メインカテゴリーを選択しなおす
御座松塚跡(→東京都稲城市平尾3丁目)には、1873(明治6)年に枯死するまで「御座の松」と呼ばれた大松が植えられていたといいます。ここは分倍河原に通じる鎌倉街道で、1333(元弘3)年5月15~16日の分倍河原・関戸合戦で新田義貞率いる討幕軍に敗れた幕府軍は、鎌倉への敗走の途上、ここ平尾でも討幕軍の追撃を受けました。隣接する麻生郷は鎌倉北条氏の一門(→金沢北条氏)の所領であったため、平尾郷民も幕府よりの者が多かったらしく...
籠口ノ池(ろうぐちのいけ→神奈川県川崎市麻生区下麻生2丁目)は、「白龍伝説」と「白蛇伝説」を伝える溜池です。(1)討幕軍を呪った白蛇伝説鎌倉時代末期の1333(元弘3)5月15日~16日に、新田義貞・足利義詮(よしあきら→足利尊氏の嫡子)らの討幕軍は、分倍河原の戦い・関戸の戦い(→ともに東京都府中市)で北条泰家(→得宗北条高時の同母弟)が率いる幕府軍を破り、さらに本隊が鎌倉街道上ノ道を進み、平尾(→東京都稲城市)、金程(→神奈川...
白山神社(→神奈川県川崎市麻生区白山4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代中期の1706(宝永3)年に王禅寺村絵図(→国絵図の一つ)に描かれているため、18世紀初頭には既に社殿が完成されていたことが分かります。江戸時代には別当寺を持たず、王禅寺村の鎮守として村が祭祀を司ったようです。現在の本殿と拝殿は幕末期の1850(嘉永3)年から1年間かけて造られたと記録にあり、向拝柱(ごはいばしら→賽銭箱の前方上のほう)な...
分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月15日~16日に多摩川河畔の分倍河原(→東京都府中市分梅町2丁目)において、新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と北条泰家(ほうじょうやすいえ→北条高時の実弟)率いる幕府軍との間で行われた合戦で、5月16日の関戸合戦を含めて新田方は「分倍河原」、幕府方は「関戸」での合戦と軍忠状に記しています。当初、新田義貞の挙兵を歯牙にもかけなかった鎌倉幕府首...
霞ノ関南木戸柵跡(→東京都多摩市関戸6丁目)は、鎌倉時代前期の1213(建暦3)年におきた和田合戦を契機に、北関東からの侵攻を防ぐ要衝として鎌倉幕府が設置した軍事的な関所と言われ、関戸熊野神社の参道で発見された南木戸柵の柱穴上に木柱がたてられています。和田合戦 (「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)和田合戦では、横山党(→武蔵武士団)の横山時兼(よこやまときかね)が姻戚関係にあった和田義盛(わだよしもり)加勢してお...
関門山 地蔵院 延命寺(→東京都多摩市関戸5丁目)は、鎌倉時代に鎌倉街道を往来する人たちの安全を祈願した地蔵尊を祀った堂宇からはじまる時宗寺院です。江戸時代の1702(元禄15)年に、藤沢山 無量光院 清浄光寺(→神奈川県藤沢市西富1丁目)の23代住職で、遊行48世(→一遍から数えて48代目の遊行上人)の賦国が、自身の隠退の地とするため延命寺を開山したと伝わります。ただし、賦国は延命寺に入らず1711(正徳元)年に音響山 伝相院 善...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞率いる討幕軍と、北条泰家(→北条高時の同母弟)率いる鎌倉幕府軍との間で行われた戦いです。古戦場の近くにはこの戦いで討死した幕府軍の無縁仏を埋葬した「北条軍無名戦士の墓」(→東京都多摩区関戸5丁目)があります。さて、『太平記』に記された内容が現実の出来事かを確かめるには、同時代の史料を確認する方法が一番です。1333(...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、北条泰家(ほうじょうやすいえ→高時の同母弟)率いる幕府軍との間で行われた戦いです。5月15日~16日には多摩川を挟んだ対岸で分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)が行われ、幕府軍は敗れています。南北朝時代の軍記物の『太平記』によると、新田義貞に多摩川を越えられた北条泰家は、関所のある霞...