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関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞率いる討幕軍と、北条泰家(→北条高時の同母弟)率いる鎌倉幕府軍との間で行われた戦いです。古戦場の近くにはこの戦いで討死した幕府軍の無縁仏を埋葬した「北条軍無名戦士の墓」(→東京都多摩区関戸5丁目)があります。さて、『太平記』に記された内容が現実の出来事かを確かめるには、同時代の史料を確認する方法が一番です。1333(...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、北条泰家(ほうじょうやすいえ→高時の同母弟)率いる幕府軍との間で行われた戦いです。5月15日~16日には多摩川を挟んだ対岸で分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)が行われ、幕府軍は敗れています。南北朝時代の軍記物の『太平記』によると、新田義貞に多摩川を越えられた北条泰家は、関所のある霞...
遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られる藤沢山 無量光院 清浄光寺(しょうじょうこうじ→神奈川県藤沢市西富1丁目)は、鎌倉時代後期の1324(正中元)年に鎌倉郡俣野の領主であった俣野景平(またのかげひら)が開基、時宗開祖一遍の遊行を相承した遊行四世の呑海(どんかい→俣野景平の兄弟)が開山した時宗総本山です。1324(正中元)年は14代執権北条高時政権で、周辺には得宗被官(→北条氏嫡流の家来、御内人とも)の所領が点在し、境内には1333(...
正宗稲荷大明神(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)は、隣接する長藤山 妙善寺(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)に稲荷社で、創建は鎌倉時代にまで遡ることができます。平安時代の高僧円仁が802(延暦21)年に彫刻したと伝わる仏像が、鎌倉時代後期に日蓮宗信者となった刀工五郎正宗により鎌倉に持ち込まれ、職業の守護神として崇敬されたと記されます。神仏習合の頃は神(→垂迹=仮の姿)は仏(→本地=本来の姿)と同じものとされていました。これを本...
弘延山 実相寺(→神奈川県鎌倉市材木座4丁目)は、日蓮の本弟子で六老僧の第一位・日昭が開山、風間信昭(→南北朝時代に南朝方の越後守として活動)が開基した日蓮宗寺院です。日昭は1323(元亨3)年に死去しているので創建は鎌倉時代後期であることが分かります。1323(元亨3)年の鎌倉幕府は北条高時政権(→14代執権)で、天皇は大覚寺統の後醍醐です。実相寺は、江戸時代には本山・末寺の制により日蓮宗本山の玉澤妙法華寺(→静岡県三島市...
南北朝時代の軍記物『太平記』には、1333(元弘3)年5月19日~5月21日までの鎌倉合戦をほとんど記していないのですが、鎌倉幕府滅亡の日となる5月22日については美談的な創作も含め、それなりに量を割いて記しています。極楽寺切通しを突破した新田義貞の軍勢と極楽寺坂への援軍として派遣された幕府方の長崎思元(ながさきしげん)の軍勢が小町口で遭遇して市街戦が始まったことで、市内は早朝から新田軍による放火・狼藉で混乱の極み...
金龍山 宝戒寺(→神奈川県鎌倉市小町3丁目)は、正式には金龍山 釈満院 円頓宝戒寺という天台宗寺院で、鎌倉時代には得宗家小町亭(とくそうけこまちてい→北条氏の家督である得宗家の邸宅)がありました。「北條執權邸旧蹟」(→北条執権邸旧跡)の石碑が建っているのはそのためです。本尊は地蔵菩薩で、「萩の寺」と形容されるように季節によっては白萩が人の入山を拒むかのように咲き乱れます。宝戒寺の開基は鎌倉幕府の討幕に執念を燃...
鎌倉市小町にある宝戒寺は、北条義時以来の歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝わっています。門前には、それを示す碑が立っています。義時は、幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を挑発して反乱に追い込み、建保元年(1213年)2月、和田合戦において和田一族を滅ぼしました。義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼務するようにり、「執権」を名乗ることにしました。北条執権邸旧蹟碑往時此ノ地ニ北條氏...