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徳川家康は晩年に誕生した三人の男子に将軍家に次ぐ地位を与えた。それが、九男・義直(尾張藩)、十男・頼宣(紀州藩)、十一男・頼房(水戸藩)で、いわゆる「御三家」だ。万が一、将軍家に後継となるべき人材がないという事態に陥った場合の備えとして、その際には、この
天下を取った秀吉に一番欠けていたもの、それは「資格」平たく言えば「箔」だった。 つい最近まで下層出身者の「出世物語」を売りにしてきたのだから、それが無いのも無理はない。この時代、強いというだけではダメで、やはりそれにふさわしい「資格」を備えていなければ、
さて皆様は歴史に登場する言葉それぞれの違いについてよくご承知でしょうか。 例えば、よく似た文字が並ぶ以下の言葉です。 〇公家(くげ) 〇公卿(くぎょう) 〇公暁(くぎょう/こうきょう/こうぎょう) えぇ、かく申す筆者自身はかなりのオタオタ状況に陥ってしまうほどの、いわば...
身分違いの恋というのはいつの時代も人の心を沸かせます。何のことかというと、群馬県桐生市にある白瀧神社の伝説です。 むかし、桐生から朝廷に仕えた男性が官女に恋をしました。地方出身の役人と官女。身分違いの
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。京に為朝が平定した九州から逃れた原田氏(はらだし)の家臣、秋月(…
ダイヤモンド・オンライン天皇陛下は明智光秀の子孫、皇室に引き継がれる「戦国武将たちのDNA」と
にほんブログ村にほんブログ村 豊臣秀吉は人命を大切にする優しい武将だったのか?戦国合戦に見られる残虐性(JBpress) - Yahoo!ニュース 歴史上には…
「本能寺の変」に黒幕や共謀者(扇動者)はいたのか?日本史の最大の謎の一つに迫る!
「日本史」(「国史」と呼ぶのが本来正しい)には、多くの謎があります。その中でも、最大の謎の一つが「本能寺の変」(1582年)です。原因については、明智光秀(生年不詳~1582年)が織田信長(1534年~1582年)への恨みや天下人への野望か
江戸幕府創立者・徳川家康(1543-1616年)は幕府の公式学問として朱子学を採用した。最高の徳目を「孝(親孝行)」とする朱子学は、家臣や諸藩に忠誠を求める幕府にとっても、非常に都合がよかったからだ。実際、幼くして父・家光(第三代将軍/1604-1651年)を失くしていた
これも「日本の常識は世界の非常識」のひとつに当てはまるのかもしれんが、日本の歴史にはなんとも不思議な現象がある。 それは、~どんなに大きな権力を獲得した実力者でも、天皇家以外に生まれた 者は決して「天皇」にはなれない~ ということだ。他の国なら、その実力
天皇の諡号を表すのに、例えば「朱雀帝」とか「持統帝」とか、「○○帝(てい)」という呼び方をすることも少なくない。それに、「持統帝」のような女性天皇については「女帝(じょてい)」という言葉も併せて使われている。ところがダ、いったんは天皇に即位しながら諸事情