活のにおいが感じられる空間である。劉琦の部屋のそばには、小さな庭があった。庭の中央には池があり、そこに飼われているのか 鵞鳥《がちょう》の親子がいて、にぎやかに白い羽根をばたばたとせわしなく動かしている。池のまわりには、画材道具が散らかっている。鵞鳥の親子を描こうとして、途中でそのままになっているらしい。伊籍は、さきほど会った 花安英《かあんえい》に画才があると言っていた。孔明は、あの少年は、片付けないで、そのままどこかへ行ってしまったの...臥龍的陣番外編空が高すぎるその17
教えを受けさえすれば、いまにもそこへ行きそうな孔明に、少年は調子が狂ったようだ。つんとすましていた表情が、今度はあきらかに戸惑いの表情に変わっていく。「結構です。時間が惜しいのです。教えるの手間だし、あなたを待っている時間もない。それに、あなたが届けてくれるにしても、わたしの邪魔をされるのは困る」「どこへ行くかは知らぬが、邪魔をしないと約束しよう。目立たないようにするのは不得意だが、挑戦してみる」妙に意気込んでいる孔明に、少年は毒気を抜かれたのか、あきれた顔をした。そして、孔明の沓《くつ》の先から冠のてっぺんまで、じろりと見渡した。「不得意どころか、ムリでしょう。あんたみたいな図体のでかい目立つ方に、のっそり来られたら迷惑だっていう話です。ただでさえこじれているのだ、よけいに向こうがごねるでしょう」「おや...臥龍的陣番外編空が高すぎるその16
伊籍と仲良く手をつないで…実際は袖をひっぱられて…まるで父子のように襄陽城の廊下を行く。そうしつつも、孔明は、これだけ広い城の奥に入り込みすぎると、徐庶たちと別れたときにいた建物に戻れなくなりそうだなと、いささか不安に思った。なるべく、周りの、どこに何が置いてあるかなどを確認しつつ廊下を進む。きょろきょろと、孔明にしては落ち着かなくしていると、不意に、目のまえを花の山に塞がれた。建物の位置を把握することに目を奪われていた孔明は、思わず足を止める。花の山のほうも、前がよく見えない状態で移動していたらしい。かわしきれず、正面からぶつかる形となった。孔明はその花の名前がわからなかった。馥郁たる香をただよわせる、からたちの花に似た、白い花弁の花だ。その花を、両手いっぱいにかかえたその者の、驚きに目を見開いた顔が、...臥龍的陣番外編空が高すぎるその15
※孔明は、反省していた。とてもとても反省していた。さきほどまでの、むすっとした表情はなくなり、後悔のあまり唇をかみ締めて、うなだれている。まるでしおれた花のようだ。となりにいる親切な伊籍の説明をなんとか聞かねばと努力しているのだが、なかなかそのことばが頭に入ってこない。それというのも、徐庶や崔州平と別れたすぐあとに、司馬徽の塾で喧嘩したばかりの相手と、ばったり出くわしてしまったからである。喧嘩相手と会ったことが決まり悪くて、しょげていたのではない。その相手が、早々と襄陽城で官吏として働いているのを見てしまったのだ。そこで、ようやく徐庶も劉表に仕えるかもしれないという現実が見えてきた。だとしたら、自分の先ほどの態度は、あまりにみっともないものだったのではないか…徐庶がたとえ、周囲に好印象を与えたとしても(与...臥龍的陣番外編空が高すぎるその14
「似合わないからといって、いきなり宰相になれる者がいるわけがない。急がば回れというではないか。おれたちは、まずはこつこつと下積みからはじめるべきだ。大それた野心は、身を滅ぼすもとになるだけだぞ」「たしかに、常識でいえばそうなのだが、しかし、こつこつと下積みからはじめて、天下を動かす仕事にたずさわれるようになるのは、頭がすっかり白くなってからか?それでは遅い。こころも枯れてしまっているだろうし、おれたちが地道にこつこつ下働きをしているあいだ、だれが天下を安んじる」「天下とは、大きく出るな」「そうさ、天下だ。水鏡先生のところで、みんなでさんざん議論してきただろう。天下を安んじるためにはどうしたらよいかと。俺たちは、すぐれた英雄が出れば、自然と天下が治まってくるだろうと希望を語っていた。さてそれでは英雄とはだれ...臥龍的陣番外編空が高すぎるその13
崔州平は、なにかを言おうとしたが、徐庶が言葉をうながすしぐさをすると、顔を赤らめて、横を向いた。「それは、おれの言葉の選び方が間違っていた。君を不快にさせたのなら、すまない。君が仕官するのは喜ばしいことだ。君の母上が君どれだけ心配していたかも知っている。ここに仕官するなら、生活も安定するだろう」「面接するだけだ、まだ仕官は決まっちゃいない。だが、なにか引っかかるぞ、俺は」「なにが」今度はうるさそうにして、崔州平は徐庶のほうに顔を戻した。「すまんな、俺はどうも変なところに気がつく性分らしいのだ。おまえも、もしかして孔明と一緒で、この襄陽城にいい思い出がないとか、そういうクチか?だったら、俺のために無理をしなくていいのだぜ。俺だって、三つや四つの子どもじゃない、ちょっと行く先を教えてくれれば、ひとりで劉州牧に...臥龍的陣番外編空が高すぎるその12
※二手にわかれた徐庶と孔明であるが、やはり孔明を一人にするのは妙に心配だった。成人した親友をこうまで心配するのは、友情も過剰だなと思いつつも、孔明のほうを振り返る。すると、あの人のよい、おしゃべりな伊籍が、ここでも世話役を買って出て、孔明の案内役となっているようだ。思わず徐庶は、崔州平に聞いた。「伊籍どのは、いったい、いつ仕事をなさっているのだ。われらのように、無位無官の男を案内するのが仕事ではあるまいに」すると、徐庶のとなりにいた崔州平はあきれたように目を丸くした。「なんだ、君は知らないのか」「なにが」「この襄陽城の家臣は、いま、二手に分かれているのだ。さきほどの伊機伯どのは、劉州牧のご長男の世話役をしている。そのため、次男のほうを擁護している蔡将軍ににらまれて、閑職に追いやられているのだ。だから、城内...臥龍的陣番外編空が高すぎるその11
※そうして、あらかたのあいさつをおえて、いよいよ劉表に、という段になり、それまでぴったりと徐庶にくっついていた孔明が、ふと足を止めて、言った。「すまないけれど、わたしはここで待っているよ」好奇心のつよい奴が、めずらしい。好奇心より内気さが勝ったか、と思った徐庶であったが、孔明の顔色は、おどろいたことに真っ白で、表情も態度も、落ち着きなく、そわそわとしていた。聡い徐庶はすぐに察した。そうか、叔父さんとやらのことを思い出したのだな。「すまない、ついていきたいのはやまやまなのだが、足が動かない。叔父が刺されたのは、この先の廊下だ。あそこを通るのは、まだ、気持ちの整理がついていない。下手に取り乱して、徐兄の仕官の話を邪魔してしまいたくない。だから、ここで待っているよ」それでは気持ちも塞ぐのは当然だと思い、これまで...臥龍的陣番外編空が高すぎるその10
※劉表の家臣のひとりに、おしゃべりな男がいた。伊籍、あざなを機伯と名乗った。かれはどうやら、ひと目で徐庶を気に入ったらしい。一通りのあいさつをし終わったあと、いまはちょうど手が空いているからといって、親切にも、襄陽城のあちこちを案内してくれることになった。その伊籍がいうことには、襄陽城の居城は、劉表が入るまでは、風紀が乱れきって、建物もぼろぼろで、荒みきった場所であったという。これを劉表がきれいに整えた。こと細かに指示をだし、いまのように、大幅に改修させ、居心地のよい場所となったという。とはいえ、ここにずっといると、『居心地がよい』となるのか、それとも、周囲に配慮し、あえてそう口にしているだけなのだろうかと、徐庶はひそかに疑問に思った。さらに伊籍は言う。劉表は、曹操が儒者をきらっていることをよく知っている...臥龍的陣番外編空が高すぎるその9
石広元が仕官を決めて襄陽から去って以来、徐庶、崔州平、孔明と、この三人は、以前よりもっと密にいっしょにいるようになった。たいがいのことでは馬が合い、仲良くしている三人であるが、たまに、その関係の均衡が崩れる。きっかけは、たいがい崔州平と孔明の喧嘩である。崔州平も意固地で、孔明はもっと意固地。二人が喧嘩をすると、殴りあいにならないぶん、長引くのだ。そして、いつもそのあいだに挟まれるのは徐庶である。今日もか、と思いつつ、うんざりして二人のあいだに割って入った。「おいおい、頼むよ、やめてくれ。まるで嫁姑の喧嘩に巻き込まれた亭主の気持ちだな。崔州平、おまえは孔明より年長なわけだし、孔明の性格はよく知っているだろう。孔明のなだめ方だってわかっているだろうに、どうして挑発するようなことばかり言うのだ。そして、孔明も、...臥龍的陣番外編空が高すぎるその8
いよいよ荊州牧の劉表と対面するときがきたというのに、困ったことに、孔明は機嫌がわるかった。いつもよりは地味目な色合いの衣裳をまとっていて、徐庶を引き立て役にすまいという気づかいは見られるのだが。しかし、顔はむすっとして、口をヘの字に引き結び、ただでさえ目立つのに、ぶっきらぼうな態度を隠さないために、襄陽城のひとびとから、訝し気な目線をあつめている。崔州平がせっかく仲介にたって襄陽城の官吏などを紹介してくれていても、孔明の機嫌があまりにわるいので、徐庶としても気が気ではない。孔明が機嫌がわるい理由はわかっている。徐庶が劉表に仕官することが気に食わないのだ。孔明は荊州牧の劉表にたいして、あまり高い評価をくだしていない。一方で、兄弟子の徐庶に対しては、かなりの高評価をくだしている。あえて孔明の本音をたどれば、『...臥龍的陣番外編空が高すぎるその7
※海の彼方を越えようとした者の話は知っている。大地の彼方を探訪した英雄の話も知っている。だが、空を飛んでみようとした者はいない。海も大地もすでに先駆者がいるのなら、自分は空を飛んでみたいと思わないか。かつて、みなで石広元の送別会をひらいたとき、主賓たる石広元が言い出したことである。夢見がちな石広元は、酔って頬が少年のように紅潮していた。まるで自分がたったいま、千里の彼方から戻ってきたかのように興奮して。石広元の問いに、まともに答える者はなく、妙に律儀なところを見せて、孔明が、空を行くなら、まずは飛ぶ算段を考えねば、と答えただけだった。孔明は真面目に答えたつもりだったようだが、これを茶化した孟公威が、「飛ぶなら仙人になるしかない」と言い出し、崔州平が、いつもは大人しい癖して、「天女をつかまえてその衣を奪うと...臥龍的陣番外編空が高すぎるその6
ほんとうに莫迦だな、と怒りをおさめて、徐庶は思った。自分のことを持ち出した連中のことではなく、人のために本気で怒った、孔明のことを、である。そして、孔明と自分とで、生まれも育ちもまったくちがうが、その性質は、兄弟のように似ているなと思った。かつて、自分も、故郷の町で人のために本気で怒り、そして怒りに流されて人を斬って、人生を狂わせた。おそらく、孔明も、同じ立場に立たされたら、同じようなことをするのではないだろうか。「一張羅をびりびりに、か。そういや、孔明の爪が伸びていたな」「泊めるのだろう。だったらついでに切ってやればいい」「そこまでやるか。自分で切らせる」「そう?たまに君たちが妬ましくなる。孔明が言っていたように、二人で田舎に引っ込んでいるのもいいのじゃないかい。それを許されているかぎりは、だが。けれど...臥龍的陣番外編空が高すぎるその5
こいつにも、似たような悩みがあるのだな、と徐庶は思う。思ったことを口にし、思ったとおりに行動しているように見える孔明だが、それは頭の回転があまりに早いから、思いつきで動いているように見えるだけのことである。ちゃんと考えているのだ。このところ、同年輩の弟子たちが、つぎつぎと進路を決めていた。ある者は家督を継ぎ、ある者は劉表に仕官、ある者は、故郷へ戻って、そこで認めてもらい、登用されていた。徐庶は司馬徽の私塾のなかで年長組に入る。それだというのに学業が遅れているという状況で、だれよりも焦らなくてはならない位置にいた。実際、焦っているのだ。そう見せていないだけで、これから先のことを考えると、暗い未来しか浮かばず、気持ちがふさぐ。ともに故郷の潁川から流れてきた石広元は、すでに早々と仕官を決めていた。そのことも、徐...臥龍的陣番外編空が高すぎるその4
「ご親切にありがとうよ。だが、それはやっぱりやめておく。俺は、文字を写すのが好きなのだ」「たしかに、むかしよりは上手くなったよ」あっさり徐庶に断わられて、不服そうな表情を浮かべながらも、孔明は、徐庶の書きつけた文字を見る。野性的な外見には似合わぬ、きっちり大きさも均一につづられた、几帳面な文字だ。一方の孔明は、これまた、柔和な女顔にまったく似合わない、飛び跳ねる魚のように奔放で力強い文字を書くのだが。「でも、文字が上手くなっても、よいところへ仕官できるとは限らないよ。文字はもう十分に上手くなったのだし、ちがう勉強をするべきだよ。こういったら怒るかもしれないけれど、勿体ないと思う。わたしは、徐兄は、ほかのだれよりもよいところへ仕官できると思っているのに」「そんなことを言うのはおまえだけだよ」「でも、わたしの...臥龍的陣番外編空が高すぎるその3
いや、いまは写生に集中しよう。そう思い、あらためて姿勢をただし、漆で淡々と文字を竹簡につづる。そうしていると、塾の入口で、がたっと、大きな音がした。だれかがやってきたようだ。きりがよいところまで筆を進めて、それからやってきた客を迎えようと顔をあげれば、それは、孔明だった。弟弟子《おとうとでし》の諸葛孔明。あいもかわらず、どこぞで喧嘩をしてきて、しかも負けたらしい。顔を腫らして、戸口の桟に寄りかかって立っている。「また目立つ化粧をしてきたな」孔明の顔の傷は、すでに変色をはじめていた。どうやら殴られたあと、しばらくどこかで気絶していたらしい。衣のあちこちに土や雑草の葉がくっついたままであるが、孔明はそれを取り払う余裕もない様子である。「負けたのか」「負けた」孔明ははっきりと言う。口の中は切っていないようだ。孔...臥龍的陣番外編空が高すぎるその2
徐庶は教室を見回して、点検した。床掃除は完璧だ。まるで鏡のようにうつくしく磨かれている。机もぴしりと見事に揃っていた。よく調練された兵卒のようだ。机のうえには、だれの忘れ物もなく、文房具もすべて所定の位置にととのえた。みなが全部帰って、掃除もすべて終わらせて、それから先が、徐庶の時間だ。ほかの裕福な弟子たちとちがい、徐庶には自分のための書物を買う金がない。だから、水鏡先生こと司馬徽にとくべつに頼み込み、書庫に積まれた書物を毎日コツコツと写させてもらっている。おかげで文字は上達したと、徐庶は自負している。徐庶は戦乱のために零落した官僚の家に生まれた。父は幼少時に死に、母や弟と、家族だけで生きてきた。物心がついてからは、母と弟を助けるため、そして守るため、みずから市井に出て、大人に混じって働いた。そうした境遇...番外編その1空が高すぎるその1
※梅がほころぶ美しい道を、しずしずと、雲を載せた車は移動する。やわらかい風に、芽吹いたばかりの木々が揺れている。耕されたばかりの畑からは、土の香りが立ちのぼっていた。あらたな道へ入っていくというのに、心はすこしもときめかず、未来への夢も希望も、なにも思い浮かぶことはなかった。行く手に待ち受けるものの、だいたいの予想がついているからであろう。車が進み、袁家がそろそろ見えてくるというとき、遠くから、おおい、おおいと、声をかけてくるものがある。車から身を乗り出して見ると、奇妙にちぐはぐな武具を身にまとった、幼馴染たちだった。先頭には、一番の仲良しである夏侯蘭がいる。彼らは駆けてくると、ゆっくりと進む車に近づいて、乗り込んでいる雲に顔を見せた。「よかった、追いついた。おまえに」夏侯蘭が言うと、別の車に乗っていた長...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その14
※翌朝には、もう屋敷に次兄の姿はなかった。湿っぽいのを嫌って出て行ったのだと誰かが言ったが、それに反論を加える者はいなかった。おそらく、そのとおりなのだろう。それから日数が経ち。袁家の婿取りの話しは、やはり雲に白羽の矢が立った。長兄の後押しもあり、話は戸惑うくらいに、とんとん拍子に進んだ。一度もまともに言葉を交わしたことのない花嫁のための贈り物がそろえられ、袁家からは、身を飾る、腕輪や指輪、婚約を祝う衣などが送られた。長兄以外の兄弟たちは、雲の幸運をねたんで、あれこれと嫌がらせをしてきた。だが、縁談がどんどん具体的になるにつれ、未来の袁家の若旦那を怒らせたらまずいとわかってきたようだ。次第にみな、大人しくなっていった。力を得るということの意味を、雲は、このことによりあらためて実感した。次兄のことで心を痛め...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その13
「末っ子、もうひとつ、言っておかねばならぬことがある」雲が怪訝そうな顔をすると、敬は親しげに、雲の頭を軽く叩いた。「おまえだけには話しておこう。じつは、わたしは今日、戻ってきたのではないのだ。もっと以前に常山真定に戻ってきていたのだよ。決まりがわるくて姿を出せなくてね。でも姿を見せることができて、すっきりした。顔を出そうと思ったのは、おまえが昔の自分に見えて仕方がなかったからさ。ついでに、おもしろいことをしてやろう。わたしは洛陽で、すこしばかり占術をかじってきたのだ。おまえの未来を占ってやろう」占いなんて、ぞっとしない。断ろうと思ったが、敬は雲の意思をまったく無視して、その顎をぐい、と掴むと、じっくりと、その顔をながめはじめた。雲は思った。自分が次兄に、未来のおのれの風貌を見ているように、次兄も自分に、か...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その12
母はここで、一生を過ごす覚悟を決めているのだなと、その姿を見て、雲は思った。母の幸福がなんなのか、それはよくわからない。ただ、母の幸福に、あまり自分が関わっていないだろうことはわかった。母の視野のほとんどを第一夫人が占めいている。夫人もまた、雲の母を頼りにしているようだ。その手を取って、しきりに切々と何かを訴えており、雲の母は我慢強く、それを聞いている。ほかの夫人たちを向こうにまわし、母は母なりに、第一夫人と、奇妙な友情を育んでいるのだ。「そのとなり」言われるまま、雲が視線を移すと、そこでは義姉が、自分の姪にあたる赤子を、やさしくあやしている姿があった。昼間は姑にいびられている兄嫁だが、夜は、こうして娘たちと、おだやかな時間をすごすことができる。灯火のもと、ささやかな幸福をこころから味わっているようだ。や...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その11
「さて、ついでに、なぜ夜中に呼び出したかを教えてやろうか。もちろん、おまえの縁談に関しての祝辞を述べるためさ。おまえが祝言を挙げるころ、わたしは戦場にいるだろうからな。おめでとう、末っ子。おまえの未来は約束されたようなものだ。大手を振って、幸運に向かって歩いていくことができる。わたしのように、遊学を理由に、この家から逃げなくて済むのだ」逃げる、の言葉に雲はどきりとした。この次兄は侮れない。「わたしは逃げたのさ。父上がああなる以前から、この家は埃っぽい、退屈な家だった」突然に話が切り替わり、雲は兄のほうを見ると、さきほどまでの笑みは消え、まじめな顔をしていた。そうして、体をかかえるような姿勢で、雲と、しゃれこうべのとなりにならび、闇のなかの故郷を、何物も見逃すまいといったふうに見つめていた。「とはいえ、母上...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その10
袁家のあるじは、嫌いではない。跡取り娘のほうは、顔を見たことはないが、夫人のほうはよく知っている。美人というわけではないが、陽だまりのような、ほっとする雰囲気のある、品のよい女性であった。袁家のあるじは、雲の父親とちがって、妾をもたずに、この妻にのみ尽くしているという。長兄のお使いで屋敷に行ったことがあるが、感じの良い、明るい空気につつまれた家だった。婿養子にいったら、その家族の一員として迎えられるのだ。「天下は乱れに乱れまくっておるぞ。常山真定に閉じこもっている分は、まださほど感じないでいるだろうが、やがて、戦火は全土に飛び火しよう。下手をすれば劉氏は斃れるやもしれぬ。そうなれば、もっとも皇位に近いのは、劉氏の一族ではなく、袁一族のだれかであろうな。いまのうちに、袁一族と縁を結んでおくことは、けして損で...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その9
※宴のあと、雲は敬に呼び出された。趙家の屋敷を一望できる、土塁のうえに来いという。土塁は、このところ力をつけている黒山賊の襲撃を避けるため、村のひとびとが総出でつくったものだ。厚い雲に覆われて、星空は見えない。ひゅう、と寂しげな風が、土塁のうえに生え始めている雑草をさわさわと揺らした。家は目の前にあるというのに、なぜか、この世に自分だけ取り残されてしまったような、さびしい気持ちになる。雲はおのれの体を抱えるようにして、寒風をやりすごした。土塁のうえに腰かける。いつだったか、長兄が機嫌のよい時に話をしてくれたが、この土塁をつくろうと言い出したのは父であったそうだ。「父上がまだ若くて、天下無双の槍の名手として鳴らしていたころは、襲ってくる賊を、ほとんどひとりで蹴散らしていたのだがな。事故を予見していたのか、あ...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その8
意味ありげなことばに、その場の全員の目線が、敬にあつまった。敬は、全員の視線を浴びていることを楽しんでいるかのように、一同をじっくり見まわしつつ、ゆっくりと言った。「このたび、義勇軍に入ることと相成った。それがしは、そこで大いに軍功をたてて名を成し、身を立てる。二度とここには戻らぬつもりだ」「なんだと、おまえのような優男に、義勇兵なんぞできるものか」袁家のあるじの悲鳴にも似た声に、敬はにやり、と不敵な笑みを浮かべた。「それがしが、だれの子か忘れてもらっては困る。常山真定の趙家のあるじといえば、この近在の悪人どもが震えあがるほどの槍の名手であった。その父の血を引き継ぐおれさ。出世はまちがいないであろう」「む、たしかにおまえの父君は、この近辺で知らぬものがないほどの剛力であったが」「そうだとも。父上、お国を荒...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その7
夜の宴は盛大なものとなった。なるほど、幼馴染たちが羨ましがるのも当然である。いったいどこから集めたのだろうと不思議におもうほど、近隣の珍味をかきあつめた贅沢なものだ。このところの凶作で食料がとぼしいなか、よくこれだけの料理ができたものである。雲が、しまりやの長兄にしてはめずらしいな、と思ってその顔をみると、あきらかに不機嫌そうだ。長兄のとなりでは、第一夫人…つまりはこの宴の主役たる敬の母…が上機嫌でいるところを見ると、押し切られて、贅沢な出費をせざるをえなかったのだろう。一室に閉じこもりの父も、穴倉から担ぎ出されるようにして、年若い妾とともに姿をあらわした。普段はそれぞれ別棟で、まったく別の家族のように過ごしている兄弟たちも、それぞれの母親をともなって、母屋にあつまってくる。いつもであれば、顔をあわせると...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その6
※長く家を空けていた次兄の敬が戻ってきた。いつもは時が止まったような趙家が、めずらしく華やかに動きだした。雲から見れば、これまでは、どいつもこいつも、蜘蛛の巣がかかっていてもおかしくない、というくらいに生気がなかったのに、いまは楽し気に宴の準備などをしている。たったひとりの出現で、変わるものである。「今夜は宴だそうじゃないか。親父から聞いたよ。上等の豚を屠るんだろう?」槍の練習にやってきた幼馴染みの夏侯蘭が、雲に言った。上等の豚、という言葉が出たとたん、ほかの仲間の少年たちも、槍をふるう手を止め、雲のほうを見た。少年たちはみな、あまり裕福でない家の息子たちだ。熱いまなざしを向けてくるかれらに、雲が、そうらしい、と答えると、少年たちはみな、羨望と、あきらめのため息をついた。どうあれ、かれらがその『上等の豚』...番外編しゃれこうべの辻その5
「おまえは、たぶん近在の子供のなかでも、いちばん賢い子だろう。それなのに、賊を相手に暴れるのが好きときている。ほれ、なんだっていつまでも、そんなしゃれこうべを持ち歩いているのだ。気味が悪いとは思わないのか」雲が持っているしゃれこうべは、ひとりで村はずれを探索していたときに見つけたものだ。裏街道からちょっとそれた小道の茂みに落ちていたのである。おそらく行き倒れの旅人の物だろう。そのもの言いたげなしゃれこうべの様子が気に入って、雲は、きれいに洗って、家にもって帰って、そばに置いている。古来、しゃれこうべは力の象徴でもある。頭骨は人間の英気の中心と信じられていたので、そこに故人の力が残っていると思われていた。それを信じたわけではないが、雲は、なんとなく自分を、この見知らぬ人のしゃれこうべが理解してくれているよう...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その4
※長兄という人は、母親に似た。いちばん父親に似たのは、末子の雲だという。それゆえ、父親は、雲に格別な思いを持っていたらしい。らしい、というのは、父がすでに右も左もわからなくなっている状態だから。雲からすれば、父親に、なにか特別なことをしてもらった記憶はない。雲にとって、物心ついたときから、父親は屋敷の奥で、若い妾に面倒をみてもらっている半病人。残酷なことではあるが、雲から見れば、父というよりは、棺桶に入りかけている老人にしか見えなかった。そんな雲の父親がわりは、長兄である。この長兄は、あまり愛想がない人であった。すでに結婚しており、子供もいたが、その生まれた子どもがどれも女の子ばかりだったので、末っ子の雲を自分の跡取りのようにして、面倒を見ていた。とはいえ、雲にはちゃんと母親がいるので、あくまで教育面では...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その3
少年が迷惑そうにしているのを、むしろおもしろそうに見ながら、男は言った。「さてはて、しかし寂しいぞ、観客がこいつだけとはな。ぼうず、こいつはどうした」男はふざけた調子で、柵にかけてあったしゃれこうべの頭をぺちぺちと叩いた。ますます少年は、きれいに整った眉をひそめる。男はそれを見ると、してやったり、というふうに、またも声をたてて笑った。「すまぬ、そう怒るな。変わった友達がいる奴だと思ったのだ。ぼうず、名前は?」「趙だ」「そうではない。名だ。それを言うならば、俺も趙だぞ」少年は、はじめて、しかめた眉を解いて、真正面から男を見た。いや、観察した。そういえば、この男の顔、眉のあたりが父に似ている。男は、村の少年たちが踏み荒らした地面を見て、「ふん、人望がないわけではないのだな。ひとりぼっちというわけではないらしい...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その2
少年が槍をふるって、たったひとりで練習を重ねている。それはもはや、村の風景のひとつになっていたので、いまさらめずらしがってかれに声をかけるものはない。通りすがりの村人たちは、倦むこともなく、汗を散らしながら槍をふるう少年を見て、あきれたような、感心したような目をむけていた。さっきまで、おなじ年頃の少年たちも、一緒に稽古にはげんでいたのだが、いまはいない。少年以外の子供たちとっては、槍の稽古は楽しい遊戯のひとつにすぎないのだ。かれらは、村の鐘楼が夕暮れをしらせるころには、家の手伝いをしなければならなくなるので、片付けもそこそこに帰ってしまう。寒風に乗って、集落たちのささやきが聞こえてくる。趙家の末の子は、父親に似ず、まじめで熱心だ…あるいは。だんだん、父親の若いころに似てきた…似るだけならよいがなあ。あれも...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その1
新野にいたであろう壺中の目をくらますため、劉備と張飛は、劉封と麋竺に新野をまかせ、自分たちは一路、南の襄陽城へと向かっていた。相手を刺激しないように、供の兵の数も最小限にとどめた。そも、新野をあまり留守にはできない。この状態で曹操が南下してきてしまったら、目も当てられないことになるからだ。そろそろ襄陽城が見えてくるころあいで、おかしなことが起こった。先導していた供の者が、街道の先で、劉豫洲を待っているという人物に遭ったというのである。「どんな男だ」「それが、身なりの良い、いかにも士人といったふうの人物です」言いつつ、伴の者は、その士人が示したという名刺を劉備に示す。そこには、流麗な文字で、『零陵の劉子初』とあった。その名に心当たりのあった劉備は、おもわず、ほお、と声を上げていた。劉備の感嘆の声をきき、興味...臥龍的陣終章
※胡偉度は、義陽の実家になんぞ帰りたくないと、ぎりぎりまでごねた。だが、嫦娥に、母も父も殺されてしまった幼い弟たちを、いったいどうするのだと説得され、結局、しぶしぶながら、養生をかねて帰ることになった。しかし、偉度の様子からして、大人しく義陽に留まっているとは思えなかった。「別れの言葉を告げねばならぬのに、これほど意味がないように思えるのも珍しいぞ。偉度、なんだかお前とは、まだまだ縁があるような気がする」孔明が言うと、偉度も相変わらずの憎まれ口を叩いた。「それはそうでしょう。襄陽城で、かならずおまえを更正させてやると大口を叩いていたではありませんか。あいにくと、この性分は、ちょっと休んだだけでは治りませんので、あしからず」要するに、怪我さえなければ、おまえにひっついていたいのだろうと趙雲が解説してくれたが...臥龍的陣太陽の章その111再び会う日まで
※夏侯蘭は、趙雲が再三、引き留めたにもかかわらず、けっきょく首を縦に振らずに北へ去っていった。「妻の墓に良い報告をしたいのだ。それに、おれを助けてくれたやつに、報告をせねばならぬからな」夏侯蘭の目には、新野で再会した時のようなすさんだ光は、もうない。その代わりに、夏侯蘭は、穏やかな顔をしている一方で、どこか虚脱したような、疲れた雰囲気もただよわせていた。背には、塩漬けになった劉琮の首がある。襄陽城にいまも存命である劉表や蔡瑁への取引材料になるであろう劉琮の首を、夏侯蘭に持たせてもよいのか、趙雲は孔明にたしかめたが、孔明はあっさりとこう言った。「たとえわれらが首を示して、劉琮は『狗屠』として討ち取られたと言っても、向こうはすでに影武者を用意して、われらの主張をはねのけることだろう。劉表は人事不省の状態だから...臥龍的陣太陽の章その110友の再出発