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同年、応天門の変が、発生し、伴善男は、流罪に処され、藤原良相及び、伴善男の太政官領導体制は、完全に崩壊した。 応天門の変後、藤原良相は、失脚しなかったが、政…
藤原冬嗣の長男、長良は、淳和天皇の治世の824年(天長元年)、従五位下に叙爵した。 当時、長良は、春宮の正良親王の信頼が、篤く、常に近侍していた。 833年…
藤原冬嗣は、春宮時代からの側近として、嵯峨天皇の信頼が厚く、810年(大同五年)、平城宮に移った、平城上皇と尚侍・藤原薬子に対抗して、嵯峨天皇が、秘書機関の…
京都御苑内の南西に位置する宗像神社は、延暦14年(795)藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を受け、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請したのが起源といわれています。藤原北家の流れを汲む花山院家の邸内に祀られ、皇居守護の神様として信仰されました。 本社は、宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀る。宗像三女神は別名『道主貴』といい、これは全ての道を司る神の尊称である。道の神、また海の神として...
京都市下京区河原町五条に鎮座する市比賣(いちひめ)神社は、当社のご創建は、桓武天皇の御代延暦14年(795)に、京都の左右両市場の守護神として、当時の左大臣・藤原冬嗣が両市社領内の堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社と伝わります。天正19年(1591)豊臣秀吉の時代、現在の地に移転鎮座されました。 祭神として、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)・多紀理比賣(たぎりひ...
京都市中京区にある閑院址の碑は、市バス「堀河御池」下車し、歩くこと数分、押小路通と小川通が交わる所にあります。平安時代から鎌倉時代の初期にかけて藤原氏の邸があった所で、当初は藤原冬嗣の邸でしたが、藤原公季が伝領してから「閑院」と称したそうです。高倉天皇の時代、大内裏が甚だしく荒廃したため閑院邸が里内裏として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継しました。ここから北西にあたる西洞院通、押小路通...