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継体紀に書かれた純陀太子は、倭王武の後継であった可能性 武寧王と倭の五王⑿
先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の
同一人物説に至った理由と倭国にいた百済王の残した足跡 武寧王と倭の五王⑾
1. 百済三王と倭の三王の同一人物説 蘇鎮轍氏らの倭王武と武寧王同一人物説を検討する中で、前代の済が蓋鹵王、世子興が昆支と考えるように至ったが、簡単にその根拠を述べる。なお、讃と珍は材料がとぼしく、検討課題としておく。もちろん、日本書紀の記す天皇とは全く無
1.済と世子興のあいだに王名のない遣使記事がある 雄略紀5年(461)に、蓋鹵王が子の昆支を派遣している。その際、昆支は蓋鹵王の身重の女性を手に入れて渡海するのである。これは既に説明した武寧王誕生譚につながるのだが、その翌年の462年、『宋書』の大明6年に世子興を
1.蓋鹵王は、倭国に滞在したことがあるのであろうか? 蓋鹵王は、日本書紀の雄略5年に昆支に倭国派遣を申し渡しており、それは百済本国でのこととであろう。蓋鹵王が済であるならば倭国に滞在していた痕跡がないと、同一人物説は成り立たない。蓋鹵王も日本にいたと考えら
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある. 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあっての
1.百済のために高句麗を非難する倭王武 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができ
図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカ
1.跡継ぎのいない天皇と跡継ぎが生まれたという武烈紀の奇妙な記事 武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれるのである。とこ
倭の五王が日本書紀の天皇に比定できない理由 武寧王と倭の五王⑵
宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿の
佐賀県唐津市加唐島 オビヤ浦に武寧王生誕地がある 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐
「古代史の復元」目次 ※ 第三章の11分割は当サイトによる https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2024/01/25/003318 九 第187~202節 倭の五王と継体 187 倭の五王の年代推定 https://mb1527.thick.jp/N3-25-goou.html 188 阿知使主の謎 https://mb1527.thick.jp/N3-25-1ati.html 189 武内宿禰の謎 https://mb1527.thick.jp/N3-25-14takeuti.html 190 仁徳天皇 https://mb1527.thick.jp/N3-…
「古代史の復元」の紹介 https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/12/29/022326 173 日本武尊征西 https://mb1527.thick.jp/N3-23-14yamatotakeru.html BC108年頃、出雲国に流れ着いた八島野命以降15代続いた出雲王朝も 景行天皇によってAD307年頃廃止されたようである。 このことを伝えるのは次の古事記伝承であろう。 (・・・中略・・・) めいめいの刀を抜いたときに、出雲健は偽物の太刀のため抜けなかった。 すかさず、倭建の命は太刀を抜いて出雲建を打ち殺した。 (・・・中略・・・) この話のあら…
関門海峡制圧(仲哀天皇崩年の前年:記崩年干支によると361年)以降、莫大な富と文化が瀬戸内海・難波に流入。巨大な前方後円墳の造築が可能になり、記録も詳細に残せるような文明開化が起こった。 このため五世紀の歴史は詳細な様子がわかる。以下は、各天皇の元年崩年をまとめたもの。 ※記紀記事の西暦(絶対年代)への比定については、不確定性が多い。日本書紀はストーリー上の都合に応じて改竄している可能性が高いほか、暦について春秋二倍暦などを考え始めると、あらゆる解釈が可能になる。上記表では、古事記記載の崩年干支が、一年暦に換算された正確なものとして、各天皇の元年崩年を整理した。 以下、5世紀の様子を紹介する。…
古事記や日本書紀に出てくる初期の人皇家は 皇位継承をめぐって血族同士の殺し合いをしている かのように描かれている。 けれど、実際は人種が違うのだと思う。 そもそも人皇初代の即位にしても それ以前の「神話」にしても 殺しが無いわけではないのだけれど 「血族同士の殺し合い」が酷くなるのは 偽の仁徳天皇・大鷦鷯や雄略天皇ら 高句麗系の疑いがある「倭の五王」からで 藤原氏や桓武天皇が権力を握るまで テロや陰謀が繰り返されている。 前世の私にも落ち度はあっただろうけれど 「血族同士の殺し合い」をしてる皇族全てを 「自」とは感じないのもまた事実だ。 あれを「自」と感じる方は、 かなり危険人物ではなかろうか…
奥州藤原氏は安倍一族の血を引いている、 という事は知っていましたが、最近、 実は父方も藤原氏ではなく 坂上田村麻呂の血を引いている という事を知りました。 藤原頼遠は藤原秀郷の孫の藤原千清の養子 だけれども、実父は坂上有行だというのです。 一般的には実父も秀郷も孫の正頼とされてますが。 昔は藤原氏や源氏の子孫と称する事で 権威づけるような事が普通になっていたので そういう事になりがちなようです。 薩摩の島津なども先祖を秦氏としたり源氏としたりするようで。 もう一つ、一般的には知られていない事ですが 源義経公の母君の常盤御前は 源義朝公の死後、平清盛の妾とされていましたが 藤原北家の長成という人…