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↑源義朝に仕えた渋谷金王丸(しぶや・こんのうまる)と所縁が深い、東京都渋谷区の旧鎌倉街道沿いに鎮座する、金王八幡宮(こんのう・はちまんぐう/渋谷八幡宮とも)を探訪しました。現社殿は徳川2代将軍秀忠公の世、慶長17年(1612)に守役 青山伯耆守忠俊と春日局(竹千代:家光の乳母)によって造営されたものとのこと。かつてこの地には、渋谷の地名の由来となった渋谷氏の居館、渋谷城があったようですね。↑以前、頼朝の命...
金王八幡宮(こんのうはちまんぐう→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1092(寛治6)年に渋谷氏の祖・河崎高家によって創建され、高家の子・渋谷重家はここを中心に居館(→「渋谷城」)を築き渋谷荘(しぶやのしょう→荘園)の経営を行いました。以来、金王八幡宮は渋谷氏の氏神として崇敬され、神仏習合の頃は、隣接する渋谷山 親王院 東福寺が別当寺として祭祀を司りました。縁起によると、渋谷重家には嫡子(→家督継承者)がなく金...
JR渋谷駅東口から歩いて10分ほどのところにある金王八幡宮平安時代、渋谷氏の祖・河崎基家と源義家が八幡宮を創建し、その一帯に1092年、基家の息子の重家が渋谷城を築城しました。重家は、京都の御所に侵入した賊を捕らえた褒美に堀河天皇から渋谷の姓をもらったことから渋谷の地名がうまれたとされています。また重家が八幡神に祈願して嫡男・金王丸を授かったことから金王八幡の名がおこったといいます。金王丸は17歳の時、源...
鎌倉の小町大路沿いに土佐坊昌俊邸跡の石碑が建っています。源頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は義経を討つべく御家人達を召集したところ、名乗り出る者がおらず、土佐坊昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせたといいます。頼朝から京都・堀川にいる義経を討つことを命じられた昌俊は、出発前に頼朝に面会し、自分にもしものことがあったら、下野に残してきた年老いた母と子供たちに情けをかけて欲しいといったと...
京都の冠者殿社は、四条通の八坂神社御旅所の横に建つ八坂神社の境内摂社で、素戔嗚尊の荒魂が祀られています。また、誓文払い」の社として有名です。(誓文払いとは、商売上の駆け引きで一年についた嘘の罪を払ってもらうという商店の安売り、すなわちセールのこと。)一方、源頼朝の命で源義経を襲撃した土佐坊昌俊の霊を祀ったとも伝わっています。土佐坊は熊野詣のために上京したと偽り、堀川邸を訪ねましたが、義経と弁慶に上洛の目的を怪しまれたため、義経を暗殺する意思はないという旨を誓紙に書いて神に捧げます。誓文を書いた土佐坊を義経は宿舎に返しました。その後、土佐坊は堀川館を急襲したものの襲撃に失敗し、土佐坊は捕らえられ、義経の前に引き出されました。義経は「わが主人の命を重んじて、誓文をしたためてまでこの義経を狙うとは忠義なもの。命が惜し...冠者殿社