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※曹操軍に占拠された南陽《なんよう》の宛《えん》は、表面上では落ち着いていた。曹操軍の規律は厳しく、民に乱暴狼藉をはたらこうとするもの、略奪をしようとするものはすぐさま処罰された。そのため、民はいまのところ安心して過ごすことが出来ている。反乱の兆しもなく、きびしい監視下にあるとはいえ、民はふだんどおりの暮らしを取り戻しつつあった。とはいえ、民たちは知り合いと道ですれちがうと、意味ありげに目配せして、互いにかかえている恐怖や不安を無言のまま交わすのが常になっている。たしかに、民の生活だけをみていると、そこには変わらぬ日常がある。だが、曹操軍の兵があちこちを闊歩《かっぽ》している状況にあることに、変わりはない。市場や城市のはずれなどに目を向けると、曹操軍に抵抗したあわれな荊州の土豪たちの首が、異臭をはなちなが...地這う龍二章その12南陽における覇王・曹操
「わが君は、みなをどうされるおつもりかな」思わず趙雲がつぶやくと、孔明は樹に背を預けつつ、答えた。「迷わず、民をともに連れて行くとおっしゃるだろう」そんなことをしたら、みんな死ぬぞ、と言いかけて、口をつぐんだ。あまりに突き放した言葉を言いかけたと、すぐに反省する。だいたい、それを口にすることは、劉備に反抗することになりかねない。そこで、あえて民のことを後回しにした表現で孔明に問う。「仮に南へ逃げる……あるいは、要衝(ようしょう)の江陵(こうりょう)を目指すとして、おまえに曹操軍をしのぐ策はあるのか」だが、孔明はすぐには答えなかった。その気持ちは、趙雲には、痛いほどよくわかった。民のことを思えば、どうしても気が重くなる。仮に民を樊城(はんじょう)まで届け、そしてかれらを置いていったとしても、曹操がかれらを虐...地這う龍二章その11趙雲の憂慮
孔明は皆の輪から少し離れたところにいて、平素のとおり、民や劉備とその家族の様子に気を配っている。劉備の家族にしても、孔明の策のおかげで樊城《はんじょう》へ逃げ込める目途がたったということで、夫人たちを中心に、明るい顔をして木陰で憩《いこ》っていた。阿斗は生母の甘夫人《かんふじん》の胸の中で、すやすやと眠っている。見張りも万全に配置しているし、曹操の兵が追撃してくることはなかろうと思い、趙雲は自分もまた、手近なところにあった 木陰《こかげ》にぺたりと座り込んだ。さすがに疲れが出始めている。徹夜をしたうえに、激しい戦闘を行ったのだ。まだ頭が興奮しているから、倒れ込むようなことはないが、いま休んでおかないと、劉備たちを守れない。頭上を行くそよ風が木々を揺らす。元気な子供たちが、草むらのバッタを追いかけて遊んでい...地這う龍二章その10ひとときの休息
趙雲の槍が、ツバメのような速さでひゅんっ、と空を裂き、張郃《ちょうこう》の胴をえぐろうとしてきた。張郃は思い切りのけぞって、刃《やいば》をかわした。馬から転げ落ちそうになるが、なんとか内ももに力を込めて、こらえる。態勢を整えようとした刹那、その視界に、趙雲の胴体が見えた。趙雲は大胆な攻撃をしたがゆえに、胴体ががら空きになったのだ。いまだ!張郃は、すでに激しい打ち合いで痺れがきている手を励ましつつ、趙雲の胴めがけて槍を突き立てた。だが、その渾身の一撃は、がん、という無情な金属音とともに跳ね返された。趙雲は、攻撃を見切っていたようだ。一瞬、間近に見える趙雲の端正な顔が、歪んだように見えた。いや、歪んだのではない。趙雲の表情の正体を知り、張郃はぞくっと背筋をふるわせた。かれは笑っていた。虐殺の喜びに笑っているの...地這う龍二章その8初対戦のゆくえ
たしかに、北の門は火の手が回っていなかった。だからこそ、さぞかし兵が殺到しているかと思いきや、奇妙に静かであった。『なんだ?』前方に、一騎の武者がいる。ただならぬものを感じ、張郃《ちょうこう》は馬を止めた。それに合わせて、兵卒たち、部将たちも足を止めて、その武者を見る。赤毛の馬に乗ったその男は、ちょうど張郃らに背を向けて立っていた。「何をしている!邪魔だっ!」短気な劉青《りゅうせい》が叫んで、男に突っかかろうとしたが、張郃は手ぶりで制止した。おれは、まだ夢をみているのだろうか。背中を向けているその男に、ひどい既視感があった。しなやかそうな体躯の、広い背中の男。官渡の戦いから八年の歳月が過ぎたが、ほとんどかわっていないその背中は、鬼火のような炎のなか、ぼおっと浮かび上がっていた。男の手には槍。穂先は血にまみ...地這う龍二章その7趙雲対張郃、初対戦
※夜更けすぎ、だれもが寝静まったころだった。焦げ臭さがあたりに充満し始めてから、張郃《ちょうこう》は目を覚ました。悪態をつきつつ上半身を起こすと、張郃の寝台のそばで休んでいた劉青《りゅうせい》が、あるじが起きたのに気づいて、言った。「小火《ぼや》ではありませぬか。誰かが竈《かまど》の始末をまちがえたのでしょう」「困ったやつらだな」昼間の行軍の疲れもあって、そのまま眠ってしまおうかとも思った張郃だが、そうして迷っているあいだにも、きな臭さは増してくる。だれが小火を起こしたにしろ、叱りつけてやれねばならぬと、張郃は寝台から抜け出した。小火だったらそれでいい。ついでに厠《かわや》にでも行っておけば、朝にすっきり目覚められるだろうと思ったのだ。まさに寝所を出ようとしたとき、劉白《りゅうはく》が飛び込んできた。「儁...地這う龍二章その6不吉な目覚め
※許褚《きょちょ》が劉備の策にかかって、けがを負ったという話を聞いて、曹仁は、先へ進むか、あるいは戻るかと悩みはじめた。そこへ新野城《しんやじょう》へ派遣していた斥候兵《せっこうへい》が戻ってきた。新野が、もぬけの殻になっているというのだ。「逃げられたか」悔しそうに曹仁がうめく。だが、さすがに優秀な曹仁だけあり、切り替えも早かった。張郃《ちょうこう》ら諸将の顔を見回すと、はっきりした声で言った。「いまのありさまで劉備から攻撃されたらかなわぬ。ともかく今日は、新野を押さえることにしよう」「劉備を追撃せずともよいのですか」気の逸《はや》る張郃がたずねると、曹仁は首を横に振った。「まずは負傷兵を手当てするのが先だ。それにわれらには土地勘がない。真っ暗闇のなか劉備を追撃するのは不利だ。これ以上、どんな罠があるかわ...地這う龍二章その5張郃の想い
張郃《ちょうこう》も焦《じ》れてきていた。夕刻には新野城《しんやじょう》に雪崩《なだれ》れ込み、劉備を討ち取ってくれようと意気込んでいたのに、やる気を削《そ》がれたかたちである。おのれのからだを見下ろし、指先を見る。指先の線がはっきり見えなくなるほどに、日が落ちてきた。「おい、そろそろ松明の用意をさせろ」張郃が命じると、劉白《りゅうはく》と劉青《りゅうせい》が、それぞれの部隊長に命令をするため、下がっていった。前方を行く部隊も明かりをともし始めた。と、そのときである。わあっと鬨《とき》の声が上がったかと思うと、地鳴りがはじまった。『なんだ?』仰天していると、つづいて、大きな雷が落ちたようなすさまじい轟音が、あたりに響き渡った。地面が揺れ、前方から砂嵐が押し寄せてくる。「地震か!」馬が高くいななき、たたらを...地這う龍二章その4崖の上の策士
※新野《しんや》への進軍は、しばらくは問題なくおこなわれた。だが、昼をだいぶ過ぎ、先頭をゆく許褚《きょちょ》の軍が、問題の崖下に差し掛かろうとしたとき、ぴたりと行軍が止まってしまった。張郃《ちょうこう》は馬を止めて、両隣に控える副将の劉白《りゅうはく》と劉青《りゅうせい》にたずねる。「なにかあったのだろうか」ちらりと、張遼のことばが頭をよぎる。崖の下の隘路《あいろ》で待ち伏せされていたら……しかし、前方で合戦がおこなわれている気配はない。後続の兵卒たちも、とつぜんに足を止められて、ざわめている。「前方を見てまいりましょうか」と、劉青が言った。劉白と劉青は年子の兄弟である。劉白のほうが兄、劉青のほうが弟で、まちがいなく兄弟だろうとすぐわかるほどに、よく似ていた。よくしたもので、劉白のほうが白皙《はくせき》の...地這う龍二章その3紅い旗、青い旗
※張郃《ちょうこう》と張遼が曹仁の幕舎《ばくしゃ》に入ってくるなり、曹仁は目をまん丸にし、となりに立っていた曹洪は、苦い薬をかみつぶしたような顔になった。曹仁は呆気にとられた顔をしていたが、すぐに破顔《はがん》して、張郃に言った。「これはいい。ずいぶん気合が入っておるな、儁乂《しゅんがい》よ」「おそれいります。気に入っていただけたでしょうか」すまして答える張郃に、曹洪は、憮然《ぶぜん》と言い放つ。「儁乂どの、まさかとは思うが、そのままで戦場に出るつもりか」「もちろん。このあいだの戦でもこれで出ましたゆえ」「あきれたものだ」曹洪があきれるのも、もっともだった。端正な顔は化粧でさらにあでやかに、結ったつややかな黒髪からは花の良い香りがぷんとしている。その黒髪は単純に結われたものだが、目立つように鼈甲《べっこう...地這う龍二章その2新野侵攻の軍議
澄み切った青空のはるか上から、その平野を見下ろすことができたなら、そこに多くの兵馬と、竈《かまど》のあとと、いろとりどりの幕舎《ばくしゃ》を見つけられたことだろう。幕舎のそばには『曹』と姓の染め上げられた錦の旗が、悠然と風におよいでいる。曹操軍が新野城《しんやじょう》の目と鼻の先に迫ってきているのだ。街道を抜けて一気に南下すれば、もう新野城である。連れてきた馬のいななきがあちこちに聞こえ、飼い葉を運ぶ兵卒や、朝を迎えてたがいに挨拶をする兵卒や、朝餉《あさげ》のしたくをおえて、竈の火の始末をしている兵卒などの姿が点在している。その数、おおよそ五万。劉備せん滅の軍を任せられているのは曹操の従弟である曹仁《そうじん》で、それに同族の曹洪《そうこう》がついている。幕舎のひとつから、三十路手前の青年武将があらわれた...地這う龍二章その1その男、張郃
※昼過ぎになり、とつぜんに新野《しんや》の城市の東西南北すべての門に、おおきな高札《こうさつ》が立てられた。高札を立てた者の急いた様子からして、どうやらなにごとか起こったらしいというのは、すでに人々も気づいていた。さらには、城勤めの人間から、曹操がどうした、ということは漏れ聞いていたので、だれもが不安そうな顔で、高札のまえに集まって来た。新野の民とて愚か者のあつまりではない。自分たちの住まう町が荊州の最前線にいることは理解していたし、曹操の動き如何《いかん》によって、自分たちの運命が変わってしまうことも理解していた。いよいよか、という覚悟の気持ちが、ゆっくりとの中で頭をもたげてくる。とはいえ、かれらのほとんどが文字を読めない。わかるのは、ところどころにある『新野』とか『曹操』という文字くらいなものであった...地這う龍一章その19高札の前のひとびと
一同はそれぞれ作戦のための行動を開始した。趙雲もまた、自分の部隊に作戦を伝えるために移動しようとしたが、ふと気づいて、孔明を振り返った。「軍師、おれはしばらくお前を離れることになる。そのあいだ、守ってやれなくなりそうだが、大丈夫か」孔明は、しばらく言葉の意味がつかめなかったような顔をした。それから、急に意味が心にしみ込んだようで、破顔《はがん》して答えた。「なにを言い出すかと思えば。大丈夫だよ。みながわたしを守ってくれる。そうでしょう」と、孔明が趙雲のいる方向とは別のところへ顔を向ける。ほかにも広間に人が残っていたのかと思いつつそちらを向けば、立っていたのは、意外にも、劉封《りゅうほう》だった。急に水を向けられて、劉封は、顔を赤くして、「あ、うう、うむ」と、不明瞭に答えた。劉封は劉備の養子としての矜持《き...地這う龍一章その18和解?
※「さて、軍師、どうしたものかな」さきほど怒りを爆発させていた人物と同じとはおもえないほど、劉備は冷静に孔明にたずねた。やはり、劉備は修羅場慣れしているのである。ここで自分が慌《あわ》てれば、みなが恐慌状態に陥るだろうことをわかっているのだ。孔明もまた、冷静に答えた。「結論から申し上げますと、いますぐに、空き城となっている樊城《はんじょう》へ移動すべきと存じます」「なぜ」「新野は城の防備が弱いからです。ここで籠城するのは下策中の下策です」「そうか……しかし民はどうしたらよいであろう」「いますぐ高札《こうさつ》を立てて、民に曹操の来寇《らいこう》を伝えましょう。それから、われらで時間を稼いで、みなで樊城へ向かうべきです」「われらで時間を稼ぐというと、どのように」「わたしに策がございます。諸将をお集めください...地這う龍一章その17孔明、策を立てる
※関羽は、甲冑姿のままだった。全身が砂埃《すなぼこり》を浴びたままである。よほど急いで馬を走らせたらしかった。いつも血色の良いその顔は、そのときこそは火にくべた炭のように真っ赤になっている。片手には漆《うるし》の箱を、もう片手には、旅装の男を引きずっていた。関羽に首根っこをつかまれて引きずられている旅装の男の顔を見て、趙雲はあっとなった。その男に見覚えがあったのだ。襄陽《じょうよう》の実質上のあるじとして威張《いば》り散している蔡瑁《さいぼう》のとなりで、いつもお追従《ついしょう》を言っては喜ばせていた男が、その旅装の男だった。名を宋忠《そうちゅう》といって、いかにも小賢しそうで、人を馬鹿にした目をした男である。劉備のことも、表立ってはほめあげていたが、裏では用心棒とさげすんでいたことを、趙雲は知っている...地這う龍一章その16襄陽城からの使者
趙雲も蔡瑁《さいぼう》の動きを予想していた。蔡瑁自身が荊州の州牧《しゅうぼく》になる可能性もあるかもしれないと思っていたほどだ。図々しい蔡瑁でも、さすがに劉表《りゅうひょう》と劉琮《りゅうそう》が一度に死んだとは表ざたにできなかったようだ。苦々しい思いが込み上げてきて、趙雲はうなるように言った。「あの男に恥という概念はないのか。その『劉琮どの』は本物じゃない」「そうさ。しかし、こちらにそれを明かす手立てもない。たしかに『劉琮どの』はわれらの目の前で倒された。だが、証拠を見せろと言われたなら、こちらにはなにもない。残念ながら、ね」「夏侯蘭《かこうらん》が持ち帰った首が手元にあれば」言いかけた趙雲に、孔明は首を振った。「意味ないさ。仮に首があったとしても、蔡瑁は、われらが捏造したと言い張っただろう。襄陽《じょ...地這う龍一章その15波乱の幕開け
※劉備の居室へ行くと、まず劉備そのひとが、難しい顔をして腕を組んでいるのが目に入った。つづいて、張飛、孔明がそれぞれ赤い顔をしてそろっているのがわかった。劉備と孔明の顔がほんのり赤いのは、酒の力によるものだろうが、張飛に関しては、ただ酒の力ばかりではなさそうだ。部屋にはもうひとり、目の細くてすらっと背の高い男がいて、趙雲を見るなり、深々と頭を下げた。おそらくは、これが許都《きょと》からもどってきたという細作《さいさく》の長の成延年《せいえいねん》だろう。劉備は几帳面なので、いつも部屋は片付いている。しかし今朝に限っては徹夜したあいだに散らかしたらしく、地図や文書、酒瓶や盃などがあちこちに散らばっていた。酒の甘いにおいがあたりにまだ残っている。空になった酒瓶の量は、ふだんの三人分より、さらに多い。益徳《えき...地這う龍一章その14劉備の逡巡
※軟児《なんじ》は甘夫人にうながされて、朝餉《あさげ》をとりに去って行った。趙雲も立ち去ろうとしたが、麋夫人《びふじん》のほうが、自分になにか言いたそうな顔をしているのに気づいた。夫に似て豪胆な甘夫人《かんふじん》と、線が細くはかなげな少女のような麋夫人は、気質も見た目も対照的だったが、それがかえっていいらしく、二人はたいへん仲が良い。麋夫人と甘夫人は、阿吽《あうん》の呼吸でおたがいにうなずき合う。それから、麋夫人が切り出した。「子龍どの、くりかえしになりますけれど、軟児の世話をお願いしますね。あんなにあなたになついているのですもの。きっと、あなたのことをお兄様かお父様のように思っているのよ」「男の子はいいなあ、張著《ちょうちょ》みたいにずっとそばにいられる、なんていって、しきりにうらやましがっていました...地這う龍一章その13軟児の事情
孫軟児《そんなんじ》たちをはじめ、張著など、身内のすぐに見つからない少年少女、あるいは身内を失くした者は、壺中《こちゅう》から救い出されたのち、孔明の采配で、少年は趙雲のところ、少女は甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》のところで匿《かくま》ってもらうことになっていた。孫軟児は、阿斗の世話係というところに落ち着いているようである。しかし軟児の赤子の抱き方は、あまりよいとはいえない。赤ん坊の世話をあまりしたことのない者の抱き方だというのは、子育ての経験のない趙雲でもわかった。そのため阿斗は軟児の腕の中で、ぴちぴちと跳ねるとれたての魚のような姿勢で、ずっと泣きっぱなしだった。早く孔明たちの顔を見たかったが、仕方ない。趙雲は中庭に降りると、軟児に言った。「阿斗さまをこちらへ貸してみるがいい」軟児は目をぱちく...地這う龍一章その12子守りの趙雲
※趙雲と張著《ちょうちょ》はつれだって、食堂に向かい、ほかの兵卒たちとともに朝食を食べ始めた。孔明の尽力《じんりょく》もあり、さいきんは兵卒たちへの食事の内容が良い。鼻孔をくすぐる肉入りの羹《あつもの》の香りと、炊き立ての粟飯、それから野菜の漬物がいくつか。趙雲の隣に座った張著は、言われたことを忠実に守って、朝食を猛然と食べはじめた。素直な子供である。もうすこし、自分の感性や感情を優先できるようになるといいなと、趙雲はすこし心配になる。壺中《こちゅう》というのは、大人に従順でないと生きていけない場所だったらしい。張著はいまだに、気を張り詰めていて、大人の顔色をうかがう癖が抜けないでいるのだ。こいつを子供らしく過ごさせてやるのも、おれの責任だろうなと考えていると、やれやれというふうに、趙雲の部隊の部将たちが...地這う龍一章その11大門での騒動
※新野城《しんやじょう》の兵たちの朝は早い。まだ日も暗いうちから食事のよいにおいが兵舎にたちこめる。それにつられるように兵士たちは起きだし、仲の良い者同士、がやがやとにぎわいながら食堂へ向かっていく。かれらの楽し気な声と、足音、物音につられ、趙雲もまた、目を覚ました。明け方に夢を見ていたようだ。例の老将がいかめしい顔をして、「おい子龍よ、孔明さまのこと、くれぐれも頼んだぞ。わしは子供らを長沙《ちょうさ》に連れて行かねばならぬ。留守のあいだ、きっと孔明さまをお守りしてくれ」と頼み込んできた。わかったと答えたような気がする。夢のなかでは、老将は目にいっぱい涙をたたえて、しおしおと子供らとともに長沙へ旅立っていった。よほど軍師と別れるのがつらいのだなと同情していたところへ、目が覚めたのだ。やけに鮮明な夢だった。...地這う龍一章その10新野城のいつもの朝
みんな曹操の大軍に呑み込まれてしまうのか?趙雲の性格からして、曹操に降伏する真似はすまい。とすると、待ち受けるのは死か。生き延びたとして、荊州からどこへ落ち延びるというのだ。江東か、あるいは士燮《ししょう》の統《す》べる交州《こうしゅう》、そこから抜けて益州へ行くか。どちらにしろ、苦難の連続となるだろう。「天下は統一されねばならぬ。それは民族の悲願だ」狼心《ろうしん》青年の、どこかのんびりとしたことばに、夏侯蘭《かこうらん》は現実に引き戻された。「だが天下をふたたび一つにするのは、劉氏でなくともかまわんと、わたしは思っている。曹氏でもかまわん、それで民が安んじるならばな。だが、ふたたび君臨するであろう者が単なる覇者であるならば、天下の頭となるべきものは、べつに曹公でなくともいいわけだ」夏侯蘭は、目をぱちく...地這う龍一章その9ふたたびの旅立ち
徐州の瑯琊《ろうや》出身。物語スタート時点で28歳。「奇想三国志英華伝」は西暦208年からはじまるので、肩書は軍師である。とはいえ、軍事関係の仕事ばかりやっているのではなく、かなり細かい事務仕事も一手に引き受けているようす。なぜか?仕事が好き、自分を追い込むのが好きだからである。物語がスタートした時点で拠点としている新野城《しんやじょう》は、けして人材不足というわけではない。ただ、仕事を古いやり方で回していたため、効率が悪く、担当者も適材適所ではなかった。そこをまず改めたのが孔明の前任者の徐庶であり、徐庶の意向を引き継いで孔明がさらに新野城にあたらしい空気を入れた……という設定。隆中《りゅうちゅう》の田舎にひっこんでいた孔明が、すぐに実務を回せたのはなぜか?その答えはすこしだけ「地這う龍」で明かされる。種...奇想三国志英華伝設定集諸葛亮(孔明)
※自宅につれていくと、狼心《ろうしん》青年は、物珍しそうに好奇心に目を輝かせて、中に入った。子供たちが机をならべて座っても窮屈さを感じないほどに広いその家は、いまは窓が閉まっているので薄暗く、しかもところどころには、子供たちが置いていったであろう教材や、竹簡《ちくかん》などが乱雑にならべられている。さらには、夏侯蘭《かこうらん》はそこで寝起きもしているので、生活のにおいもしているだろう。だが、狼心青年がまったく頓着《とんちゃく》せず、「ほう」とか、「面白い」と言いつつ、あたりを見回していた。「子供たちに勉強を教えているようだな」「ああ。このあたりの子供たちはなかなか吞み込みが早くて、教える甲斐があるのだ」「あたらしい生き甲斐ができた、というわけか」狼心青年は言いつつ、どっかりと、ためらいもなく上座《かみざ...地這う龍一章その8曹操の進撃
「おいおい、たったひとりの丸腰の男相手に、多勢《たぜい》で向かうは卑怯であろう」どこか呑気に、旅装束の狼心《ろうしん》青年は、襲撃者たちに言う。「それに、そいつはおれの朋友《とも》だ。殺さないでもらおうか」「知ったことかっ」吐き捨てるように言ったのは、例の小柄な血の涙の女だった。「おまえたち、先にこいつらを始末しておしまい!」黒装束の者たちは、返事をするまでもなく、こんどは狼心青年たちに向かっていく。すると、狼心青年は驚く様子もなく、静かに、手にしていた槍の穂先をあらわにした。となりの巨漢もまた、それに倣う。黒装束の者たちは、鳥のように高く飛び上がり、狼心青年たちに斬りかかる。その数、五人。だが、巨漢の男は、狼心青年と同様にまったく動じなかった。腰を落として力を入れると、「ふんっ!」と気合を入れざま、手に...地這う龍一章その7無名の女
女は、ぜえはあと荒く息をしながら、けんめいに刀を持ち替え、こちらに突撃しようと身を低くする。夏侯蘭《かこうらん》は、そのあいだ、女を冷静に観察する。手を泥だらけにして、髪を振り乱し、血の涙を流している女。年齢は三十路前後といったところか。血の涙を流しているところは異様だが、顔立ちはととのっていた。「おまえは、何者だ」野犬が威嚇するように、低く夏侯蘭が誰何《すいか》すると、女はあらい息をしたまま、短く答えた。「貴様には教えない」「おまえにおれは倒せぬ。その短刀をよこせ」夏侯蘭は、じり、と前進して、女に、自分の手のひらを見せた。「さあ、よこせ。こんなことをして、なんになる」すると、女はうう、と獣じみた声をあげた。ぶるぶる震えているのは、恐怖のためではなく、怒りのためであろう。「こんなやつに、こんな小物に、ぼう...地這う龍一章その6狼の介入、ふたたび
墓の前にいたのは、小柄な女だった。背中をちいさく丸めて前のめりに屈《かが》みこみ、なにやら熱心に手を動かしている。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…規則正しい音がした。どうやら、地面を掘り返しているようだ。ぞくっと背筋がふるえた。墓の前で地面を掘り返している……妻の縁故《えんこ》の者が、櫛《くし》を取り返しに来た?いや、おかしい。妻の櫛は、たしかに高級品ではあったが、しかし奪い合いになるほどの価値はなかった。そもそも、なんの便《たよ》りもなく妻の墓にやってくる親族に心当たりはない。そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》は気づいた。墓の下には、櫛の他に、なにがある。塩漬けにした『狗屠《くと》』の首だ。この女、『狗屠』の首をとり返しに来たのか。女の顔は見えない。ただ、腰まで届く長い髪をしており、それが屈んでいるせい...地這う龍一章その5墓標の前の女
※いつもは熱心に話を聞いてくれる子供たちが、そわそわして落ち着きがなくなってきた。子供たちは、たがいに、晴れ着を着れるよろこびや、おいしい食事にありつける楽しさなどを話している。そうか、秋祭りがちかいのだなと、夏侯蘭《かこうらん》は自分の幼いころを思い出して気づいた。かつての幼かった自分も、秋の実りを祝っての祭りがたのしみで、槍の稽古ばかりしている趙雲を無理に誘って、集落の広場に出かけたものである。しぶっていた趙雲も、芸達者な里の者がかなでる笛や太鼓の音に、しだいに笑顔になったものだった。なつかしいなと、夏侯蘭は思わず自分の禿頭《とくとう》を撫《な》でた。いまごろ、趙雲も荊州で秋祭りをたのしんでいるだろうか。いや、それどころではないかもしれない。劉備の主騎にくわえて、孔明の主騎もしていると聞いた。さぞかし...地這う龍一章その4秋祭りがはじまる
※苛烈な夏をすごしたのち、夏侯蘭《かこうらん》は、ふるさとに戻ってきていた。さいわいにもふるさとは温かく、ひとびとは傷ついた夏侯蘭を歓迎してくれた。さらに運のよいことに、集落の外れに住んでいた変わり者の叔父の家を継いで、子供たちのための私塾をひらいて暮らすこともできた。教え方がうまい、子供たちがよくなつくというので、瞬《またた》く間に塾は大盛況である。事実、夏侯蘭にとって、子供たちの相手をするのは楽しかった。自分の冒険譚を語ることで、頭の整理もできる。それに、子供たちの素直な反応で、かえって自分を客観視できた。そもそも人に教えるということは、自分がその事物について深く理解していないとできない。夏侯蘭は、自分はつまらない武辺者だと思い込んでいた。だが、子供たちに学問をおしえてみると、意外にも自分は学があるよ...地這う龍一章その3温かなふるさと
その禿頭《とくとう》の男、夏侯蘭《かこうらん》は、十五のときに義勇軍に応募して常山真定《じょうざんしんてい》を出た男だ。いっしょだった幼馴染みの趙家の末っ子である趙雲、あざなを子龍とともに、袁紹軍に参加したり、公孫瓚《こうそんさん》軍に仕えたりした。事情があって趙雲と別れ、ひとりぼっちで各地を放浪したのち、夏侯蘭は曹操軍に加入し、そこでそこそこの手柄をたてたという。そこそこの手柄、と当の本人は謙遜しているものの、その当時の活躍の話が、たいへんに面白い。夏侯蘭の語りはたくみだった。子供たちもかれのことばの導くままに、想像のなかで、氷柱《つらら》のできた氷の道を、つるつる滑らないように気を付けながら行軍し、あるいは、戦場での多彩な仲間たちとともにかまどを囲んで笑い踊り、ときには、猛暑のなかで甲冑の重さに苦しみ...地這う龍一章その2夏侯蘭先生
冀州《きしゅう》、常山真定《じょうざんしんてい》。集落のはずれめざして、童子が息を切らせて走っていた。家で幼い妹のおしめの世話をしていたら、いつのまにか太陽がすっかり昇り切ってしまっていたので、焦っている。背中には妹、片手には野菜のたくさん詰まった籠《かご》を持って、童子はけんめいに走った。集落のはずれには、さいきん開かれた私塾があって、童子はそこで読み書きを教わっているのだ。背中の妹はぐっすり眠っていて、グラグラ揺らされているにもかかわらず、起きる気配もない。童子は器用に籠から野菜がこぼれないよう、うまくからだの均衡をとりながら体を上下に揺らしている。それでもときどき、籠から野菜がごろりと地面に落ちてしまう。つやつやに光る、とれたてで、まだしずくがついた野菜たちに悪態をつきながら、童子は立ち止まって拾う...地這う龍一章その1そのころの、常山真定
※朝議《ちょうぎ》が散会になったあとでも、孔明はその場にとどまっていた。なにやら思案顔《しあんがお》なので、趙雲はたずねる。「浮かない顔をしているな、気にかかることでもあるのか」とたん、孔明はわずかに首をかしげて、答えた。「あなたの視線は感じていたが、やはり見られていたか。じつは気にかかることがあってね。曹操が来ないというのは、ほんとうだろうか」「なぜ」「曹操のもとへいった徐兄《じょけい》からの手紙が、かえってこないのだ」徐兄とは、孔明の前任の軍師の徐庶《じょしょ》、あざなを元直《げんちょく》のことである。前身は潁川《えいせん》のやくざ者だったが、改心して学問にはげみ、立派に軍師となって、短期間だが劉備に仕えた人物だ。孔明の同門の兄弟子でもあり、かつ、大親友でもある。いまは事情があって曹操に仕えざるをえな...地這う龍序章その3朝議のあとの、ふたり
劉備は密書を受け取り、それから、ざっと書面に目を走らせ、すぐさま愁眉《しゅうび》をひらいた。その表情に、場の緊張の糸がほどけていくのを、趙雲も感じた。「曹操は、今秋《こんしゅう》は動く気配がないようだ」劉備のことばに、あらためて、おおっ、と安堵の声がひろがった。曹操は来ない。つまり、一息つけるということだ。趙雲もほかの者たちと同様に、ほっとしたひとりだ。喜びを分かち合おうと、孔明のほうを見れば、かれは裏切られでもしたかのような、意外そうな顔をしている。曹操が来ないというのは朗報だというのに、気にかかることでもあるのだろうか。「仮にやつが侵攻してくるとなれば、春になろう。つまりわれらには、半年も余裕があるということだ。それだけあれば、できることも増えるな」ホッとした顔を見せる劉備に、関羽が大きくうなずいた。...地這う龍序章その2春までは
首《こうべ》を垂れてみのる稲穂《いなほ》の香ばしいにおいにつられて漂ってきたわけでもなかろうが、新野城の外から、大きなとんぼが広間にまぎれこんできた。これがふだんなら、だれか気の利いた者がとんぼを外へ追い出すのだが、今日ばかりはだれもが緊張していることもあり、知らん顔をしている。とんぼはゆうゆうと劉備の近くまで飛んでいったが、その途中で、止まり木にいるはやぶさに気づいたようで、あわてた様子で引き返していった。その姿を視界の横におさめつつ、趙雲は、広間の中央で、止まり木のはやぶさとともにいる陳到《ちんとう》に目をやる。陳到は、めずらしく神妙な顔をしてはやぶさの運んできた密書をていねいにひろげていた。密書には鄴都《ぎょうと》と許都《きょと》のそれぞれの細作を束ねる男からの情報が書かれている。内容は、ずばり、曹...地這う龍序章その1返って来た密書
ロスとはこーゆうことなのね!水曜日のお楽しみ♪パリピ孔明が終わってしまい・・・(´;ω;`)ブワッ
最終回を迎えてしまいました・・・ 『パリピ孔明』 今はなんかもう呆然としていて、 孔明の動画を観たりしてます・・・(寝ろよw) EIKOの役は この年代だと萌歌ちゃんしか無理だよね〜って友達と話してて
「奇想三国志英華伝《えいかでん》」は、趙雲と孔明を主役にした三国志シリーズ。そもそも、どうして趙雲と孔明のコンビの話を作ろうと思ったのかというと。まず孔明の話を書きたかったことから、すべては始まった。基本は柴田錬三郎の「英雄ここにあり」の清雅の極みといった孔明像。吉川英治版三国志の孔明とも、三国志演義の孔明ともちがう、存在していそうで、絶対に存在しえない唯一無二のキャラクターにあこがれ、自分も書いてみたいなあと思ったため。「英雄ここにあり」は、女性たちがだいたい不憫《ふびん》だが、そのぶん、孔明の潔《いさぎよ》さが際立っていた。孔明ひとりが主人公というのは、ちょっと寂しい。相棒がいたら面白いなと思った。相棒にふさわしいキャラクターってどんなキャラクターだろうと想像を働かせ、行きついたのが、やっぱり趙雲だっ...「奇想三国志英華伝」のなりたち
五丈原の戦いで病死した天才軍師・諸葛亮孔明が若き日の姿でハロウィン真っ只中の現代日本の渋谷に転移し、そこで出会った駆け出しのシンガー・月見英子の夢を叶える軍…
諸葛孔明の格言「無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。」の深い哲学的考察
無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。 諸葛孔明(181年 - 23
※曹操が南陽の 宛《えん》まで来ている、という衝撃的な知らせは、あっという間に諸将にひろがった。孔明のまわりに集まった将たちの顔は、一様にこわばっている。それはそうだと、趙雲は思う。これまで何度か曹操と対決してきたが、今度の曹操は大軍を引き連れている。国境を巡る小競り合いではない、大津波が襲ってくるのも同然だ。だれもが、勝ち目はあるのかと疑い、動揺している。そんななかでも、孔明だけは落ち着き払っていた。「みなにそれぞれ策を与える。今回はわれらが樊城に移動するまでのあいだ、曹操軍を足止めするのが目的だ」孔明に反論する者はだれもいない。みな粛然としてその声を聴いている。「麋子方どのと劉封どのには、それぞれ赤い旗と青い旗を持って、山頂にて振っていただく役目をお願いする」「振るだけでよいのか」劉封の問いに、孔明は...地這う龍その13作戦をたてる
※あらわれた関羽は、甲冑姿のままで、砂埃を払うこともしなかった。その血相はいままで戦場でのみ見た鬼神を思わせるもので、その片手には漆の箱を、もう片手には、旅装の男を引きずっている。引きずられている旅装の男の顔を見て、ますます不吉な思いが増した。男には見覚えがあった。劉備が襄陽に行くたびに趙雲も主騎として随行していたのだが、その襄陽で、蔡瑁のとなりにいた男が、その鼠を思わせる顔をした男…宋忠《そうちゅう》だった。宋忠は、歯をカチカチと鳴らして怯え切っている。「何があったのだ、雲長」「何があったもなにも」劉備の問いに答えつつ、関羽は手にしていた漆《うるし》の箱を劉備のかたわらにいた孔明に向かって放り投げた。孔明はそれを受け取ると、すぐさま封を切り、開く。中には書簡が入っていた。書簡を読む孔明の顔色もまた、桃色...地這う龍その12最悪の知らせ
え、誰?というツッコミが来そうな御仁。趙雲ファンならば、正史三国志の蜀書にある「季漢輔賛臣伝」において、趙雲とならべて語られていることをたいがい知っている。wikiなどを見ると、陳到は豫洲に劉備がいる時代から、劉備に付きしたがって、白耳兵なる精鋭部隊を率いて前線で戦っていたようだ。くわしくは、そちらを検索していただきたい。武勇において、趙雲と並ぶと称賛されている。武勇に優れていただけではなく、史実では永安都督までになっているので、統率力もかなりのものだったよう。某SLGの三國志では、だんだん陳到の顔グラフィックが格好良くなってきているように見えるので、趙雲ファン、蜀漢ファンにだけではなく、広く三国志ファンにも認知されてきているのかもしれない。当作品では、勝手に陳到を趙雲の副将ということにしているが、これは...陳到(叔至)
※劉備の私室へ行くと、劉備そのひとと、張飛、孔明がそれぞれ赤い顔をしてそろっていた。劉備と孔明の顔がほんのり赤いのは、酒の力によるものだろうが、張飛に関してはそればかりではなさそうだ。部屋にはもうひとり、目の細くてすらっと背の高い男がいて、趙雲を見るなり、深々と頭を下げた。おそらくは、許都からもどってきたという細作の成延年《せいえんねん》だろう。いつもは片付いている部屋が、今朝に限っては徹夜明けのためか、散らかっていた。書簡、地図、徳利、杯、そういったものが、ばらばらにあちこち置かれている。さらには、部屋にはぷんと酒の匂いが充満していた。空になった徳利の量が三人分よりさらに多い。益徳め、呑みすぎだぞ、と張飛は心のうちで舌打ちをした。その張飛は、虎になって、劉備にからんでいる。「なーにが『お気の毒』だよ。孔...地這う龍その11細作の正体
「阿斗さまは子龍さまがお好きなのね」阿斗を上手にあやす趙雲い、感心しきりといったふうに軟児が言う。阿斗は劉備によく似た福耳の、まるまるとした赤ん坊だった。泣くときは、身が爆発するのではと周囲が臆するほどに大声で泣く。「奥方様がたは朝の支度をされているのかな」趙雲が問うと、少女たちはいっせいに、うんと答えた。「奥方様がたがお忙しそうだったので、あたしたちが子守りを買って出たんです」と、リスのような少女が言った。「でもあまりお役に立てなかったみたい。阿斗さまは、むずかしいわ」その口調が、まるで大人の口調をそっくりまねたようだったので、趙雲は思わず声を立てて笑った。趙雲がそんなふうに、楽し気に声を立てて笑うことは珍しかったのだが、もちろん、新参の少女たちはそれを知らない。知らないが、なんだか愉快になったらしく、...地這う龍その10こころの傷
食堂でほかの兵卒たちとともに食事をともにする。張著《ちょうちょ》は趙雲に言われたことを忠実に守って、朝食を猛然と食べていた。もうすこし、自分の感性や感情を優先できるようになるといいなと、となりで趙雲はおもう。壺中《こちゅう》というのは、大人に従順でないと生きていけない場所だったらしいから、張著は大人の言動に過敏になっているのだ。そして、食事をしていると、やれやれというふうに、趙雲の部隊の部将がやってきた。「どうした、朝っぱらから疲れた顔をしているな」趙雲が声をかけると、部将たちは困り顔のまま答えた。「それが、大門のところで、ちょっとした騒ぎがあったのです。どう処理してよいか、困ってしまいました」「どんな騒ぎだ」「鶏の鳴く声と同時に門をひらくのは子龍さまもご存じでしょうが、今朝はまっさきに門をくぐろうとした...地這う龍その9趙雲と子供たち
劉備に続いては、このお二方。もう千八百年は語り継がれている人たちだけあって、キャラクターががっちり固まっているところが、じつに書きづらい。とくに関羽は神さまになっているので、とても気を遣う。張飛がボケて、関羽がツッコむ、という図式を崩せないかと頭の中でシミュレートしてみたけれど、どうしても崩せない。しかし、劉備・関羽・張飛のトリオをテンプレ通りに書かないと、もうそれは三国志ではないような気もする…以上の理由から、オリジナル要素は少ない二人である。当作品内でも、関羽は義を重んじる性格で、誇り高く、思慮深い。水魚の交わりのエピソードを持ち出すまでもなく、当初は孔明のことを受け入れていなかったようだが、いったん認めると、とても親身になる。おそらく荊州で娶ったと思われる妻とのあいだに、のちに頼もしい武将に成長する...関羽(雲長)&張飛(益徳)
※朝の早い兵舎では、すでに起きだした兵卒たちが、がやがやとにぎわいながら食堂へ向かっていた。その楽し気な声と、足音、物音で、趙雲は目を覚ました。夢を見ていたような感じがするが、目をひらいたとたんに忘れてしまった。どうせ夢だし、たいした内容でもなかろうと思いつつ、寝台から起き上がる。兵舎の一角にしつらえた粗末な部屋が、趙雲の寝起きする場所である。もっとよい部屋で、劉備や孔明のそばの場所もあるのだが、趙雲が希望してここにしてもらっていた。ここにいると、兵卒たちの把握がしやすいうえに、奥向きのことに気を取られなくてすむので、かえってのんびりできるのだ。女が苦手というほどではなかったが、生来、あまりがつがつと異性に食らいつくほうではない趙雲としては、気を使わない男どものそばにいたほうが気安い。本来なら起き抜けにす...地這う龍その8新野城の朝
しばし、狼心青年のことばを呑み込むことができなかった。曹操が物見遊山《ものみゆさん》に許都をでたわけではない。いよいよ野望をむき出しにし、荊州を併呑《へいどん》せんと動き出したのだ。「し、しかし、いまはもう秋だぞ。すぐに冬になってしまう。兵法に通じている曹公が、まさかこんな時期に軍を動かすとは」おどろきうろたえる夏侯蘭《かこうらん》だが、狼心《ろうしん》青年は頓着しないというふうに、白湯《さゆ》をすすりつづけている。「裏をかいたか、それとも絶対の自信があるのか…どちらにしろ、曹公は自分がまけることなどつゆほどかんがえていない。まあ、負けることは万が一にもなかろうが。なにせ、百万の兵を動かしているのだからな」「百万…」そのあまりの膨大な数を想像しようとした夏侯蘭だが、すぐに想像が追い付かなくなり、やめた。「...地這う龍その7ふたたび荊州へ
「おいおい、たったひとりの丸腰の男相手に、多勢で向かうは卑怯であろう」どこか呑気に、狼心《ろうしん》青年は襲撃者たちに言う。「そいつはおれの朋友だ。殺さないでもらおうか」「知ったことか」吐き捨てるように言ったのは、例の小柄な血の涙の女だった。「おまえたち、先にこいつらを始末しておしまい!」黒装束の者たちは、返事をするまでもなく、こんどは狼心青年たちに向かっていく。狼心青年は驚く様子もない。静かにたずさえていた槍の穂先をあらわにした。となりの巨漢もまた、それに倣《なら》う。黒装束の者たちは、鳥のように高く飛び上がり、狼心青年たちに斬りかかる。その数、五人。だが、巨漢の男は狼心青年と同様にまったく動じず、腰に力を入れると、手にした槍でもって、黒装束の者のうち、ひとりを薙ぎ払った。すさまじい力であった。そいつは...地這う龍その6あらわれた助け手
コネらしいコネもないままに、乱世を腕一本でのし上がった英雄。そのわりに、なぜかふしぎと、強引さや、残虐さといった、自己中心的な面が前面に印象としてないのが、得なところ。前半生は苦労の連続であったのは、ご存じのとおり。ただ、苦労したおかげで、逆にあまたの英雄から「良い面」「悪い面」を学べたのかもしれない。「三国志演義」では、後半生はとくに泣いてばかりの印象が強く、「泣いて蜀をとった」とまで揶揄されがち。包容力のある人物で、あまり多くを語らないところ、感情をあらわにして周りに無駄な気を遣わせないところなどがある。髭は薄く、あるのかないのか、というほど(ちょっとコンプレックス)。みごとな福耳で、手足が細長いため、ふつうのひとより長く見える。音楽が好きで、派手なもの、楽しいものが好き。手先が器用で、牛のしっぽの飾...劉備(玄徳)
墓の前にいたのは、小柄な女だった。女が墓の前の地面に屈みこんで、なにやら熱心にやっている。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…規則正しく音がする。どうやら、地面を掘り返しているようだ。犬のような女だな、どこかおかしいのかもしれぬ。と、そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》はとつぜん、ひやっとした。おかしい、だと。おかしいのも当たり前ではないか。この女の掘り返している地面の下にはなにがある?狗屠《くと》の首ではないか。夏侯蘭は思わず腰に手をあてていた。そして、おのれのうかつさを呪った。ここ数か月、あまりに平和に過ごしていたので、近所に出かけるときは、剣を佩《お》びないようになっていたのだ。女の白く細い手が、土にまみれている。女はそれでもかまわず、熱心に土を掘り返そうとしていた。背後に夏侯蘭がいるのにも気づかない様子...地這う龍その5血の涙の女