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継体紀に書かれた純陀太子は、倭王武の後継であった可能性 武寧王と倭の五王⑿
先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の
同一人物説に至った理由と倭国にいた百済王の残した足跡 武寧王と倭の五王⑾
1. 百済三王と倭の三王の同一人物説 蘇鎮轍氏らの倭王武と武寧王同一人物説を検討する中で、前代の済が蓋鹵王、世子興が昆支と考えるように至ったが、簡単にその根拠を述べる。なお、讃と珍は材料がとぼしく、検討課題としておく。もちろん、日本書紀の記す天皇とは全く無
1.蓋鹵王は、倭国に滞在したことがあるのであろうか? 蓋鹵王は、日本書紀の雄略5年に昆支に倭国派遣を申し渡しており、それは百済本国でのこととであろう。蓋鹵王が済であるならば倭国に滞在していた痕跡がないと、同一人物説は成り立たない。蓋鹵王も日本にいたと考えら
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある. 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあっての
1.百済のために高句麗を非難する倭王武 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができ
図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカ
1.跡継ぎのいない天皇と跡継ぎが生まれたという武烈紀の奇妙な記事 武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれるのである。とこ
図は、日本書紀の神功皇后から雄略紀までの、百済の毗有(ヒユウ)王に関係する書紀と三国史記などの記事だけを抜粋して表にしたものである。この時期の年代が明確な百済王の記事は、日本書紀では干支二運、120年遡って記述され、雄略紀で実年に合うようになっている。その
写真は京都市西京区の桓武天皇生母高野新笠の大枝陵1.平成天皇の記者会見で語られた、「韓国とのゆかり」 平成13年(2001)12月18日に、平成天皇の記者会見が行われ、記者の質問(ワールドカップ日韓合同開催にちなんで)に対して、次のように述べられた。以下は、宮内庁H
倭の五王が日本書紀の天皇に比定できない理由 武寧王と倭の五王⑵
宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿の
佐賀県唐津市加唐島 オビヤ浦に武寧王生誕地がある 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐
和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 日本の加唐島で生まれたとされる百済の武寧王は、百済王に即位するまでの半生が不明です。どこでどうしていたのでしょうか?ところが、後の桓武天皇の母、高野新笠は、武寧王の子孫だというのです。ど