メインカテゴリーを選択しなおす
※周瑜が柴桑《さいそう》城へ到着すると、魯粛が待ち受けていた。かれの満面の笑みを見て、周瑜は互いにことばを交わさぬうちから、『開戦か』と判断した。どうやら、夏口からやってきた劉備の軍師は、なかなかの口達者らしい。「決まったのか」確認のため、端的にたずねると、魯粛は大きくうなずいた。「決まりました。いま、孫将軍が開戦を宣言なさるところです」「そうか、わたしは間に合ったのだな」「間に合うも何も……もちろん、公瑾どのを待っての宣言となりましょう。貴殿がいらっしゃらなければ、わが軍は回りませぬ」魯粛のほうをちらりと見れば、かれがお追従《ついしょう》ではなく、本気で言っているのが見て取れた。顔が笑っていない。「ところで、劉豫洲の軍師という人物は、どうだ」「孔明どのですかい、噂にたがわぬ傑物ですよ」「どのように」「弁...赤壁に龍は踊る一章その16敵対の予感
オオアラセイトウ(大紫羅欄花)別名ムラサキハナナ(紫花菜 )
またの名をショカツサイ(諸葛菜)。 この諸葛とは三国志で有名な諸葛孔明(181~234年)のことです。 諸葛亮孔明が南征の際に兵士10万人のビタミン欠乏症(原因は兵糧の野菜不足)に対処するため、地元民が食べていたこの植物に目をつけて陣営の周りで栽培し、兵士に食べさせたという...
※拳《こぶし》の手当てをしてもらったあと、孫権と対面した。孫権と、そのそばには孫策から後を託されたといって張り切っている張昭がいる。周瑜はそのとき、両者にどう言葉をかけたのか、よくおぼえていない。これから江東を守り抜くため、互いに力を合わせて弟君を盛り立てていきましょうということを張昭に言ったのだろう。張昭は満足した顔をしていたが、しかし孫権は突然の事態に頭が追い付いていないようで、まだうつろな顔をしていた。孫権とひさびさに顔を合わせて、周瑜はざんねんなことに、かれはあくまで伯符(孫策)の弟であって、伯符本人ではないなと思ってしまった。かつて初めて舒《じょ》にて孫策と会ったとき、そのはつらつとした明るさと、見る者を陶然とさせるほどの美しさを見て、周瑜は、この大地に、はじめて仲間を見つけたと思った。周瑜は育...赤壁に龍は踊る一章その15周瑜の思惑
「于吉《うきつ》とは……たしか世を騒がしている道士だったな」于吉仙人と呼ばれ、民から厚い支持を受けている道士の名が、于吉という。かれは瑯琊《ろうや》出身だが、江東に流れてきており、精舎をたてて符や聖水などをつかって、民の病気をなおしていた。その求心力は孫策も無視できないもので、常日頃からおもしろくなく思っていたという。黄蓋は苦々しく言う。「伯符さまが城門の楼のうえで会合をひらいていたとき、たまたまなのか、わざとなのか、于吉が門の下を通り過ぎたのです。人々はそれを見ると、伯符さまそっちのけで于吉を拝みだしました。さすがに宴会係がこれを止めようとしたのですが、それでも誰も言うことを聞かず……これを由々しきことだと思われた伯符さまは、于吉を捕えてしまわれたのです」「瑯琊の于吉は、太平道の祖ではないかという話も聞...赤壁に龍は踊る一章その14小覇王の想い出その3
やがて、周瑜は孫策の遺体が仮埋葬された長江のほとりの街、丹徒《たんと》に到着した。春という季節もあり、すでに遺体が傷み始めていたということで、かれの死に顔を見ることはできなかった。白い喪服を着て、大きく哭礼《こくれい》をつづけている人々を見て、周瑜は呆然と立ち尽くした。つねにきびきびと動き回り、いかなるときでもおのれを見失わない周瑜にとって、孫策の死がほんとうのことなのだと実感することは、まだできなかった。孫策の妻の大喬が髪を振り乱して泣いている。母親もまた、立ち上がれないほどに取り乱し、侍女たちに支えられながら、子の名を何度も呼んで泣いていた。弟の孫権は、背中を丸めて座り込み、うつむいて声もたてない。泣いているのか、それすらもわからなかった。家臣たちもそれぞれ嘆き悲しんでいたが、そのうち黄蓋《こうがい》...赤壁に龍は踊る一章その13小覇王の想い出その2
※鄱陽湖《はようこ》のほとりに滞在する周瑜のもとに急使がやってきたのは、孔明が孫権の説得に成功してからすぐであった。周瑜としては、孫権が開戦を決めたことにおどろきはなかった。いまは亡き小覇王・孫策が血みどろの努力を重ねて得た土地。その苦労をしっている孫権が、よそ者たる曹操に無傷で明け渡すはずがないと確信していたのだ。柴桑《さいそう》に向かうため、身なりを整える。その出立の準備は、同行している妻の小喬がやってくれた。三十路に入ってもなお、人の目を奪うほどのみずみずしい美しさをそなえている小喬は、無言で周瑜のからだを飾り立てていく。それに周瑜も無言でこたえながら、そういえば、曹操は、わが妻と義姉を狙っているという下世話な噂があったなと思い出していた。曹操が好色な男だというのは江東の地にも聞こえていて、その魔の...赤壁に龍は踊る一章その12小覇王の想い出その1
「曹操は百万の兵を率いてやってきたのだぞ。それなのに、平然としておられるものか。第一、その曹操に敗れて江夏に逃げ込んだのは、どこのどいつだ」「それは決まっております、われらが劉豫洲は、斉の壮士・田横のごとく義を守る者。しかも漢王室の末裔であり、なおかつ優れた力量をもっておられる英才です。いまでこそ敗走した身ではありますが、やがて水が海へ流れていくように、天下もまたわが君のもとへ流れてくることでしょう。仮にこれがうまくかなかったときは、天命というもの。そうとわかっているのに、なにゆえ曹操ごときを恐れ、これに仕えられましょうか」「曹操ごとき、か。口では何とでもいえよう。それでは、劉豫洲は漢王室に殉じる覚悟というわけだな」「もちろん。孫将軍にはもはや関係のない話かもしれませぬが、われらはあくまで漢王室復興を目指...赤壁に龍は踊る一章その11響いた太鼓
※『見られているな』というのが趙雲の第一印象だ。孫権のいるという奥堂につづく長い廊下をいくあいだも、だれかに見られている気配を感じた。黄蓋はひとことも余計なことをしゃべらず、もくもくと孔明と趙雲を先導する。趙雲はあたりに目を光らせながら、異変が起こらないよう気を配っていた。それというのも、孫権が自分たちを捕縛しないという保証は、まだないからである。さきほどの家臣たちの様子からするに、降伏派のほうが弁の立つ連中がおおく、優勢のようだった。それに押されて、孫権が降伏にこころを傾け、劉備の使者としての自分たちを捕縛し、曹操に引き渡さないともかぎらない。それを避けるため、すでに魯粛に頼んで小舟を用意し、胡済をそこに待機させている。逃げる手はずは整えてある。だが、問題はこの城内から出られるか、であった。こちらを見張...赤壁に龍は踊る一章その10孫権との対面
2020年 (149-1) ひと足お先にお花見を@京都府立植物園24Mar18
*** スタイル *** 《春の装いを♪》と思ったんだけど予報=『気温が低く風が強くて寒いでしょう(^^)』厚手のジャケット&スカートにアンクルブーツで妥協…
【パリピ孔明】2023年10月~12月放送のドラマランキング Part11
◆第011位 『パリピ孔明』 評価:080点/脚本:根本ノンジ/フジ/水曜22時/出演:向井理・上白石萌歌/全10話/平均視聴率:4.5% 2019年以降、…
すると、その隣にいた棒切れのような細長い顔の男が叫んだ。「率直にお尋ねする。曹操とは?」「漢室の賊臣なり」細長い顔の男は、小ばかにしたように鼻を鳴らした。「よくもまあ、いい切れるものよ。漢の命運は尽きているのは童子でもわかること。一方の曹丞相は天下の三分の二をすでに治め、良民もかれに付き従っておる。そんな曹丞相を賊呼ばわりするということは、名だたる帝王たちや武王も秦王も高祖も、みな賊となってしまおうぞ」おどけてみせる細長い顔の男の態度に、それまで穏やかな笑みを浮かべていた孔明は、急に顔をこわばらせると、これまでより声高に言った。「その無駄口を叩く口は閉ざされていたほうがよろしかろう。貴殿の言は父母も君主もない人間のことば。そもそも、曹操は漢室の碌を食みながら、邪悪な本質をあらわにし、天下の簒奪を試みている...赤壁に龍は踊る一章その9舌戦その2
急に空気がぴりっとしたのを受け、初老の男はこほん、と軽く咳をしてから言った。「わが名は張昭《ちょうしょう》、あざなを子布《しふ》という」「おお、ご高名はかねがね耳にしております」孔明は軽く礼を取る。張昭は慇懃に、うむ、と答えてから語りだした。「遠路はるばるいらした劉豫洲の使者に向けていうことばではないかもしれぬが、聞いてほしい。われらと同盟を組みたいと劉豫洲はおっしゃっているが、それはつまり、手を組んで曹操軍と戦おうということであろう?しかしその肝心の劉豫洲は、劉表の死後、荊州を取ることもできず、新野も追われ、みじめな逃亡を余儀なくされた。そも、荊州を取らなかったのは何ゆえか」「それは愚問ですな。わが君はもとの州牧である劉表どのとは同じ宗室ですぞ」「宗室か。つまり同族だからと言いたいのかね。ところで貴殿は...赤壁に龍は踊る一章その8舌戦その1
※魯粛の先導で柴桑城内へ向かう。城のまえには、馬だの馬車だの鹿車だのがずらりと並んでいて、ありとあらゆる身分の家臣たちがこの城内につどっていることが知れた。主人を待つ従者や御者たちの顔もまた、弛緩しておらず緊張しているように見えるのは、おれが緊張しているせいかな、と趙雲は思う。孔明はあいかわらず涼しい顔だ。客館には、胡済が待機している。変事があった場合は、用意した小舟に移動し、二人を待つよう指示を出しておいた。さすがの胡済も、この指示にはぶうぶういうことはなく、おとなしくわかりましたと答えてくれた。やがて城内に入ると、がやがやと大広間を中心に声が聞こえてきた。どうやら雑談しているなどと言う穏やかなはなしではなく、喧々諤々《けんけんがくがく》の議論が交わされているようだった。見れば、それぞれ五十名ほどの正装...赤壁に龍は踊る一章その7舌戦はじまる
趙雲は周瑜と胡済が会った……あるいは再会した場合の「まずさ」について、素早く頭を回転させた。まず、胡済が刺客として江東に派遣されたことがある場合で、周瑜がそれを知ってる状態が、いちばんまずい。孔明が、かつて自分の命を狙った人物を連れてきたと思われてしまう。それでは喧嘩を売りますよと思っているのだと、勝手に受け止められてしまってもおかしくない。胡済だけが周瑜を知っていて、向こうが胡済を知らない、というのが一番穏便だ。胡済はおもしろくないだろうが、ここは我慢してもらうほかない。どちらかわからない以上、二人を対面させる機会はないほうがよさそうだ。「偉度と周公瑾を会わせるのはまずいな」趙雲が言うと、孔明もわが意を得たりという風に深くうなずいた。「周公瑾がまだ鄱陽湖《はようこ》にいるというのは幸いだ。明日、いきなり...赤壁に龍は踊る一章その6打ち合わせその2
※ともかくゆっくり休んでくれと魯粛は言い残し、夕暮れに客館から去っていった。あとのもてなしは、館の主人がしてくれて、三人はひさびさに温かい食事にありつけた。食事のあとは、明日へのかんたんな打ち合わせをし、それから解散となった。趙雲もあてがわれた部屋へもどる。どこからか、楽器こそ言い当てられないが、練習をしてるのだとおぼしき楽の音が聞こえてきた。客館のあるじに聞くと、近くで女楽(芸妓)が練習しているのだという。たびたび音を外すその音楽を聴きながら、そう言えば、周瑜という男は楽団が演奏しているとき、ちょっとでも誰かが音を外すと、その外した者のほうを振り返るのだったと、趙雲は思い出していた。周瑜はけっこう細かい男らしい。その話には、『江東の美周郎は音楽も解する、優雅で知的な貴公子』という意味合いが含まれているこ...赤壁に龍は踊る一章その5打ち合わせ
ほどなく、客館の主人が気を利かせて、茶とあんずの干したものを卓のうえにだしてくれた。みな、ありがたくそれを口にする。旅の疲れに茶の渋みと、あんずの甘味はほどよく沁みた。「ところで、孫将軍のところにはどなたが集まっておられるのです?噂の美周郎どのはすでにいらしているのですか?」あんずをぺろりと平らげた胡済の問いに、魯粛は、おや、というふうに答えた。「あんたは美周郎どのを知っているのかい、ご期待に沿えなくて申し訳ないが、公瑾どのはまだ鄱陽においでだ。水軍の調練で忙しいから、あとから柴桑にいらっしゃるだろう」「そうですか」「そう。それと、だ」魯粛は居住まいを正して、孔明をまっすぐ見た。「船の中でも打ち合わせで言った通り、孔明どのはざんねんながら歓迎されないだろう。いま、孫将軍のまわりでは降伏派が優勢なのだ」「な...赤壁に龍は踊る一章その4不審な胡済
「客館とやらは、まだ遠いのですか、くたびれてしまいました」ぼやきはじめたのは、胡済《こさい》、あざなを偉度《いど》である。趙雲がものめずらしさに、あたりをきょろきょろしているのに対し、胡済は十五という年に似合わず落ち着いていた。むしろお上《のぼ》りさんのようになっている趙雲に、「何が珍しいのやら、主騎なら軍師どのだけ見ていればよいものを」などと嫌みを言ってくるほどだ。あいかわらず、はりねずみのようなやつ、と趙雲はすこしむっとするも、相手が加冠しているとはいえ、まだまだ中身は子供であるから、本気で怒りはしない。「客館はもうすぐだよ。おれたちが帰って来たことは先に伝えてあるから、すぐに休めるようになっているはずだ」「段取りのよいことで」「まあな、そういうのは得意なのさ」魯粛は胡済の嫌みに近い言葉も気にせず、陽...赤壁に龍は踊る一章その3客館に到着
※柴桑《さいそう》への道中は、魯粛がのべつまくなしに江東の地の解説をしてくれることもあり、退屈するということはなかった。とくに趙雲は、これまで荊州から東南へ行ったことがなかったので、見るもの聞くもの、すべてがあたらしい。道中に目にするいかにも神仙がいそうな奇岩や、剣山をひっくりかえしたような山々は見ていて面白かった。刈り入れの終わった田圃《たんぼ》には落穂ひろいをしている女たちのほか、野鳥がにぎやかにさえずっていて、あぜには子供らが遊ぶ声がひびく。集落のまわりには冬支度をはじめている柴を背負った男たちの姿がある。かれらは遠くにいてその表情を見ることはできなかったが、おそらくだれもが穏やかな顔をしているだろう。まず思ったのは、江東は噂通り、豊かな土地だな、ということだった。未開の地と馬鹿にする中原の人間もい...赤壁に龍は踊る一章その2柴桑の街へ
ながくつづいた長江を下る旅は終わった。脚の裏が大地についたとたん、趙雲の口から思わず安堵のため息が出た。船に揺られっぱなしの旅であった。夏口から船に乗った趙雲と孔明らは、長江をくだり、豫章郡《よしょうぐん》柴桑県《さいそうけん》へたどりついたのだ。そこに討虜《とうりょ》将軍・孫権が滞在しているからである。趙雲の船酔いは、この船旅があと三日続いていたらと思うと、さすがに勘弁してほしいと弱音を吐きたくなるものだった。曹操より先んじて動かねばならないという焦りもあるから船は急いでいて、それがまた揺れを加速させていたからだ。魯粛も孔明も、趙雲とおなじ北の人間だというのに、ケロッとしていて船酔いの気配すらなさそうである。かれらは暇さえあれば上陸後の打ち合わせをしていた。もうひとり、孔明が無理やり江夏からつれてきた少...赤壁に龍は踊る一章長江を流れ下りて
※漢水《かんすい》のわたしで、あれほどの恐怖を味わっていたのが嘘のように、船に乗ったひとびとは、穏やかな航路をたのしんでいた。曹操軍はまだ荊州の水軍を把握しきれていないようすで、追ってこない。趙雲は、なみだで腫れた顔を冷まして、真水で顔を洗い、それから劉備の元へ向かった。途中、なつかしい顔と再会した。夏に樊城《はんじょう》で別れた切りになっていた、胡済《こさい》である。地味な衣をまとっているが、その目もさめるような美貌は変わっていなかった。「生きていらしたのですね、よかったです」と、なかなか可愛らしいことをいうな、こいつも成長したなと思っていると、中身はまったく変わっておらず、つづけた。「あなたがたが心配だったようで、軍師は連日徹夜ですよ。倒れるんじゃないかとひやひやしていましたが、今日でそれもおしまい。...地這う龍五章その8東へ
空に、大きなはやぶさが飛んでいた。くるくると輪をかきながら、飛んでいる。陳到が叫んだ。「明星《みょうじょう》だっ!」あるじの呼びかけに、はやぶさが、きぃぃぃ、と高らかに鳴いた。と、さきほどはあれほど目を凝らしてもまったく見えなかった船団が、東のほうから、靄を破って、凄まじい勢いでこちらへ近づいてくるのがわかった。「船だあっ!」「軍師たちが戻って来たぞ!」「やった、感謝するぞ、孔明、雲長!」感激のあまりか、劉備がめずらしく感極まった声を出す。それに呼応して、葦原に隠れていた民も、岸辺に飛び出して、船に向かって、おおい、おおいと手を振りはじめた。船がやって来たのが曹操軍にも見えたようである。突撃命令がくだるのを待つばかりだった曹操軍が、船からの攻撃を恐れたのか、動きを止めた。船はあっという間に帆に風をはらみつ...地這う龍五章その7歓喜と涙と
※長阪橋を燃やしたのがまずかったらしく、いったんは罠をおそれて退いた曹操軍は、すぐにまた追撃を再開してきた。橋を燃やすということは、むしろ罠などないのだと曹操が看破したためであろう。その点は、張飛を責められない。張飛は張飛で、せいいっぱい時間を稼いだのだ。相手が曹操でなければ、あるいは、もうすこし展開がちがったのかもしれないが。そんなことをかんがえても詮無《せんな》いなと、趙雲はふたたび馬上のひととなりながら、おもう。残っていた手勢は、しつこく曹操軍に追い散らされつづけているうちに、さらに減っていた。逃げに逃げて、いま、漢水のほとりに追い詰められている。ちょうど趙雲たちの北に、漢水《かんすい》は流れていた。夜明けとともに川面に靄が発生し、おかげで劉備たちは守られている格好だ。足元は、馬にとっては戦いづらい...地這う龍五章その6空を見上げて
そういえば、劉琦の愛妾を助けに行った胡済《こさい》の姿が、まだ見えない。気になって、孔明は涙ぐんでいる伊籍《いせき》にたずねる。「胡偉度《こいど》を見かけませんでしたか」「ああ、あれなら、桃姫《とうき》の監禁されている部屋に行ったようです」「戻ってくるのが遅すぎます、なにかあったのかもしれない。その部屋に案内していただけませぬか」孔明が言うと、それまで喜びの笑みを浮かべていた伊籍が、ふっと表情を暗くした。「いけませぬな、偉度は、桃姫を恨んでおりますゆえ」「恨む?なぜです」一瞬、桃姫を胡済も気に入っていて、なのに劉琦のものになってしまった、それで恨んでいる、という空想がよぎったが、つぎの伊籍のことばは、思いもかけないものだった。「偉度は桃姫さえいなければ、劉公子の名誉は汚されなかったはずだと言っておりました...地這う龍五章その5孔明の不安
※鄧幹《とうかん》の使者はすっかり怯え切って、まともに左右の足を前に出すことすらできなかった。それでも、なだめたり、脅したりしながら、江夏城の門の前に立たせる。「か、開門!宴より帰って来たぞ」緊張で声が裏返っている。まずいな、と隠れて様子を見ていた孔明はひやひやしたが、場慣れている関羽たちは涼しい顔である。「門さえ開いてしまえば、こちらのものだ」と、関羽は頼もしいことを言った。門の前には、鄧幹の使者と空っぽになった酒甕《さけがめ》の乗った荷車、舞姫や芸人たちがいる。だが、じつのところ酒甕は空っぽなどではなく、中に兵が潜んでいる。また、芸人に関しては、関羽が選りすぐった決死隊が化けた者に変わっていた。そのなかには、武者姿となった胡済《こさい》の姿もある。門が開いた。鄧幹の使者は、門に入るなり、「お、お助けえ...地這う龍五章その4江夏城へ突撃
※「あなたなら、すぐにわたしだと分かってくださると思っておりました」と、大胆におしろいを取りながら、胡済《こさい》は言った。おしろいを取っても、その地肌の抜けるような白さは相変わらず。山猫のような大きな目と、全体の顔の作りのおさなさと愛らしさとが相まって、胡済はやはり、美少女にしか見えない。だが、喉元を見れば、のどぼとけがあるので、きちんと少年だとわかる。舞姫に扮していたときは、うまく首に布を巻いて、誤魔化していたのである。幕舎の一つを借りますよと胡済はいい、しばらくそこで着替えてから、すぐに地味な衣になって戻って来た。「男か、ほんとうに?」まだ疑いのまなざしを向ける孫乾《そんけん》に、孔明はとりなすように言った。「この者の身元は保証しますよ。義陽の胡済です。あざなは偉度《いど》。わたしがあざなを授けまし...地這う龍五章その3江夏の事情
しばらくすると、野営にいつもより多めの篝火が焚かれ、鄧幹《とうかん》の使者がもってきた大量の酒甕《さけがめ》の蓋があけられた。酒の酔い香がぷうんとあたりに漂い、それと同時に気の利く芸人たちが、それぞれ楽し気な音楽を奏ではじめた。すると、舞姫たちはあどけない少女の顔を一変させ、蠱惑的な舞を披露しはじめる。篝火のした、長袖をひらひらと宙に舞わせて、音楽にぴたっと合わせて踊るさまは、幻想的ですらあった。それまで、関羽らとともに、ぶうぶう不平を言っていた者たちも、舞姫たちの見事な踊りに、見とれ始めている。鄧幹の使者に言い含められているのか、芸人たちはすかさず将兵たちの間に入って、杯に酒をついでまわりはじめた。孔明のところにも芸人がやって来た。一瞬、毒はないかなと疑ったが、鄧幹の使者の平然とした顔色を見て、大丈夫そ...地這う龍五章その2舞姫、踊る
※江夏《こうか》にいる孔明は、陳到に託されたはやぶさの明星《みょうじょう》の面倒を見ていた。鄧幹《とうかん》とやらの使者のひとりに、ねずみの干したのはないかと尋ねたが、そんなものはない、干し肉でがまんしてくれ、と言われた。そこで、贅沢だなと思いつつ、明星に干し肉を与えることにした。明星は、こんどこそうまそうに肉をつついている。「いつになったらわが君のところへ戻れるのであろうか」ひとりごとをつぶやきつつ、江夏の河岸に目をやる。江夏の港では、船が波に揺られて浮いていた。船乗りの数もじゅうぶんなようだ。江夏太守である劉琦《りゅうき》さえ動かせれば、いつでも出発することができる。しかし、かれはいま、江夏城の奥底に隠され、なぜか名の知られていない土豪の鄧幹が江夏を仕切っている。事情をよく吟味してみれば、関羽が足止め...地這う龍五章その1宴を前に
※地平を埋めつくす曹操の兵。何万人いるのだろうかなあ、と張飛はかんがえる。何万いようと、関係ないのだが。それぞれの大将の名を染め抜いた旗がひるがえり、こちらを威嚇しているのが腹が立つ。兵の中央には天蓋があり、その下に、稀代の姦雄・曹操がいるのはまちがいなかった。やつはおれを見ている。おれもやつを見ている。趙雲が引っ掻き回した戦場は、すでに落ち着いていて、いまは耳に痛いような静寂に包まれていた。曹操の兵は、橋を突破せんと集まって来たのだ。しかし、単騎で橋を守る張飛の姿に怖じて、先に進めなくなっている。おそらく、なにか策があるのではと疑っているのにちがいない。しかし実際に、張飛には策があった。橋の背後の木立に兵をひそませ、縄でもって、木立をしきりに揺らさせていたのだ。そうすることで、伏兵があると、曹操側に疑わ...地這う龍四章その18張飛の咆哮
※趙雲の行く手に、よく顔の似た、大男二人組があらわれた。「おれは鍾晋《しょうしん》だ」「こっちも鍾紳《しょうしん》だ」似たような声で自己紹介する男たちに行く手を阻まれ、趙雲は小さく舌打ちをした。というのも、これまでがんばってくれた馬が、そろそろ限界にきていることがわかったからだ。あまり長くは戦えない。第一、趙雲自身も疲れ始めていた。張郃《ちょうこう》という気の抜けない相手と長く戦いすぎたせいである。あいつさえいなければ、曹洪《そうこう》の首をとれたものを。そしたら、この惨状に一矢報いることもできただろうに。そう思うとむかむかした。大男たちは二手にわかれて、趙雲を右と左で挟撃しようとする。「もうすこしがんばってくれよ」趙雲は、馬の首を軽く撫でてから、一気に動き出した。鍾晋のほうが槍を突きだし、鍾紳のほうは矛...地這う龍四章その17英雄の帰還
趙雲もまた、自分めがけてやってくる武者の姿に気づいたようである。雑兵《ぞうひょう》を片付ける手を止めて、振り返る。その返り血を浴びた顔には、人間らしい表情の揺れはない。「貴殿は、平狄将軍《へいてきしょうぐん》の張郃《ちょうこう》どのであったな」混乱の中心にあってなお、声が震えるわけでもなし。その胆力に、張郃はおもわずごくりと唾をのんだ。「そうだ。常山真定《じょうざんしんてい》の趙子龍、久しいな」「先へ急ぐ。そこをどいてもらおう」「たわけたことを!これより先には進ませぬ!その首、土産に置いていくがよい!」言いざま、張郃はぶぅん、と槍で趙雲を薙ぎ払おうとした。だが、趙雲は難なくそれを避ける。張郃は舌打ちしつつ、槍をかまえ直して、今度は首もとめがけて槍で突く。しかし、趙雲は自身の槍で、その攻撃を払った。だが張郃...地這う龍四章その16いまは地に這うもの
※張郃《ちょうこう》は、目の前にひろがる無残な光景に、いきどおりをおぼえていた。かれは徹底して武将であったから、将兵が傷つくことには慣れている。だが、いま目の前に転がっている死体の数々は、ほとんどが名もなき民衆だ。老親をかばいともに倒れた親子、けんめいに逃げようとして背中から殺されている男、略奪の憂き目にあったうえで殺された女の姿もあれば、子供を腕にしっかりと抱いたまま、息絶えている母親の姿まであった。これが劉備についていった民の末路なのだ。「やつは悪鬼か、民を盾に自分だけ助かろうとは!」苛立ちをこめつつ、のこされた劉備の兵が立ち向かってくるのを、なんなく屠《ほふ》る。劉備の兵たちもまた、曹操軍をこれ以上進ませまいと、必死の攻撃を繰り出してきた。あわれである。十日以上、ほとんどろくに食べていないような兵と...地這う龍四章その15対決ふたたび
※夏侯恩《かこうおん》のむくろのそばに、青釭の剣が落ちていた。趙雲がめずらしそうに、それを手に取ってしげしげとながめていたので、夏侯蘭《かこうらん》は言う。「それは夏侯恩が曹操から下賜された宝剣で、青釭《せいこう》の剣というやつだ。鉄でもなんでも、水のように斬ってしまうといわれている」と言いつつ、無念そうな顔をしてたおれている夏侯恩を見下ろす。「この御仁には、過ぎた宝物だったようだな。子龍、それはおまえが持つがいい」「ちょうど俺の剣が刃こぼれしてきたところだ。ありがたく頂戴するとしよう」そういって、趙雲が鞘ごと宝剣を手に入れていると、麋竺《びじく》がやってきた。「おおい、無事か!」と、夏侯蘭と玉蘭たちを見つけて、麋竺は声をはずませた。「なんと、我が妹をたすけてくれたのは、そなたたちであったか!」「子仲《し...地這う龍四章その14囮
夏侯蘭《かこうらん》に迷いはなかった。兵をかき分けると、玉蘭《ぎょくらん》たちと夏侯恩《かこうおん》のあいだに滑り込み、夏侯恩の刃を、みずからの剣の刃で受け止めた。がきん、と凄まじい、耳をつんざく音がする。夏侯恩がおどろきに目を見開く。その目線を受けて、夏侯蘭は、にやりと精一杯の意地で笑って見せた。ぎり、ぎり、ぎり、と青釭《せいこう》の剣とやらの刀身の先が、おのれの刃を削っていく音がする。だが夏侯恩の姿勢が、どこかへっぴり腰なのが幸いした。夏侯蘭は力任せに夏侯恩をはじき返すと、すぐさま剣を持ち直し、夏侯恩とその兵士たちの前に立った。弾かれ、倒れた夏侯恩は、怒りで顔を真っ赤に染めて、叫ぶ。「夏侯蘭、きさまっ、裏切るのか!」「もとより、貴様らに力を貸すつもりはなかったさ!」夏侯蘭に手柄を立てさせてやろうという...地這う龍四章その13夏侯蘭の奮闘
※「劉備の女房がいるぞ!」だれかがそう叫んだことで、夏侯恩《かこうおん》の軍兵たちの目の色が変わった。それというのも、夏侯蘭《かこうらん》があまり熱心に先導しなかったことと、戦に慣れていない夏侯恩の要領の悪さのせいで、かれらはほかの軽騎兵たちとはちがい、まったく功績らしい功績をあげられていなかったからだ。劉備の妻を捕獲したとなれば、曹操から褒美がもらえる。しかも、さいわいというべきか、女は背後に男の子をかばっていた。「これが阿斗でしょう」と、夏侯恩のかたわらにいる老兵が夏侯恩に耳打ちをしている。かれらには、阿斗がいくつくらいかという正確な情報が届いていなかった。「はて、さきほど馬で逃げた女は何者だろう?」夏侯恩が首をひねるのを、老兵がまた答えた。「侍女ではありませぬか」「左様か。どちらにしろ、劉備の妻子を...地這う龍四章その12再会
麋夫人《びふじん》は、それでも玉蘭《ぎょくらん》と阿瑯《あろう》をこの地に残すことをためらった。だが、そうこうしているうちに、どんどん廃屋に曹操の兵の気配が近づいてきている。「おそらく水を得ようとしているのでしょう。わたくしたちは、なんとでもなりますわ。さあ、行って!」玉蘭は言うと、馬の腹を手で思い切りたたいた。それを合図に、馬は南へ向かって走り出す。とつぜん動き出した馬に食らいつくのが精いっぱいで、麋夫人は玉蘭たちを振り返ることができなかった。『どうか、ご無事で!』そう祈りながら、手綱を持ち、二の腕で必死に阿斗を抱える。するとなんということだろう、背後から、呪わしい曹操兵の声が聞こえてきた。「だれか馬に乗って逃げるぞ!矢を掛けよ!」「いいえ、待ちなさい!その者に矢を掛けるのは、この劉備の妻がゆるしません...地這う龍四章その11身代わり
『だれなの?味方?』怯えつつ、曹操の兵のほうに注意を戻す。すると、曹操の兵も麋夫人《びふじん》の存在に気づいたらしい。人食い鬼のような顔を土塀の向こうからのぞかせて、怒りの形相のまま、麋夫人と少年のところへやってくる。そのときである。曹操の兵のうしろから、にゅっと白い手が伸びた。あっ、と麋夫人が驚く間もなく、その白い手は曹操の兵の髭だらけの口を覆いつくす。つづいて、もう片方の手が、手際よく、男の首筋に短刀を突きつけていた。口をふさがれたまま、男はなにかを叫んだ。だが、ほどなく首筋からすさまじい出血をすると、膝から崩れ落ち、やがて絶命した。あまりの手際のよい一連の展開に、麋夫人は声を上げることもできず、目を見張るしかない。白い手の持ち主が男の背後からあらわれる。いかにも婀娜《あだ》っぽい雰囲気の、短い筒袖の...地這う龍四章その10思わぬ助け
どこか安全なところへ逃げなければ。脚を励まし、引きずり、麋夫人《びふじん》はあたりを見回す。前方に、廃屋があるのがわかった。かろうじて屋根が残っている、ひどいありさまの廃屋だった。だいぶ昔に家主に捨てられたものらしい。『あそこに隠れよう、だれか迎えにきてくれるかもしれない』夜闇のなかを駆けまわるのはおそろしいことであった。だが、朝になってわかった。目隠しになってくれていた闇が消えることも、またおそろしいことなのだと。敵に見つかるわけにはいかない。自分はどうなってもいい。だが、阿斗は、見つかったら、きっと殺される。それだけは避けなければ。廃屋に入っていくと、さいわい、厨房の傍らに残っていた大甕《おおがめ》のなかに雨水がたまっていた。清く甘い水しか飲んでこなかった麋夫人にとっては冒険だったが、のどがあまりに乾...地這う龍四章その9廃屋の麋夫人
※張飛は虎髯《とらひげ》を風になぶらせつつ、じっと北の方向をにらみつけていた。長阪橋の中央で、騎馬にのり、敵のやってくるのを待っている。朝もやの向こうから、絶えず悲鳴と剣戟が聞こえてくる。みんな死んじまったかな、と頭のすみでかんがえる。かといって、ひるむ張飛ではなかった。たとえ万の曹操軍が押し寄せてきたとしても、この橋をきっと守り、兄者を守り通して見せる。決意を固めたその姿は、神々しいといっていいほど凛としていて、部下たちも、声をかけそびれるほどだった。と、朝もやを突っ切るようにして、こちらに駆けてくる一団がある。見れば、先頭に立っているのは簡雍《かんよう》で、片腕にひどいけがを負っているようだったが、声は元気だった。「おおい、おおい、益徳っ、わたしだ、簡雍だ」「見ればわかるわい、生きておったか」軽口をた...地這う龍四章その8彷徨
「うわっ」敵の雑兵たちが、あっけなく大将が討ち取られたのを見て、悲鳴をあげる。趙雲は突き立てた槍を抜くと、「常山真定《じょうざんしんてい》の趙子龍だ、命の惜しくないやつはかかってこい!」そう叫んで、及び腰になった敵へ突っ込んでいった。こうなるともう独断場である。草を刈るように雑兵たちを狩っていく。雑兵とひとくくりに行っても、相手も人間。味方が突如としてあらわれた男に、すさまじい勢いで斃されていくのを見て、ひとり、またひとりとその場から脱落していった。背中を見せる敵には、麋竺《びじく》が容赦なく、お返しとばかりに矢をかける。ほどなく、あたりは落ち着き、血風と砂塵のほか、味方だけが残った。「子龍よ、助かったぞ」「それはこちらの台詞です、よく奥方様をお守りくださいました」趙雲は破顔し、麋竺とたがいの無事をよろこ...地這う龍四章その7北へ
※趙雲は必死に甘夫人と麋夫人、それから阿斗の姿を探し求めた。その名を呼び続け、北へもどりながら、敵に遭遇すると、それを片っ端から蹴散らした。敵とて舐めてかかってきているわけでもない。だが、夫人たちの無事を祈り、ひたすら前へ進まんとする趙雲にかかれば、かれらは障壁にすらならなかった。趙雲の行くところ、まさに死屍累々。加えて大地には、無残な民のしかばねも転がり、あたりは地獄の光景に変わっていた。汗まみれ、血まみれになりながらさらに先を行くと、どこからか趙雲の声に応じて、呼びかけてくる者がいる。だれなのか。もしかして奥方様か、と耳をすますと、あわれな味方の将兵たちのなかにかばわれるようにして倒れていた男が、「子龍、子龍、わたしだっ」と必死に声をあげているのだった。見れば、簡雍《かんよう》である。かれは肩に刀傷を...地這う龍四章その6奮戦開始
※劉備は陳到らに守られ、けんめいに馬を南へ走らせていた。孔明の作ってくれた地図にある、長阪橋を目指しているのである。どどどど、と馬の蹄の音がつづくが、それがもしかしたら追いついてきた曹操軍の蹄の音ではないかと思う時があり、こころがまったく休まらない。そのうえ、頭の中は、自分を責めることばと、恐怖とでいっぱいである。『こんなことになるのなら、孔明の言うことをもっとよく聞くべきであった!』激しい後悔が胸の中で渦巻いている。唇からは、すまない、すまないという謝罪の言葉を自然と口にしていた。やがて、白々と夜が明けてきた。いまのところ、曹操の軍兵が自分に追いすがってくる気配はない。おそらく、あわれな難民たちが盾になってくれているのだ。曹操軍も、かれらを蹴散らしているがために、なかなか自分に追いつけないでいる。『なん...地這う龍四章その5劉備の後悔
「志は当に高遠に存すべし」 – 諸葛孔明の名言: 志を高遠に持つ重要性とは?
志は当に高遠に存すべし 諸葛孔明: 蜀の智将 諸葛孔明(Zhuge Liang)は、中国三国時代
※西へ傾きかけた太陽は、ほどなく血に染まった大地を暗く隠していった。視界が悪くなろうと、曹操軍の前進と殺戮が止む気配はない。趙雲はここに孔明がいなくて良かったと、頭の隅で思っていた。もし同行していたら、また虐殺の場に居合わせることになっていただろう。友のこころにあらたな傷がつかずにすんでよかったと、心から思っていた。やがて、難民の行列の後方から、おおぜいの傷ついた人々が押し寄せてきた。それを追うようにして、曹操軍の軽騎兵が迫ってくる。視界が悪すぎた。月の細い光か、あるいは馬車に随行する兵の持つ松明だけが頼りである。どれほど曹操軍に近づかれているのか、音と気配を頼りにする以外にない。距離感がつかめないのだ。甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》を乗せた馬車を警護していた趙雲に、後方を守っていた将が叫んだ。...地這う龍四章その4趙雲、見失う
※秋だというのに太陽はカンカンと照り続けた。日差しを照り返す大地のうえで、乏しい水と食料を分け合いながら、必死に劉備一行は江陵《こうりょう》へ向かっていた。趙雲は、陳到とともに劉備たち一族を守っている。趙雲のそばには、小さめの馬に乗った張著《ちょうちょ》がいて、少年ながら、周りの様子に気を配っていた。孔明が去ってから三日。さすがに、まだ戻ってくる気配はない。江夏までの旅程、それから交渉に使う時間、戻ってくるまでの旅程。それらを計算しても、果たして孔明は間に合うのか。曹操が襄陽《じょうよう》でぐずぐずしているのを祈るばかりである。「子龍さま、あの男がいます」張著がとつぜん群衆のなかの一点を指さした。見れば、いつかの夜、迷子をめぐって口論になった大男である。かれは一人ではなく、背中に、どこから拾ってきたのかと...地這う龍四章その3悲劇のはじまり
「一体、何をされているのです、船はどうしました!」怒りで声が震えるが、かまっていられなかった。こうしているあいだにも、劉備たちが曹操に追いつかれてしまっているかもしれないのだ。温雅な孔明が、眉を逆立てて怒鳴りつけんばかりの剣幕なのを見てか、孫乾《そんけん》はしろどもどろになりながら答える。「申し訳ない、面倒が起こってしまってな、わしらでは、にっちもさっちも行かなくなっておったのだ」「面倒とは?劉公子には面会はできたのですか?」「それが、江夏《こうか》に来てから、一度もお会いできておらぬのだ」と、関羽が赤い顔に憔悴した表情を浮かべて言った。「御病気が重くなったとか理由をつけられてしまい、われらは側近に阻まれ、門前払いよ。なんとか粘って、毎日、わし自ら城の門をたたくのだが、相手は一向に姿をあらわさぬ」血の気が...地這う龍四章その2江夏の美姫たち
江陵《こうりょう》への隊列からはなれた孔明は、わずかな手勢とともに、めちゃくちゃに馬を走らせた。これほどに馬を急がせるのは、叔父の諸葛玄らとともに豫章《よしょう》が落城したさい、賞金稼ぎどもから逃げたとき以来だった。あのときは、かわせた。今度はどうか。孔明が恐れているのは、曹操からの追撃者がやってくることではない。いくら曹操でも、まだ自分という人間を深く知っているとは思っていない。孔明が恐れているのは、ただひたすら劉備が討ち取られてしまうこと、その一点のみであった。なんとしても急いで劉琦の元へいき、船とともに戻らねばならない。馬は孔明の緊張がうつったのか、けんめいに地を駆けていく。がくがく揺れるし、尻は痛くなるし、小虫が正面から何匹も飛び込んでくるし、目は乾くしで、ろくなことはない。だがそれも、劉備たちの...地這う龍四章その1孔明、急ぐ
※それから数日経っても、関羽は戻ってこなかった。しだいに人々のあいだに疲れが濃く見え始め、なかには離脱する者まであらわれはじめた。土地の豪族たちが同情的だったこともあり、その私兵に襲われることがなかったのが、唯一の幸いだった。難民たちは砂ぼこりにまみれ、少なくなってきた食料をちびちびと口にし、泣き言を言いたくなるのをぐっと我慢している。趙雲は部下たちとともに、かれらを励まし、江陵《こうりょう》へ向かわせたが、その歩みは早くなるどころか、疲れのためにどんどん遅くなっていた。それまで、愚痴の一つもいわず、どころかみなに張りのある声で励ましをつづけていた孔明だったが、あまりに事態が切迫してきているために、とうとう劉備の前に進み出た。「わが君、関羽と孫乾たちになにか起こったにちがいありませぬ。わたくしが江夏《こう...地這う龍三章その20孔明、江夏へ
それを聞いて、趙雲は急に理解した。孔明は新野《しんや》に招聘《しょうへい》されて、すぐに実務を片付け始めた。優秀だから、天才だから、などと周囲は評したし、本人もそうだというふうに振舞っていた。趙雲も、孔明が飛びぬけて優秀だから、どんな仕事もこなせるのかなと思っていた、どうやらちがうようだ。孔明は、世間のもめ事を解決するさいに、じっさいに実務にたずさわっていたのである。つまり、劉備の軍師になる以前から、すでに経験豊富だった。だからこそ、新野での仕事に迷いがなかったのだ。「それと、豪族たちがわたしに協力的なのは、わたし個人の力ではないよ」「どういうことだ」意外に思って孔明のほうに目を向けると、孔明は肩をすくめた。「わたしに『臥龍』という号を授けた、龐徳公《ほうとくこう》の影響がものをいっているのだ。つくづく、...地這う龍三章その19臥龍の来歴
※関羽が江夏《こうか》へむかってから十日ほどたつが、かれが船を連れてくる気配はまったくなかった。当初は楽観的だった人々も、だんだんじりじりしてきているのが、趙雲にもわかる。難民たちのなかで、いさかいが増えているのだ。食糧や水をめぐるものだったり、歩き方が悪いだのと言ったくだらない原因のもの、赤ん坊がうるさいといったことまで、喧嘩の原因はさまざまだった。それらをこまごまと仲裁しつつ、一方で、難民たちに先行して、行く先の土地の豪族と交渉し、休む場所と水を提供してもらうための交渉をした。孔明がこまかく記載していた、井戸と水脈のありかの地図が、たいへんものを言った。おかげで、時間をあまりかけずに、難民たちは水を得ることができたのである。もちろん、交渉が平易に進まないときもあった。だが、それでも孔明が出てくると、豪...地這う龍三章その18臥龍先生の評判