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#記紀の誤読
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大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑶
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い
2024/10/05 07:41
記紀の誤読
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日本書紀の誤読だった「任那日本府」
写真は、群馬県前橋市大室古墳群の公園内大室はにわ館展示の個人の作品 任那日本府とは、加耶の王族らによる組織であって、けっして、日本の倭国の出先機関でもなければ、軍事組織でもない。日本府が登場するのは、日本書紀だけであり、しかもその中の欽明紀のわずか10
2024/08/25 06:50
任那日本府は、日本国(倭国)の出先機関などではなく加耶の組織だった。
任那日本府については、一般的に思われているイメージと、唯一の出典でその根拠となる日本書紀の欽明紀の記述とに大きな隔たりがあるように思われる。 最近では次のような理解になっている。「日本書紀で半島南西部の『任那』を当然のように支配地と見る見方は、今日では
2024/08/15 06:55
百済を敵視する日羅の歴史的背景 日本書紀のなかにある加耶
上図の韓半島の地図は5世紀後半から6世紀初めの加耶の範囲を示したもの。 古代の韓半島には、金官加耶、安羅、大加耶といった複数の国々をまとめて加耶と呼ばれる国がありました。百済と新羅の挟撃に遭い、6世紀半ばには新羅によって滅亡してしまいます。 日本書紀では
2024/08/10 07:35
神功皇后の喪船と空船による策略の謎
セティ1世王墓壁画 王の喪船を曳く従者 古事記仲哀天皇記の押熊王の反乱という説話では、神功皇后が危険を予知し、御子が亡くなったとの偽情報を流し、喪船を用意して出航して敵に臨むという一節がある。敵を欺くための皇后による策略であるが、実はこの箇所が古来
2024/07/27 07:52
百済王の孫が倭国に持参した七支刀
七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。1.銘文の一般的な解釈表 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□
2024/06/09 21:40
日本書紀の年代移動⑵ 60年の移動を「五城」がつなぐ
『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を
2024/06/09 21:39
日本書紀の年代移動⑴ 欽明紀の大将軍男麻呂と推古紀の雄摩侶
型吹亀甲文紺色坏 慶州天馬塚 6世紀 類例は4世紀頃の東地中海から黒海周辺、南ロシアなど広く分布しているが、東アジアでは唯一の出土例とのこと。 『ユーラシアの風新羅へ』より 日本書紀は、古代の情報が豊富に綴られた重要な書物である。しかし、その記述には、様
2024/06/02 07:55
隋書倭国伝の俀は倭の異体字
隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないとこ
2024/05/30 07:54
斉明天皇の狂心の渠は九州の水城のことだった。
日本書紀の斉明紀には、いわゆる狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)といわれた大工事をおこなったという記事がある。一般的には、奈良県の、香具山の西から現在の天理市付近と考えられる石上山までに至るもので、石を運搬するための運河と呼ぶべきものと考えられている。石
2023/11/21 17:00