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御座松塚跡(→東京都稲城市平尾3丁目)には、1873(明治6)年に枯死するまで「御座の松」と呼ばれた大松が植えられていたといいます。ここは分倍河原に通じる鎌倉街道で、1333(元弘3)年5月15~16日の分倍河原・関戸合戦で新田義貞率いる討幕軍に敗れた幕府軍は、鎌倉への敗走の途上、ここ平尾でも討幕軍の追撃を受けました。隣接する麻生郷は鎌倉北条氏の一門(→金沢北条氏)の所領であったため、平尾郷民も幕府よりの者が多かったらしく...
芳林山 向嶽禅院 戒翁寺(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1591年)に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職玄頓和尚(げんとんおしょう)によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると北条家臣の庇護を失い衰退しましたが、江戸時代初期の寛永年間(→1624年~1645年)に北条遺臣から幕府旗本に取り立てられた富永重吉(とみながしげよし)が早...
清水山 盛源寺(→神奈川県川崎市多摩区長沢1丁目)は、戦国時代末期に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職・玄頓が開山した曹洞宗寺院です。玄頓は1591(天正19)年に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により修廣寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。本堂へ向かう参道の右手には川崎市の重要郷土資料に指定されている「寛文十年霜月」(江戸時代前期→1670...
雲長山 西光寺(→神奈川県川崎市麻生区黒川)は室町時代中期に西庵雲長が開基、修廣寺住職の孤岩伊俊が開山した曹洞宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の末寺でした。本尊は釈迦如来像ですが、創建当時は観音菩薩が本尊だったようです。そのためか、境内には大きな石の観音像が建っています。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡黒川村の...
勝田山 最乗寺(→神奈川県横浜市都筑区勝田町)は創建年代は不明ですが、江戸時代前期に僧の教龍が創建した浄土真宗本願寺派(→西本願寺)寺院と伝わります。本尊は阿弥陀如来立像で、江戸時代中期の1795(寛政7)年に建立された本堂が現在でも使用されています。浄土真宗寺院の内陣は極楽浄土を金色で表しています。最乗寺は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡勝田村の条には次のように記されています...
大蔵山 安全寺(→東京都町田市大蔵町)は、創設年代は不詳ですが室町時代中期の1428(正長元)年に武蔵国都築郡小机領片平村の夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の住職・孤岩伊俊(こがんいしゅん)が再興した曹洞宗寺院と伝わります。江戸時代まではその夏蒐山 修廣寺の末寺で幕府から寺領8石を拝領しました。以前の本堂は江戸時代中期の1773(安永2)年に建てられたものでしたが、現在の本堂は1989(平成元)年に新しく建てか...
夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)は、川崎市発行の『麻生の神社・仏閣』によると、室町時代の1443(嘉吉3)年に僧の恵俊(えしゅん)が片平村の夏蒐丘に夏蒐山 台廣寺を創建したところから始まる曹洞宗寺院です。戦国時代に高峯山 天寧寺(→東京都青梅市根ヶ布1丁目)の住職・松潤玄秀が現在地に移し、寺号を修廣寺と改めたようです。修廣寺の歴代住職は麻生区内や隣接する東京都町田市に多くの曹洞宗寺院を開山し、江戸時...