メインカテゴリーを選択しなおす
足利尊氏は、鎌倉幕府を倒すまでは英雄と言えたかもしれない。 しかし、西国の武将たちにとっては、けっして好ましい人物ではなかったかもしれない。 尊氏と後醍醐帝の争い、尊氏・直義の兄弟喧嘩などに振り回され、少弐氏などは破滅の道を歩む事になる。
日宋交易で巨万の富を得た博多の商人達は、元寇で多くを失った。 博多を復興させようとした鎌倉幕府だったが、武士たちの恩賞不満の声に応えられず九州で討幕の動きが活発化。 鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代になって以降も博多近郊は戦場と化し荒廃した。
『愛国百人一首』の選定された43首目は菊池武時です。(著者所持の『愛国百人一首』の菊池武時の絵札) も の ヽ ふ の 上 矢 の か ぶ…
#610 42首目:藤原師賢(もろたか)-シリーズ愛国百人一首 43
『愛国百人一首』の選定された42首目は藤原師賢(もろたか)です。(著者所持の『愛国百人一首』の藤原師賢の絵札) 思 ひ か ね 入 り に…
~古典文学『太平記』の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた 逸話であり、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話であった~ こんな説明に接したとしても、その「戦前教育を受けた者」になる方々が今や 絶滅危惧種?並みの現在では、その「大変有名な話」の有...
東洲斎写楽(生没年不詳)と名乗る謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が初めて蝦夷地の測量(1800年)をしたのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、つまり、西暦でいえば1789年から1801年にまたがる期間の出来事だ。そして、実はその
最後に参拝した「吉野神宮」。 大鳥居。 表手水舎に鶴。 神門。 拝殿。 「厄割玉」とな。 『作法』 1.玉(授与所で300円で売ってる)に息を吹きかけ悩みや
伊勢神宮を抑える要衝として築かれたという田丸城。太古の昔より、この地は伊勢神宮への参宮本街道と熊野街道の分岐点として栄えました。今回はその田丸城を歩きます...
日本史の「時代区分」をよくよく眺めて見ると、結構入り組んだ構成になっている ことに気が付きます。 考えてみれば、社会の複雑な変遷や経緯をそれなりの根拠に基づいて括りまとめる 作業ですから、そこにデジタル的明確さを求めることは意外に困難なことなのかも しれません。 Wikip...
鶴見の大本山 曹洞宗 総持寺 壱 出来ればご声援お願いいたします m(__ __)m 今年のみたままつり お坊さん、 いいわぁ~~~ぁ 衆と共に在ることを修行。 来年は行くのかしら???宿縁?? ところで一休さんは 臨済宗大徳寺派だったのでは??実にアットホーム。 勿論 猊下もお出ましに ...
さて、どのように言ったらよいものか、そうした方面の話題にとんと疎い筆者には 判断が付きかねますが、児童虐待、性加害犯罪、人権蹂躙などの表現をもって 昨今盛んに取りざたされているいわゆる「ジャニーズ問題」です。 現在では、お話はどうやら事務所の名称を変える、変えないというとこ...
↑鎌倉幕府滅亡から南北朝時代が好きで、武州多摩から何度か鎌倉へ遠征しています。このページは源氏山探訪記の5ページ目で、神奈川県鎌倉市梶原5丁目9の「国指定史跡 日野俊基(ひの・としもと)墓」の紹介です。まず、日野俊基について Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂きました。鎌倉幕府滅亡を語るうえで「正中の変」と「元弘の乱」は押えておきたいですね。日野 俊基は、鎌倉時代後期の公家。藤原北家真夏流日野家、...
念仏100万回!京都市百万遍 百万遍知恩寺(百万遍念仏根本道場)
鎌倉時代、百万遍=100万回の念仏を唱えて疫病を退散させた上人がいた。その名は浄土宗・知恩寺第八世の善阿(ぜんな)上人。後醍醐天皇は知恩寺に「百萬遍」の寺号を授けた! 百万遍知恩寺 御影堂 百万遍の力強い文字 知恩寺の桜 ブッダガヤ大塔佛足跡 霊魂平安 百万遍知恩寺 模刻 ...
昭和20(1945)年以降、つまり「戦後」と呼ばれる時代には、その知名度がイマイチに陥っているものの、それ以前には超有名だった人物も少なからずいる。たとえば、神話がらみの人物なら、「三韓征伐」で有名な神功皇后とか、あるいは、その側近の武内宿禰がそうだろうし、確
「寛政の三奇人」という言葉がある。ちなみに「寛政」とは元号で、たとえば東洲斎写楽(生没年不詳)なる謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が蝦夷地を初めて測量(1800年)したのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、に当たり、西暦
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 07.新田義貞・五
新田義貞の軍勢は、足利尊氏の軍勢に敗北し、楠木正成と共に尊氏を挟撃しようとする。 1336年(/建武三年)5月24日、新田義貞は、楠木正成と合流して、酒を酌…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 06.新田義貞・四
足利尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま、討伐に向かい、中先代の乱の鎮圧後は、鎌倉に本拠を置いた。 足利尊氏は、新田一族とその与党の所領を、北条時行の撃退に…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・参
新田義貞は、鎌倉を陥落させると戦後処理に奔走した。 各々の武将が、義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞は、それに対して、証判を書いた。 しかし、7月に入ると、…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・壱
新田政義の死後、息子の新田政氏が、新田本宗家の五代当主となったが、前述の通り、新田氏の「惣領」の座は、世良田義季と岩松時兼に分割相続されていた。 政氏の死後…
鎌倉宮(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりよししんのう)を祭神とする、1869(明治2)年6月に明治天皇の命で創建された旧官幣中社です。護良親王は、元弘の乱(→鎌倉幕府討幕戦)の功績から建武の新政で征夷大将軍に任じられましたが、父の後醍醐と不和になり、1334(建武元)年冬に鎌倉の足利直義(ただよし→尊氏の実弟)の元に幽閉され、1335(建武2)年7月の中先代の乱に際し、直義の命を受けた淵辺義博(ふち...
方向方角を示す場合、一般的には「東西南北」を基準にするようです。 まあ、少なくともチョイ前まではそうだった気がします。 ところが、話は多少逸れますが、筆者なぞは実際にこんな光景を目撃したことが ありましたから、最近ではそうでもないのかもしれません。 それは、どうやら待ち合わ...
金龍山 宝戒寺(→神奈川県鎌倉市小町3丁目)は、正式には金龍山 釈満院 円頓宝戒寺という天台宗寺院で、鎌倉時代には得宗家小町亭(とくそうけこまちてい→北条氏の家督である得宗家の邸宅)がありました。「北條執權邸旧蹟」(→北条執権邸旧跡)の石碑が建っているのはそのためです。本尊は地蔵菩薩で、「萩の寺」と形容されるように季節によっては白萩が人の入山を拒むかのように咲き乱れます。宝戒寺の開基は鎌倉幕府の討幕に執念を燃...
■「近鉄全線3日間フリーきっぷ」で一人旅をしてくるよ(その7)紅葉の吉野へ電車旅『吉水神社』(奈良県吉野町)
(写真:後醍醐天皇や源義経など歴史的人物とも縁が深い「吉水神社」)次は、参道を横に逸れ「吉水神社」へと参ります。
鎌倉市二階堂にある鎌倉宮は、建武中興十五社の一社で、、後醍醐天皇皇子の護良親王を主祭神としています。1869年(明治2年)2月、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じて自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけ、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営されました。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮(だいとう...
戦闘にメッチャ強かった、あるいは巧みな戦運びだったと評価される人物は歴史の 中に少なからず登場しています。 そうした人物を、少し探ってみると、共通して「常人を超えた能力」を備えていた ことが強調されていることに気が付きます。 しかし、これはある意味当然なことで、「平々凡々」...
鎌倉市二階堂にある鎌倉宮は、建武中興十五社の一社で、、後醍醐天皇皇子の護良親王を主祭神としています。1869年(明治2年)2月、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じて自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけ、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営されました。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮(だいとう...
↑神奈川県鎌倉市小町3丁目10 - 1の 国指定史跡 東勝寺跡を訪問しました。東勝寺(とうしょうじ)は北条得宗家の氏寺(菩提寺)で、元弘3年(1333)陰暦5月22日に新田義貞公率いる討幕軍に攻められ、相模入道(14代執権北条高時)ら一族郎党870名(数には諸説あり)が集団自決した「鎌倉幕府終焉の地」として有名ですね。しかし、御覧の通り史跡は金網で囲われており、中へ入ることは出来ませんでした。↑冒頭の写真は、金網の...
古都の空からこんにちわダイエット目的でヨガと動く瞑想に目覚めた正統派ゲイことMA⭐CHARUです。 組合員(ゲイのお仲間ね)も多かったこの日のお食事したほ…
【天皇家に関する話】 とにかく、これから書く記事は、基本的に源氏と平氏の争いが原因であることに注目して書いていきますので、登場する人物がどちらなのかも考えながら読んで頂けたらと考えています(^^)/ 南北朝時代とは、鎌倉時代と室町時代に挟まれる期間を指すのですが、足利尊氏(...
隠岐の旅情 Oki's travel information diary japan
隠岐の島は島根県に属し、島根半島から約50~60Kmの日本海に浮かび四島からなる島です。知夫里島(ちぶりじま)、西ノ島、中ノ島の三島を島前(どうぜん)と呼び、四島中、最大の島である島後(どうご)と、これに人の住んでいない小島が200前後の隠岐諸島の総称です。島に渡るには、鳥取県境港市、島根半島の七類港から隠岐汽船のフェリーで約2時間30分、高速艇で約1時間です。また大阪から、一番最大の島、島後に飛行機が飛んでいます。(隠岐世界ジオパーク空港)。歴史的には聖武天皇の時代(724年頃)に遠流(おんる)の地と定められ、それ以来、著名な人々が隠岐に流されました。承久の乱で公家と武家の衝突により完敗した…
日野 俊基(ひの としもと)は、鎌倉時代後期の公家で、後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍しましたが捕らえられ、ここ葛原ケ岡で処刑されました。 俊基は、「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」という辞世の歌を残したといわれています。 墓所は1927年に国指定史蹟になっています。 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ フォトムービーはAdobe Premiere Elements 2021で作成しています 神奈川県鎌倉市梶原JR北鎌倉駅 2021紅葉散歩 2020.11~12 Youtubeライブラリ 動作確認はWindows10/Microsoft Edgeでしています。