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前回の最後に、不比等落胤説をとるなら不比等の母は「鏡王女が妥当だ」としれっと書き加えたが、ここで不比等の母について触れておこう。■車持与志古娘これまでたびたび引用している『尊卑分脈』が記す不比等の母で、長男・真人(出家して定恵)の母でもあり、これが通説のようだ。車持氏は天武13年(684年)の「八色の姓」において「朝臣」姓を賜った上毛野氏などの東国6氏のうちの1氏族だが、与志古娘の父・君子の詳細は不明。...
前回、不比等の蘇我娼子との婚姻を根拠として、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)はかなり早い段階から不比等が異母弟であると信じていたのではないか、とした。ただ、それだけでは不比等落胤説自体を支持するには力不足だ。出仕したばかりとはいえ、愛息・草壁皇子の大舎人に任じられた(と推測される)不比等の器量に鸕野讚良が惚れたという解釈もできなくはないからだ。不比等の天智天皇落胤説にはより強力なサポート材料が必要だろ...
大化改新の方程式(255) 古代史メモ(9) 不比等落胤説の可能性 その2
前回の続きで、不比等の天智天皇落胤説の話。くだんの「避くる所の事」というフレーズだが、意美麻呂は不比等よりも「かなり年長だった」とみる高島正人氏は以下のように解釈する──不比等の出生について、どのような「避くる所の事」があったのかは不明であるが、おそらく不比等が生まれた時は、父鎌足が不比等の従父弟意美麻呂を猶子として鎌足家に迎えて間もなくの時であったため、相続その他のことを考え、意美麻呂に配慮したの...
歴代の天皇は各天皇がそれぞれ別の「陵」に葬られた。こうだとばかり思い込んでいる人も少なくないようだが、実は複数の天皇が一つの陵に「合葬」された例もある。と言えば、まあかなりの確率でヒメ隊員からこんな質問が出そうだ。 「では、どなたが?」で、先回りしてそこ
これまでトンデモの類だと思っていた不比等の天智天皇落胤説だが、前回までの記事を書いているうちに、どうにも気になった事柄が発端となって、不比等が落胤だった可能性も否定できないと思うようになった。結果的にトンデモかもしれないが、後日あらためて検討するかもしれないので、以下にその思考実験の顛末を書き記しておこう──不比等の落胤伝説は、かなり時代が下った『大鏡』や『帝王編年記』などにみえるもので、『日本書紀...
前回の「信長塀」に続いて今回も話題は熱田神宮の境内散策になります。 しかし、どうやら以前にも同じようなテーマを扱ったことがあったようですが、 書き終わるまでてんで気が付かなかったという為体でしたから、まあそこは ゴメンナサイよ。 で、前回の「信長塀」の場所から北を向いてみま...
称徳天皇の生前、道鏡の政権下では、765年(天平宝字九年)に、右大臣の藤原豊成が、死去すると、藤原永手が、太政官の筆頭公卿の地位を保った。 藤原永手は、弟の…
大化改新の方程式(253) 「大織冠・藤原・内大臣・鎌足」のどこまでが不比等の創作か? その2
前回、藤原不比等の父として、百済王子・扶余豊璋でもない、近江朝の右大臣・中臣金でもない、「中臣鎌足」なる人物が実在し、確かに「大織冠」を授けられた事実があったと想定できることを示した。以下はそれを前提とした推論なので、「大織冠はまったくの虚構」と考える方にとっては意味のない話になることを先に断っておきたい。それでは、「内大臣」についてはどうであろうか。『日本書紀』によれば、孝徳天皇による大化政権発...
天武天皇は、外交方針は、親新羅に転換したが、天智天皇の律令国家建国を引き継いだ。 日本は、「大王」を中心とする、豪族の連合政権から、「天皇」を中心とする、中…
前述の通り、井沢元彦氏は、『逆説の日本史』にて、天智天皇は、暗殺されたとしている。 そして、筆者は、井沢氏の見解を完全に否定する。 その理由の第一は、暗殺犯…
671年10月に、天智天皇は、病に倒れると、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は、皇太弟を辞退して、剃髪して、僧侶となり、吉野へ去った。 その…
百済王の太子、余豊璋は、その後、唐の長安に連行され、嶺南地方に流刑にされている。 なお、歴史作家の関裕二氏は、余豊璋と中臣鎌足が、同一の人物であるとの説を唱…
#4331 君が目の恋しきからに泊てて居てかくや恋ひむも君が目を欲り
令和6年8月24日(土) 【旧 七月二一日 先負】・処暑 「綿柎開」(綿のはなしべ開く)君が目の恋しきからに泊てて居てかくや恋ひむも君が目を欲《ほ》り ~中大兄皇子(天智天皇)『日本書紀』巻二六(斉明天皇編)母上の眼差しが恋しいばかりに、こうして停泊していてもこ
宝皇女=皇極天皇の庇護のもと葛城王・多智奴女王・漢皇子は生き残り、天智・間人・天武となったとする解釈。 さらに解釈を進めると持統天皇の母は間人皇女という驚愕の解釈も可能になる。 智奴の名を嗣ぐ者 皇極天皇の父、茅渟王は、その母である大俣王が敏達天皇皇女である(継体持統⑦:漢王の妹、大俣王 - 上古への情熱)場合、田村皇子と血統的には差がなく、皇嗣筆頭であった可能性が高い。 皇極天皇の前夫、高向王は、用明天皇第一皇子である田目皇子の息子である可能性があり、姉妹の佐富女王は聖徳太子第二皇子の泊瀬王妃である。泊瀬王、高向王とも聖徳太子の後継者として有力な皇子であった可能性が高い。 628年推古天皇崩…
推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか? 628年推古天皇崩御時にあったこと 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王も推古天皇崩御までに排除されたと見られる。 結果、①蘇我蝦夷が蘇我本宗家の地位、大臣家の家督を獲得、②聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得、③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇と…
多分ちょっとしたシャレのつもりだったのでしょうが、顔見知りのオジサンが こんなセリフを吐きました。 ~拙者の趣味は御朱印、そして生い立ちは内を隠そう、ご落胤なのだ~ 御朱印と御落胤ってかぁ。 発音が少し似ているというだけのその対比には、とてもじゃないがセンスが 感じられな...
青空のもとを歩く。 踏切越しに見えるピンク。 近江神宮も春の様相。 鎮守の森と桜の組み合わせがきれい。 緑とピンクって合うんだね。 渋い鳥居と桜の取り合わせも良い。 天気がいいから明るく見える。 うっそうとした森の中を行く。 いつもは暗い道が明るい。 春はなんだかウキウキする。 心が躍るようだ。 どんどん歩こう。 にほんブログ村
近江神宮には時計の学校がある。 知らなかったのだがテレビでやってた。 結構レベルが高いらしい。 古いロレックスの時計など修理していた。 近江神宮は漏刻でも有名だ。 時の記念日には行事もある。 わが国の時刻制度は、今をさかのぼること1350年の昔、天智天皇の御代に大津の都に漏刻(ろうこく)を設置され時間を知らされた御事績に始まります。漏刻とは水時計のことであり、日本書紀には、初めて漏刻を用い鐘鼓を鳴らして時を知らされた、と記録され、時の記念日の由来ともなりました。 oumijingu.org 時は金なり。 いろんなことが不平等な世の中だが 時だけは平等だと思う。 にほんブログ村
七世紀半ばから八世紀末に至る間に在位した歴代天皇の方々に、その代数順に 並んでいただくと以下のようになります。(数字は代数/女性天皇は女帝と表記) ~38・天智-39・弘文-40・天武-41・持統女帝-42・文武-43・元明女帝- 44・元正女帝-45・聖武-46・孝謙女...
京阪石山坂本線の近江神宮前駅の近く。 住宅街の中に錦織遺跡がある。 近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこおりいせき)近江大津宮は、667年に天智天皇が遷都してから、672年の壬申の乱で滅びるまでの短命の都であった。その位置はながらく論議されてきたが、昭和49年、錦織の地で大規模な掘立柱建物跡が発見され、内裏の南門と判明。長年の論議に一応の終止符をうった。宮跡は部分的に国指定の史跡。 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/071.html 住民も気にせず通り過ぎているし 観光客が来るわけでもない。 さりげなく存在する遺跡。 滋賀…
いよいよ近江神宮に初もうでの看板が設置された。 押し迫ってきたなあ。 この看板の下には「通学路」ってあるのが笑えた。 ここは志賀小学校の児童が通う道である。 門松もしつらえられている。 一般家庭と違って立派だね。 左右違うようだな。 左は白い葉ボタン中心に飾られている。 葉ボタンも特大サイズだ。 右は華やかに紫の葉ボタンで赤い感じ。 左右で紅白というわけか。 朱色の門に映える門松。 正月気分先取りだ。 三が日は混雑するので年内のお参りがおすすめである。 にほんブログ村
こがらし吹く中を近江神宮へ向かう。 お宮の森は風から身を守ってくれる。 どんぐりがこの前よりも落ちている。 紅葉の見ごろは過ぎたが木々に囲まれた良い道だ。 赤い社が見えてくる。 門まではもう少し。 今日は目的がある。 12月の予定が書いてある。 師走だなあ。 13日が門松立てだったのだ。 さあ、門松まではもう少し。 にほんブログ村
近江神宮は天智天皇が祀られた神社である。 その周りも紅葉が美しい。 イチョウが色づいていてきれいだ。 ずいぶんイチョウも落ちてしまったけれど。 近くの大津京シンボル緑地に歌碑がある。 君待つと我(あ)が恋ひをれば我(わ)が宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く 額田王の歌碑がある。 天智天皇を思って詠ったという歌。 ja.wikipedia.org 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にある 宴席での余興の歌であったようだ。 古代の…
近江神宮の横を流れる柳川。 宇佐八幡宮へ向かうほうを見ると紅葉が真っ赤。 保育園などもあってのどかなところである。 川沿いはまた木々がきれいだ。 川の上は風が流れるから温度差があるのかな。 紅葉が鮮やかである。 おっと、天智天皇の歌碑があった。 秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌 百人一首の冒頭の歌である。 ja.wikipedia.org 万葉歌人なのだね。 交通量も多いから気を付けながら紅葉を眺める。 地味なところだがきれいだ。 近江神宮前駅から道路沿いに来ると眺められる。…
唐突な話題で恐縮ですが、いわゆる「天一坊事件」の経緯を簡単に示すなら 以下のような説明になるようです。 ~江戸時代中期、山伏の天一坊改行が、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の落胤を 称して浪人を集め、捕らえられ獄門になった事件~ ここに登場している文言にも少し触れておくなら、こ...
深まりゆく秋。 近江神宮の紅葉も見頃だ。 ちょっと運動がてら行ってみた。 参道の階段の後にも石段がある。 ちょっとした森になっているのだ。 平日は七五三の家族連れぐらいで人はまばら。 ゆっくりとお参りできる。 ちょうど神前式をやっているカップルがいた。 お参りもちょっと遠慮しておく。 いつでも来られるしな。 百人一首の大会も行われる近江神宮。 かるたが飾られている。 その後ろのもみじが赤い。 もうちょっと周りのもみじを眺めて歩いていこう。 にほんブログ村
斉明天皇が崩御なされたのは、福岡ではなく高知だった──── という説があるのはご存知でしょうか? その舞台となるのが、朝倉神社です。 高知市の西の端の地域・朝倉にあって、近くに高知大学もあります。 昔から『木の丸さま』の愛称で親しまれています。 朝倉神社...
「藤原」姓は、中大兄皇子(後の第38第・天智天皇/626-672年)に協力し、後の国家改造を導くことになった中臣鎌足(614-669年)に下賜された。 通説ではこのように鎌足が「藤原氏」の始祖と説明されることが多いのだが、しかし、実際にはその鎌足の子である「藤原不比等」
旅行に行きました。京都は観光客で溢れ返っているようですので、隣のウォーターフロントの大津に行って参りました。こちらは観光客が少なくゆっくり廻れました。大津周辺は歴史的に重要な場所であること、再認識しました。天智天皇により一時、大津京が日本の中心であったこと正直ビックリしました。来年の大河ドラマもあり、紫式部ゆかりの石山本願寺など人気が出るでしょう。夜明け琵琶湖と近江大橋遠望667年に天智天皇が奈良の飛鳥より遷都しました。その後、天皇崩御し6年で廃都になりました。天智天皇はクーデターをおこして大化の改新を実施した天皇であり、小生にとっては子供の頃百人一首のなかで一番立派だと思っていた札です。朝鮮で白村江の戦いで敗れました。また、クーデターを一緒に起こした中臣鎌足に藤原姓を与えこの系譜が鎌倉時代まで権勢を奮う...琵琶湖の夜明け
#3953 秋山の樹の下隠り逝く水のわれこそ益さめ御思よりは
令和5年8月3日(木) 【旧 六月一七日 仏滅】・大暑・大雨時行(たいうときどきふる)天皇の鏡王女に賜ふ御歌一首妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺《ね》に家もあらましを ~天智天皇 『万葉集』 巻2-0091 相聞歌お前の住む辺りを見続けていたいのに、大和にある大島
「万世一系」などと仰々しい表現をされると、“天皇”という地位?には、いつの瞬間にも常に誰かが座っていたものと思ってしまうものだ。 ところが実際の歴史にには「空位」、つまり“天皇不在”の期間もあったとされてる。たとえば、第37代・斉明天皇(594-661年/第35代・
さてさて…ジメジメとした日が続いておりますな…梅雨のない北海道に移住したいよ… 冬の生活には耐えられる自信は全くナイけど… 札幌時計台、意外と小さいんだよね……
【酒船石(さかふないし)】古代日本のミステリー なんなんでしょ 2カ所で発見されているらしいです
< 7世紀の人工物ってことですから1400年ぐらい前ですけど その役割は解ってないんですねえ > 奈良県明日香村の岡っていう地域にある酒船石が「岡の酒船石」「岡の酒船石」は江戸時代にはすでに見つかっていたらしいですね。 で、もう1つは「出水(でみず)の酒船石」大正時代に発見。 飛鳥川の畔、「岡の酒船石」の北西3キロメートルほどの出水っていう場所で、農家の人が2つ石造物を同時に掘り出したんだそうです。 今は「岡の酒船石」からほぼ真北に1キロメートルほどの、奈良文化財研究所飛鳥資料館、前庭に常設展示されているみたいです。でもコレ、レプリカだそうですね。 ホンモノの出水の酒船石は、京都市左京区南禅寺…
6月10日は、時の記念日であった。 近江神宮では、漏刻祭が行われた。 天智天皇10年のこの日、大津宮に漏刻(水時計)を築かれ国民に時を知らされた。 時の祖神の偉業を仰ぐ時の記念日の祭典である。 6月10日は「時の記念日」です。天智天皇の10年(671年)4月25日、漏刻と鐘鼓によって初めて時を知らせたという『日本書紀』の記事にもとづき、その日を太陽暦に換算して、定められました。今日ではカレンダーを見ると実にさまざまな記念日が掲載されていますが、各種の記念日のなかでも時の記念日は最初期に定められたものということができます。 oumijingu.org 漏刻祭は平日に普通に実施されるので、 なかな…
Canonレンズ(EF-S18-55mmF3.5-5.6)Canoneoskissx6iにて撮影(上の画像クリックで拡大。以下の写真総て同じ操作で画像拡大、左上の←クリックで元に戻る)アケビと同じ柵に、一緒にムベの花が咲いていた。毎年見ていたが、ムベの花には気が付かなかった。例年アケビが先に咲き、ムベは少し後に咲いていた。今年はアケビと同時に咲いたので、ムベに気が付いた。ここのムベもアケビと同じく実は見たことが無い。ムべ(郁子)・アケビ科ムベ属ムベ種・日本、台湾、中国に自生・日本では関東以西に自生・常緑蔓性植物・花期は4月から5月・実は熟しても割れない・現在でも生産農家はあり、皇室のほか、天智天皇を祭る近江神宮、靖国神社に献上している(Wikipedia)より最近2年の画像は「atakaの趣味悠久」が満杯...ムベの花
大化改新の方程式(239) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その3
【前回までのおさらい】・大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化を企てた。それが皇極・斉明の両期における彼女の“興事”だった。・『日本書紀』皇極紀おいて、八佾の舞や甘樫丘の邸宅建造など蘇我父子の専横の象徴として描かれているものの多くは、宝皇女による飛鳥聖地化に向けた“興事”の一貫であった。【ここでの課題】彼女の“興事好き”が、乙巳の変以降の...
第四話。出会い依然緊張状態が続きながらも、中大兄は十八歳の正月を迎えた。(入鹿は、次に我を標的にするであろう)中大兄は、焦っていた。一方、天皇家の復活を求める男がいた。皇極からの神祇伯(かんづかさのみや)の任用を再三固辞した中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。(逆賊の蝦夷や入鹿のいる朝廷に勤めることはできん、何とか、奴らを朝廷から締め出さなければ。早くしないと、皇族たちが危ない。お上には申し訳ないが)鎌足は体の具合が悪いと皇極の使者に伝えて、摂津の国三島に引っ越して行った。【神祇伯とは、律令官制の二官の一つ神祇官の長官で、職掌は神祇の祭祀,大嘗(だいじょう),祝部(はふりべ),神戸(かんべ),御巫(みかんなぎ),卜兆(ぼくちょう)など司り神祇官を決済する役目を持つ職であった。この時代は、既に社〔やしろ〕を設け...苦闘中大兄皇子後編
令和4年10月17日(月) 【旧 九月二二日 赤口】・寒露・菊花開(きくのはなひらく)秋の田のかりほの庵の苫《とま》をあらみわが衣手は露にぬれつつ ~天智天皇 『後撰和歌集』 巻6-0302 秋歌中秋の田の近くに据えた仮小屋の、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、私の衣の袖は
令和4年10月4日(火) 【旧 九月九日 大安】・秋分・水始涸(みずはじめてかるる)朝倉や木の丸殿《まろどの》に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ ~中大兄皇子(天智天皇)『新古今和歌集』 巻17-1689 雑歌中朝倉の丸木造りの御殿に私がいると、名を告げては通り過ぎ
大友皇子と壬申の乱 9月15日の広報おおつで、 「壬申の乱1350年記念 企画展&イベント」の告知がありました。 広報おおつ⇒広報おおつ(2022年9月…
令和4年7月11日(月) 【旧 六月一三日 赤口】・小暑・温風至(あつかぜいたる)少年と犬駆け上る飛ぶ鳥の明日香の里の甘樫の丘 ~林龍三 『塔』 2021年6月号 「甘樫《あまかし》の丘」は明日香村が一望できる標高148mの丘。この展望台からは大和三山(耳成、畝傍、天香久山
『日本書紀』の記事や『万葉集』の和歌をモチーフに、私なりに紡ぎ出した歴史小説です。執筆に当たっては明日香、藤原京、生駒など、奈良各地をはじめ、滋賀、三重、和歌山や大阪などの史跡や博物館、資料館を幾度も訪れて取材を行っています。一昨年秋に、Amazon Kindle版