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【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 13.山名祐豊・弐
山名祐豊及び、甥の山名豊国は、織田信長が、但馬国・因幡国の国主としての山名氏の地位を否認したことに不満を持っていた。 家臣の太田垣氏は、鉱山利権を巡り、織田…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 11.山名祐豊・弐
1560年(永禄三年)、山名祐豊は、弟の山田豊定が死去すると、自身の長男、山名棟豊を因幡守護代として派遣した。 しかし、翌年の月に山名棟豊は、十八歳で、死去…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 11.山名祐豊・壱
但馬山名氏の山名誠豊は、山名豊頼の追放後、豊頼及び、その息子の誠豊を支援した。 その結果、但馬山名氏と伯耆山名氏の対立は、更に、深刻化した。 経緯は、不明で…
山名政豊は、播磨遠征の失敗で、嫡男の俊豊及び、備後国人衆と対立した。 更に但馬国の国人衆及び、叔父の山名時豊が、山名政豊を退けて、俊豊を擁立する動きが強まっ…
西軍の総大将の山名宗全、東軍の総大将、細川勝元の死後、応仁の乱は、続いていたが、翌年、山名政豊と、細川勝元の後継者、細川政元との和睦が、成立したため、応仁の…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 08.山名宗全・参
山名宗全と細川勝元は、対立していたが、二人の地位を脅かす者の排除には、協力した。 1466年(文正元年)、山名宗全は、細川勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 07.山名宗全・弐
その後、赤松氏と山名氏による東播磨を巡る、戦いが、続くことになる。 畠山持国には、嫡子がいなかったため、弟の持富を後継者としていたが、1448年(文安五年)…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 06.山名宗全・壱
山名時熙には、満時、持熙、持豊の三人の息子がいた。 前述の通り、長男の山名満時は、父に先立ち、死去した。 1428年(応永三十五年)、山名時熙は、重病になる…
稲荷山 成就院(→神奈川県藤沢市大庭)は、南北朝時代に守護大名の山名時氏(→足利尊氏の母上杉清子の従兄弟)、或いはその子山名師義(やまなもろよし)が創建したと伝わる高野山真言宗寺院です。山名時氏は足利尊氏に従い室町幕府創設に尽力しましたが、尊氏・直義(ただよし→尊氏の同母弟)兄弟が争った観応の擾乱(→1350年~1352年)では足利直義方につき、直義死後は南朝に帰順して幕府軍を破っています。しかし、1363(正平18/貞治2)年...
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
方向方角を示す場合、一般的には「東西南北」を基準にするようです。 まあ、少なくともチョイ前まではそうだった気がします。 ところが、話は多少逸れますが、筆者なぞは実際にこんな光景を目撃したことが ありましたから、最近ではそうでもないのかもしれません。 それは、どうやら待ち合わ...